ボーイ遊び:Ⅳ

文字数 15,636文字

 薄暗い室内に、心得顔のマダムがいた。テーブルのかたわらに立ち、アキラ少年へほほえんでいた。
 「まあ坊や。待ちかねてよ。……」
 マダムは続いて何か言ったが、アキラ少年の聴覚はそれを認識できなかった。彼は部屋が薄暗いことにおどろいていたばかりか、シャンデリアに飾られた色ガラスの数々が、引き絞られた灯りの反射を受けて黄や橙や赤の暖色にまたたいている、その幻惑的な光の粒の集合にくらめいていた。
 マントルピースの上の鏡が燦然と輝いていた……と彼が思ったのは、そこに映っているクレセント……三日月のせいらしかった。三日月夜なのだった、そういえば。彼は居間の窓ガラスの外に、今にも割れてしまいそうなか細い本物をみとめ、そうと思い出した。冴えわたる白銀の三日月だった。ぽっかり浮かび、左右の先端が研がれた刃物を思わせてぞっとするほどするどくとがっている、それもまた幻惑的に美しい。
 けれどもそれよりアキラ少年の目を奪っていたのは、マダムその人だった。そのほほえみと、肢体だった。マダムはいつにない薄化粧だった。夕食の席では高く結い上げていたマホガニー色の髪を下ろし、着ているものもドレスから化粧着へ替わっていた。唇に普段のようなルージュはなく頬紅もないようで、血の色に乏しい、その白い顔が暗がりにぱっと浮かび上がっているのを見ていてアキラ少年は無性の懐かしさを覚えて戸惑った。懐かしい……とても。あるいは親しみ深い、いつかの……いつかのだれかを思い出すようで。彼はそれが遠い昔、彼がほんの小さかったころに寝間着姿で彼を抱きしめ彼をあやしていた母親であることに気づくと、その場を一歩あとずさった。気づいてはいけないことに気がついた、という直感があった。すると背中が扉に当たって鈍い音を立てた。軽い痛みが彼に走った。
 いけない。
 彼は思ったがもう遅かった。マダムが神秘的な微笑で言っていた。彼を扉から引きはがすように手を伸ばし、「坊や。こちらへ。……来て、ちょうだい」
 彼は自身の下腹部へ手をやった。押さえつけ、返答もせず妙なうずきと衝動に耐え始めた。これはすでに何度か彼を襲い、彼が自分でよく知っている感覚だったが、自分がこうなっているのをマダムに見られるのははじめてだった。にもかかわらず、マダムはふたたび心得顔になった。いっそ得意そうな目つきでアキラ少年の手の動きを追いながら、ますますほほえみを濃くして言った。
 「まあ。やっぱり坊やも見たいのねえ。うれしいわ……」
 アキラ少年は真っ赤なカーテンの先へと連れていかれた。マダムが閉じられていたそれを引きあけると、天蓋の付いた豪奢なベッドが彼の視界へ飛びこんだ。幾重にも積まれた枕やクッションが、四つのゴールドの支柱のあいだに窮屈そうに押しこまれていた。
 「カーテンはあけておきましょうね。すてきな月夜ですからね」
 アキラ少年の心臓ははちきれんばかりの激しい鼓動をこのときすでに始めていた。彼はあわれなほど緊張に全身を硬くし、あとからあとから噴き出てくるひたいの汗をぬぐうこともできずにいた。
 一等客室の――婦人の寝所に招き入れられるというのがまず考えられない事態だった。上級クルーのだれかに見つかったら、たとえ招き入れられたのが彼のような少年クルーであってもただで済まされる問題ではない。
 その場にうつむいたきりのアキラ少年をよそに、マダムはベッドに腰かけると枕もとの卓上ライトを点けた。網模様のシェードの下で電球が淡く光ると、薄闇に陰影をふちどって、悠然と笑うマダムの横顔をぼんやりと照らし出した。
 その顔の輪郭を、アキラ少年は上目遣いに盗み見た。マダムはベッドのなかへ入ってゆき、大きなクッションにゆったりもたれかかるとひと言で彼を呼んだ。「おいで……」
 アキラ少年の顎を、汗のしずくがひとつつたい落ちた。暑いのか寒いのかよく分からなかった。痛いほど両手をきつく握りしめ立ち尽くしていたが、もう一度呼ばれてとうとう片膝を乗り上げた。そのまま沈みこんで海底にうずもれるのではと彼が思ったほど、それはやわらかく心地のいい、一面に金銀のすばらしい刺繡がなされた、カーテンと同じ緋のベッドだった。
 「さあ、坊や。私のかわいい、かわいい坊や。あすには私はここを降りてゆかねばなりません……」
 自身の隣へアキラ少年をいざない、その身をベッドへ収め背中にクッションをいくつも当てがってしまうと、マダムは彼の頭をなでつつ早速といったふうに言った。
 「あす私は、お前とお別れしなくてはなりません。さあ、その前に……夜明けがやってくる前に。私とお話をしましょう。坊や。この美しい三日月のささやかな灯りを助けに、坊や、きょうまで私がお前へ話さずに黙っていたことを、今夜のうちに話してしまいましょう」
 マダムは着ている黒い化粧着の、レースのふち飾りをちょっと直した。アキラ少年の肩へ腕を回し、いとおしむように彼をなでさすり、届くか届かないかの小声に、絵本を読み聞かす調子で言うのだった。
 「私はねえ、坊や。さあ、お聞き。私はねえ……」
 夢見心地に、ベッドのなかでアキラ少年は耳を澄ました……。
 「私にはお腹に大きな傷があります。十年ほども前のこと、私は夫とふたり、うちの銃器室へいたとき、夫が立てかけてあった猟銃の手入れをなさっていたところをあやまって暴発させて、その銃口の向けられていた先にはちょうど私の、この腹がありました……夫も私も、その猟銃に弾は込められていないものとばかり思っていましたけれど、じつはそうではなくそこにはきちんと弾が入っていたのでした。空砲ではなかったのでした。あれは雨のそぼ降る夜のことでした。……私は夫に撃たれ長椅子をばったり床へと倒れ伏したきり気を失ってしまいました。そのあいだに私は病院へとかつぎこまれて大手術を受けました……目が覚めたとき、私は外科病棟のとある一室の寝台の上におりました。仰向いたまま白い天井を見上げて、それから自分の腹を見ました……手術の痕が……弾を抜かれたあとの傷痕が……そこには残っておりました。見るも無残に、ありあり残っておりました。すてきに大きな裂け目のような……ぱっくりあいた悲劇の傷痕が……」
 「マダム……? マダム……僕、存じております。マダムのお腹に、そんなような傷痕が……今も残っていらっしゃることは」
 「ええ、坊や。そうね。そう……そのことはもう以前にお話しましたね。……私の腹に傷が残ってからというもの夫はすっかりふさぎこんでしまいました。ちょうど初夏の長雨のように、じめじめとした陰鬱な人になってしまいました。そしてうちへ長くいられないようになり、私のそばにいられないようになり、しきりに私を避けてほかの場所へと出かけてゆくようになりました。その出先にお楽しみをこさえるようになりました。そんな夫をうちで見送る、私の失ったもの……二度と私のもとへ還らぬもの……あの人は私からそれを奪い去ったきり私から逃げているのです……あわれな人。ふびんな人。私に会わす顔がないのねえ」
 マダムは少し身じろぎした。アキラ少年を肩から抱き寄せると、レースのふち飾りに彼のこめかみが触れた。
 「そんなわけですから、私も、もう夫のそばにいようと思わなくなりました。夫が妻を愛し敬う気持ちを捨ててしまったように、私も夫を支え、愛し、敬う妻としての気持ちを捨て、生活をやり直し新しい人生を始めるため長い長い葛藤のすえとうとう世界をめぐる旅へと出発したのです、あの日、船に乗って……」
 横浜から? ……夢見るようにアキラ少年は胸の奥底でつぶやいた。坊主頭の少年の凛とした面立ちが脳裏をかすった。あの少年は言っていた、俺が一等はじめだった……。
 「夫が私から奪ったものは、私の純潔と貞淑と、名誉だけではありませんでした。私の腹は傷物となりましたが、私はそれは別にいいのです。だってもともとここはねえ、坊や、そうなる予定だったのですから。けれどもそれは、私がほんとうなら得られるはずだった幸福、家庭の愛……女に生まれついたがゆえの女としての一生の幸せ……それらと引き換えに付けられる傷と思うからこそ、よかったのです。ですからその予定を私はよろこんで許し、その日を心待ちに待っていたのです、雨の日も晴れの日も……吐き苦しいときも身体じゅうが重たくてしようのないときも……。けれども……けれども夫はそれらの幸せもすべて奪ってゆきました。ああ坊や……私には、私が思っていたのとはまったくちがう、何の価値も意味もよろこびも持たない、みにくい傷痕だけが残されました。私は何も得られずに……新しい愛も幸福も、何も知らされないままに私が……私が手術台の上で麻酔を打たれて眠っているあいだにあの子は……あの子は……」
 「マダム。どうされたのですか……マダム……?」
 「ああ、坊や。私の坊や……かわいい、かわいい私の愛。私の……」
 感極まったような声はかすかに震えていた。はっとしてアキラ少年がうかがうと、卓上ライトの微光に照らされ、青ざめた唇がふるふるわなないている。水膜を張ったようにうるんだ瞳は腹へとそそがれ、灯影に揺らめいている。
 マダムはその腹をぞろりとなでた。それから急にほほえみ、また少し身じろぎすると、化粧着のリボンへと手を伸ばしそれをほどいた。大きくあいた胸もとのレースのふち飾りが鎖骨からまっぷたつに割れ、黒いシルクの布がマダム自身の両手によって左右に押し広げられていく。合間にマダムの乳白色の肉体がのぞいている。
 アキラ少年はあっけにとられて、マダムが化粧着を脱いでゆくのを見ていた。何が起きているのか理解が追いついていない、そのあいだにマダムはするするとその肌をあらわにしていく。ふっくらとした豊潤な二の腕に、あふれんばかりのふたつの乳房――ほの暗い灯りにぼろりとさらけ出されて――マダムの呼吸に合わせて妖しく上下左右に、紅梅色の先端が小さな生き物のようにひくつきながら動いていた。
 婦人の裸などじっくり見る機会もない、あるいは見ていたとしても記憶にとどめていないアキラ少年は、ただただあっけにとられて裸同然の姿となったマダムを視界に大写しにしていた。今やマダムの半身は化粧着の漆黒の布がわずかにその両肩を覆うばかり、それもほとんど落ちかかっている。だがマダムは恥じらうどころか隠そうとするそぶりもなく、まるで当然のように横目にアキラ少年をいちべつすると、へそのあたりから下半身へとかぶさっているあざやかな緋の掛け物をつかんだ。
 「ご覧、坊や。……」マダムは優しく言いかけた。
 掛け物が取り払われた。マダムのへそから下がむき出しになった……アキラ少年はマダムの腹を、下腹部をななめに見下ろした。するとそこにあった縦一線の、そこだけ肉の盛り上がっている縫い痕……一度、腹を切りひらき、割れていた肉がふたたび癒着してゆくために残る痛々しい……生々しい……まごうことない外科手術の跡が彼の目をとらえた。
 しかしその跡は、確かに大きな手術痕ではあったが、アキラ少年が無意識に想定していたほどの異形ではなかった。マダムが言ったようにぱっくり裂けたまま残っているではなくちゃんと傷口はふさがっている。確かに不自然に隆起している患部の肉はマダムが受けたその傷の深刻さを物語っており悲劇を彷彿とさせるが、けれど……けれどやはり……それはそれなりの大手術を経たあとに得る相応の傷痕の枠を出てはいない……強いて嫌悪したりおびえたりするほどの痕では……何しろ実弾をくらったのだから……と、それを見た瞬間のアキラ少年は漠然と思った。
 ……けれども。けれどもそれでは腑に落ちない。マダムの腹の傷の話があったとき、七人の少年が見せたあの蒼白の表情、あれは……?
 「さわってごらん」そのときマダムがささやいた。アキラ少年は我に返ってマダムと目を合わせた。
 「傷痕がよく分かるでしょう、坊や。さわってごらんなさい、さあ」
 彼はぼんやりとマダムの首から胸、そして腹へとあらためて視線を移したが、思い出したかのごとくすさまじい緊張に見舞われ石像のようにその場に固まった。激しい動揺と羞恥が身体じゅうをめぐると、心臓がやたらに吹く汽笛のように鳴っている。
 「さあ、坊や。さわってごらん。お前の好きなように」
 「い……いいえマダム、僕には……僕にはできません、僕には」
 「私はお前に触れてみてほしいのよ。この私のみにくい傷痕に、私はお前にこそ触れてみてほしいのです。お前でなくてはならないのです」
 「でも……でも」
 「坊や。いい子ねえ。いい子だから、さあ早く……」
 マダムはクッションに深々ともたれた身をわずかにのけぞらした。垂直の亀裂の入った下腹部をアキラ少年のほうへ向け、恥から何からかなぐり捨てた媚態を放ち、ほほえんだ。
 「い……いいえマダム。いけない。いけないのです僕は……僕は……」アキラ少年はひとり言のように口のなかでもぐもぐとなえた。今さららしく顔を赤らめ半ば懇願の体で首を左右に振ったが、息づいたように上下に動くマダムの裸身とその曲線から目を離せないうち、彼は自分の奥深くからこみ上げる衝動にすぐにこらえきれなくなった。
 目に見えて手が、指が震えていた。マダムの腹へひっそり伸ばすとその震えはさらにひどくなったが、彼はまばたきするのも忘れ慎重に、かろうじて我を保ち、そこの隆起した傷痕に指の腹で触れた。
 そこだけ硬い皮膚だった。アキラ少年が触れると、マダムはほうと吐息をつき、そのまま好きに触れてみるよう彼をうながしますます深く、長々とその裸身をクッションへ沈め、微笑のうちに目を閉じた。
 アキラ少年は傷痕を指でなぞってみた。ざらざらとあらい感触がする。ほかはどこもなめらかなマダムの素肌とだいぶ様相を異にしている、まるで動物の皮のようなさわり心地がする。なぞりながら押してみると電撃を受けたようにぴくっと腹は動いた。びっくりしてアキラ少年は指を引っこめた。とても悪いような申し訳ない気持ちがした。「あ……あの」彼は言った。
 「ごめんなさい。……い、痛みましたでしょうか? マダム……」
 「いいえ。いいえ、ちっとも。……すてきよ……」
 マダムは目をつむったまま、ゆっくりとかぶりを振った。
 「さあ坊や、もっと触れてやってちょうだい、お前の思うまま……続けてちょうだい、さあ……私にお前を、なでさせてちょうだい」
 と腕を伸ばし手さぐりにアキラ少年の頭を捕らえ、頬を捕らえた。とがった爪先が彼を甘く刺激すると彼は一瞬それに反応し、すると自制の力が、あらがう力がみるみる萎えた。この事態をだれに見つかってもどう思われようと、どうでもよくなってしまった。
 マダムが脚の位置を変え、膝が持ち上がった。掛け物がまたずり落ちた。アキラ少年はふいの気なしにそのほうを見たが、たちまち耳まで火のように熱くした。なまめかしい白の肢体が灯影に映っている。やわらかいだろう、と思わせる。
 あまり耳慣れない息がアキラ少年に聞こえているあいだ、彼は放心していたが、その指はしきりにマダムの下腹部を行き来している。窓外の三日月の些細な光さえ彼にまぶしい。
 「ああ……」やがてマダムが、声とも息ともとれない音を上げた。
 「坊や。……恐ろしい傷痕ねえ?」
 ややあって、アキラ少年はかすれ声に答えた。
 「いいえ……いいえ、僕には……恐ろしくありません」
 「ああ、坊や。けれどもお前は知らないのです。この恐ろしい傷痕……この運命の、悲劇の傷痕はねえ、坊や。お前が今そうして愛の手で触れている私のこの傷痕はねえ……私ひとりが受けた傷ではなかったのです」
 「え……?」
 「ああ、そうなのです、坊や……私は……夫が私をあやまって撃ったとき、私は……私は身重だったのです。十月十日も過ぎた臨月だったのです。もうあといくばくかで生まれるというときだったのです。ですけれど夫が撃った弾……あの猟銃の弾は私と……私のこの腹と……そのなかに息づいていた赤ん坊に命中しました」
 「あ……赤ん坊」
 「ああ、そうなのよ、坊や。手術を受けて私は生き延びました。けれども赤ん坊は助かりませんでした。私の腹が切りひらかれたときにはとっくに死んでしまっていたのです。蘇生はとても無理なことだったのです。弾は私の腹へ当たり、その腹のなかでまんまるく眠っていたかわいい、かわいい赤ん坊の小さな腹を突き破ってその子を殺しました。夫は自分の子を……ご自分の種をご自分で撃ち殺し、私の新たな幸福を、新たな愛を根こそぎ奪ってゆきました。……赤ん坊は男の子でした。この世に生を受けることなく、まだこの世を見ないうちに私の腹のなかで息絶えてしまったかわいそうな子でした。ああ、坊や……お前が触れているその傷……その内側から引きずり出されてきた私の……緒のつながったまま……私の死んだ血まみれの、愛しい愛しい赤ん坊……」
 やおら声を震わせ、マダムは腹上にあったアキラ少年の手首をつかんだ。アキラ少年は傷痕を凝視したまま無言だった。頬は洋紙より白く、唇は青ざめ紫に近かった。彼はマダムの下腹部の縦一線に盛り上がった肉が、その薄茶色い隆起に沿って突然ぱっくりと裂け、なかから血と体液とに濡れた赤子の凄惨な死体が彼のへその緒の母体とつながったまま、外科手術用の手袋をはめた医者によって取り上げられているさまを、自身のまぶたの裏に茫然と見ていた。
 マダムはアキラ少年の手首を放さず彼のてのひらごと傷痕へ押しつけた。彼の手からは力が抜けていたが無理やりそこへなでつけた。ふふふと妙な低い声で笑いながら、
 「坊や……お前にこの傷痕を愛してもらうよろこび……それはとっても言葉には尽くせないのよ。お前のような坊やが、その産声を上げることさえかなわなかった赤子の最期の死に場所をこうしてなぜている、そんな坊やを私がこうして一心に見つめている、そのよろこびが坊やには分かるかしら」
 「…………」
 「ああ。坊やにはとっても想像がつかないでしょう、腹に宿した子を自らの夫に銃殺されたと病院の寝台ではじめて気づかされたときの私のたとえようもないおどろき……悶絶に等しい痛み……そして始まった深い苦しみとかなしみの終わらぬ連鎖……ああ。けれどもお前はこの船で、そんな悪魔の連鎖を断ち切り私を癒してくれました。つかの間の夢……船上の夢……太平洋より広く真夏の宵より熱い、とろけるような八月の夢を、私に見さしてくれました。さあ坊や……お前に分かるかしら」
 「…………」
 「おいで。お前を強く抱きしめてやりましょう、坊や。愛してやりましょう。母親に死なれたお前にこそ、この私の行き場のない愛は伝えることができるのです。教えてやることができるのです。私が腹を撃たれたのはもう十年ほども昔の話……そのとき死なれた私の赤ん坊……その子はもし生きていたら、ああ坊や、今ごろにはちょうどお前と同じ年くらいの立派な男の子に成長しているはずでした。私のかわいい、はじめての息子……かわいい、かわいいはじめての……ああ坊や、私はその子をうしないました。その子は私が愛する前に、私の手の決して届かぬところへ連れ去られてしまいました。けれども私にはお前がいます。ああ、そうよ。坊や……そうなのです、この船では……この船ではお前が私の……私の愛するたったひとりの、かわいいかわいい息子なのです。坊や、私の子……さあおいで。さあ――」
 クッションから背を起こすと、マダムは茫然と傷痕を見下ろしていたアキラ少年を両腕に抱きしめた。抱きしめられるがまま、アキラ少年は上体をぐらりとマダムへかたむけベッドに両足を投げ出し、尻をついた。婦人の腕とは思えぬすさまじい力が、彼の首から腹から、全身に絡みついていた。
 「あすにはお別れだなんてさみしいわねえ。ああ、ほんとうに。お前はまだ私の愛を十分に受けていないというのに、ねえ? いけませんよ……私を置いて船へ残るというのなら、私はこのひと晩をかけて、お前を心づくしに愛してやりたいのですよ、坊や……私の子……いい子ねえ」
 「マダム。マダム、ちがいます。僕……僕は……貴女の子では」
 舌がもつれ彼は軽く咳きこんだ。だがマダムはそれに気づかなかったのか、かえって強くアキラ少年を背中から抱きしめ直すとその顔を横からのぞく。
 彼の間近に、らんらんと光る瞳が凄彩を帯びていた。アキラ少年は咳きこむのも忘れ、ぴくっと喉を鳴らすと言葉をのむ。
 マダムはお母さん。お母さんはマダム。けれどマダムはお母さんじゃない、ほんとうは……この船だけでは私の息子。たったひとりの……死んだ息子の……肩代わり? アキラ少年はぐるぐると思考をめぐらせながら背中に密着しているマダムの豊満な、嘘のようにやわらかな肉の厚みに身体の奥底をうずかせた。絞めつけられて苦しかったが、得も言われぬ耐えがたい心地よさだった。マダムはアキラ少年の頬にキスをし、手を握ると抱きかかえ、それは母親が赤子をあやすとき、寝かしつけるときの姿と似ていた。
 「この船では、お前のために張っているのです」
 マダムはささやき、彼のひたいにキスを落とし髪をなでた。
 熱病患者のような目で、アキラ少年はぼうとマダムを見上げた。はじめマダムが何のことを言ったのか理解できなかったが、彼は自身にマダムの胸の膨らみが押しつけられ、自分の顔が今や遅しとそれに飲みこまれそうになっているのに気づくと瞬間的に、声にならない声を上げた。悲鳴のような……そしてマダムから離れようとしたがいくら身をよじってもその白い腕から抜け出せない。マダムはアキラ少年を押しつぶしてしまいそうなすさまじい力で抱きしめ、上体を揺すり上げた。汗のにじんでいた彼の前髪をかき分け、なでつけ、自身のむき出しの乳房をその口もとへ近づけていく。
 暗がりに慣れた彼の夜目に、濡れたようなマダムの微笑が映っていた。真に迫った魅惑のまなざしの目尻にしわが刻まれ、そばのほくろがあいだに埋もれてつぶれている。アキラ少年はあまりのことと、その羞恥と恐怖とに指先をけいれんさせた。
 「さあ、いい子。怖がらないのよ……お前はきょうも忙しそうだったわ、おなかがすいているでしょう」
 彼は必死にかぶりを振った。が、ふたつの大きな膨らみ――わずかな湿り気を含んだ――その先端のひとつが頬につと触れた瞬間それもできなくなった。
 「いいえ、お前はおなかがすいているのです。けれど私の坊やはいい子ですから、ぐずったり、泣いたりしないでもちゃんとそのことを私に伝えられるのです、自分が空腹だということ……ここが欲しいということ」
 「…………」
 「さあ坊や、おあがり。私がずっとこうしていてあげますからね。坊やのおなかがいっぱいになったら、私と一緒に眠りましょう……ああ、なんてかわいい子なのでしょう? 私の坊や。好きなだけおあがりなさい」
 顔じゅうに朱を走らせたアキラ少年は声の出ないまま涙目だった。許しを請うようにマダムを見上げたが涙に視界はうるみ、揺らぎ、そこにはマダムのつやめくほほえみと暗い天井ばかりが映っている。
 いけない。こんなことは……彼は必死に抱かれているマダムの胸もとから跳ね起きようとするがかなわなかった。もがくほどマダムのなかに、その肉と肉の狭間にうずもれ戻れなくなる気がした。たまらず彼は手でそこを押さえた。だがそのとき彼のてのひらが得た感触……彼の耳の膜がとらえたようにも彼が思った、そこへ降りかかったマダムの切ない吐息……マダムは少し困ったように笑うと、どこへともなく彼に触れる……。
 身を焼くような快感がアキラ少年を突き上げた。彼はとっさにマダムにしがみつき、乳房をつかむと無我夢中にひと言呼んだが、それは「マダム」だったのか「お母さん」だったのか、あるいはちがう言葉だったのか彼にも聞こえなかった。彼は目を閉じた……上気した全身をマダムがなでている。時折、耳にささやかれる言葉はあきらかに赤子に対する幼児語でそのたび彼は赤くなったが、セーラーが乱れボタンはいくつか取れていることにも気づかず、はじめて知る吸いつくような、味のない餅菓子のような舌ざわりに我をなくしていた。あけはなたれたカーテンの向こうに三日月が小さく浮かんでいる……なんの物音もないが、息苦しそうにかすかにあえぐアキラ少年の呼吸……それに重なるマダムの高らかな笑い声……それらはひどく窓ガラスをたたき、ベッドの支柱をあるとき振動させ……アキラ少年を戦慄させた。脳を電撃がつらぬいた。この世のものではないような甘い刺激に指をめりこませ、彼の瞳から涙がひと筋、静かにつたった……。
 と、そのときだった。空気がごく一瞬動いたかと思うと、それは大きな音となって室内に突如響いた。
 アキラ少年は息が止まるほどおどろいた。マダムの温かな腕のなかで、まどろむように彼はそのときマダムの胸に額をすり寄せていたが、意識をすくわれふっと目を上げると顔を離した。真新しい涙のあとが頬に残っていた。
 「マダム。……?」
 呼びかけたのは、ひらかれた出入り口の扉から足を踏み入れた、海藻頭の少年だった。アキラ少年がそちらを見やると、あとに続いて入ってきた六人の少年の頭が、暗がりへ差しこんだ廊下の灯りで分かった。
 だれかが扉を閉めた。ふたたび室内が暗くなった。恐ろしい沈黙。……静寂がつかの間、流れた。
 「マダム!」
 マルセイユの少年が小さく叫んだ。フランス語で続けて何か言ったようだがアキラ少年には解せなかった。
 アキラ少年は、身に着けていたものなどすべて脱ぎ捨てていたマダムの両腕に抱かれたまま、しばし考えることもできずただ少年たちを眺めた。彼らの表情は部屋の暗さにうかがい知ることができない、が、マダムを見据える坊主頭の少年が放つ眼光のするどさ……月よりも青白く澄んでいる冴えざえとした力強さ……それだけはアキラ少年にもはっきり見えた。彼は自身のこの姿がとても恥ずかしいものに感じられて思わず目をそらす。
 少年たちが次々呼んだ。「マダム……」小声に、それぞれちがったイントネーションで、そしてその呼びかけにはいくつもの感情が入り混じっていた。
 「マダム。貴女は、俺を……」
 地の底から響かせるように、最後に坊主頭の少年が呼んだ。
 マダムは掛け物で身を覆うそぶりもなく胸もとのアキラ少年を優しくなで、少年たちの見つめる前で堂々と抱きしめた。猫を愛撫するように彼の顎下をすう……となぞり、わざとらしく玉の汗をすくい取ると、その手に指輪が光っている。
 「あら、まあ。……」マダムは低く笑って、アキラ少年へ言った。
 「いけない子。お前は扉の内鍵を閉めなかったの? あら、あら。鍵をかけるよう、私はお前がここへ来たときお前に頼んだはずですよ。今夜だけではありません。いつも私はそうするようお前に頼むでしょう」
 アキラ少年は返事をしなかった。
 「まあ、坊や。どうしたの。こんなに震えてしまって……いい子ねえ。さあ、おいで。まあ、まあ。さっきまであんなに熱くしていたのを、もうこんなに冷やしてしまってねえ、かわいそうに。私がもういっぺん熱くしてあげましょうね。一緒にあたたまりましょうねえ」
 「マダム――!」マルセイユの少年がさえぎった。
 「おい、よせ……」上海とメルボルンからのふたりが英語で制したがマルセイユの少年は一歩、二歩、三歩とよろめきながら進み出て、
 「マダム、私……貴女を……忘れられません。貴女は、私の……ママ……愛してる……どうか……どうか私にも……愛……愛をくださいませ。私は……この仕打ち。……耐えられない……」
 とやるせない声を震わしてがくりと膝を折り、力尽きたふうにベッドに取りすがった。ブロンドのふさふさとした髪毛が落ちかかり、宝玉のようなブルーの瞳いっぱいに涙がたまっていた。
 それがはじめだった。三日月の光を背負い、マルセイユの少年がベッドに顔を伏せ恥じいったようにすすり泣き始めると、その姿ににわかにうたれたかシスコからの少年が扉のそばから飛び出してきて、
 「僕も、同じ、同じですマダム。彼と同じ気持ち」
  I can never forget you……つぶやくと、その小柄な身体をマルセイユの少年に寄り添わせ、懇願のまなざしでマダムを見上げ、うつむき、また見上げているうち今度はケープの少年が靴音高くベッドの反対側の端へと迷いなく近づいた。その場に仁王立ちとなって両こぶしを握り、マダムを見つめる目の奥にはあかあかと燃えたぎる純粋の恨み……嫉妬がちらついていた。にもかかわらず愛の言葉を短く言うと、華奢な膝をベッドに乗り上げさして迫ろうとする、そのはす向かいには先刻マルセイユの少年を制したはずの、上海とメルボルンの少年ふたりが互いに肩を並べ支柱に手をかけ、どちらも切羽詰まった表情を浮かべて青くなっている。Can’t give you up, madame, never……腹から絞り出したような、悲愴の漂う切ない声がどちらかから聞こえた。
 アキラ少年はまったく動けず、声ひとつ立てられずにこの信じがたい光景を見ていた。何も考えられない頭を空白にしたまま、自身を抱くマダムの周囲を取りかこんだ少年たちのやや速まっていく不安定な息づかい……マルセイユの美少年のむせび泣き……どくどくと大量の血液を送り出して脈打つ自分の心臓……を聞いていた。
 ……と、彼らの集まるベッドへひとり、静かに歩みを進めて、マダムとアキラ少年の直線上に立ちはだかったのは坊主頭の少年。硬く唇を結び、仲間の少年たちとアキラ少年とを代わる代わる眺めていたが、やがていからした両肩でふうと息をついた。やりきれない苦悶の表情に切なさをにじませ、マダムを見つめて、
 「俺たちをこうさしたのは貴女です」
 と宣言した。そして目の色を変え、「もう戻れない。……」とつぶやいて黙った。
 室内にはそれからしばらくのあいだ、マルセイユの少年の弱々しい泣き声だけが響いていた。だれも動かない……アキラ少年をゆっくりとなで続けるマダムをのぞいてはだれひとり……マダムはその目にアキラ少年のほか何も映ってはいないかのように、ベッドの中央で他人事らしく彼を抱いていた……が、やがて顔を上げ周りをぐるりと見渡した。自身をかこむ少年たちを順々にうち眺め、窓外の三日月に目を細め、乳房のあいだに顔を隠すかのように首を垂れて静止しているアキラ少年を最後に見下げると、ふいにおかしくなったように笑いだした。
 「まあ、まあ。まあ……」
 と肩を揺すり、また笑う。その声は次第に高く長く、調子はずれに、耳ざわりになっていく。
 「困ったわねえ。お前たちはほんとうに……困った子ねえ。いけない子ねえ……」
 と楽しそうに、うれしそうに、興に乗ったふうにマダムは身を震わしてひとり笑い続けていたが、やがてとうとう笑い疲れたように目に浮かんでいた涙を指でぬぐうと、「分かりました」と言った。
 「お前たちの気持ちはようく伝わりました……すっかり分かってしまいました。そしてその気持ちは私を感激させました。……ああ、私はまちがっていたのかもしれません、時には……このすてきな夜を……このすばらしい月夜を大勢で過ごすのも悪くないじゃありませんか……お別れしてきた私の……ああ、過去のかわいい、かわいい、いとしの息子。今夜限りもう一度……お前たちを抱きしめたって罰は当たらないじゃありませんか……」
 マダムは腕のなかのアキラ少年を見た。「坊や……」と優しくその身を乳房から引き離し、
 「さあ、坊や。ちょっと行って、鍵を。扉の内鍵をかけておいでなさい」
 と命じた。アキラ少年がうつむいたまま反応せずぐずぐずしているのを見てとると、顎を持ち上げて接吻し、甘ったるい口調で同じことを命じた。「はい、マダム……」彼は答えて顔をそむけ、マルセイユとシスコの少年の脇をすり抜けてベッドを下り、ぐらつく足腰を奮い立たせて黙々と床を踏みしめる、と、背後でマダムが言った。
 「さあ、お前たち。おいで……さあ、私の坊やたち」
 まぎれもない、それは魔性のささやきだった。もてあそんで飼い捨てる、全員がそうと分かっていた。
 「お前たちの愛を、私に伝えてちょうだい……ああ、私の坊やたち……」
 マダムが裸身を深々とクッションへ預け、両腕を上げ、乳白の素肌に腹部の傷痕、重力に引かれてこぼれるあられもない無防備な嬌態をさらしたのが、振り返らずともアキラ少年には見えた。
 寸暇の静止。泣き声が消え……呼吸と、衣服と掛け物とが互いにすれ合う音が天蓋に反響を始めた。
 アキラ少年は立っている足に力が抜け、膝からくず折れかけた。だがその肩をだれかにつかまれ、うつろな目を向けると坊主頭の少年が自分を支えている……そして底光りする熱いまなざしでアキラ少年をとらえ、決意を秘めた動作に扉のほうへと強く肩を押した。押されるがままに彼は扉へふらふら向かう。
 頭が痛かった。考えようとしても考えられない……マダムは鍵をかけろと言う、しかしこれをかけたのち自分はどうなってしまうのか? ほかの少年……犠牲者……みんなは? 扉の前まで来たとき、アキラ少年は逡巡した。生唾をのみこみ、内鍵の留め具へと伸ばしかけた手を止めた。
 身も心もマダムに惑わされ、取りこまれて遊ばれている自分……あすにはマダムは船を下り、自分は捨てられる。新たな船と、新たな少年と引き換えにされる。あの女は博多からまた別の航路を旅してゆくのだろう、そこでふたたび餌食が生まれる、孤児の少年が……優しくされて愛されて、快感を教えられて、あげくまた捨てられる。
 あす……マダムが降りてゆくそのとき、自分はどうするつもりなのだろう? 安堵して、晴ればれとした気分で見送ることができるのか? マダムのすべてに別れを告げ、すべてを忘れ、過去に葬り去ることができるのか? マダムを忘れる。それができずにマダムを追いかけここまで来た少年が七人までいるというのに? 彼らは船乗りであることをやめ、マダムが行く先々で、その船代と旅費のために警官の目をかいくぐり、危険を冒してマダムに追いすがり……自分がそんなあわれな少年の八人目にならない保証はどこにもない。このままこの鍵をかけてしまったら。アキラ少年は思った。もしこの鍵をかけて背後のベッドへ戻ったら、自分も彼らのようになるのではないか? あすマダムとともに自ら、慣れ親しんだこの船を下りてマダムのあとを追い始めるのではないか? かなわぬ夢と知っていて。愛されるのは今夜限りと知っていて……刻まれたあの快感、あの曲線、あのやわらかさはあすからは得られないと分かっていて、それでも。
 だったら……だったら、どうすればいい? それでもいいと鍵をかけるか? そうして天蓋の下で皆に加わり欲望のままマダムにおぼれ朝を迎えるか、それとも……。アキラ少年は内鍵ではなく、その上部に付いている取っ手に触れた。
 それとも、今すぐこの部屋を出ていくべきではないのか? 自分は七人の少年のようにはならない、なりたくない、船乗りである誇りと別れて破滅の道を歩みたくはない。だったら自分だけでも出てゆけば……。そのときアキラ少年に突如、思い出すものがあった。機関長。今時分も起きて機関室で子分の兄貴たちを大笑しながら叱咤しているだろう、奈落の底に棲む親方に言われたことが閃光となってひらめき、燦然と火花を散らした。
 いいか……堕ちるだけ堕ちてみろ。苦しめられてみろ……痛めつけられてみろ。そうしたら恨みをぶっつけてこい。目ん玉ひんむいて身ぐるみはいでやれ……それぐらいの粋を見せろ。気概を見せろ。
 怖がるこたあねえ、坊主……分かるな?
 アキラ少年は震えていた。取っ手にかけた指がぶるぶる震えている。見ひらいた目でそこを凝視し、はじけ飛ぶ火花のきらめきを、触手を伸ばして暴れ回る灼熱の炎を想っていた……と、震える彼の手をだれかが握った。
 アキラ少年はゆらりと顔を向けた。海藻頭の少年がそばに立って、アキラ少年の手をつかんでいた。いつの間に隣へ来たのか、それともずっとここにいたのか。強い力。輝く瞳。だが冷たい手をしていた。
 出てゆかせてはくれないのか。すべてもう遅いのか? アキラ少年が瞬間的な絶望を得たとき、海藻頭の少年はアキラ少年の手を握ったまま、おもむろに自身のシャツの懐中をさぐった。そしてそこにのぞいた、アキラ少年のほうへ向け、短刀の柄を示した。太い柄。鈍色の。海藻頭の少年はそれをわずかに持ち上げ、背後を気にする目つきにまたすぐふところへ戻し、アキラ少年へぴったり身を寄せると顔を近づけた。
 ふたりの少年はいっとき、心をかよわせるふうに見つめ合った。どちらも蒼白だった……だがアキラ少年は悟った。坊主頭の少年に肩をつかまれたとき、こちらを見たまなざしにあった底光りする熱いもの……マルセイユとシスコの少年が一方を、ケープの少年がもう一方を、上海とメルボルンの少年が残る最後の一方を占めベッドにマダムをまるで追い詰めるかのように、逃げ場を断つかのように取りかこんだこと……「内鍵をかけろ」と命じられたアキラ少年が自失状態にあり足もとがおぼつかないのを、まるでそうなるのを見越していたかのように坊主頭の少年が支えて扉へと送り出し……いざ鍵をかけるか迷うアキラ少年の手を、今こうして海藻頭の少年が握っている。強く。無言に。輝く瞳を寄せて……それらすべてに含まれた意図をアキラ少年は悟った。
 感涙にむせぶマダムの嬌声が響いた。くぐもった吐息が立て続けに上がった。歓喜に耐えかねたような、言葉でない何かがベッドのきしみに合わせて甘い音楽を作っている。
 「マダム。……」
 坊主頭の少年が呼んだ。きしみが大きくなる。
 扉の前、アキラ少年と海藻頭の少年は目を見交わせた。うなずき合った。
 アキラ少年は無表情になると取っ手を放し、厳重に内鍵をかけた。
 これでいい。これでだれも入っては来られない。
 海藻頭の少年とともに泰然とベッドを振り向いた彼に、親方の声が遠く低く反響している、夜空へ吹き上げる汽笛のように……いざとなったら持ってこい。野郎どもにも手伝わしてやれ。
 ここには邪魔なもんを片っ端から放りこめる、おあつらえ向きがふたつもある……カマへぶちこむでも海へ放り投げるでもいい。
 俺は黙っていてやる……いいなあ、坊主よ……。
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