ラヴ・ノート:後編

文字数 12,312文字

 それから幾日かは何事もなく過ぎた。工事も今のところ問題なく進んでいるようだった。音がうるさいとクレームをつける客も出ていない。あらかじめことわりを入れてあったのと、そもそもこの界隈は比較的常に騒音に満ちているせいか思うより早く慣れるらしい。
 早咲きだった街路の桜が散り始めると、外はぐっと暖かくなった。名残りの花をはかなく落とす、時折吹きつける強風はすでに湿り気を帯びて重い。
 暖房のスイッチが切られるかわりに、冷房設備の一斉点検が新緑とともに近づいているあかしだった。

 彼は発見したメモ用紙を、自宅のアパートの一室に保管していた。なんとなく捨ててはいけないような気がしていたからで、かといってしまうべき場所もなく、狭い部屋のそのへんにほったらかしておいたのだが、その判断はどうやら正解だったことを幾日かが経ったこの日、彼は察することになった。
 その日までにも彼は数回、奥の手による仮眠をやっていた。だがどのときにも彼が薄々恐れていた事態は起きずに終わったので――彼は利用した客室の枕もとやベッド脇をよく注意して探しもしたのだが――やはりあれは偶然だったんだな。何か分からないが結局はあの男性客が忘れてったのだろうな、と思って安心していた。
 だからその安心が破られたとき、彼が数秒ほどの完全な思考停止に陥ったのは言うまでもなく……はっと我に返って発見したメモ用紙を拾い上げ、「ああもう……」と頭をかかえてしまった。これまでにほかの従業員の口からあのメモ用紙に関する話題がのぼったことは彼の知る範囲ではなく、うわさにも聞かず、だからこそ彼にとっては余計に「なぜ?」だった。
 そして何より彼に頭をかかえさせ、その「なぜ?」をさらに深くしたのはそのメモの内容だった。つまり、それは前回と書かれている言葉が異なっていたからで――。

 この日は朝からどんよりとした曇り空で、風もあった。廊下の窓越しに、通りの木々の梢があおられ店の宣伝旗がはためいているのが眼下に見えた。今にも降りそうでいて、降らずにとどまっているという微妙な天候。
 そのおかげで陽光を欠いた室内は、そこに泊まっていた客の出ていったあと、彼がドアをあけたときカーテンは閉じられておりことのほか暗かった。あまり暗いなかで眠ると起きられなくなる可能性があるので、彼はまずカーテンをあけに窓辺へ寄った。それからジャケットを脱ぐ、それをデスクの椅子の背もたれにかける、そしてアラームをセットし終えるとためらいなくシーツをはぎ取りにかかる。サイズはシングル。
 スタンドライトのそばに、からのペットボトルがあった。錠剤の薬をいくつか服用したあとのゴミがそばに残されている。そういうものも意外とよく見かける。睡眠剤か風邪薬か頭痛薬か。酔い止めか。
 彼が新たなメモ用紙の存在に気づいたのは、テーブル上になにげなくそれらのものを視界に入れた瞬間だった。
 スタンドライトを重しに、紙片が挟まっている。
 彼は息をのんだ。思考を切断されるような軽いショックが全身をめぐると、心臓の鼓動が速まる。
 まさか……ほんとうに?
 たっぷり数秒を経て彼はようやく足を進めたが、緊張のせいかその動きはぎこちない。
 彼はスタンドライトの下から紙片を引き抜いた……やっぱり。ホテル名の印字された備えつけのメモ用紙に、紫がかったインクは付属のボールペン。覚えのある手書きの丸文字。そこにはこう書いてあった。
 『前から好きだった、アキラ』
 メモ帳はペンと一緒に所定の位置に収まっていた。前回同様、用紙を切り取った跡はみとめられない。
 彼はベッドにどさりと腰を下ろし、メモ用紙を手に、もう一方の手で頭を支えた。
 眠気まで飛んでしまった。疲れはあるのに、それを上回る疑問と当惑で落ち着かない。
 これで三枚目。そして今回は、メモの内容が過去の二枚とははっきりちがっている。
 一枚目はアキラ愛してる」。
 二枚目は「アキラ、愛してる」。
 三枚目は「前から好きだった、アキラ」……。
 彼は混乱する頭をどうにか整理しようとしたが、うまくはいかなかった。整理しようとするほど混乱した。
 謎が深まる。いや、謎が謎を呼んでいる。彼の見つけた三枚のメモ用紙。そこに書かれたメッセージ。
 互いに関連性は? 亜麻色のロングヘアの女……一枚目はその女が書いたのではないのか? 早朝、急いでチェック・アウトしていった四十がらみのサラリーマン風の男……二枚目はその男の忘れ物ではなく……そうか、そうでないなら。忘れ物でないなら、どうなる。
 だれかが意図的にこれらのメモを残している? そしてほかの従業員がひとりもこの件を知らないなら、そうと仮定するならば、ひょっとしてメモを見つける人間はランダムに決定されているのではなく、あらかじめ仕組まれている? メモを書き残していった人物ははじめから「彼に」読ませるつもりでいた? ……だとしたら……。
 三枚はすべて何者かによって、「彼に」発見させるべく用意されたものなのだろうか? そんなことがあり得るのか? しかし実際問題、三枚は三枚とも、故意か偶然か彼が見つけている。その事実は動かしようがない。
 彼の視界に、からの錠剤のゴミが映った。
 何の薬だったんだろう……額を手で支えながら彼はため息をつく。
 頭痛薬ならむしろ飲みたい気分だった。
 ますます分からない。一体どういうことなのだろう?
 考え始めるとキリがない。疑い始めると終わりがない。しかし、単なる偶然で片づけられるとも思えない。
 彼はメモ用紙を、もはやお決まりとなりつつある胸ポケットへ、折りたたんで入れた。退勤したら真っすぐうちへ帰って二枚目と見比べてみなくては。一枚目を捨ててしまったことが、こうなると悔やまれる気もする。
 シーツを少々乱暴にはがしマットレスに倒れこんだ彼は、それからまどろみながら思考をめぐらした。眼鏡をはずした目でぼやけた天井を見上げ、この一連の怪現象をどうしたものか……いよいよだれかに相談すべきなのだろうか? ……と思ううち、いつの間にか眠っていた。

 その後ロビーへ下りた彼は、カウンターの同僚に声をかけルームキーを返したあと事務所へ戻った。長期連休に向け予約が増え、事務作業が立てこんでいるせいかシフト制にもかかわらず普段より人がいた。その顔色と態度で、夜勤だったのか日勤なのかほぼほぼ予想がつくというのが切ない。
 彼は自分のデスクをスルーし、フロアをすり抜け、裏の廊下に設けられた休憩スペースへ出た。工事音が聞こえてくるが、その音は日増しにさわがしくなっている気が彼にはしている。
 自動販売機で缶コーヒーを買おうとすると、そのときちょうどスタンド灰皿を前にひとり静かに一服しており、彼がやってきたのを目礼で迎えた後輩に言われた。
 「コーヒー、売り切れっぽいです。片桐さん」
 「えっ。また?」
 「はい。……忙しさに比例して売り切れる速度も上がるんですかね。早く補充してくれると助かるんですけど。僕もさっき買おうと思ったらなくて……みんな飲みたがるから……朝にはあったのに」
 「フミも夜勤だった?」
 「はい。さっき仮眠してきました。ケンさんにあと引き継いでもらうんですけど、まだ仕事残ってるんで……」
 と瞳をしょぼつかせたこのフミという後輩は、そういえば彼がはじめて例のメモ用紙を客室に発見した日、彼へ欠勤の電話を入れ、急きょその穴埋めを彼がしてやった男だった。スタッフ陣のなかでは気が弱く、胃腸も弱く、根はいい奴だが少々根性に欠けるところがある。フミはちなみに、日ごろから顔色があまりすぐれないためそこからシフトを予想しづらいという特徴がある。
 彼はコーヒーをあきらめ、一瞬カフェオレへ心を動かしかけたがやはり甘ったるい気分ではないのでやめにし、フミにならって一服することにする。といってもさほど吸うほうではないので、
 「フミ。ごめん、ライターある? デスクに置いてきちゃってさ」
 「いいですよ。どうぞ」
 「サンキュー」
 彼は火をつけ、ふうと煙を吸いこんだ。するといつもどおり、なんとなく神経が鎮まっていく心地がする。
 自称、虚弱体質だというわりにはヘビースモーカー気味のフミは、仕事へ戻りたくないのだろう、灰皿を離れるそぶりを見せない。うだうだと煙を吐きながらぼうっとしている。
 ふたりはしばし、他愛ない世間話にふけった。フミはパチンコや麻雀等、賭け事全般を含めゲーム好きらしく、だから徹夜には慣れっこだがこれが仕事となるとあっという間に疲れてしまうという。
 「雀荘だったら朝五時までぶっ続けで平気なんですけどね……雀卓、欲しいくらいですよ。そしたら片桐さん、一緒にどうですか。できるんですよね」
 「うーん、まあ、できるっちゃできるけど、どうしようかな。考えとく……」
 と、すでにもう何度目か不明の誘いをやんわりかわすと、彼は話題を変えがてら、なにげないふうをつくろって言った。
 「フミ、あのさ……」
 フミは気だるげに彼へ目を上げ、
 「何ですか?」
 「さっき仮眠してきたって言ったよな。『奥の手』?」
 「はあ。そうですよ、もちろん。仮眠室があれじゃ、しょうがない。片桐さん、ちがうんですか」
 「や、俺もそうなんだけど。使った部屋に忘れ物とかなかった?」
 「忘れ物?」フミはやや意外そうに、
 「さあ……いや、何もありませんでしたよ。たぶん……あんまり見ませんでしたけど」
 「そっか。――だよな」
 「それがどうかしたんですか」
 「いや、なんでもない。……」
 彼はかすかにため息をつき灰皿へ灰を落とした。と、だれかが廊下をこちらへやってくる気配。
 靴音につられ、ふたりは顔を向けた。その軽快な音の主はふたりの先輩、あるいはチーフとも呼ばれているバリバリの若き女性スタッフ。常に快活。タフ。学生時代はバレーボールひと筋だったというスレンダーな体育系。制服をブランドものさながらに着こなし、化粧っけはないが美形で、竹を割ったようにあっさりしている。
 「ふたりとも、夜勤お疲れさま。このあと残業? 一緒、一緒」
 彼は少々気圧されつつ、苦笑いで、
 「シノさん。お疲れさまです……」
 そばからフミが言葉を挟む。
 「もう上がられたと思ってました。珍しいっすね、残業」
 「ほかに時間取られちゃってね。いいの、みんな忙しいときだし、私だけ先に上がるのは悪いわよ」
 シノは取り出した煙草にさっと火をつけ、
 「マミヤにお説教してきたとこなの」
 と、ほほえんだ。
 「あの子、クラブで朝帰りした身体のまま出勤して、またミーティングに出てこないと思ったらデスクで寝てるんだから。仕方なく起こしてあげて、参るわよ、もう。『ケジメつけなさい!』なんて、そんなお局みたいなこと私だって言いたくないんだから。こっちが老けてくみたいでしょ? 遊びたいのは分かるけどね……」
 と、長く煙を吐きながら腕組みをする。ちょっとした広告写真になりそうな、とても夜勤明けとは思えない姿。言いよる男はさぞ多いはずだが、実際そうでもないらしい。「デキすぎる女」は案外いとわれるのだと、以前の飲み会時にふたりはシノ本人から聞いていた。確かに、フミはどうか知らないが、シノは高嶺の花というイメージが彼にもある。強く輝くオーラがあって、不用意に近づけない。
 彼は、シノが仮眠を取ったのかどうか、取ったのであれば例のメモに関する何かを認識しているかどうか、フミへ尋ねたと同じように訊いてみるか迷った。シノはチーフという立場上、もしかするとこちらの知らないことを知っているかもしれない。だがそうすると、似たような質問ばかりする彼をフミが妙に思うかもしれない。
 「あのー、シノさん……」
 それでも、彼はそろりと言いかけた。だが同時にまたも靴音がして、彼をさえぎった。
 三人がいっせいに顔を向ける。と、それはミドリだった。やや急ぎ足に廊下を真っすぐこちらへ歩いてくる。
 「フミちゃん」ミドリはフミを見て言った。
 「休憩中にごめんね。ちょっといいかな? ……」
 「僕ですか」
 「うん。ケンさんが呼んでるみたい。『すぐ終わるから』って」
 「はあ……分かりました。何かやらかしたかなあ」
 「ちがうよ、フミちゃん。ほら行こう。煙草はもうおしまい」
 「嫌だなあ……ケンさんの『すぐ終わる』がすぐに終わったためしってないんすよね……」
 ぼやきながらフミは名残惜し気に煙草を灰皿へ押しつけ、よっこらせと立ち上がった。日勤のミドリは常と変わらず、凛としたポニーテールを揺らし、フミを急かすと大きな黒目をシノへ向けた。
 「シノさん。お疲れさまです」
 「お疲れ、ミドリ」
 「片桐さんも」ミドリはついでといったふうに視線を彼へ流し、
 「お疲れさま」
 真顔にひと言、そして彼の返事を待たず彼とシノを残しフミとともに並んで去っていく。質問するならこのタイミングだと彼は思い、ふたりの背をいちべつした目をシノへと移した。
 シノは彼の呼びかけに「なあに?」と含み笑いで応じ、それから続いた問いに対してはフミと同じ返答だった。仮眠は三十分ほど取ったが、特に落とし物は見かけていない。さらには、最近は遺失物の報告はめったになく、客室内での忘れ物も少ないと清掃スタッフ側からは聞いているという。
 「なんでそんなこと訊くの? 片桐君」
 彼は自分が発見した三枚のメモ用紙について、シノには話そうかとこのときよっぽど思った。しかしそれを言いかける直前、かぶりを振ると、「いや……」とごまかしてしまった。
 それとは無関係の話題で彼はシノに言葉を返したが、考えてみればシノとふたりきりになる機会はそうあるものではない。いざ彼女と取り残されてみると、若干のためらいに緊張を覚えてよわった。
 シノはそんな彼を気に留めるそぶりもなく、少しして言った。
 「ねえ、ところで片桐君てさ。休みの日って何してるの?」
 「えっ?」
 「だから、仕事がないときって大体、何してるのよ。文野(ふみの)君はギャンブルかゲームでしょう。ほどほどにしなさいって私、つい言っちゃうんだけど。なーんか心配で世話焼いちゃうのよねえ。……で、片桐君は?」
 文野というのはフミの名字だが、ふいにプライベートを訊かれて彼は戸惑いつつ、
 「僕は……何ですかね。大したことしてないですよ。寝てばっかで」
 「片桐君は、確かひとり暮らしよね。趣味はないの?」
 「うーん……強いて言うなら車いじりとドライブですかね。よく走りに行ったりはするんで」
 「デート?」
 「や、ちがいますよ。そんな相手いません。ひとりで行くか、学生時代の男友達と……」
 「カノジョ、欲しくないの?」
 「いや、まあ……そりゃ欲しくないって言ったらウソになりますけど、今はあんまり、そういうことを考えてないというか……考えるきっかけがないというか。忙しいし」
 「やれやれ」
 シノはいかにも困ったというふうに、肩をすぼめた。
 「キミと言い文野と言い、浮いた話のひとつでも出ないのかしら。若い男が、まったく」
 「シノさんだって十分若いじゃないですか」
 「あら、褒めてる? 私が若くてデキる美人チーフだって?」
 「そこまでは言ってないですけど……でも、そうです。そういう意味です」
 「言えるじゃない、片桐君。その調子」
 シノは煙草を灰皿へやると、彼の肩を叩いた。
 「期待してるわよ」
 シノが廊下を去ったあと、ひとりになった彼はシャツのポケットからメモを取り出して眺めた。ふたたび折りたたんでもとどおりしまうと、思案する顔つきのまま、残業の待つデスクへと灰皿を離れた。



 翌週は新年度になって最初の一週目だった。日勤だったので、彼は奥の手を使うときはなかった。そのあいだにまた工事は進み、再来週ないしは今月中には予定どおり終えるだろうという話。
 あのメモに関係していそうなうわさは、まだ一度も彼の耳に聞かれない。彼はその週、カウンターにいるとき、その日の夜勤明けに奥の手を使って仮眠を取った同僚を、そのルームナンバーを本人が記載していく共有の表から把握して、時にはさりげなく、たとえばルームキーを返却しにやってきた際など、何か室内に落とし物や忘れ物はなかったというような質問を遠まわしにしてみたりもした。だが返されるのはいつも「ノー」。特になし。
 その次の週、彼は残業をするという名目で、あえて積極的に奥の手を利用した。ちょっとした実験のつもりで、残業手当も出る。周囲は突然の彼のワーカホリックぶりにおどろくかもしれないが、やってやれないことはないと思った。
 その結果。彼はランダムに利用したチェック・アウト後の客室で、新たに三枚ものメモ用紙を立て続けに発見した。どれもが過去の三枚で使われたのと同じメモ帳にボールペン、筆跡も同じであったことは言うまでもない。
 追加の三枚のうち、一枚は枕の下にあった。もう一枚はデジタル時計の下、そしてあとの一枚は未使用だった灰皿のなか。
 用紙に書かれた内容はそれぞれ異なっていた。さらには、過去の三枚にあったメッセージともちがっていた。
 それらは発見順に、
 一枚目。『急にごめん。アキラ』
 二枚目。『こうするほかに分からない。アキラ』
 三枚目。『うまく言えない。ごめんなさい。言うのが怖いから。アキラ』
 ……そうこうするうち、四月も中旬に差しかかっていた。花粉のピークは過ぎた。また小笠原諸島近海で台風一号が発生、徐々に北上を続けている。
 小さなブラウン管からそんな天気予報が流れているさなか、退勤後の午前中、彼はひと眠りする前に、アパートの部屋で、先月からきょうまでに見つけたメモ用紙を時系列に沿ってすべて並べた。
 最初の一枚目は捨ててしまったため残っていない。だが内容は彼はもちろん覚えている。「アキラ愛してる」。
 二枚目からはまとめると、順にこうなる。彼は目で追った。
 「アキラ、愛してる」
 「前から好きだった、アキラ」
 「急にごめん。アキラ」
 「こうするほかに分からない。アキラ」
 「うまく言えない。ごめんなさい。言うのが怖いから。アキラ」
 メッセージは支離滅裂のようで、けれど一貫していた。
 破棄した一枚目を勘定に入れ、これで計六枚。彼の手もとには、折りたたんだ跡のある五枚のメモ用紙。
 彼の意識の外、テレビ画面で、スーツにさわやかな声をした気象予報士の男が、ポーカーフェイスでしゃべっていた。
 「しばらくは大気が不安定な状態が続くと思われます。また急に暑くなったり寒くなったり、気温差が激しくなることが予想されますので皆さま、うまく服装など調整なさってお過ごしください……」
 彼はテレビを消した。

 それから一週を置き、五月を目前に控え、さらにはひと月半ほど続いた工事の終了を前に、今月最後の一週間が始まった。彼のシフトは夜勤だった。
 四日間、何もなかった。ゴールデンウィークに向け忙しく、ワーカホリックになりたくなくとも、ならざるを得ない状況だったがメモ用紙はぱたりと発見されなくなった。
 週の前半はおおむね良好な天気だったが、木曜の明け方になって雨が降りだした。彼はそれを、カウンターから見るロビーの窓ガラスが次第に濡れていくので知った。
 チェック・アウト・ラッシュが引けるまで頑張ったあと、彼は前もって表に記入しておいたルームナンバーの鍵を同僚からカウンターでもらった。偶然にもそのナンバーは彼が一枚目のメモ用紙をはじめて見つけた、エレベーター・ホールを出て右に真っすぐ進んだ先の、あの角部屋のものだった。
 廊下の突き当たりの窓から見下ろす街が、いつにも増してビル色のグレーにけぶっている。春の雨にかき混ぜられている。
 部屋へ入ると、カーテンはあいていた。ジャケットを脱いでクローゼットにかける。
 室内を進む。ぐちゃぐちゃのベッドカバー。床へ落ちた枕。寝相の悪い宿泊客だったようで。灰皿に吸い殻。
 彼はデスクを向いた。すると、それに備えついている鏡の端。
 彼はそこへ近づいた。堂々とテープで張りつけてあるメモ用紙が、いかにも不自然に目立つ。
 七枚目。今回はやや急いで書いたのか? あるいはやけっぱちの殴り書きにも見えた。そこにはこうあった。
 『気づいてよ。バカアキラ。鈍感。010-××××-××××』
 ……携帯番号。しかし、万が一彼が来るよりも前に彼ではないだれかに発見されたら、どうするつもりだったのだろう。たとえこれを書いた人物が、この客室を彼が奥の手として利用するつもりでいると、

としても。
 彼は鏡からメモ用紙をはがすと、眼鏡の奥で苦笑した。
 彼は仮眠を取らずそのまま部屋を出ると、エレベーターを階下へ急いだ。ロビーへ下りると真っすぐカウンターへ、そこに詰めていた同僚は「あれ?」とふしぎそうに彼を見た。つい今しがた、仮眠のため上へあがっていったはずの彼が、ものの十分と経たないうちに戻ってきたせいだろう。
 彼はその後輩へ尋ねた。自分より前に、このルームキーを持っていった従業員はいなかったか――?
 後輩はちょっと考えたあと、「そういえば……」と首を縦にした。そしてその従業員の名をつぶやき、
 「だけど、もう帰っちゃったと思いますよ。だから、そう、奥の手も使わないのになんで鍵が要るんだろう? って僕、そのとき思ったんですけど……」
 彼は礼を言うと鍵を返した。事務所に入ると、ちょうど日勤組のうちふたり、ケンと話していたマミヤが、さっと彼のほうをうかがい見たのに気がつく。
 自分のデスクから携帯電話を取ると、彼は事務所を出て廊下を従業員専用のバックドアへ。
 押しあけると、吹きつける風に髪をあおられた。外では雨が降り続いている、暖かい春の嵐を呼んで。
 閉めたドアに背を預け、彼はシャツの胸ポケットから七枚目のメモ用紙を取り出す。そこに書かれたナンバーを携帯へ打ちこみ、電話をかける。010-××××-××××。耳に発信音が響く。何度目かのコールでそれはつながった。
 「もしもし?」
 彼は言った。
 「ごめん。途中まで全然気づかなかった。何のオカルトかと思ってた」
 するとしばしの間のあと、相手は小声に答えた。
 「自分の名前も忘れたの? ――

。もっと早くに気づいてくれると思ったのに」
 「ごめん」
 「謝らないで」
 「最初の一枚目の『アキラ』が偶然、俺と同じ名前だったからだよ。だから二枚目を見つけたときも、それは一枚目からの連続で、自分とは別のアキラを差していると思ったんだ。アキラなんてありふれてるし、世の中に大勢いるだろうから。
 ……だけど、分かってみれば、どうして気づかなかったんだろうって自分でも思うよ。どの客室を休憩に使うか、それが分かる表を見られるのは俺たち従業員だけなんだし、俺が最初に見つけたメモ……あの内容を知っていたのは俺と、そしてきみだけだったんだから。俺はきみのほかには、だれにもあのメモのことを話さなかった。『アキラ愛してる』って、自分と同じ名前が書いてあるそんな恥ずかしいメモ、なかなか人には見せられるものじゃない。一歩まちがえればナルシストみたいだし」
 相手は黙っている。彼は落ち着いて呼吸をした。
 「新手のラヴ・レターをありがとう。びっくりしたよ。てっきり、きみは俺を嫌いだと思ってた。俺と話すときいつもそっけないから」
 一枚目のメモ、そこに書かれていたメッセージとあの丸文字を彼に見せられていたからこそ筆跡を真似ることができた。二枚目以降、客室内にあるメモ帳とボールペンに使用された跡がなかったのは、事務所内の備品を使ったのだろうか。あらかじめ用意しておいたメモを、彼が入室する前にその客室へ行き、だれにも見られないよう急ぎ置き去った……。
 彼は雨空を見上げ、少し考えた。そしてふたたび落ち着いて息を吸うと、電話越しの相手へ言った。
 「今週末って、空いてる? ――ミドリさん」



 週末は行楽日和と予報されていたとおり、日曜日は快晴の気配だった。それに加えて長期連休がいよいよスタートということもあってか、待ち合わせの駅前はいつにもまして大勢の人でにぎわっている。
 やっぱりドライブにしておくべきだったか?
 彼はちょっと思ったが、それはなんだか照れくさかった。助手席にだれかを乗せて走った経験が彼には乏しい。気が散って、普段どおりの運転ができないかもしれない。
 約束の時刻より早めに着いたので、彼は駅前を行き交う人々にまぎれて彼女を待つ。彼と同じようにだれかと待ち合わせているらしい人々もたくさんいる。
 「はあ? マジあり得ねえんだけど! 遅すぎるし!」
 突然そばから声がしたと思うと、立っていた彼にどんとぶつかったのは、おそらくどこかの女子高生。派手な髪色にこんがり焼けた肌。もう夏かのようにヘソを出して、目もとや唇ばかり銀色にピカピカさせているメイクはいかにも今どきだが、近くで見るとものすごい。
 「あっ、すいません」
 と、ぶつかった彼へ意外にも礼儀正しく謝って、ぺこんとお辞儀までしてふたたび携帯を耳に当て、先ほどよりも乱暴な言葉遣いで何事かまくし立てながら去っていく。あんな厚底で器用に歩く。電話の相手が遅刻でもしたのか。
 彼が見るともなしに見ていると、周囲にはあとからあとから人が現れ、消え、また現れる。
 離れた街頭でだれかがやっている怪しげな演説が、拡声器を通じて、喧騒の波間になんとか彼の耳まで届いている。何を言っているかと思えば、
 「……必ずや現実となるだろう! 恐怖の大王が降臨する、迫りくる人類滅亡のそのとき! ノストラダムスの予言は……」
 またそれかと彼が聞き流していると、急に自分の名を呼ばれた。
 「アキラさん!」
 えっ?
 おどろき、彼は声のしたほうを目で探す。だが彼の現在の待ち人は普段、彼をそうは呼ばない。
 声の主をとらえようとする彼の目に、亜麻色の長い髪をした女が映った。
 色白の女性。そのせいか髪毛の亜麻色が西洋人形のように見える。若い。彼と同年代か、ひょっとするとまだ学生かもしれない。ほどよい肉づきの身体に少女のようなあどけなさの残る愛らしい見目をして、男好きのしそうな甘い雰囲気を全身で放って笑っている。
 女性は男へ駆け寄った。上背のある、これといった特徴はない服装だが、顔が見えず歳のほどは分からない。だがそのシルエットにはこなれた大人っぽさがあって、シブいというかダンディーというか、どうやら女性よりは年長らしい。女性は亜麻色の毛先を揺らし男にしっかりと腕を絡ませ、男は女性の肩を抱いていた。
 カップル……? 彼が思う間もなく、ふたりの姿は雑踏にのまれていった。彼はしばしそのほうを見守ったあと、まさかな、と内心つぶやく。
 「片桐さん」
 また呼ばれ、はっとして振り向いた。すぐ背後に立っていた、今度こそは彼の待ち人。
 「お疲れさま」
 休日にもかかわらず仕事のようなあいさつをしたミドリへ、彼は向き合った。
 「お疲れ。ミドリさん」
 「待たせてごめんなさい」
 「や、そんなに待ってないよ。俺のほうが早く着いただけ――」
 「こんなこと、やっぱりバカみたいだからやめようって思った」
 「え?」
 「やめようって思った。だけどマミヤちゃんが応援してくれたの。あの子は、私が片桐さんを好きって前から知ってたから。片桐さんがメモに気づいてるかどうか、確認しようとしてくれてた」
 「ああ」
 「き、気持ち悪い女って思ったでしょ。何を言ってるんだって思ったでしょ」
 「思わなかったよ。そりゃおどろきはしたけど」
 「ウソつかないで。私……私……」
 顔を真っ赤にしたミドリはうつむいた。
 「だって、分からないじゃない。面と向かって告白するなんて私には無理、できないの。だけど……だけどきょうこそ言うって決めてきたの。ノートに逃げないって決めてるの。私……私、ホテル・マロニエに入社したときから片桐さん、あなたの……あ、あなたの……あなたのことが好き、なの。好きなの。だけどそう思うと意識しちゃって、職場ではどうあなたに接すればいいか分からない。マミヤちゃんやシノさんみたいにうまく振る舞えない」
 「ミドリさん」
 「つい、冷たい態度取っちゃうの。いつもあとから後悔してた。でも先月、片桐さんが私に自分のペンを貸してくれたとき、それからあのメモを見せてくれたときに思いついたの、これは使えるんじゃないかって……だけどいざやってみたら、あなたがどう思うだろう、こんなやり方とっても卑怯なんじゃないかってどんどん怖くなって不安になって、だけど一度始めちゃったことはうやむやにしたくないし、私がメモを残した犯人だって、片桐さんが気づいたら絶対告白しようって決めても片桐さん、全然気がついてくれないみたいだし、だからって私から名乗り出るにもタイミングがつかめないし、もうどうしたらいいかすごく考えて――」
 「ミドリさん。分かったから。気づかなくて、ごめん」
 私服姿のミドリを見るのははじめてだった。そして職場では彼女のトレードマークにもなっていた、長い黒髪のポニーテールを下ろした姿も、彼にははじめてだった。
 「行こうか」
 心臓が素直に反応したのを、慌てて彼は鎮めにかかる。
 ミドリはうつむいたままだった。彼はその肩にそっと触れ、うながす。ミドリはかすかな震え声で、
 「いいの。覚悟はしてるから。ことわるなら早く言って」
 「何をことわるの?」
 「何って、決まってるでしょ? だから――」
 「うん。返事は決まってるよ。けどそれはミドリさんが今、思ってることじゃない。だからあとで言うよ」
 緊張を悟られまいと、あえてクールを気取ってみる。
 耳の遠くに、喧騒。街頭演説。恐怖の大王が空から……破滅に備えよ! しかしノストラダムスの大予言より、はじめての彼女とのデートのほうが彼にはよほど重要で。
 日曜の午後。互いにホテル・マロニエの従業員ではない今、ロビーを出たら何をしようか。
 「行こう。ミドリさん」
 ミドリはうなずき、顔を上げた。はにかむ笑顔が、彼の胸をまた動かす。
 ふたり――アキラとミドリは互いに目を見交わせた。隣同士に歩きだすと、その肩と肩のあいだに少しの距離。なびく髪束を耳へかける彼女の仕草。横顔にちらとだけのぞく、桜色の頬。
 日差しのそそぐ雑踏に、並んだふたりの姿は間もなくまぎれ、見えなくなった。
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