カーブミラー:後編

文字数 11,220文字

 一週間が過ぎた。その翌週は天候がすぐれず、季節の変わり目だからかそれらしい雨が降ったり、やんだりしていた。
 金曜日の夕方、彼は担当作家の住まいをおとずれ打ち合わせをした。その際本人から、「きみが気に入るか分からない」だの「いい出来じゃない」だのといつものように言われながら、本来の原稿とは別に新しく書いてみたという短編の初稿を受け取った。タイプではなく手書きだったので彼はびっくりしたが、童話のつもりだと聞かされてまた目を丸くした。そちらは月曜までにゆっくりと目を通すことにし、大切にかばんにしまった。
 夜になって雨が降り始めた。
 彼は編集部の自分のデスクに寄り、残っていた仕事を片づけて帰宅した。部屋の時計を見ると、時刻は午後十時を回っていた。
 女は雨とともに街灯に照らされ、立っていた。彼がしばらく眺めていると、電車が駅をこちらへやってきて高架を通過していった。彼が目に留めた車両はすいていた。
 傘を差した通行人が、道の反対側から横断歩道を渡り、女の隣をゆっくりと歩き過ぎていった。
 まぶしいハロゲンライトが接近し、女を閃光に包んだようにかき消した。彼は目を細め、十字路がふたたび暗がりに戻るのを待った。その自動車が行ったあと、女は何事もなく立っていた。
 彼は煙草に火をつけた。一方のカーテンを大きくあけ、窓ガラスに寄りかかった。ベランダの物干し竿が濡れていた。
 気の済むまで女を見たあと、彼は煙草を吸い終えて、手にしていた灰皿に押しつけた。物干し竿に無数の雨粒が付着していた。彼は女も濡れているのか確かめようとミラーに目をこらしていたが、分からなかった。
 真夜中、彼はカーテンをあけたまま眠りについた。
 翌朝、雨はやんでいなかった。
 彼はベッドに起き上がり、だしぬけに水が欲しくてたまらなくなってシンクへ向かった。寝ているあいだ、どうやらいつになく汗をかいたようで妙だった。熱が出ていたわけでもないのにシャツが湿っていた。
 コップ一杯の水を飲み干し、時計を見た。出勤するには早すぎる。目覚まし時計のアラームよりも彼は早起きをした。それもまた、いつにないことだった。
 髪をかき回しながら彼は寝室へ戻った。やけに頭がぼんやりしている。普段であれば寝ている時間に起きたせいだろうか、目の奥にかすみがかかったように焦点が定まってこない。
 彼は目をこすり、ドアから窓外を見た。雨。天気が悪い。雲は形を成さず空を覆いつくし、覚醒しきっていない彼の意識を具現化したような薄鈍色を一面に広げている。
 建物の壁はどれもくすんでいた。雨音はなく、だれの声も何の物音も聞こえてこない。静かな土曜の早朝。
 彼は真っすぐ窓へと近寄った。まばたきをしてミラーをのぞいた。
 女がいる。十字路にひとりきり、頭から雨水をかぶり暗いアスファルトの一角に立っていた。
 彼は少し顔をしかめた。雨は昨夜より強く、今は本降りのようだった。予報を彼は把握していないが、これではいつやむか知れない。
 彼は顔をしかめたまま表情を変えず、女を見つめていた。
 彼には、昨晩から濡れっぱなしの女だった。変わらずそこに立っている。決して渡らない横断歩道を前に、うつむき加減に一寸も動かない。
 女は今が雨降りだと、分かっているだろうか。自分が雨に打たれていると、認識しているだろうか。あるいは自分を何者と考えているだろう。何を考えているだろう。なぜ――そこにいるのだろう。
 そのときだった。彼の眉間に寄っていたしわが消えた。
 女がわずかに動いた、ように映ったのだった。あるいは動いたというより、揺れた。髪が。女の長い黒髪。横顔の大部分を隠していたそれがはらりと揺れ青白い片頬があらわになり、彼は目をみはった。
 「あっ……」
 女の顔が上がっていく。さみしげにうつむかれていた顎が、がくっ、がくっ、がくっ……と徐々に上向いている。
 機械仕掛けの人形に似た動作だった。あるいは生まれたての小鹿が母親のそばで、懸命に立ち上がろうと努力する姿のような。ぶるぶると小刻みに震えながら曲がっていく。女の首から上だけが。
 彼は茫然と見守っていた。
 女はうつむけていた顔を正面に据えた。雨が降りしきるのをものともせず、それからまた顎先を動かし始めた。
 がくっ、がくっ、がくっ……それは左を向いていく。じれるほど遅い動きに、しかし着実に角度を変えていく。
 彼の見つめるカーブミラーへと、女の顔が向けられていく。少しずつ。ほんの少しずつ。
 彼は息を殺していた。
 彼は待っていた。全神経を視覚に集め、女の顔を、ミラーにはじめて正面から見ることになるだろうその瞬間を待っていた。
 早くこっちを見ろ。
 口にせず彼は女を急かした。するとさらに気がはやった。耐えがたい衝動が彼を襲った。
 早くミラーを見ろ。早く。早く。早くしろ。横顔だけでは足りない。早く……。
 早く顔を見せろ。
 女の動きが止まった。彼の呼吸も止まったようだった……そのとき女が顎をのけぞらした。突然だった。上体を激しく震わしがくっ、がくっと肩を左右に振りながら勢いよくミラーを見上げた。髪が乱れ、青白い顔の――しかし彼には分からなかった。彼は自分がその顔を「見た」という自覚を得る寸前、なぜか頭が真っ白になった。
 彼は強い力で押されたようにぐらりと後ろへよろめいた。
 瞬間的な失神だった。
 彼のこめかみを汗がつたった。女は――しかし彼はもうミラーを見ていなかった。つかの間、目を伏せうつむいた。何秒かの沈黙……息をのむ早朝の静寂……途切れた視覚……雨。
 彼ははじかれたように振り向くと、走り出した。起き抜けの服装のまま黒いコウモリ傘をつかむと鍵もかけずに玄関を飛び出し、猛スピードで2階から階段を駆け下りた。転がるようにアパート前の通りへ出ると、十字路へ向け一散に突進した。疾走した。女の定位置が近づくと、立ち止まった。ごく短い距離だが息が上がっていた。
 あたりにはだれもいなかった。彼はカーブミラーを注視したが、そこには彼ひとりが映っていた。
 彼は真顔になった。視線をずらし、待つ者の見えない横断歩道へ向け、言った。
 「あんた、何がしたいんだよ」
 思いのほかぞんざいな口調だった。彼は両手を握りしめた。そのとき右手が傘の柄を一緒に握りこんだので、彼は自分が傘を持ってはいるが差していないことに気がついた。
 「僕を知ってるか?」
 自らを濡れるに任せ、彼は続けた。無人の四つ角で呼吸をととのえた。恐怖はなかった。
 「僕はずっとあんたを見ていた。あんたが四六時中そこのカーブミラーに映っているからだ。そんな格好でずっとそこに立ったままだからだ。今もそうだ。あんたは――きみは、そこに立っている。僕はそこに立っているきみを、きみの後ろのアパートの2階の部屋の窓から見ていた。それなのにきみは僕を知らないのか。さっきみたいに僕を焦らして、顔のひとつも見せてくれないのか。おい……いるんだろう? なぜそこに立っている? 返事をしてくれ、もうこれ以上僕を不眠のままにしておくのはよしてくれよ。きみのせいだろう? 困っているんだ。気になって仕方がない。答えてくれ。きみはだれだ。何者なんだ」
 返事はなかった。
 あまりすらすら言葉が出てきたので、彼はひそかにおどろいていた。そしてそのおどろきによって、彼はようやく自分をいくらか取り戻した。そして不用意に女を刺激するなという、友人からのアドバイスも思い出した。
 「答えてくれないのか?」
 彼は落ち着いて尋ねた。口調はやわらいでいた。高架を見慣れた赤い電車が近づいてきて、彼に少々の現実を感じさせた。
 騒音を響かせそれが行ってしまうと、彼は寒さを覚えた。生ぬるい汗と、雨で、髪も衣服も濡れていた。
 彼は小さなため息をつくと、傘を差した。今さらながらに自分はどうしちまったんだろうと困惑した。なぜ自分はここまで走ってきたのか、何をするつもりだったのか考えたが、困惑は増すばかりで浮かぶものはなかった。彼は確かに女の顔をミラーに正面から見たはずだったが、そこからここへやってくるまでの記憶が完全に消滅していた。女の目鼻立ちを思い出せない。傘をつかんだことも覚えていない。なぜ自分は走ってきたんだろう。
 足もとはビーチサンダルだった。裸足でないだけ上出来だが、こんな天気の日に履くものでもない。
 彼は目を上げ、傘をやや後ろへかたむけた。女が立つ場所を見た。
 その顔は今、どこを向いているだろうと思った。もとのとおり、うつむいているのか。ミラーを向いているのか。
 それとも。
 彼はしばらくそこを見つめていた。やがて吸い寄せられるように一歩を踏み出すと、足指の爪を雨に濡らしながらさらに一歩踏み出した。彼は女の立つ場所、その真上に自身を立たせた。
 何も起こらない。しかし彼は、女と自分との重なりを感じた。彼は、女のなかに立っている。彼は自分の傘の下に女を入れてやっている。彼の手首あたりには女の桃色のカーディガンの袖口がある。おそらく。
 彼は急に切なくなった。胸がゆっくりと締めつけられていくような……彼は特にかなしくなかったが、その締めつけはふいに感じた切なさか、もしくはかなしみのせいとも取れた。そして雨が冷たい。半端に濡れた髪が頭皮に異様にくすぐったい気がする。
 彼は前髪を中指でかき分けた。地肌を引っかいた。
 すると彼の一方の目頭から、涙がこぼれた。熱く、ほろりと頬をつたった。
 だが彼は気づかなかった。
 彼は傘の陰から、横断歩道の向こうを見た。彼はこの十字路を歩くのを避けてきたし、もともと信号のない横断歩道など無視して渡る傾向があったせいか、彼はそのとき自分の視界に映ったありふれた早朝の住宅街を、面白いほど興味深く思った。そしてこの景色は今、女の目にも映っているのだと思うと、さらなる興味を引かれてその場に立ち尽くした。
 彼は路の反対側を真剣に眺めた。
 傘を打つ雨音が大きくなってきていた。アパートのほうから自動車が一台、ヘッドライトを点灯させこちらへ迫ってきたが、そのまま彼の前を過ぎていった。
 やがて彼は横断歩道を渡った。渡った先でちょっと左右を見回し、首をかしげたが、その目はすぐに前方を見据えた。
 駅まで続くアスファルトの道が真っすぐに伸びている。それを挟んだ左手に高架沿いの遊歩道。人工の小川。植栽。右手には住宅が建ち並び、その並びのうち彼にもっとも近い手前の一軒は比較的まだ新しい。子供用の小さな自転車が玄関の横に立てかけられている。
 彼は道なりに約数メートル、慎重に進んだ。そして唐突に止まると、視線を右へ投げた。
 電柱だった。何年もそこに立っているのだろう年季の入った風情で、かなり太い。広告のたぐいは何も張られておらず、やや路面にはみ出している。そばの住宅はコンクリートブロックの塀で敷地をかこってある。
 その電柱の下に、彼は目を留めた。早足で近づくと、そっと腰をかがめた。
 竹筒。ひと目で彼はそう思い、あらためてそれを見つめた。やはり竹筒だったが、斜めに切られた口からいくつか亀裂が入っていた。電柱に結わえつけられてあるが、長いあいだ放置されていたのか、風雨や泥による劣化か、もとは綺麗な緑色だったのだろうがずいぶんよごれている。さほど大きいものではない。縦の長さは二十センチほどだろうか。
 筒はからだった。彼は手に触れ確認したが、内部はただの空洞だった。
 彼はかがんだ姿勢のまま、その切り口へ、ぼうっと視線をそそいでいた。しばし経って、何軒か先の家から傘にレインコートの住人が出てきたが、電柱の前の彼のコウモリ傘を不審そうに見やった。
 やがて腰が痛くなり、彼は上体を起こした。電柱にくるりと背を向け、もと来た道をアパートへ戻った。
 それから約一時間のあと、シャワーを浴びて着替えた彼はふたたび傘を差してアパートを出た。大通りではなく十字路を渡って駅へと向かい、そこからはいつものとおり電車に乗って出社した。
 雨は夕方にやんだ。彼が最寄り駅で電車を降りたとき、空はだいぶ暗くなり始めていた。湿り気を帯びた街の独特の匂いが、改札を出た彼の鼻腔を刺激した。
 駅舎から、彼は迷わず普段とは逆方向に歩き出した。ほとんど利用しないロータリーの、バス停近くの街灯を横目に、まもなく見えた交番へ近づいた。出入り口の戸はあいていた。ようすをうかがうと、巡査の男がひとりだけ詰めているらしく、その年配の巡査に彼は「すみません」と話しかけた。
 「はいどうしました」
 「あの、ちょっとお尋ねしたいんですが。僕、最近このあたりに越してきたばかりなんですけど」
 彼は努めてさりげなく言った。
 「このへんで起きた交通事故の記録って、こちらでお持ちではないですか」
 巡査は一方の眉をくいと上げた。そんなことを尋ねられた経験がなかったのかちょっといぶかる顔つきをした。
 「はあ。交通事故ですか」
 「はい。あの、僕のアパートのそばに四つ角がありましてね。それでその近くに電柱があるんですがその下に、これはおそらくここでどなたか事故で怪我をされたか、亡くなられたかしたんじゃないかと思うような、なんて言うんですか――供え物なんかをするための筒があるのを今朝はじめて見つけたんです。そんなに古い筒ではないと思うんです」
 「はあ。四つ角に。この近所ですか」
 「そうですそうです、すぐ近所です……。それでどうしても気になってしまって。越してきたばかりでまだ近隣の方々と付き合いがないのでお話も聞きづらいし、ひょっとしたらこちらでご存知じゃないかなと……もし事故か何かあったのなら」
 「はあなるほど。そういうことですか。交通事故の記録ですね。あることにはありますが」
 「もしお手すきでしたら、調べていただくことは。僕の個人的な興味ですみませんが」
 「結構ですよ。お入りください」
 巡査はデスクの対面にあるパイプ椅子にかけるよう彼へすすめたが、彼はことわった。
 戸の近くに立って待っていると、巡査は奥から分厚いファイルを一冊持って戻ってきてデスクに置いた。野太い指で最初からページをめくりながら彼に住所を尋ねた。彼が自分のアパートの番地を答えると巡査はファイルを持ち上げてぱらぱらと探し始め、該当ページが見つかったのか「ああ」とつぶやいてファイルを下ろした。
 巡査はひらいてあるページに目を落としながら言った。
 「おっしゃった四つ角ですが、確かに事故が発生しています」
 「ああ、やっぱり。いつ……」
 「一昨年のちょうど今ごろです。出会いがしらの衝突事故ですね。ご存知かもしれませんがあそこには信号がないでしょう。直進してきたトラックが、角を右折しようとしたバイクとぶつかっています。発生直後にトラックの運転手から通報を受けて、私が現場で交通整理を指揮したので覚えています」
 「その運転手の方は無事だったんですか」
 「ええ。ですがバイクを運転していたほうの方は、その場で亡くなりました。ヘルメットをしていなかったんです。それにどちらも減速が十分でなかった。結果、衝突のはずみで投げ出され、電信柱に激突して……二十代の男性だったのですが」
 「病院には搬送されなかったんですか」
 「されましたが手遅れでした。首の骨を折ったんです。即死だったと思います」
 「即死。……」
 彼はショックを受けたように繰り返した。巡査がうなずいた。
 彼は目を伏せ少し考えるそぶりをした。顔を上げ、真剣なまなざしで言った。
 「二十代じゃあ、僕と同じくらいです。ご家族の方、かなしまれたでしょうね」
 「そうですね。痛ましい事故でしたよ。死者が出たわけですから」
 「そのバイクの男性には、たとえば恋人がいたりしませんでしたか。たぶんその方と同い年くらいの、若い」
 「恋人ですか。さあ、そこまでは……ご遺族については……妹さんがいらっしゃったような記憶はありますが」
 巡査はそこで言葉を切ると、ものといたげな目つきで彼を見た。
 「あの失礼ですが、亡くなられた男性とあなたは、何か」
 「いやいや、何の関係もありません。ただその、年齢的にそんな相手がいたとしてもおかしくはないだろうと……僕の親しい友人も、女性なんですが、以前に恋人を事故で亡くしているんです。婚約していたんですよ」
 「そうですか。それは」
 「ええ。ほんとうに気の毒で。そのときの彼女のかなしみようを見ているから、今のお話もなんだか他人事とは思えなくて……お聞きした限り、かなりの事故ですよね。新聞には載りませんでしたか。僕、その彼女のことがあってからというもの交通事故に敏感になって、その手の記事には毎回、目を通すようにしているんですが」
 とっさの作り話だった。だが巡査は特に疑いを持たなかったらしく、彼の言葉に腕組みをすると、「どうだったかなあ……」と首をひねった。深く考えこむほうなのか、その状態でいくらか過ぎた。彼はじっと見守った。
 「載ったようにも思いますが、だとしても小さな記事だったはずですね。その日のテレビニュースにはなりましたが」
 やがて巡査は言った。
 「死者が出たとはいえ、そういった事故は年に幾度かは起きています。ですが今あなたに訊かれて思い出したんですが、そういえば当時お付き合いされていた方がその男性にいたとかなんとか、そんな話を耳にしたような気がします。勤め先が同じだったとか……あなたのご友人と一緒で結婚の約束をしていたとか……ここの記録には最低限の事実しか記載してありません。署のほうに確認を取ればより詳しいことが分かりますが……私が覚えているのはそれぐらいです。あいまいですが」
 「とんでもない、いろいろ教えていただいて。これであの電柱の筒の意味が分かりました。ありがとうございます」
 「いえ」
 「それでお礼ついでにもうひとつお尋ねしたいんですが。このあたりに……」
 彼が尋ねると、巡査はぴくっと眉を反応させた。だがすぐ使い古した地図を手に取ると、それを彼に示しながらこころよい笑みを広げた。度量を感じる笑みだったので彼はたじろいだ。ひょっとして巡査より上の階級にいる男だったかもしれないと、そのときになって思った。
 その後スーパーマーケットへ寄り、アパートへの道すがら、彼は十字路の横断歩道で、見えない女の姿を見つめた。女の脇をすり抜け、部屋へ戻ると寝室へ直行した。
 女は映っていた。いつもと変わらず、そこにいた。今朝のことがあったにもかかわらず、彼にはその姿がやけに久しぶりの感じがしてミラーを見つめた。さまざまの考えがそのあいだ彼をめぐった。
 女はバイクを運転していた男の妹だろうか、とまず思った。でなければ恋人だろうか。それともただの知人友人だろうか。……あるいはそんな事故にはまったく無関係かもしれない。すべてこちらの勘違いかもしれない。すべてまちがっているのかもしれない。しかし……ではなぜそこに立っている?
 「きみは……」
 彼はつぶやいた。今朝にはあそこに自分が立っていた。
 彼はカーテンを閉め窓を離れた。
 その夜、交番巡査との会話を思い起こしながら、彼はよほど警察署に問い合わせてみようかと何度も受話器を握った。だがそのたび考え直してそれを置いた。あまり詮索しないほうがいい、深入りはよくないだろう。首を突っこまないほうがいい……と自らに言い聞かせた。街の交番ではなんとかなったが、警察署ともなると話の重みはちがってくる。部外者が急にそんな問い合わせをして向こうに怪しまれてはたまったものではなく、そもそもあちらにも守秘義務というものがある。照会してみたところで過去の記録が確認されるかどうかは不明であり、そうでなくとも素直に回答をもらえる可能性は低いのだった。正当な理由があれば別だろうが……取り合ってくれるかもしれないが……しかし彼には自分の理由が正当なものか定かではなかった。
 カーブミラーに映る女の正体。生きていれば生霊か、死んでいれば亡霊か。しかし彼には、もはやどちらでもよい気がしていた。
 翌日曜日は、朝からからりと晴れていた。目が覚めるなり彼はベッドから出てカーテンをあけミラーをのぞき、女が日差しに照らされ、さみしげにうつむいているのを見た。そして苦笑すると、大きく伸びをした。眠ったような、眠れなかったような心地であくびをした。着替えて外出の用意をした。
 目的の店はあいていた。エプロンを着けた若い女性が店先に商品を出していた。きのうは雨だったから外へ並べられなかったんだろう、巡査から案内を受け彼がここへ来てみたとき、夕方過ぎだったせいかすでにシャッターが下りていた。
 彼は左右をちらと見回した。彼にはこの種の店をひとりでおとずれた経験がなかった。そして案の定、彼のいるこの駅前商店街の往来からその店先をのぞいていく客は婦人ばかりのようだったので、彼はさらに数分ほどそこに立ったままだった。だがやがて意を決した顔つきになると、店員の女性がなかへ引っこんだタイミングを見計らい、すたすたと急ぎ足に近づいていった。用が済むと高架沿いの遊歩道をのんびり歩いてアパートのほうへ戻ってゆき、やがて十字路のそば、あの電柱の前に立った。
 彼は竹筒を見下ろした。前日に彼が見つけたときと同じ、からの状態で結わえつけられてあった。
 彼はそこへ片膝をついてしゃがんだ。筒の向きを真っすぐにととのえ、落ちないか強度を確かめた。
 彼は筒のなかへ、買ってきたばかりの小さな花束を挿した。
 彼はその青い花の名を知らずそれを選んだ。花屋に男ひとりでいるのが気恥ずかしいのであまり長居をしたくなかったのと、ところ狭しと並べられた大小のバケツに入った切り花たちのなかで、なぜかその濃いブルーが彼の目を強く引いた。これにしようとすんなり決まった。店員の女性には「リンドウ」と教えられた。
 「ご自宅用ですか」
 女性に問われ、彼はためらったのち首を横にふった。
 リンドウは、和風の竹筒と相性がよいのかよく似合った。彼が人生ではじめて選び、買った花だった。彼はしばしそれを見つめたあと、手を合わせた。目を閉じた。うつむく女の、黒髪に隠れた横顔をイメージした。
 やがて彼は目をあけ、立ち上がった。背に当たる陽光が暖かかった。
 その日から、カーブミラーに女は映らなくなった。彼は以前のように熟睡できるようになった。一週間も経つとリンドウはしおれ、枯れたが、それでも女がミラーに姿を現すことはなかった。彼は部屋主の友人へ電話をかけ、問題は無事に解決したと伝えた。ネタが立ち消えとなり、やや残念がる調子ではあったが友人はその報告をよろこんでくれ、安心したよと笑い、一方で彼が連絡を取っていなかった期間について詳細を訊きたがる口ぶりをした。だが彼はあえてにごし話題を変えた。友人は滞在先の気候や風土や人々や、自分たちの取材に関していくらか語った。
 「おそらく再来週にはそちらへ帰ると思うんだが、アキラ君、新居探しは順調かい?」
 「いえ、なかなか……というか、すみません。サボっていました。暇がなくて」
 「きみも忙しいだろうからね。いいさ、そう急ぐことでもない。部屋は返してもらわなきゃ困るが、それまでに見つからなくてもきみにはひとまず下宿があるんだから。ゆっくり探すといいよ」
 「ええ」
 「帰ったら一杯やりに行こう。帰還祝いにおごるぜ。きみの話も聞かせてくれ」
 「はい。こちらもめっきり冷えこんできましたよ。もう冬ですね。……」
 その電話のあとから、彼はしばらく関心の外にあった新居探しに本腰を入れ始めた。はじめから期間限定の代理住まいだったにもかかわらず、彼はいつしか自分がこの部屋を出ていくことをほとんど忘れかけていた。
 下宿へ戻るのが嫌というわけではなかった。むしろそのほうが結局のところ楽かもしれない。立地の利便性や通勤のしやすさより、さしあたり現在の彼に必要なのはまともな食事と料理の腕のようだった。
 仕事終わりの真夜中、上階に住むバンド・マンの流すロックが天井をかすかにつたい下りてくるのを耳に、彼はしつこくポストへと投げこまれる不動産広告の束を一枚ずつ眺める。ベッドに寝ころび鉛筆を手に、条件のよい物件にはマルを付ける。だがすぐに飽きて鉛筆を投げだし、読みさしの本を引き寄せて読み、ほどなく眠気を感じて立ち上がる。窓から外をのぞく。
 深夜の静けさが広がっている。十字路にはだれもいない。カーブミラーには街灯にほの白く照らされたアスファルトの地面が映っている。彼は素早くカーテンを閉じベッドへ戻る。広告の束を押しやり時計を見、あくびをする。
 彼の本来の日常とはこういうものだった。なにげない、平和な、仕事に追われながらも充実している。担当作家が先日彼へ渡してきた童話の初稿を彼は気に入り、社で刊行している小説雑誌のひとつに飛びこみで載せられないかと上司にかけ合っている。彼が作家へその旨を伝え改訂を求めると、本人も「困るなあ」とかなんとか言いつつまんざらではない反応だったので、うまくいけば話をさらに進められる。
 しかし彼は、そうしてあすからの仕事をあれこれ考えながら眠りにつく、その間際に、確認したばかりのだれの姿もないカーブミラーをふと思い浮かべる。知らずひとり苦笑する。そしてその笑みを絶やさず、枕の上で組み合わせた両腕に頭を沈め、両脚を伸ばし、おもむろにため息をつくと低い声でささやいてみる。まるで忍ぶように、彼にはほんの小さな冗談のつもりで……。
 「惜しいことしたかなあ。……」.
 幾日か過ぎた。あさってには友人が帰ってくるという日の午前中、彼はバスを使う用事ができてしばらくぶりで駅の反対側へと足を運んだ。
 次の便の到着まで余裕があった。大して風もなく、この時期にしては暖かく晴れていたので商店街のほうを歩いて時間をつぶすことにし、彼はバス停を離れた。
 交番の前に巡査が立っていた。あのときの男だった。ちょうど応対していた婦人があいさつをして去っていくときで、婦人を見送った視線を巡査は彼へ向けた。彼は会釈を返した。巡査が言った。
 「ああ、こんにちは。あのときの」
 「どうも。こんにちは」
 「あれから巡回中に一度、あの四つ角を通りました。あそこへリンドウを挿したのはあなたですか。電信柱の下に」
 「あっ……そうです。ご覧になったんですか」
 「ええ」
 「そうですか。いや……」
 彼は困ったように笑った。
 「でも早くに枯れてしまいましたよ。花はすぐだめになりますね。造花にすればよかったかな、と」
 「いや生花だからいいのでしょう。いつまでも咲くものではありません。枯れることより気持ちが重要です」
 「そうですかね」
 「しかしリンドウとは、いい花を選んだ。私は女房が花が好きで、よく話を聞かされますが」
 「そうですか? 僕は特に、何も考えず……詳しくないので……たまたまです。なぜいい花なのですか。いえ、確かに綺麗な花ですが」
 「ええもちろんです。綺麗な花です。ただ私がいい花と言ったのは、その花言葉を思い出したからです」
 「花言葉」
 「ご存知ですか」
 「はあ。花には花言葉というものがあることくらいは……すると、リンドウにもあるんですね」
 「ええ、あります。そうですか、偶然とはいえ……知りたいですか。もしよろしければ」
 「はあ……」彼はうなずいた。
 「はい。お願いします」
 すると巡査は彼を見つめた。そのまなざしに、なぜとなく彼は居心地が悪くなり戸惑った。そわそわと衣服を直した。
 巡査はふっと微笑し、言った。
 「かなしみに暮れるあなたを愛している。――と、いうのですよ。あなた」
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