指輪

文字数 11,684文字



2.指輪

 顔を上げて目の前の窓から外を見やると、いつ降りだしたのだろう、雨だった。
 ふうん、面白い偶然もあるものだ。僕の右眉が、意外そうにちょっと動いた。
 ここでも雨か。……なるほど。
 けれどいつ降りだしたのだろう? めずらしく気がつかなかった。雨音がないせいか。ものごとの変化には敏感なほうであるはずなのだが。
 疲れた頭の片隅でそんなことを思いながら、僕は投げだすように机にペンをほうると椅子を立った。そのとき、夕方以降は雨が降りやすくなるというきょうの天気予報を、熱いコーヒーをすすりながら、そういえば今朝のニュースでちらと耳にはさんでいたようにも思った。
 椅子に手をかけ、僕はしばし窓外を眺めた。僕の仕事部屋は一階で、玄関があるおもての小さな庭に面しているので、その先の往来の一部がここから見ると視界の右端に入ってくる。ほんの一部しか見えないので、行きかう人や車やその他は、意識しない限り長いあいだ目に映らない。ただしそれは意識しなかった場合の話で、意識すればそれなりに分かることもある。決まった時間帯にそこを通る人々が毎日一定数いることや、そういう際の彼らの服装は大抵が毎日似たようなものであること、そして彼らが毎日そこを通っていく目的も大抵が似たような、あるいは同じものであることが分かる。その目的というのは、ざっと挙げてみると、たとえば犬の散歩やゴミ出し、子供の送迎やそれにともなう知人同士の井戸端会議、散歩やジョギング、通学に通勤、あるいは郵便ポストへの郵便物の投函など。
 このごろめっきり日が短くなった。窓から差しこむ光の具合に秋の進みを感じる。
 うちのなかは静かだった。僕は煙草の入ったケースへ手を伸ばした。だがそばにあるデジタル時計の表示を見てその手を止めた。そして、息子の誕生日がもうそろそろであることを思い出し、時計の表示から目をそらしてケースをつかんだ。
 人間というのはふしぎなもので、忘れていたいことほど、ある瞬間のきっかけで、前ぶれなく、突如として記憶に鮮明によみがえる。それもうっとうしいことに、全体のなかでもっとも忘れていたい部分だけが不死鳥のごとく何度もよみがえる。そして執拗にこちらを刺激してくる。どうにもやりきれない。
 息子とは、僕はずいぶん会っていない。離婚してからは会う機会がなくなった。
 今年でいくつになるのだったか。別れたとき確か六つだったから、今年で十か。それが正しければ、息子に対する僕の記憶は、息子が小学校に入学した年から止まっていることになる。
 成長しただろうか。たぶん、しただろう。
 四年という月日の経過が、早いような遅いような、なんとも言えない苦い心地だった。
 僕は手もとを見下ろした。
 四年も会っていない、そして今後も会うことがないだろう息子を思うと、この机の上にある紙束が、直視できないほどアイロニカルなものに感じられた。
 取り出した煙草にライターで火をつけ、僕はその紙束の上にライターをほうった。
 手書きは久しぶりだった。普段はワープロを使うので、こんなアナログなことはしない。重ねられた用紙には乱雑な文字が並んでいるが、しかし内容はさほど乱雑なものではないつもりでいる。だからこそ余計、それが皮肉に感じられてならないのかもしれない。
 雨を眺めながら煙を吐いていると、ふいに喉の渇きを覚えた。僕は飲みさしのグラスを見たが、中身の水はすっかりなくなっていた。
 あきらめて、煙を吸いこんだ。
 僕が家を出ていったときの、息子の表情が忘れられない。息子はものを問う目で、そのまなざしには僕へ対するかすかな不審と、怒りと、嫌悪がにじんでいた。子供ながらに僕をあわれむ目をしていた、ようにも思う。
 考えすぎだろうか。そうだとしても、現在の息子が僕へ対してどんな感情をいだいているか、僕は知りたいとは思わない。成長した姿で、別れた妻と元気に暮らしていてくれたらそれでいい。
 窓外の往来が、ぼうっと光った。あわい黄の光を発しているが、雨にけぶってその正体はよく見えない。しかし僕はすぐ、それが自動車のハロゲンライトの光と悟った。
 自動車はそこに停車している。そのライトは今、この家の表札を照らしているのだろう。そこには「片桐(かたぎり)」と書いてあるので、つまり彼女が帰ってきたらしい。親戚のだれかに送ってもらうつもりだと今朝、言っていた。
 午後六時を過ぎた外は暗い。ライトの光で、雨が無数の細かい筋となって落ちていくのが見える。
 後部座席から人影が出てきた。彼女だろう。急いで庭を玄関まで走ってくる。するとライトの光は、僕の視界から消えた。あたりはふたたび暗くなり、自動車のかすかなエンジン音が聞こえ、遠ざかっていった。
 ほどなく、玄関ドアのあく音がした。仕事部屋の灯りがついているのを見て僕に気を遣ったのか、あいさつの声はない。しかし彼女は日ごろ、僕に明るいあいさつをしてくれる。僕はずいぶん、それで助けられている。
 廊下を歩く足音。それはいったんこの部屋の前を通りすぎ、居間のほうへと向かっていく。
 やがてそれは戻ってきた。部屋の扉が、控えめにノックされた。
 僕はもう吸えなくなった煙草を灰皿へ押しつけた。
 扉越しに、彼女が呼びかけた。
 「アキラさん?」
 僕が返事をすると、扉があいた。彼女が顔をのぞかせた。
 彼女は今朝出かけていったとおり、礼服を着ている。何年か前に必要に迫られ、間に合わせに急きょ購入した安物のままというが彼女が着ているとそう見えない。彼女には黒が似合うと、僕は思う。
 耳には真珠のピアスが付いている。首にはピアスと同系同色の、粒の大きさも同じ真珠のネックレス。ストッキングをはいた足首はむき出しで、スリッパもはかず、彼女は僕へほほえんだ。
 「ただいま。お仕事してたの」
 「もう終わったよ。おかえり」
 「こんなに降るとは思わなかったわ。びっくり。ヒール、濡れちゃった」
 「ほうっておけば乾くさ。どうだった、法事は」
 「フツウ。それか、ちょっぴり退屈ね。皆さん、お話長いんだもの。入っていい?」
 小さな声で、彼女は尋ねた。それからするりと、室内に身をすべりこませた。
 「だれに送ってもらったんだい」
 「叔父さん。こっちのほうに用事があるついでに、乗せてくれたの」
 「あいさつに出るべきだったかな」
 「まさか、いいのよ。この雨だもの。それに、アキラさんはまだ会ったことないけど、叔父さん、いい人よ。小さなこと、気にしない人なの。また時間があるとき、ゆっくり上がらしてもらうって言ってたわ」
 彼女は後ろ手に扉を閉めた。うつむき加減にいたずらっぽく笑ったのが、その唇の動きで読めた。
 僕は机をいちべつした。
 「ご所望の話だけどね。ひととおり書き終えたよ」
 彼女は首をかしげた。
 「どのお話?」
 「子供向けの短編さ。以前にきみが言ったろう、たまには童話のようなものを書いてみてほしいって。童話と言っていいのか、僕には分からないけれどね。そんなものには、うといんだ」
 「まあ。完成したのね。それじゃ編集の方にお見せになるの」
 「さあ、どうかな。受け取ってもらえるかな。第一、きみが気に入らないんじゃしょうがない」
 僕は肩をすくめた。ベスト・セラー作家とはほど遠い、世間の(きわ)をふらふらほっつき歩いているような男の書いた童話など、編集の彼はおろか、だれからも相手にされない気がした。仮に発表しても、僕の書くものを日ごろ読んでくれている数少ない物好きの読者からのお叱りの手紙が、編集部宛にまたもどっさり届くにすぎないだろうと思った。編集の彼は苦笑いで、それを報告しにここへやってくるだろう。そのうちの一通を声に出して読み上げてみせるだろう。そういう後日談の一例を、僕はこれを書く前からすでに予想していた。
 しかしそれでも僕がこれを書いてみたのは、彼女にすすめられたからだった。一週間ほど前、ふたりで夕食をとっているとき、彼女は僕に言ったのだった。
 「ね、もしも……もしもよ。もしも私たちに子供が生まれたら、アキラさんの書いたお話を、私、いつかその子に読んで聞かせてあげたいわ」
 僕はそのとき少し酔っていたせいもあって、深くは考えず、「それじゃひとつやってみるよ」と答えた。彼女がそんなことを僕へ言い出したのは彼女と出会って以来はじめてだったので、おどろいたはずみにそう答えてしまったのかもしれない。僕はそれまで、彼女とのあいだに赤ん坊を持つことは考えていなかった。そして告白すれば、僕は子供のたぐいが昔から苦手だった。
 僕の返答に、彼女は僕の向かいの椅子でうれしそうにしていた。背筋を伸ばしてグラスに酒をつぎ足した。その彼女の指の動きを見て、離婚して家を出た僕のような男が、自分の新たな子供のために童話を書いてみるということの皮肉さと、こっけいさを、そのときの僕はますます深く考えずに済ました。そのままの状態で大体のプロットを練って、やれないことはなさそうだったので、なんとなく書き始めてしまった。
 だから、この机の紙束を編集の彼に見せるのは気が引ける。世に出すのはさらにはばかられる。これは彼女に頼まれた、そのときのはずみによって作り出された童話まがいの読み物にすぎないと、実際に書き終えてみて僕は今、思っている。
 彼女は室内を、僕のそばへ真っすぐに近づいた。すねたふうに目を伏せた。
 「私、気に入るわ。きっとよ」
 彼女はやはりすねたような小声を出した。
 「だって私、アキラさんの書く小説が好きだもの。アキラさんが、そのこと、一番よく分かってるくせに」
 「そうかな」
 僕の答えが、あるいはその答え方に納得がゆかなかったのか、彼女は不服そうに唇を引き結んだ。口紅の色が心なしか、今朝見たときより薄い気がした。おそらく雨で流れ落ちたんだろう。でなければ電灯の光の加減で、そう見えるのだろう。
 僕は彼女の頭に手を置いた。機嫌を取るようにそっとなでると、黒髪から外の匂いがした。乾いたアスファルトがいくらか雨を吸ったのと、似た匂いだった。
 彼女は引き結んだ唇をやわらげた。
 彼女と僕とのあいだには、15という歳の差がある。僕が彼女に出会ったとき、彼女は僕が世話になっている出版社の、文芸ではない別の編集部へたまにアルバイトにやってくる大学生だった。よくある週刊雑誌の編集部で、僕はその雑誌を一度も買ったためしがない。文芸部とは建物の階も離れていたので、ただでさえそこへ足しげく通うわけではない僕は当然、彼女とは顔見知りでも何でもなかった。
 けれどもあるとき、次回作の打ち合わせを終えたあと、階段を下りているときに偶然、彼女とすれ違ったことがあった。そのとき彼女は僕のペンネームを存外な大声で言ったので、不意を打たれて振り向いた僕へ彼女はひと言、「ファンです」と、手すりから身を乗り出し、放ったのだった。
 僕はつい、うろんな表情を返したように思う。彼女の言う「ファン」の対象は僕ではなく別のだれかだろう、僕とそいつをまちがえたのだろうととっさに疑った。それはおそらく、大した数の読者を持たない作家の、ある種の持病と言っていい。
 「私、先生の作品、全部読みました」
 彼女は両頬を紅潮させ、一語ごとをはっきり発音した。かみしめるような口調だった。
 「どの作品も好きでした」
 僕は数年前のその当時は、離婚して間もないころだった。適当に見つけた安アパートの一室に住んでいた。打ちこむものといえば執筆くらいで、幸いにも離婚という事実は、僕をそれとは逆の状況に追いこまなかった。しかし頭は常にしびれていたし、ろくにものを食べておらず、身体のあちこちは不調にあえいでいた。
 突然現れた彼女の好意が、そういう状況にあった当時の僕をどんなふうに感じさせたかは、想像するにかたくない、と思う。彼女は僕のなかに染みいり、そこにとどまった。僕ははじめ彼女を、その年齢差から、女としてではない別の存在ととらえていた。年の離れた姪なり従妹なり、あるいは僕を慕うあまりに身の回りの世話をしたがる弟子なり、どうとでもとらえられた。
 けれどもある時点から、彼女はそれらの存在の、どれでもなくなった。彼女は処女だった。そのことが僕の、自分でも知らなかった部分を燃えたぎらせた。それは長らく僕が忘れていたような感覚に近く、予想外のうねりでもあった。僕は自分の下に彼女がいるという体勢を、その時点から知った。以来その体勢は僕にとって、心地のよいものになった。いつしか彼女は、僕を本名で呼ぶようになった。
 彼女は、どちらかというと小説より、かつてのアルバイト先の編集部が作っていた週刊雑誌のほうが似合う容姿をしていた。しかしそれは決して、そういうたぐいの雑誌に満ちているような、品のないいやらしさが彼女にもあったという意味ではない。出会った当初の彼女からは、いわゆる世間一般の女子大生らしさが大いに感じられた。一日を明るく楽しく、素直に生きる、何も知らない花という印象だった。そしてじつのところ、僕が彼女から受けたその印象はきょうでもさして変わっていない。僕は、なぜ彼女が当時から僕の書くものを好んで読んでいたのか、いまだに理解できていないところがある。
 一方、ふいに憂いを帯びた重い表情を、彼女はすることがあった。それは大抵、彼女が読書をしているときで、いつだったか彼女は僕に、ほんとうはあんな雑誌を作る部署ではなく文芸編集部でアルバイトをしたかったと話した。彼女は大学在籍時、文学部にいた。
 実際、彼女の読む本は雑誌ではなく小説ばかりだった。洋物があれば和物もあり、ジャンルも雑多でとりとめがなかったが、僕からすればあまり彼女向きではないようなものが多かった。しかし、そうした雑多なタイトルに交じって僕の書いた小説が彼女の書棚の一部を占めているのを見るのは、うれしいような、おもはゆいような複雑な感覚だった。恐縮に近い、と思う。
 彼女との婚姻届は、出していない。ためらう必要はないだろうと僕は自分に言い聞かせたりもするが、僕のなかではそんなものがなくとも、彼女はすでに年の離れた若妻だった。僕と僕の生活になくてはならない唯一の、ただひとりの女だった。世間はそれを内縁関係と呼び、なかにはそうした男女の関係をだらしないと考える人々もいるが、僕は気にならない。体面上の関係がどうであれ僕には彼女が必要であって、僕は彼女を心から愛している。
 僕がそういう内容のことを囁いたとき、彼女は暗がりに僕を見上げてうなずいた。それから僕の名を何度も口走った。熱い両手を僕の背に回し、そういえばそのときも、窓の外では今夜のような雨が降っていた。
 耳の奥に、雨音が聞こえ始めていた。先刻までは聞こえなかったが、本降りになってきたらしい。
 僕は彼女を引き寄せ、髪に置いた手に唇を近づけた。学生時代には栗色の髪毛をしていたが、卒業と同時に黒に染め直した。理由を尋ねたとき、茶髪にしたのは国際線のスチュワーデスに憧れていた友人に感化されたからと言って、はにかんだ。僕は黒髪の彼女のほうが好みだと思ったので、すてきだよと褒めた。
 「それじゃ近いうち、読んでくれるかい」
 僕は彼女へ言った。
 「ええ。すぐにでも読みたいわ。楽しみなの」
 「あんまり期待されちゃ困るぜ。自信ないんだ」
 「またそんなこと。アキラさん、いつだって自信ないの、お約束ね」
 彼女はわずかに身をずらし、僕越しに机上の紙束を見たようだった。そこにある、からのグラスにも気づいたのか取り上げようと伸ばした腕を、僕はそっと押さえた。
 外の匂いをまとった彼女は、礼服のところどころを雨に湿らせていた。後ろ髪を指でかき分けると、うなじのあたり、真珠のネックレスの留め具のそばに少し張りついているのが、ふいに僕を突いた。からまないよう慎重に、張りついた髪を指でつまんでどかした。あらわになった肌が、僕をまた突いたのが分かった。故人を偲ぶための彼女の礼服姿が、それをさらに助長した。
 彼女はあしらうふうに、ちょっと肩を揺らして笑った。
 「だめ」
 くぐもった声音で、僕には彼女の唇のあでやかな曲線が見えていた。
 「濡れてるから、だめ。着替えなくちゃ」
 「ここで脱いでいけよ。見ていたい」
 「いやね、もう……だめよ、帰ったばかりで……」
 喉の渇きは、何かしら別の渇きに変わっていた。僕は彼女の言葉が消えいるのを待って、ネックレスをはずす仕草でうなじに口づけた。彼女はこばまなかった。
 抱き寄せた腰の、やわらかなぬくもりを得た。
 外の匂いを、早く彼女本来の匂いに戻したいと思って、僕は手の位置をずらした。そこは外にいるときには僕が避けるような位置のひとつだったが、やはり彼女はこばまなかった。
 彼女の息づかいの、わずかな変化を感じた。僕は雨音を聞きながらそれをさらに感じようと、彼女を抱きしめる。立ち姿を愛撫するつもりで、机と椅子と窓に背を向ける。
 何か言葉をかけようとした。だがそのときだった。僕のなかをふと、違和感がかすめた。
 それがどういう違和感だったのか、僕は正直分からなかった。それはこれまでに一度も感じた経験のない、おぼろなものだった。
 僕は彼女へかけようとした言葉をのみ、その違和感の正体をさぐろうとした。
 何だろう? 今のは。
 何かが、おかしかったのか?
 それは瞬間的な直感に近かったと思う。だから僕は、自分のなかをかすめ去ったそれが何に向けられたものだったのか、それが去ったあとではすぐに認識できなかった。しかしそれは、僕が彼女を抱きしめたときおとずれた。僕が彼女の身に触れ、いつものような彼女を感じようとしたときおとずれた。
 たとえるのであれば、奇妙な不一致かもしれない。彼女に関することで、かみ合っていない歯車があるような。はまるべきところに、はまっていないパズルのピースがあるような。僕の知らない微細な……取るに足らない……僕はものごとの変化には敏感なほうであるはずなのだが、降りだしていた雨に先ほど気づけなかったことを考えると、きょうの僕は普段の僕よりうといのかもしれない。鈍感なのかもしれない。
 とすると、何だろう。僕をかすめた彼女に対する疑問符は、何が原因なのか?
 僕はおもむろに彼女から身を離すと、彼女を見つめ始めた。
 頭の先からつま先まで、じっくり眺め下ろした。そしてもう一度、眺め上げた。
 僕は真剣だった。だが彼女は僕のそういうまなざしをあまりよく思わなかったのか、少しいぶかる上目遣いに僕をうかがうと、恥じらうそぶりにうつむいた。そして両手を僕の腕に添え、待っているようだった。
 気のせいだろうと、僕は思った。疑問符が浮かんだ僕の脳は、彼女のいじらしい仕草に性懲りもなくふたたびその種の刺激を受けていて、だから別段、追究せずともいいだろう。気のせいだろうと思いたがっていた。
 だから僕は、愛する彼女をまた抱きしめた。
 違和感などなかった。彼女は彼女であり、何も変わっていない。今朝出かけていったとおりの服装に、髪型に、化粧をしてアクセサリーを付けている。耳にはピアスを首にはネックレスを、そして、そうだ。それからこちらの指に――。
 そこで僕は、気づいた。はっとして、ひと呼吸置くと、尋ねた。
 「きみ。指輪をどうしたんだい」
 同時に、違和感の正体はこれかと思った。彼女の指輪。それは彼女とこの家に住み始めたとき、彼女の誕生日も兼ねて僕が贈ったシルバーリングだった。
 僕は自分の右の薬指を見た。そこには、僕が彼女へ贈ったそれとまったく同じものがはめられている。ペアリングにするつもりはなく、そもそもそんな考えを僕は思いつきもしなかった。だが、彼女がその指輪をはじめてはめたとき、彼女の言った提案によってそうなった。
 このそろいの指輪をふたりの愛のあかしにしたいと、彼女は言った。婚約指輪でも再婚指輪でもなく、「愛のあかし」という言い方を彼女がしたのが、僕にはよかった。
 だから僕は、この指輪をはめている。そして彼女がはめずにいた日を、以来僕は知らない。それは僕と同じ右の薬指に常にあり、彼女の一部となっていた。外出するにも、彼女は必ずはめて出た。
 今朝もそうだった。出かける前、彼女の右の薬指にそれが光っていたのを、僕は確かに見た記憶がある。
 しかし今、事実として、その指輪は彼女の指にないのだった。
 僕はちょっとおどろき、続けて尋ねた。
 「失くしたの?」
 彼女は黙ったままかぶりを振った。僕は言った。
 「それじゃ、どうしたんだい。今朝にはちゃんとあったろう? 指に……それとも、出がけにはずして置いていったのか?」
 彼女は小さくかぶりを振った。さらには顔を上げようとしない。所在なげに目を伏せ、黙っている。
 沈黙が広がった。
 僕は、自分のなかが急速に戸惑い始めているのを感じた。なぜか分からない。彼女の指に指輪のないことが、客観的に考えればたったそれだけのことが、なぜ僕をこういう気持ちにさせるのか分からない。
 けれどその戸惑いは、ひたひたと迫る、いやな不安だった。あいまいで輪郭がない。かたちがない。
 僕はこの種の微妙な不安を、久しぶりに感じていた。そしてそれが胸に悪いものであることも、久しぶりで思い出した。
 「それじゃ、きみは」
 僕の口は、勝手に動いた。
 「指輪をどうしたの。なぜ……」
 毎日つけるようにすると最初に言ったのは、彼女だった。これは僕が彼女を愛しているあかしであり、そして彼女が僕を愛しているあかしだからと、付け根をシルバーに光らせた薬指を、大事そうに電灯にかざしていた彼女とのひとときが、音のない映像となってまぶたの奥に現れた。
 彼女は僕の問いに答えず、そろそろと右手を伸ばし、僕の右手を取った。そこにある僕の指輪をなぞり、そのなぞる指を甘えるように幾度も幾度も往復させながらゆりかごのように身を揺らした。僕が何か言うのを望んでいるようだった。それか話題を変えてほしいようだった。
 しかし僕は黙っていた。
 やがて彼女は、揺らしていた身をぴたっと止めた。垂れていた髪を一方の耳にかけると、
 「ずるいわ」
 と、つぶやいた。
 「いつも気がつかないのに」
 僕は、うつむく彼女が少しほほえんだのを、その口もとに見てとった。その瞬間、やはり今朝よりも口紅の色が薄い気がしてならなくなった。時間の経過とともに自然に落ちたのだろうと納得しているにもかかわらず、しかし彼女であれば落ちた化粧をほうってはおかず直したのではないか、という考えも頭をよぎった。
 つまり、どういうことだ。
 僕はうろたえた。彼女は「いつも気がつかないのに」と言った。それは僕を指してそう言ったのだろう、しかしそれは、僕がいつも「何に」気がついていないという意味なのか? じつは彼女は、僕が気がついていないだけで、日ごろから頻繁に指輪をはずしているのだろうか?
 僕はゆるりと頭を左右に振った。
 そんなはずはない。僕は断言できる。僕が指輪を贈ったその日から、彼女は毎日それを指にはめていた。習慣になっていた。だからこそ僕のほうでも彼女に合わせ、欠かさずこの指にはめていた。
 けれども……けれども……しかし、それでは今しがた彼女の言ったことは?
 どういう意味なのだろう?
 うろたえる僕の脳裏に、そのときひらめくものがあった。それは目の前にいる彼女がぼやけ、かと思うと二重になり、ぱっくりとふたつに別れていく姿だった。
 その異様な光景を脳裏に見て、僕ははっとした。そして思い出した。その事実はしかし、彼女に関する当然の認識として結局のところ僕の頭にずっとあった。それが今になってなぜか突如浮上し、思ってもみなかった方向から僕の意識を奪った。
 そうだった。そうだ。僕は彼女本人から聞いて、知っていた。
 彼女には双子の姉がいるのだった。一卵性双生児。姉妹は見目形から声質から、実の両親でも見分けがつかないときがあるほど瓜二つと聞いている。たとえば服装や髪型をそろえると、まるで同一人物がふたり、並んで歩いているようだと……聞いている。僕はしかし、姉のほうには会ったことがない。
 そうだ、会ったことがない……少なくとも僕はそう思っている……思っていた……さっき彼女をここまで送ってきたという叔父も含め、彼女の身内の人間にはなかなか顔を合わせるきっかけを作れず……。
 僕はさらに思い出した。そして少し、茫然として息を吐いた。
 彼女は以前に僕へ話した。姉妹はほんとうに似ている。妹である自分も姉も、よく読書をする。趣味や嗜好だけでなく、考え方や服装の好みも似ている。だが、いくら一卵性の双子とはいえすべてにおいて通じ合っているというわけではない。ささやかな差異ならたくさんある。たとえば――
 「私は晴れの日が好きよ。だけどね、お姉ちゃんは雨が好きなの。……ね。正反対でしょう? ……」
 僕の背後に、雨音がしていた。今朝の天気予報で、夕方以降は雨が降りやすくなると言っていたきょうの予報は当たっていた。
 僕は半歩、うしろへあとずさった。足もとがふらつく感じがあった。
 「アキラさん?」
 彼女が言った。その右手は、僕の右手をつかんで放さない。
 目を上げた彼女の顔、けがれを知らないような表情、やや心配したふうな眉の角度、細部に至るまで普段の彼女としか僕には見えず、しかし僕のなかに芽生えた疑念はみるみるうちに膨らんだ。
 僕は少し、戦慄した……ように思った。疑念はさまざまの具体的な問いを僕自身に投げかけた。
 僕は彼女を妹のほうと思って、見ている。姉と思って見たことは一度もない。しかし僕は晴れの日にも雨の日にも彼女を抱いたことがある。愛していると囁いたことがある。ではそのとき、暗がりのなかで僕の下にいた彼女は、一体……いや。僕との子供のために、たまには童話を書いてみてほしいと僕へ頼んだ彼女は一体……いや。
 先ほどここへ入ってきて、僕の前にいる現在の彼女は、一体。
 「きみは……」
 僕は舌をもつれさせた。うまく言葉が出なかった。
 もし僕のこの疑念が「そのとおり」だった場合、どうなる? 僕は双生児の姉妹を……僕は自分でもまったく気づかぬうちに、似かよったふたりの姉妹を……僕は……僕は……。
 「きみは、どちらなんだ?」
 僕は力なく尋ねた。あとずさった足でどうにか身を支えていたが、それもあやうかった。まるで刺されたことに気づかず、腹にナイフが突き立っているのを見てはじめて、ああ刺されている、と理解したようだった。
 彼女は僕を見上げた。
 「いやねアキラさん」
 と、ほほえんだ。
 「さっき言ったことはジョークよ。ほんとうにしないで。私は、私よ。今朝と同じよ」
 と、僕へすり寄った。互いの身体が密着し、僕の背が椅子に当たって重い音を立てた。
 僕は、自分が今どんな表情をしているのか、分からない。ただ喉がひりついた。忘れていた渇きがぶり返したようだった。
 彼女は僕の胸もとで、いたずらっぽくそこに指を当てた。少女のような甘え声を出した。
 「指輪はバッグのなかにあるわ。目立つと思って法要のあいだはずしていたの……そのままついはめるのを忘れてしまったの……それだけなのよアキラさん。ほんとよ。……ねえ……」
 僕は返事ができなかった。僕は全身を硬くし、すり寄ってきた彼女の背には腕を回したが、それはぎこちない動きで僕の意思とは違っていた。というのも、僕はそのとき彼女を腕に収めるではなく、バッグをここへ持ってきて指輪を見せるよう彼女に頼みたかった。だが情けないことに、そう頼む勇気がなかった。
 もしそのバッグに指輪が入っていなかったら……いや。この場合そんなことは問題ではない。バッグに指輪が入っていたからといってそれが決定的な証拠とはならない。今朝の彼女と現在の彼女が同一人物であるという決定的な証拠には……あるいは同一人物としても彼女は……今、僕の胸にいる彼女は……
 この女はどちらなんだ?
 すると彼女が僕の胸を、人差し指でつついた。「ねえ私……」と、急かす口ぶりに囁いた。
 「私、ここで脱いでもいいわ」
 頬を赤らめ、彼女は言った。
 「それでじっくり、確かめてちょうだい。私が今朝と同じ女だってこと……ね、アキラさん……」
 目と目が合い、僕と彼女は互いを見つめた。数秒が、数分が経過していった。
 僕は考えることをやめた。つまるところ僕は渇いている。子供は苦手だというのに、慣れない童話など書いたせいで。
 あとずさっていた半歩を、僕は戻した。身体が前のめりになった。
 ガラス窓を通じ、背後に雨が響いている。
 「あら待って。カーテンを閉めなくちゃ……」
 僕は彼女をさえぎった。その身のすべてを電灯にさらしてやるつもりで、むさぼるように右手を動かしにかかった――。
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