虹色扇:終局

文字数 5,593文字

 告白すれば、私はこのとき何を思いながら少年が舞うのを見ていたか、今もなお詳細にたぐりよせることができない。おそらく無心だったのだろう、覚えていないのである。少年の装束の裾が、袖が、宙を裂く音をかすかに聞いて動きを追い、ゆったりとした足運び、思わせぶりに上下する身のこなし、私はあるときまで半ば圧倒されて、知らず少年の姿を視界に焼きつけようと躍起になっていたように思う。無表情の能面に見えるはずのない表情を見た気がしていた。声のない舞に声を聞いた気がしていた。時が静止しているような、世界線をたがえたような、あの感覚はなんと呼べばいいだろう。
 だがやがて私はそうして少年が舞うのを夢中に追ううち、はっと胸中をとどろかして喉を詰めた。反動で呼吸さえも止めた、それほどにそれは私をおどろかした。
 あの瞬間を私は今でも忘れられない、あのときより私は我と我が目を疑ったことはない。この先もおそらくそうではないかと思うのだが、包まずありのままを私は表現しよう、私はあるとき、少年の手にしている扇が、少年の舞うのにつれてその手の先で極彩色に光りだしたのに気づいたのである。
 思いつくかぎりすべての色がそこにはあった。まさに「虹色」なのである。それらの色はそれぞれ私の目に円とも楕円ともつかぬ不可思議な紋様となって、連なり折り重なり、扇上に雲のようにたなびきながら世にもまばゆく輝いているのである。
 私はそのことに気づくや、あぜんとして扇を見つめた。何度もまばたきをした。しかし扇は輝いている。それはどう見ても自然光ではなく、胸につかえるほど色あざやかな光を、あわく、あるいは濃く、無数に放っている。
 目を凝らすとそれはちょうど日本三景のいずれかを模した絵図のようでもあった。しかし何が描かれてあるのかなど当時の私には問題ではなかった。そのあまりの美しさ、妖しさ異様さ、私の筆力なぞでは到底たとえることができない。私はあの際、なぜ声に出して自らの驚愕をおもてにせずいられたのだろう。いや、声をうしなうほどの衝撃であったのかもしれない。少年の扇ははじめ、確かに白無地だったのである。誓って最初の時点では何も描かれておらず、また色もなかった。ただただ真っ白だったのである。
 私はあぜんとしたきり思考が追いつかず、放心の体で扇を、それを使う少年を凝視していた。だが吹きつける風向きがふいと変わったので少し我に返ると、今度は舞台へさあっと降りかかってくるものがあるではないか。
 木々の匂いが、土の匂いが立った。
 少年はかまわず舞っている。
 雨が降ってきたのだった。風向きこそ変化があったがほんとうに突然のことで、私は取り戻した正気をその際、また少しうしなったように思うがそれは春雨のようだった。ゆっくりと糸のように、しとしとと続く雨を戸惑う頭の片端で思ったのを覚えている。それは優しくあたたかく、花の香りを散らしながら私の五感を刺激し、満たした。横合いから我々のいる舞台へ降りかかりながら、正座する私の膝、手の甲、そして少年の装束をしっとり濡らしているのである。
 七色、いや無限の色に輝く扇をたくみにあやつり少年は舞っていた。能面にその素顔を隠して。
 これが――。私はとっさに思った。これが虹色の扇。あの虹色に光る扇。秋に出会ったあの扇。
 私のなかを一条の電撃がつらぬいたのは、そのときである。
 もうお察しだろう。
 私は、そう、つい先刻に神主から聞かされたばかりの「秋楽」のいわれを思い出していた。
 そして私ははっとしたのである。つまり私は、あの話は代々受け継がれた言い伝えではなく、神主とこの少年とのあいだに

を神主が私へあたかも古い言い伝えであるかのように語った内容だったのではないかと、ことここへ来てはたと思い至ったのである。
 私はそんな途方もない考えが自らにひらめいたとき、全身に鳥肌が立った。しかしそうでなければ、なぜ少年の扇が虹色に光り輝いているのか説明のつけようがない。それとも私の目が異常をきたしていたというのか? いや、いや。そんなはずはない。
 私は粟立つ身を神主へ向けなかった。ただ茫然と少年を見つめるばかりである。
 私の見つめるその少年、舞台に舞うその美麗の少年は、この神社にかつて祭られていたという芸事の神ではなかったか。本社より御霊分けされし、いにしえの夫婦に仕えていた者ではなかったか。
 そして虹色をたたえた扇で羽根をついていたというその少年に出会いし若い男、少年の神舞に自身の虚無を破られ、少年と深い契りを交わしたという男、そのことが天上の怒りにふれ堕ち神となった少年のそばを決して離れぬとして旅を終えた若者、それはほかならぬ――在りし日の神主ではなかったのか。
 神主は、堕ち神は神でも人間でもないが歳を取るのが非常に遅いと話した。そして物語中に登場してきた少年が本来の神の姿を男へ見せたとき、その姿は現在舞台上に舞う少年とちょうど同年ほど、「十六、七の浮世離れした美少年」と言っている。で、あれば、堕ち神となった少年が歳を重ねないでいるあいだの歳月、人間である神主だけが歳を取っていくのはしごくもっとも、妥当である。
 秋楽神社の「秋楽」のいわれは、「秋の風流を楽しめる場である」というところから来ている。それはおそらくそうだろう。古くそう伝えられているのであろう。しかし神主の私へ語った伝承というのは、神主自身こう言っていたではないか、「ひそかに守られてきた物語」であり、「ごく内々のもの」と。
 しかし伝承の若者は、そのまじめさゆえ虚無にさいなまれ学業をおいて諸国をめぐり、この神社はその旅先で偶然見つけたことになっている。一方神主は、身内の者がこの神社の宮司を代々務めておりその跡継ぎがいなくなった関係上、自ら決心をしてここへやってきたと話した。ふたつのストーリーには少なからぬそごがある。
 他方、類似点もまた多いことに気づかされるのは私だけだろうか。たとえば伝承の若者は旅へ出発する以前、都にいた。神主の生まれは東京であり、伝承の若者がいたのは京都と思われ、両地ともに当代の首都である。また伝承の若者には「信仰心のあつい母親」がおり、神主によれば代々この神社を守ってきたのは神主の「母方の縁者」だった。さらには、伝承の若者は都に「学業をおいて」そこを発ったが、神主はこの地へ単身越してくる際、折よく大学を「中退扱い」になっていた。
 つまりとらえようによっては、ふたつのストーリーは似かよっている。異なってはいるが全体の雰囲気が共通しているように私には感じられ、もしかすると神主は事実に多少の脚色を加え、それをより「伝承」らしい物語に変えて私へ語って聞かせたのかもしれない。あるいは仮に伝承がまったくの真実であるならば、神主が最初に私へ話した自身の身の上のほうに嘘が多くまじっていたということだろうか。
 ちなみにこれらの思念は、その大半を私はあとになって考えついている。神主をすぐ隣に、少年を眼前の舞台に見守っていたときには、私はとても正常にものを考えられる状態ではなかった。無論それどころではなかったのである、あの燦然と輝きわたる扇、私は今も信じているし忘れようがない。疑いなく、あれは天上界か桃源郷か天国か、神々の国か霊界か――呼び方はなんでもいい。
 あの虹色扇は美しかった。この世のものでなく、美しかったのである。
 私は我を手放し見入っていた。背筋を伸ばし、畏敬にうたれ、神秘にうたれ少年を、私は拝んでいたのであろう。そんな馬鹿なと笑う向きもあるかと思うが、意識をどこかへ置き去りにしながら、私は真剣だった。
 やがて舞台端に少年は静止した。舞が終わったのである。降りかかる雨音を残し、すべるようにゆっくりと半身の向きを変えると、扇はもとの白無地に戻っている。
 少年は能面をはずした。扇を閉じた。私は射すくめられたように一寸も動けず、少年の素顔を見てなお言葉が出ない。
 「雨ですね」
 しばしの静寂を経てぽつりと、思い出したふうに神主が言った。
 「傘をお持ちでないでしょう。……」
 私はそのとき、夢から醒めた顔をしていたのだと思う。のろりと神主を向き、正座のまま無言にうなずいた。
 すると少年が装束の裾をひるがえして舞台を廊下のほうへ、階段を下りると中庭のほうへ駆けていった。雨にけぶる袴の水色が、かろやかに跳ねるのを私は目で追う。
 私は腰を上げた。上ってきた階段を下り、空を仰ぐとやわらかな雨がこまかに顔をたたく。目を閉じた。それからふと気になり時計を見ると、電車の時刻もある、そろそろ駅へ戻らなくてはならない頃合いが来ていた。
 「屋根の下へ行きましょう。濡れてしまう」
 階段を下りてきた神主にうながされ、私たちは家屋へ戻った。縁側を回りこみ、神主は私を玄関先へ案内した。
 歩きながら私は舞台に自分の見たものを、神主へ言わなかった。秋楽の伝承、そして神主と少年との関係についてのひらめきもひと言も口にしなかった、してはいけないような気が強く私を支配していたのである。普段の自分であれば、これはまったく釣り上げかけた大魚をみすみす逃がしてやるような感覚がして、出方はどうあれただちに質問を始めていただろうに。
 しかし、そうであってもあの当時の私には、神主へ、どうしても尋ねてみたいことがひとつだけあった。それさえ私は尋ねず済ませるつもりになっていたが、閉めきられた玄関の戸の前まで来て、神主がそれをあけるのか手をかけた瞬間、その背へ私は訊いた。
 「ご神職」
 神主は私を振り向いた。
 「なぜ、僕へ話してくださったのですか」
 寸暇のあと、神主はほほえんだ。ちょっとあたりを見回すように視線を流すと、
 「さて。……」困ったふうに、またわずかに笑った。
 「私にも分かりません。ですが、強いて答えを探すのであれば……貴方はおっしゃった。『自分はアキラと縁が深い』と」
 そして切れ長の目を細めた。
 「今朝、私は、きょうはどなたか知らぬ方とお話する、そんな気がしていました。すると、遠方からいらしてくださった方がいる。秋楽のいわれを聞くと、ご自身はアキラに縁があるとおっしゃった。
 私はもしかすると、長いあいだ、ずっと話してみたかったのかもしれません。そしてそのお相手は貴方であり、貴方が適任でいらっしゃると、私は決めたのかもしれません。……」
 神主の後ろで、玄関の戸がひらいていった。
 装束を脱いだ少年が立っている。その手には扇ではなく、透明のビニール傘を持っていた。
 神主はそれを受け取り、状態を確かめ、私へ差し出した。
 「どうぞ、お使いください。参拝者の方が時々忘れていかれますが、取りに戻られる方はありません」
 私は恐縮し、礼を述べた。少年は外へ出てくると戸を閉め、神主の隣へ並んだ。
 落ち着き払ったまなざしでこちらを見ている。隣の神主とのあいだに距離はほとんどなく、まるで日ごろから、その位置へ立つことがこの少年にとって当たり前であるかのようになじんでいる。
 「では……」神主が別れのあいさつをしかけた。私は衝動にかられさえぎった。
 「では、貴方はこれからも」
 言葉を止め、もう一度ゆっくりと尋ねた。
 「貴方はこれからも、ここへとどまるおつもりでしょうか」
 ほほえんだ神主は、答えた。
 「そうですね。そうなると思います」
 私は小さくうなずいた。時計をちらと見た。行かなくてはならない。あらためて丁重に礼を述べた。
 傘をひらいた。屋根の下を出かけたが、そのとき風鈴の鳴るに似た声がした。
 「お気をつけて」
 あっ、と振り向いた。底深い微笑をかすかに浮かべた少年。
 「ありがとうございました。――」
 少年は私の名を口にした。私はこの瞬間、またも震撼させられた。
 私の名を、「普通であれば」少年は知っていたはずがないのである。知り得たはずがないのである。
 なぜなら私はここへ来て以降、まだだれにも名乗っていないではないか――。
 ふたりに見送られ、私は境内を二の鳥居へ歩んだ。傘をたたく雨音が聞こえない。銀糸のようになめらかに落ちては、それは私の履き古した靴の先を濡らしている。未熟な紅葉を視界の端々に、開発のために近々変わりゆくという臨まれた湾の景色が頭をよぎる。月夜であればどう映ったろうかと。かつて聞かれたという汽笛は響いたろうかと。
 私はあとを振り向かず石階段を下りる。急な雨に光の途絶えた林のなかは来たときよりさらに薄暗く、けれども陰鬱なほの暗さよりむしろそれは波立つ私の思考を鎮めてくれた。
 濡れそぼる草木の香り、耳にするのは自身の呼吸する音のみである。時季外れの梅木を横目にゆるゆると過ぎながら、じき一の鳥居まで戻ってきた。長い時を経てきたかのような感覚が、その石碑の裏側をみとめた私に息をつかせる。
 鳥居をくぐる。すると、なぜだろう。雨がやんでいる。薄青の空が頭上に広がっているのを、私は振り仰いではじめて気がついた。しかし私はもはやおどろきを感じなかった。そうあるべきだとさえ思った。傘をたたむと最後のあいさつをするべく、背後を振り返った。
 鳥居の向こう、林の参道が奥へ奥へと続いている。
 私はこちら側とは別の世界にいたのだろうか。少年はもしかすると私の名ばかりか私の職業まで見透かしていたかもしれない。私がのちにこうしてこの体験記をしたためることさえ、理解していたかもしれないのである。
 私が目にした虹色の扇。私の耳にした伝承物語。それらは真実だったろうか。それともすべては私の幻覚、幻聴、あるいは過ぎた妄想だったろうか。
 私はそっとかぶりを振った。鳥居の先をしばし見つめた。そして私はこの場を辞すべく、深く深く一礼をしたのである、心をこめて――。
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