第七章 神を葬る

文字数 17,300文字

第七章 神を葬る

   Ⅰ

 夜の残滓のように、浴槽の奥に溜まっていたにごり湯を流し終えてしまうと、バグナード商会従業員の、それぞれの朝が始まる。
 ケセルがいなくなった「効果」は、徐々に現れている。
「違和感が薄れつつある」とジェイスは言った。彼が従業員に与えている給与・休暇の「八割がたしか満足していないように見えた」という。
 ケセルは給与の内五分ほどを、〔共益費〕という名目で掠め取り、アルカディアに送金していた。バグナード商会の業務と偽り、アルカディアの覆面会社が受けた仕事を時間外や休日に行わせもしていた。
「よく考えれば単純な図式なのに、その不満の行き先が雇い主に向けられれば、『革命』なんて仰々しく呼ばれるのだろう。だが暴力の根源なんて、単純なものだ」
「『与えるだけで満足するな』と、あいつの親父さんたちも言っていたよ」
 不公平感が積み重なれば怒りの葡萄が実る。茨にも似た葡萄は刑法で押さえつけてもきりなく生えてくる。
「雑草を生やさない心構えは数あるが、一つ目は、『ごまかさない』こと。就業規則や労働契約書との差異は感じ取られ、不満として蓄積されていく。
 二つ目は「特別扱い」だ。雇う側は雇われる側を平等に扱わねばならない。それは理屈では承知している。だが雇い主が「酒を一杯ずつふるまってくれる」「一声かけてくれる」など、「自分に特別に目をかけてくれる」と「錯覚」することで、多少の不満の芽は勝手に枯れてしまう。
「でも、それだけではケセルやウェンナのような外乱には対抗できなかった。だからボクたちという異分子をぶつけた」
「おかげで不良分子は去った。マロスにはもとの風呂炊きに戻ってもらう。君たちにはふさわしい席を用意した。ヴァディル、君は経理部門に抜擢する。リンナァ、君は警備部。こそ泥が多いから退屈はしないだろう。アウェーダ、君は新しい女中頭だ」
「青いですわね、若いの!」
「嬉しいねえ、今年で三十なんだけど、そんなに若くみえるかな」
「さっさと嫁さんもらうといいミャ」
「そうだねえ。騒々しいのは嫌だから、エリザベスと結婚しようかな」
「発想が危ない上に話がずれてきている。アウェーダ、若旦那の尻以外のどこが青いの?」
「これでも、あなたがたの十倍の職場を渡り歩いてきましたわ。それだけ、様々な人間も見てきた。あのウェンナという女中、尋常ではありませんわ。風呂場に押し入ったときのあの両眼の色、形相、肩の張り、単に恨みに突き動かされたものではなかった。まるで……。悪鬼のようなものにとりつかれたような」
「他の男に貢いでたんじゃないの」
「ホストに入れあげてたんだミャ」
「フッ、所詮は虫と猫の子孫。考えが下衆ですわね」
「安っぽい紙表紙のホモ小説を夢中で読んでいる女に言われたかないね」
「女中同士で回し読みしてたミャ。お友達ができてよかったでござんすね」
「わっわたくしはあの文体に隠された高いゲージツ性を――ッ!」
「あー君の性癖の話は後でいいから、アウェーダ君」
 話を脱線させた主犯になってしまったアウェーダだが、「いいから続けろや」という視線に促され、続けた。
「保安の役人には届けたよ。ウェンナは、もうこの町で顔を出しては歩けないよ。それとも、誰か他のやつを使って暗殺に再挑戦する?」
「その可能性もありますわ」
「他には?」
「非合法組織の対立の場合、互いの幹部を下っ端に狙わせますわ。企業と使用人たちの組合が対立している場合なら、経営側の家族を誘拐する――。でも、どうもピンと決ませんわ」
「年だけ食って頼りないやつだミャ」
「前例が多すぎて、的が絞れないだけですわ」
「じゃあ、絞らせればいいんだよ。若旦那、もう少しこの職場に居させてもらうよ。ただし、屋敷の中を自由に歩かせてもらえばありがたい」

 数週間ほど、バグナード商会の中は穏やかな空気が流れた。ウェンナの存在は新しい女中と入れ替わるように忘れられていった。
 給与や休暇への不満がなくなったからか、従業員の話題は賭博や、その夜に酒を飲む店の話から、結婚や生まれてくる子供、さらにその将来、貯蓄や保険の話に移っていった。心と懐にゆとりが出ると、人は未来を考えるようになる。未来にかける金と時間を、人は投資と呼ぶ。健全な投資は経済を活性化させ、さらに多くの雇用とゆとりを生み出す。
「原始的な古い宗教では一部の神職が、世襲で権力を独占していた。すべてを神の支配のもとに置こうとしていた。だから経済の発展、文化の発展、学問の発展を嫌った。形が何であれ、自分たちより秀でているものの存在は、神職にとって都合が悪かったからだ」
「フロスト教の連中はちっとは頭を使ったようだミャ。『流通を盛んにして人を豊かにすることは神の意志に沿う善行である』と、言ってのけたミャ」
「そのおかげで経済は発展。ご丁寧にも『貧しき者への奉仕は神の御心に叶う』という注釈まで添えて、おかげで貧富の差も放置状態よりはいささか縮まっている」
 昼下がりにかしましく弁当を食べている三人だったが、そこでエリザベスがつぶやいた。
「キリスト教の焼き直し。キリスト教の教会は自らも乳製品やワインを造って売り、皇帝に働きかけて、無税にした。宗教団体の枠を超え、権益を独占する団体となっていた」
「聞き慣れない宗派だねえ。で、それだけ貯め込んで奉仕して、崇める神はどんなご利益をもたらせてくれたんだい?」
「少なくとも人類が滅びる際には何もしてくれなかった。むしろ同時に滅んだ」
「ふ、どんな宗教であれ同じか。労務倒産(経営の悪化ではなく、後継者不在や従業員不足により事業を継続できなくなった状態)だみたいだ」
 ヴァディルはジェイスに頼まれたと言って、家屋内を自由にあるきまわり、聞きまわっていた。塀に脆い箇所はないか。複数ある裏木戸にちゃんと鍵はかけられるか。ケセルが消えた今、複数ある金庫や沽券をを管理しているのは誰か。業者を装って出入りする者はいないか。
 アウェーダは女中に混じり、勤めていた頃のウェンナの様子を聞いた。一言で括れば、「ケセルに貢がせておきながら、ウェンナの私服は粗末なままだったようですわ。香水もつけず、私服の持ち合わせも少なかった。休みの日に買い物に付き合おうとはしないのに、暇さえあれば、急き立てられるようにどこかに出かけていた。まるで、他の職場に出勤するように」
 リンナァは猫のような足取りで、「おつかい」と称して屋敷の内外を気まぐれに散策した。半分は散歩、半分は、屋敷の周囲を伺う怪しい輩の発見である。本人たちは気づいていないが、余程手練の盗賊でない限り、塀の外から間取りを図ったり手掛かり足がかりになりそうな木の枝を物色すれば、人相に現れるものだ。それらのいかがわしい物を気取られぬよう尾行し、本当にただの「盗賊」らしき者の場合は保安官に通報した。

 そうして、また一週間後の深夜。
 バグナード商会の建屋には、息を殺して蠢く複数の人影があった。ある者は倉庫の奥から、ある者は停めてある荷馬車の奥から、ある者は仮眠室から。
(来たか)
 ジェイスを追い出し、代わりに部屋の布団にくるまっていたヴァディルは「気配」を感じ、杖を握った。
 バグナード商会を取り巻く「気配」から、襲撃してくるなら今夜だという確信を得ていたのである。
 ――ところが、だ。
 潮が引くより早く、煙のように気配はすっと消えた。
 リンナァたちに「今夜、動きがあるよ」と堂々宣言していたヴァディルは、彼女たちに突っつかれながら朝を迎えた。
「神騎士とやらの『勘』のおかげで随分引っ張り回されたミャ」
「無駄に徹夜させた貸しは、しっかり利子つけて返してもらいましょか」
 獣人と竜人に左右から突っつかれ、「おかしいこんなはずじゃ」と繰り返すヴァディルだったが……。ジェイスにまで「月末だってのに、半休までもらった従業員たちが大喜びしていたよ」と嫌味を言われる始末だった。
「誰かが、飛び込んできた」
 エリザベスが、不意にそう告げた。
 気配から、たしかに小遣い走りらしきものが飛び込んできたのは確かだった。だが、いつもと「重さ」が違う。日常というナの池に投げ込まれた報せという石が大きく、比例した波が広がっていくのがわかった。
「参ったね」
 ジェイスが、頭をかきながら、本当に困った顔を隠さずに言った。
「うちの船が沈められた」

 他の企業同様、陸路だけでなく海路からも、バグナード商会は多くの荷物を取り扱っている。その一隻がつい今朝方、沈められたというのだ。
「よう、でかしたもんだミャ。お前さんの読みは見事的中ミャ」
「的は外れましたけどね」
 リンナァとアウェーダの皮肉は、的確にヴァディルの痛いところを突っついた。
 ジェイスは食堂に集められるだけの従業員を集め、説明を始めた。朝一番に飛び込んできたのは人間の伝令ではなく、鳩だった。バグナード商会の船に一羽ずつ持たせている伝書鳩だ。
 足環には、まさに船の断末魔ともいうべき「最後の叫び」が収められていた。
「書かれていることを、ありのまま読もう」

 やつはいきなり現れた。「兆し」を見せる嵐でさえ、律義に見えるほどだった。
「やつ」というのは、竜だ。言っておくけど俺は十五歳の見習いだ。酒の飲み過ぎや寝不足でイカれているわけじゃない。船乗りの見間違いや、詐欺師の儲け話なんかじゃない。朝焼けを映す海面から、竜がいきなり、鎌首をもたげたんだ。
 なんで竜がここにいるのかって? そうだよな。書いている俺でさえわからない。いたとしても、こいつらは俺たち人間には、無頓着なはずだ。卵を割ってもいないし、鱗に触ってもいない。
 だったらなんで、こいつは現れた? 盗み寝でも貪ろうかともくろんでいた、心地いい昼下がりにだ。
 しかも竜は、手足になる子分を引き連れていた。畳んでいた翼が開くと、その影から、わらわらと人間が現れた。奇妙な被り物をしているが、こいつらは竜の子なんかじゃなく、ただの「人」だってのはわかった。でも理由はわからない。悪魔と契約でもしたってのか? 
 中でも凶悪な、魔がついたように強いやつがいた。竜の首を駆け上がると俺たちの船に飛び移り……。
 短い槍みたいな武器で、一直線に、船長を突き殺した。詩人だったら、〔黒い疾風〕でも歌っただろうか。正直、このときは賊にちょっとだけ感謝したんだ。この船長、商会には黙って内職をしていた。つまり出かけた先で、俺たち水夫の居住区に、こっそりと他の積荷を積み込んで、勝手に寄港地で売りさばいていた。なにせ腕周りは俺の三倍、腹回りは五倍はある巨漢だったから、誰も逆らえなかったんだ。
 とにかく、船で一番の強者があっけなく殺されたんだ。誰も抵抗しようなんて輩は誰もいない。その黒い疾風に続いて、竜の子分みたいな連中がわらわらと乗船してきた。ぶっとい刀を振り回して、船員を残らず、舷側に立たせた。そして刀で脅して、残さず海に飛び込ませた。樽の隙間から覗いてみると、やつら、次々と船の積荷を方に担いで竜に戻っていっている。
 空樽で震えながらこれを書いている俺も、いずれは見つかるだろう。たのんだぜ相棒。

 ジェイスの声が震えているのは字が震えているからか、あるいは怒りか、恐怖か。
「この中から、海に落とされたという水夫たちの消息をたどる者を選びたい。そして、それとは別に募りたいのが……」
 ジェイスはぐるりと一同を見回した。
「竜を倒す勇者だ」

   Ⅱ
 
「お前さんが同族キラーとは思わなかったミャ」
 一週間後。
 ジェイスが用意した囮の交易船で、ヴァディルたちは舷側から釣り竿を垂らしていた。
「ん、いいね。またヤノイオが釣れた。スリサズがまだ存在していたら、ボクは今頃大富豪だ」
 ヴァディルは、本日十匹目の釣果をあげた。
 船員を集め、空の荷を手配し、偽の航海計画を提出する――。この世界に竜は存在するが、ジェイスは自分の船が竜の逆鱗とやらに触れたなどとは信じなかった。
 出港前ぎりぎりになって、少しだけ良い報せと、悪い報せが飛び込んできたからだ。
「海に叩き落とされた船員たちだが、全員なんとか無事。潮流が弱かった海域だったのが幸いした。近くの島に泳ぎ着いて、通りがかった船に助けられた。干物になる寸前だが、出された食事を平らげて、水も酒もガブガブ飲んでいるそうだ」
「で、もう一方の福音は?」
「取引停止のお知らせだ。一方的なものだがね」
 悪い報せというのはケセルとウェンナの関係の一部を明らかにするものだった。船員無事の報とほぼ同時に届けられたのは、長ったらしい脅迫状だった。
「ケセルはウェンナに貢いでいたが、ウェンナが貢いでいたのは、〔アルカディア〕だ」
「聞いたことがあるよ。アラベスク原理派の一派だろう」
「アルカディアの言い分はこうだ。『唯一神の言葉を具現化する我が教団は、貴社と良好な関係を続けてきた』……。要するに、うちが喜捨したってことになってるんだ――。『しかしながらこの所、貴社の喜捨は滞っている。我々はやむなく、神の国への扉を維持するべく、喜捨を徴収するものとする』」
「『やむなく』ってのは暴徒の常套文句だねえ。だから船から積荷を強奪すると」
「テロリストってのはまあよくもこう屁理屈を考えるもんだミャ」
「後ろめたさの裏返しでしょう」
「そのとおり。屁理屈をごねてはいるが、要するにただの賊だ。やつらを騙して釣り上げてほしい」

 穏やかで飄々とした口調だが、積荷の中身を聞かせてもらうと、彼がアルカディアに喧嘩を売るというのは本気のようだった。
 役所に届け出た書類には、「陶石」と記してあったが、実際は火薬だ。ヴァディルたちの他に唯一人、船を出す真の目的を聞かされている船長に、導火線が委ねられている。
「いざとなりゃ、竜を道連れに自爆しろってわけだ」
「タイミングを間違えたら仲良く木っ端微塵だミャ」
「本物の竜が、たかだか二十t程度の爆薬で死ぬもんですか」
 アウェーダが物騒なことを口走ったが、その言葉をヴァディルはひっくり返して受け取った。
「つまり、本物の竜ではないと」
「木っ端みたいな人間の一団と取引するメリットが、どう考えても見つかりませんわ」
 人間同士なら金銭の授受とか領土の切り売りがあるだろう。だが竜と人とでは価値の概念が違う。
「偽物だとしたら、正体は?」
「わたくしの故郷を滅ぼした鉄の船があったでしょう。あれに類するものか……」
「間が抜けているミャ。今の人類に、あの鋼鉄の塊を、獣の形に加工する技術は無いミャ」
「だったら木彫りで、ゴムでも巻いてスクリューに結びつけたかねえ」
「この前の展覧会で蒸気機関てぇものがあったけど、あんなもんまだ玩具だミャ」
 航海に出て三日目。
 通り掛かる船もおらず、海も穏やか。暑くも寒くもない、適度な曇天。積荷を奪うなら絶好の条件だというのに、竜とやらは未だ姿を現さない。
「しかし、入れ知恵をする奴がいれば話は別。鉄を加工しなくとも、抜け道みたいなやり方があるのかもしれない」
「ハーミットかミャ? だとしたら、どんだけ知恵の実を持ってるんだミャ」
「そうかしら」
 アウェーダが、珍しく嫌味っぽい顔をした。
「知恵も技術も人類が自らの手で獲得したものよ。悪魔の化身がある時持ってきたわけじゃない。最初に神がいたわけじゃない。最初から現在まで、存在していたのは人類だけよ。都合の悪い事を実在しない存在に押し付けると、数千年後の自分たちに笑われるわよ」
「それまで、最後の審判が来なけりゃいいねえ」

 マストに上っていた見張りの水夫が合図を送ったので、ヴァディルは船尾に向かった。
「……あれはなんて種類の樹木だい?」
「さあ。持ち帰って博物館に売っぱらってやるかミャ」
 ヴァディルが杖を構える。
 船尾から見えたのは、船を追いかけてくる「枝」と「茂み」だった。その枝ぶりに、ヴァディルは見覚えがあるような気がしたが。
 ヴァディルたちの船は追い風を受け、毎時十五ノットは出ている。それにじわじわと追いついているのだから、最低でも二十ノット。あの木の枝が潮力のような自然の力でなく、何らかの動力で動いているをことは疑いようがない。
「乗組員に合図を。全員、退船用意」
 そして――。
 そいつはとうとう、鎌首をもたげた。
 ぎりぎり、ぎりぎりという軋み音とともに、海中からゆっくりと長い首が持ち上がる。角をはやした先頭の形状は、確かに、竜の頭部だ。
 首がつながる胴体も半分だけ浮上する。全身を覆うは濃緑色の鱗。
 だが本物を見たことのあるヴァディルとリンナァは、たちどころにそれが「作り物」だと見抜いた。何らかの原理で推進し、何らかの仕掛けで動いてはいるが、生物ではない、ぜんまい仕掛けの人形の動きだった。
 威嚇のためだろうか。首と同じ音を鳴らし、背中に翼が広がる。その内側の鱗がぱっかりと開くと、例の記録どおり、人間たちが現れた。
 黒い服面に黒い衣装。手には、細い剣を握っている。竜の子を模しているのか、頭には小さい角の細工までつけていた。
「だっせえ」「なんか変な乗り物だけど、あれがアルカディアだろ」と憎まれ口をたたきつつ、船員たちは海に飛び込んだ。用意周到に、手にはコルクを打ち付けた板を抱えている。
「神の名において、奉仕を徴収する!」
 アルカディアの兵士を率いる兵長と思しき、一番背の高い兵士が叫んだ。
「さて、神を守るわけじゃないけれど、久々に本業に戻りますか」
 ヴァディルが杖を構えた。
「やれやれ。ちょいとバカンスに出たつもりが、なんでこんなことにつきあわされるんだミャ」
 リンナァが、普段は隠している爪を出した。
「あなたの先取りマリッジブルーなんぞどうでもいいですわ。重要なのは、我が竜族の名誉。不細工な像を作った罪、贖ってもらいましょう」
 アウェーダは、固めた拳をポキポキ鳴らす。
「あたし、そもそも関係ないんだけど……」
 エリザベスが迷惑そうにぼやいた。

 兵長は、自らの相手をヴァディル一人に決めたのか、彼女と相対して部下たちはリンナァに充てた。
「ほう、サブキャラ扱いかミャ。あとで根拠を質してやるミャ」
 襲いかかる刃に臆さず、懐深く瞬時に入り、急所に一撃を見舞う。すかさず爪で神経ごと肉を刳り、長続きする激痛を与えて戦意を奪う。
「あとで、替えの衣装は用意していただくわよ」
 アウェーダとエリザベスは、刃に打たれるままにしていた。打っても打っても、服は刻まれるのに体には傷一つつかない。刃こぼれした剣は捨てられ、腰に提げていた二本目に持ち替えられる。脂で切れ味が鈍ったときの替刃だが、この場合は全く意味がなかった。
「お疲れ様」
 刃も力も尽きた相手の首を掴み、アウェーダは海中へと放り投げる。
 二人が一方的な暴行を加えているのに対し、ヴァディルは隊長らしき男と、武器を交えていた。ヴァディルの杖に対し、短く切った槍。
(でも、ヴァディルの構えにそっくりだミャ)
 仮面兵士たちをあしらいながら、リンナァは二人の相対を見ていた。
 黙ってお見合いをしているわけではない。渾身の一撃を互いの急所に打ち込むべく、火花が散りそうなほどに互いの武器を奔らせ、噛み合わせている。躱しそこねれば背を突き破ってもおかしくないほどの鋭さだ。
 にも、かかわらず。
 輪舞曲(ロンド)でも踊っているような艶やかさを、リンナァは二人から感じ取っていた。
(なんでか、バーデムを思い出したミャ)
 疑問が少しずつ苛立ちに変わる。近接戦では分が悪いと悟ったか、仮面兵士たちはリンナァたちの間合いの中に入ろうとしないまま、いやらしく周囲をぐるぐると回っていた。
 兵士の一人が、リンナァたちに剣を投げた。
ひょいと躱すが、剣はぼちゃりと海に落ちなかった。柄に黒く細い縄が結びつけてあり、兵士は剣を再び手繰り寄せ、またリンナァに投げつけた。
「最後の剣かミャ」
 だったら取り上げれば逃げ出すだろうと、リンナァは飛んできた剣の、柄を掴んだ。
 剣を失ったはずの兵士が、左手をまっすぐ上げた。
(合図?)
「リンナァ、その剣を放しなさい!」
 不覚だった。エリザベスの声が届き、理解する前に、リンナァ手から足へと、見えない毒蛇が駆け抜けた。
(な、んだ、ミャア……?)
 へなへなと力が抜け、その場にへたり込んでしまうリンナァ。
 見れば、柄に結びつけてある縄は兵士の足元から舷側を伝い、別の兵士が抱える箱に伸びていた。少し感触が硬い縄は、細くしなやかな銅の線を編んだものだった。
 兵士は、箱の上蓋の取っ手を合図とともに押し込んだのだった。
「マタタビの粉末でも嗅がされましたの?」
「アウェーダ、不用心に歩み寄らないで――って、言わんこっちゃない」
 投擲された剣を不用心に掴んだアウェーダも、腰が抜けたようにへたり込んだ。
「こ、この感じ……」
 目を白黒させながら、アウェーダは記憶を探っていた。
「思い出しましたわ。五百年前、嵐の夜に海面から頭を出していたら、稲妻が角に落ちて……。その感覚にそっくり」
 ぼーっと立っていたエリザベスも、胴体に錘を巻きつけられた。同様に伸びた線の先にある箱のレバーが下げられると、ばたりと倒れた。
   Ⅲ

「ボクの愛する親友たちに、いったい何をした?」
 リンナァは体の芯から力が抜けた。
「我らが主から授かった知恵。神の雷を封じ込めた箱だ」
 ヴァディルの問いかけに、彼女が相手をしている兵士は、仮面に覆われていない部分で嘲笑した。
「気味の悪いやつだっ!」
 ヴァディルは飛び道具を使った。といっても弓や火器ではない。兵士の死角から忍び寄っていたディカオンが、その頭部へと襲いかかり、仮面を剥ぎ取ったのだ。
「お前っ?」
 驚いたのは、ヴァディルよりもリンナァだった。
 仮面の下で、さらに仮面のような表情をしていたのは――。
「ルーグ!?
 ヴァディルは、眼の前の事実を噛みしめるように、呟いた。
「なにぼーっとしてるミャ、ヴァディル! 訊くんだミャ! 今までどこに居たんだとか、なんでそこに居るんだとか」
 唯一自由に動く口を、リンナァはヴァディルの分まで動かした。
「神は秩序なり。反逆者どもよ、頭を垂れるがよい」
「君らしくもない。まるで誰かが書いた三文オペラの台本を読まされているような口ぶりじゃないか、ルーグ」
「我らこそ真の神騎士なり。反逆者に死を。神に栄光を!」
「スリサズとともに滅びたと思っていたけれど……」
 ヴァディルは、懐から短剣のような刃を取りだし、杖の先端にねじ込んだ。
「言うまでもないよね。これはとっておきだ。頭の芯、骨の髄まで狂った思想に侵されてしまった、〔救い難い輩〕を神の審判に委ねるためのね」
「すでにアラベスクの神に、この命は捧げている。恐れるものはない!」
「強盗の理由付けに、神様を引き合いに出すなよ!」
 不安定な舷側で、ヴァディルとルーグは文字通り、切っ先で火花を飛ばした。
「見物していないんでお立ちなさいな、猫娘!」
「お前だって、足がふらついてるミャ」
 リンナァを引っ張り上げるため、彼女の手首を強く握っていたのが仇になった。アウェーダの左手首、ついで右手首に錘が巻き付いた。錘と、兵士が抱える箱を結びつけているものは、やはり編んだ銅線だ。
 鉱山の発破のように、兵士たちはレバーを下げる。下げるたびに、アウェーダの体を稲妻が貫く。力と、気力を奪っていく。
 それでも立っていられるのは、竜ならではの生命力ゆえか。兵士たちは何度も何度も、拷問のようにレバーを下げた。
「やめろ……無理して立つなミャ。心臓まで止まったらどうするミャ。ヴァディル、そんなやつの相手してないで、とっとと助けるミャ」
 あいにくこちらも手一杯だ、と答える余裕すら、ヴァディルにはないようだった。
 釣り上げられたばかりの魚のように、アウェーダの体がビクン、ビクンと跳ねる。そのたびに弱まっていく鼓動を、リンナァの耳は聞き取っている。
 そして……。
 鼓動の停止と同時に、アウェーダは目を見開いたまま、倒れた。
「立つミャ! 立つのだミャ、アウェーダ。でないとアタシが葬式出さなきゃならないミャ。あれって知り合いに通知出したり知り合いに受付頼んだり、通夜ぶるまいの用意したり香典泥棒見張ったりで、けっこう大変なんだミャ!」
 母を亡くしてからの一週間を思い出し、リンナァは絶叫した。

 フフフ、という笑い声を、リンナァは確かに聞いた。
(あなたの泣きっ面、初めて拝見いたしましたわ)
「アウェーダ?」
 はっと顔をあげるリンナァだったが、彼女の耳はうごめいていない。
(お礼を言っておきましょうか。心配してくださったあなたに、そして――)
「こいつ、直接脳内に……ッ!?
 アウェーダの体が、奇妙な色に染まる。潰える寸前の線香花火、かと思いきや、ほどなく、生まれたばかりの星の色と言われる、まばゆく青白い光に代わった。
 
 五十トンはあろう樫の木の塊が、紙細工のように砕ける。砕け、囮の積荷であった「木くず」と区別がつかないほどに、粉々になった。船があった痕跡は、波に浮かぶ白い帆だけになった。
 ヴァディルとともに義翅に乗って旅立った朝を、リンナァは思い出していた。彼女の眼下には、水平に海が広がっている。隣にいるエリザベスと一まとめにされ、巨大な腕に握られていた。
 ざらざらというか、ごつごつというか。獣の皮に近い感触だったが、その手は強く、優しい。
(私の本来の姿を思い出せてくれた、あなた方に!)
 黄金の角を生やした、黒い竜。
 本来の姿を取り戻したアウェーダが、翼を広げ、歓喜の叫びを上げている。
 ヴァディルとルーグはというと、彼女の長い首の上で、格闘を続けていた。
 ゴォッ、ゴォオオオオオッ!
 人とも、獣ともつかない叫びとともに、アルカディアの竜めがけ急降下する。
 背に跨ると、リンナァはぐぇっ」と短く呻いた。アルカディアの竜は大きく悲鳴を上げた。声ではなく、体全体を軋ませた。
(これ、木ですわね)
 巨木を彫って黒く塗っただけの「玩具」を、アウェーダは手荒く扱った。首の付け根を右手だけで掴むと、二の腕の筋肉を隆起させ、一気に引っこ抜いた。
 海中に身を投じ、首が刺さっていた穴に腕を突っ込むと、高々と持ち上げる。
(中身、空洞ですわね)
 翼の付け根には内部に通じる穴があったが、腕も足もない。
「こいつは、神霊樹だミャ」
 リンナァは、ルーグとの死闘に勤しんでいるヴァディルを見やり、呟いた。
「太さから見て、あいつらの故郷――スリサズの。海に落ちた幹を拾って、中身をくり抜いたんだミャ」
(では、どういう仕掛けで?)
 その問いには、エリザベスが答えた。
「すべての植物は、吸い上げた水を葉から蒸散させて、根から水を吸い上げている。神霊樹は折れてもなお、その力が残っていた。根本を船首に、枝葉を船尾にして加工すれば、船首から船尾へと水が吸い込まれ、推進力になる。内部に水車を作れば他の動力源にもなる」
(どう始末するか、あの二人に訊きたいところですけど)
「構わないミャ。アウェーダ、こいつを壊すミャ」
(いいんですの? 断りもなしに)
「ヴァディルなら、そうするミャ」
 それもそうですわねとアウェーダは頷き、神霊樹でできた彫り物の竜を、高く、天へと放り投げた。
 神霊樹があれば、スリサズを再生できるかもしれない。
 淡い希望を残しておく方が残酷だ。強靭な根、豊かに茂る枝葉がなければ空には浮けない。土も保持できない。幹と、わずかな枝葉が残っていても、この神霊樹はしょせん亡骸。国民が生き返るわけでもない。木の、島大陸のゾンビだ。
 太陽を隠すほどに高く投げられた船が、やがて真っ直ぐに、落ちてくる。
(ふん!)
 アウェーダの尾の一振りで、船は砕けた。
 その反動で、ヴァディルとルーグは海に落下。しかし、二人揃って波に浮かぶ木板に足を着いた。
「フウ……」
「スウ……」
 合わせるような呼吸を伴い、二人は鏡写しのように、それぞれの得物を構えた。
 リンナァたちだけではない。海に落ちた船員たちも、アルカディアの兵士たちも、二人の決着を見守っている。
 どぉんと、大波がぶつかり合って吠えた直後。
 二人は互いの刃を、互いに突き入れた。
「ぬ……」
「ぐうう……」
 二人の刃は、互いの胸元に、深く刺さっている。
 鏡写しのように仰向けに倒れると同時に、血の筋を引いて刃は抜けた。

   Ⅳ

「お前も心臓に悪い真似をするミャ。あと一寸、右に逸れていたら心臓に達していたミャ」
 二週間後。ヴァディルは、抜糸を終えた。出血も思いの外少なく、応急手当で病院に担ぎ込まれたのだった。
「ああ、その点は大丈夫。太い血管や臓器は外すよう、ルーグと打ち合わせていたからね」
「……」
「……」
「……」
 リンナァとアウェーダ、ついでにエリザベスまで、目が点になった。
「おい、今なんて言ったミャ?」
「ルーグがナウシズにいることは知っていたからね。互いに小遣い走りを使って連絡を取り合ってたんだよ。傍目からは本気の殺し合いに見える『型』を演じて、最後は急所を外して相打ちになろうってね。あいつはアルカディアの兵士長にのし上がる。そしてボクと相打ちになれば、連中はしばらく大人しくなる。君たちが腰を抜かしたあの『道具』、エレキテルというらしい。ハーミットが連中に与えた技術の一つでね。これで刺激を与えたら、アウェーダもひょっとしたら竜の姿に戻れるんじゃないかと思ったんだね。さすが、曲がりなりにも雑誌記者のところには情報が集まるよ。別の場所で、同じように元の姿に戻れなくなった竜人が、たまたま落雷を受けたら竜に戻れたんだってきいたかウギャーッ!?
 気配を消して影のようにヴァディルの背後に回り込んだリンナァは、おもむろに彼女の両腕を掴んで脚で脚を固め、ゴロンと寝転がって格闘技で言うところの[吊り天井]を極めていた。
「グギャアァアァアァッ痛い痛い塞がったばかりの傷が開くっ。死の淵から蘇ったばかりの怪我人に何やってんのっ?」
「やかましい。あの時、アタシの寿命が何百年縮んだと思ってるミャ? アウェーダ、エリザベス。思い知らせるミャ!」
「ツンツン」
「つんつん」
「グヒャハハハハ。ミギャー! 死ぬ死ぬなんで二人してボクの笑いのツボ知ってるのさやめてほんと死ぬ」
「死ぬがいいミャ! 騙した罰ミャ」
「騙しちゃいない。黙っていただけ」
「何故だミャ?」
「その方が面白い顔いただけると思いまして」
「やっぱりこの場で死ぬがいいミャー。本当に腹の立つ、性根がひん曲がった上にエロエロな娘だミャッ。ウブを装って、しっかり男と逢引してたミャッ」
「誤解誤解合い挽きって何、ハンバーグでも作るの? 君が思ってることはまだやらないから」
「まだってことはいつかやる気満々だミャ。エロエロミャ。本当にイヤらしい娘だミャ!」

 ヴァディルがちょっと痛いスキンシップをとっている頃、ルーグは、チョップスと対峙していた。
「こんな真っ昼間っから不用心だぞ。顔を見られていたらどうする」
「その心配はねえよ。仕事は終わった。話にもならねえ。アルカディアってのは、クズの集まりだ。そこに信仰なんかねえ。『いい仕事がある』って集められて企業に構成員を潜り込ませて金をせびりとる、寄生虫だ」
「違う!」
 チョップスは、机を叩いた。怒りのあまり、重なっていた書類が散乱した。
「アルカディアは神の言葉を具現化する正義の集団だ。金持ちから奪った金を労働者に分配する。欲と保心に塗れた政治家に天誅を下す。革命だ! 革命のための資金が必要なのだ!」
 チョップスの両眼はルーグではなく、天井を向けられていた。彼に目もくれず、ルーグはかくしてあるおやつでも物色するように、編集室をうろつきまわった。
 なんの兆しもなく、彼は手を閃かせた。
 鈍く光る短剣が飛んだのは、チョップスの足元だ。短剣は、紙の束を貫くていた。
 チョップスの高らかな演説をそのまま続けさせ、ルーグは彼の足元の短剣を、抜いた。
 紙の束の影には、腹を貫かれ、動けずにいる小動物がいた。
「『ディカオン』とかいったか。なるほど、ヴァディルにつきまとってるやつとそっくりだ」
 ヴァディルが伴っているものとは別の「ディカオン」が、そこにうずくまっている。傷口から見えるのは、たしかに内臓だ。だがルーグはディカオンに、「とどめ」を刺し、完全に動かなくなってから拾い上げ、傷口を引き裂いた。
「よくできている。血みたいなものも流れるが、温かくも臭くもねえ。この内臓も偽物だな」
「なんだ、そいつは……?」
 今、目覚めたばかりのように、チョップスはルーグをみやった。
「悪夢を見せる使い魔、といった方がいいかね。編集長、あんた俺がレポートを送っていたのに、いつからか返事をよこさなくなったな? それからだろう。こいつがあんたに、悪い夢を見させていらしい。アルカディアを率いているのも、きっと同じように頭をおかしくされているんだろう。そしてあんたにも、革命とやらを助長させる記事を書かせるつもりだったんだ」

 傷が七割がた癒えたヴァディルは、ナウシズからも遠く離れた南の果て、氷の大陸に居た。
 アルカディアは、あのあとちょっかいを出してこなくなった。その業績を認められ、ジェイスはヴァディルたちに船を与えてくれた。
「信じられんミャ。なんでこんな場所がこの世に存在してるんだミャ」
 ミノムシみたいに毛皮を着込んだリンナァは、歯をガチガチ鳴らしている。
 暖流で海が凍らず、風も比較的落ち着いている航路は、アウェーダが探してくれた。「勘」を取り戻したというか、彼女は竜には戻れるようになったが、あの雷なみの衝撃を瞑想する必要があった。一時間ほど音と光を謝絶し、眠るように座っている。これが意外と苦痛とのこと。

 一面の氷原。
 ヴァディルたちとは反対の方から、近づいてくる人影。
 エリザベスが「ここ」と指し示す地点で、彼女たちは足を止めた。
「やあ元気にマスコミやってたかい、ルーグ?」
「経営のためとはいえ、しょーもない記事に紛れさせて政治家や資産家のゴシップを仕込むのはたまんねえよ」
 ヴァディルたちは、ジェイスに手配してもラチャ爆薬を仕掛け、導火線を引いた。
「じゃ、発破行くよ」
 レバーを押し込み、氷を爆破。
 大音響を伴って氷が吹き飛んだあとの穴の底に、ヴァディルたちは降りていった。
 氷の底に眠っていたのは、男の死体だった。
 硝子の柩は鍵もかかっておらず、あっけなく開いた。体に傷はなく、病気で死んだと伺える。半分禿げた頭皮にはしみがあり、体つきも貧相だ。無地の寝間着のほうが高級に見えるほどだった。
 ヴァディルたちは男の死体を引きずり出し、丸太のように引きずっていった。
「こいつが、ハーミットか?」
「そうだ」
 ルーグに、ヴァディルが答えた。
 ハーミットが葬られているこの地を突き止めるのは、遠回りであるが、簡単だった。
 自身が書いたシナリオ通りにこの世を操りたいと思うのは、要は自分が神になりたいだけの話だ。仕掛けが大掛かりなだけで、青少年向けの読み物に何度も出てくる、卑小な悪役にすぎなかった。
「治せない病か、あるいは寿命か。こいつは生き延びるのを諦めて、半分死んだんだろう」
 エリザベスはそれを「冷凍睡眠」と説明した。
「神の子が復活したように、こいつも、誰かに『復活』させてもらえる日を期待して眠りについたわけだな」
「自分の意識の分身を、どこかに残してね」
 理屈がわかれば操るのはたやすい。
「この世界の出来事を予言する書がどこかにある」「その書を手に入れれば権力も財力も自由自在」
 そんな噂を流した。正しくは、「流れていることを装った」。
 ヴァディルはそのための資金をジェイスに無心した。情報を操るため、ルーグは弱みを握ったチョップスに頼んだ。複数の人を雇い、ハーミットを「新たなる教典を記した預言者」として崇める、架空の団体を出現させた。
 観客は、ハーミットが放った「使い魔」だ。
「教祖様を崇めよ」「教祖様を祀るのだ」「この世界の何処かに眠り、復活の日を待ち望んているというぞ」
 エリザベスは「ハーミットの思考を複写した記憶回路」と言っていた。目鼻となるその使い魔を通じ、ハーミットの残留思念ともいうべき回路とやらを、ヴァディルたちは詐術にかけた。自分を崇める教団が出現したと錯覚させたのだ。
 そしてハーミットはみごと引っかかり、自分の「使徒」の一人に「天啓」を与えた。自分の遺体を掘り起こさせ、崇めさせるためだ。
「頭は良かったんだろうな。工房というか、たくさんの研究機材に囲まれた、限られた空間の中では優等生だったんだろう」
「だが奴は、外の世界を知らなかった。人は人を騙す。金のためなら一芝居打つ。この氷原も、なるほど維持費もかからない、半永久的な要塞だったが、あいつの心の鎧は薄かった。あっけなくひっぺがせた」
 ヴァディルは、天を見上げた。
「この世界のどこかでボクたちを見ているハーミットの残留思念とやら、今から君を殺す。戻る体のない、死ぬこともかなわない精神だけのまま、地団駄踏み続けるといい」
 ルーグは、今や愛用の得物となった槍を、ハーミットの遺体に突きつけた。
「シークアと、両親と、その他スリサズの人々の仇だ」
 だがルーグは、突き立てかけた刃を止めた。
「ヴァディル、お前もだ」
「君に譲るよ」
「お前の両親も、こいつの犠牲者だ」
「たしかにね」
 フロスト教の教義では「恨みを捨てよ。汝に仇なす敵も愛せ」とある。だがヴァディルも、ルーグも、教えには従うつもりはない。
 許せないものは、許せない。これまでも無辜の人々を殺めたし、許してしまえばハーミットは罪を重ねるだろう。
「リンナァ、アウェーダ。いいのかい、君たちの故郷を滅ぼしたのも、こいつなんだけど」
「まだ滅びてないミャ」
「初めての共同作業にお邪魔虫するほど野暮ではありませんわ」
「たしかに。相手が相手とはいえ、よってたかって殺すのは格好が悪い」
 ほら、と、ヴァディルは無造作に、槍を握るルーグの手に自分の手を重ねた。
「年寄りの死体じゃなくて、ケーキでも切りたかったぜ」
「なにがケーキだよ。オクリシュみたいな甘いものは苦手だっただろ」
「甘くねえなあ」
 二人は、ハーミットの冷たい胸に、穂先を突き立てた。
 体液まで凍っているのか、血は出ない。人形を突き刺すような感触だ。
 十分に血管や臓器を切り刻んだところで、二人は処刑を終えた。
 ハーミットの死体を海に流すと、ヴァディルは尋ねた。
「どうして邪魔をしなかったんだい?」
 エリザベスの裾に隠れていたディカオンが、ひょいと顔をのぞかせた。
「こっちが先に訊きたい。どうして僕を破壊しない?」
 ディカオンが喋っても、ヴァディルたちは一切驚きを表さなかった。頭蓋の形も体の大きさも違うこの「小動物」が人間の発声を行うこと自体不可能だ。おそらく、別の発声器官があるのだろう。
「質問返しだ。お前こそ、どうしてボクたちの小芝居を本当の飼い主に報告しなかったんだい?」
「我々の役割はハーミットの『天啓』を伝えることだ。逆はない」
「君たちにとっては、親の仇になるんだぜ」
「君たちは使い捨ての画用紙や絵の具に、いちいち肉親の情を抱くのか? その逆も然りだ」
「質問を変える。ボクたちの側にいながら、なぜ『天啓』とやらを吹き込まなかった?」
「お前たち新人類の進化、文明の発達度に対応するために、僕たちにはある程度の自立思考機能がある。生い立ちや人間関係、職業から、天啓を聞かせる相手を選ぶ。お前たちは該当しなかった。お前たち三人は、たとい〔夢のお告げ〕であっても鵜呑みにせず、自分で判断する。ハーミットが忌避するタイプだ」
「聞いたかい、リンナァ、アウェーダ」
「アタシたちは年寄り並みに頑固らしいミャ」
「ああそうだ。ルーグから聞いたけど、お前の兄弟は、世界に何匹いるんだ?」
「識別用のコードは十六ビットだ。僕自身全員に会ったことはないが、ざっと勘定すれば六万だな」
「やれやれ、六万通りの自称〔神の使い〕ですか……」
 数万年生きているアウェーダも、いささかうんざりする兄弟数のようだ。
「でも、お前のさっきの言葉で確信したよ。これからもハーミットに、世の中が自分の思い通りにならないことを伝えてもらう。地団駄を踏む姿を、想像させてもらう。世の中が二度と戻れぬほどに舵を切ったとき、ハーミットという神は死ぬ」
 ヴァディルとルーグは一視線を交わすと?互いに鏡写しのようにくるりと踵を返し、もと来た方に歩きだした。
「待つミャ!」
 慌てたのはリンナァだ。
「お前何でこっちに来るミャ。彼氏(オトコ)の所に行けミャ」
「いいんだよ。天啓とやらを受けた輩を探すには、二人で分かれたほうがいいって、話し合ったんだ」
「無理してバカ言ってるミャ。復讐が終わる前にお前の婚期が畢るミャ。お前の体も心も、あいつを求めてるんだミャ。その証拠に……」
「ああ本当。こんな極地で顔が真っ赤になってますわ」
 アウェーダが無言のヴァディルの顔をのぞき込んだ。
「うっるさいなあ。十年間男としてやってきて、いきなり女になれってのが無理なんだよ」
「嘘だミャ。お前、あの男と会うときは体の線が丸くなるミャ」
「グヘヘヘへ体は正直よのう、ですわね」
 アウェーダまでもがゲスな顔でニヤついていた。エリザベスまでもが彼女なりにゲスな顔を真似ようとしている。
「いやらしい女ミャ。メスの臭いがプンプンするミャ。心身ともに健全な痴女だミ……。痛い痛いミャ耳の後ろの毛を引っ張るんじゃないミャ!」

 別れる直前。
 ルーグはヴァディルに、尋ねた。
「これからどこへ行く、ヴァディル」
「作りものでない、本物の神の思し召しのままに、さ」

               ―了―


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登場人物紹介

ヴァディル・イストリア

浮遊大陸スリサズで〔神騎士〕になるべく修行する少女だが、性別を男と偽っている。本来、自在に空を飛べる〔鳥人〕だが、幼い頃に両親と亡命してきて以来、背中の翅は失われている。身を寄せる商会の一人息子であるルーグとは修行仲間。想いを寄せられていることも、とっくに女性だとばれていることにも全く気づいていない。ネーミングは〔クォ・ヴァディス〕から。

シークア・イェークストルム

ヴァディルが師事する師匠の妹。幼い頃かルーグに想いを寄せているが、彼の扱いはぞんざい極まりない。ちなみにネーミングは某北欧女子マンガ家から。

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