第一章 蝶と浮島

文字数 16,049文字

第一章 蝶と浮島

   Ⅰ

 はるか上方の土の塊を陵辱するが如く、そそり立つ巨大な男根。51cmの直径を持つ砲身の勃起を、ヴァディル・イストリアは見上げていた。
 幼さが残る顔を、母親譲りだなと同門たちは揶揄する。肩に担ぐは長さ一m十cm、直径三cmの木の棒。父親譲りの栗毛色の髪が、島大陸スリサズの高度五百mに吹く風に揺れている。
 巨砲が狙いを定めるは、斜め上方五十kmにある土と岩の塊。アラベスク教の原点回帰を標榜する狂信的原理集団〔イズライール〕により支配された浮遊島大陸の一つだった。
 島大陸の端には、命乞いをする人がブラシの毛のようにうごめいている。蟷螂の斧よろしく、時代遅れの銃器や弓で抵抗する兵士たちもいる。放たれる弾丸や矢は、距離のために力を失い、スリサズにはまともに届かず、人に害為す力を失いへろへろと落ちるのみであった。
 下から迫る絶対的な鉄槌に、抵抗は無意味。一縷の望みを託し、絶壁から飛び降りる人々。逃げようとする人々を、背後から兵士たちが撃っている。逃がすくらいであれば道連れにするというわけだ。
 砲弾が放たれると、 音響が津波となって見物人たちに押し寄せた。
「イズライールは絶対悪。己の狂信を絶対正義とし、他派との共存を否定する。少年をさらって兵士とし、民族浄化と嘯いて少女を犯す。支配地拡大を至上とし、説得を聞き入れず、妥協を許さない。他の大陸の市民を拉致し、身代金を強請り、麻薬の密輸で資金を稼ぐ。人類として絶対に許容できないもはや、別種族とも呼べる教義であり、共存できない集団である」
 戦いが迫る前に新聞に載り、校長も、大人たちも口々に諳んじる常套の文句。幼い頃から聞かされ、幼児でさえ挨拶代わりに諳んじられるほどだった。
 島大陸の軌道は選べない。イズライールが支配する島大陸を上方斜め四十五度に捉えるこの瞬間こそが、大陸ごと集団を殲滅する唯一絶対の機会。機を逃せば敵を利する。こちらの多くの市民がいずれは殺される。
[正当防衛]という言葉のもとに行われる公開処刑を見物するために、一週間も前から場所取りの競争が行われる。それをあてこんだ屋台も。それらをあてこみ、より高い[場所代]を稼ぐために、議会から情報を盗み出そうとする者、スリサズと撃つべき島大陸の軌道を計算する企業も出回る。
 重力を無視するかのように、二tを超える弾丸は光条のごとく直進し、憎き島大陸の下部を貫いた。
 火花は飛び散らない。
 その弾丸が撒き散らすものは、毒。島大陸の中央に立つ巨木……[神霊樹]が大陸の隅々まで深く張った根を、たちどころに腐敗させる猛毒だ。
 この弾丸を打たれたが最後、島大陸に一つしかない神霊樹は即死する。島大陸に植わっているというよりは、こちらが本体。根が土をまとめ、水を涵養し、大気を還元する、すべての生物の命の拠り所だ。
 神霊樹の葉は黒く染まるそばから落ち、枝もギリギリと悲鳴をあげて折れる。土塊は掌から漏れる砂のごとく崩れ、そこに付随する建物も、人も獣も落ちていく。
「君の思うとおりだよ、ヴァディル君。やむなきこととはいえ人の死を娯楽として見物し、あまつさえ金儲けの素材にする。人とは、なんと傲慢で欲深い生き物であることか」
「ではどうしてボクたちにも見ろというんです、アイアス先生?」
「どんな形であれ、死は覚悟しなければならないからさ。死は尊いばかりではない。まるで玩具のように軽く、蔑ろに扱われる場合もある」
 先生と呼ばれたのは、少しだけ伸びた銀髪を、項のあたりで留めた青年である。アイアス・イェークストロム。先月、二十九になり、高官の娘との見合い話が持ち上がったとヴァディルは聞いている。偉丈夫というわけではない。役所勤めが似合いそうな眼鏡をかけている優男に見えるが、ゆるい稽古着の下には、無駄なく鍛えられた肉体が隠されている。
 やがて島が散り、最初からそこになかったかのように、向こう側の太陽が顔を出した。
「かくして罪人たちにも、天は等しく恵みを与える、か」
 ヴァディルの隣で、頭一つ分高い少年が、棒読みみたいに台詞を垂れた。同じ稽古着を着て同じ木の棒を担いでいる。風がさあっと吹き抜けたあとの麦畑のような髪が、癖っ毛のヴァディルには羨ましく思える。
「皮肉めいた台詞を吐いたつもりだろうけどさ、ルーグ。杖の先っぽに止まった蝶のおかげでずいぶん間抜けに聞こえるよ」
 ルーグと呼ばれた少年が携えた杖の先には、蝶が一休みしていた。追い払おうと手を振るより早く、蝶は彼を小馬鹿にしたように飛んでいった。
 アイアスと呼ばれた青年の周りには、ルーグの他にも同年代の少年たちが集まっている。
 その様を見て「ふふ」と嘲笑うヴァディルに、ルーグは憮然としつつも、特に何も言い返そうとはしなかった。
 見物人がぱらぱらと散ると、アイアスは言った。
「さて、街も落ち着いたようだし、稽古を続けようか。――乱取り、始め」
 彼の言葉を合図とし、ヴァディルたちは散った。かと思えば、すぐにくるりと踵を返し、互いに向き合う。携えた棒――[(じょう)]で互いの手首を、足首を、首筋を狙う。打たれて取り落としてもすぐさま爪先で拾うか、あるいは相手の杖を奪って乱取りを続ける。
 一対一が原則なのだが、ヴァディルには例外的に、四方八方から同門の少年たちが襲い掛かってくる。
 慌てるまでもなく、背後からの一撃を、最初から見えているように躱し、杖を握った手首を絡めとり、投げる。左の肩を狙う突きに、自分の杖の先端を合わせ、払う。そこでひらりと跳躍し、正面から額を狙う同門の額を、軽く叩いた。
 残り二名の手首をはたき、杖を落とさせたところで、ヴァディルは逃げた。
 アイアス率いる一門が習うのは[護神術]という武術だ。彼らが信奉する神――島大陸を支える[神霊樹]を邪教徒から守る、という名目での武術である。
 得物として使うのはもっぱら[杖]と呼ばれる木の棒だ。ヴァディルたち訓練生が使うものは雑木だが、本職は神霊樹から削り出したものが与えられる。もっとも、兵士として雇われれば木の棒だけでなく銃も習うし、火器も使う。
 稽古に使う場所は町中である。かつては専用の道場だったが、一度だけ、イズライールのようなテロ組織が侵略してきた際、市街地で市民を無差別に殺戮した前歴がある。そのため、あえて市街地を練習の場としている。気構えから実戦を重視するというのがアイアスの方針であり、ために場所だけでなく時間も選ばない。放課後や休日はもちろん、授業中だろうが稼業の最中だろうが、真夜中だろうが、雷雲に突っ込んだ最中にも、呼び出しの小遣い走りが飛び込んでくる。その忙しなさを生活の一部とし、受容できるものがアイアスの門弟を続けられる。

 稼業手伝いや学業に配慮し、長期休暇でないかぎり稽古は二時間程度で終わる。
 稽古が終われば、[浩然之気]を養うと称し、志望者とともに甘味を食べに出かける。ぷにぷにの木の実を甘く煮て、高空の冷気で冷やした[オクリシュ]が、ヴァディルは好きだった。
「未成年の前だが、失礼するよ」
 オクリシュと同じくらいよく冷やされた麦酒を口にする前の、アイアスの文句だ。いつか彼の隣の席で、酒と甘いものを同時に嗜むというのが、門弟たちの共通の願いだった。
 スリサズを護る兵士たちは、神霊樹を護るという名目上[神騎士]と呼ばれている。アイアスは、その中でも特に訓練が過酷とされるレンジャー部隊の出身である。神騎士たちは四六時中拘束されているわけではなく、必要に応じて訓練・招集されるわけだが、アイアスは貴重な自由時間をこうして青少年たちのために割いている。
 機密に触れない範囲で、アイアスは軍隊での生活や訓練を教えてくれた。
「規律には書いていないような、理不尽なものもあるよ。訓練から戻ってみたら、部屋の寝台ドがバラバラに分解されていたりね。それを次の集合までに直しておかないと、懲罰を食らう。君たちも見たことあるだろう? 装備の他に二十kgの麦を担がされて、延々と外壁を周回させられる。二十周で終わりのはずが、『あと二十周』と、当然のように指示される」
「うへえ……」
「だが、もっとも過酷なのは、無人の島大陸で一週間生き延びるという訓練だ。そこには、半年前から可愛がって、名前までつけて育てた鶏を連れていく」
「知っています。それを、訓練初日に殺して、食べるんでしょう?」
 ネタを先にばらした門徒を、アイアスは笑って一瞥した。
「そうだ。それが、一番しんどいな」
「ばか。お前、もの食ってる最中になんてこと言うんだよ」
「いいんだよ。そのしんどさを今理解しろというのも無粋だ」

「ヴァディル、さっきの打ち合いで杖に罅が入ったようだ」
 ヴァディルには分からなかったが、アイアスはそう言って呼び止めた。業者に頼み、出来上がるまでの間使うようにと、稽古用の杖を選ぶようにと他の門徒を返し、ヴァディルを自宅に寄らせた。

 一人、帰る途中。風を通すための細い路地(せどわ)が入り組む路地で、ヴァディルは足を止めた。
 それまで姿を消していた同門たちが、幽霊のように現れ、ヴァディルを囲んだ。
「なんだい。別れてから半時は経つのに、じっとボクをお待ちかねかい。この道を通らなかったら、とんだ待ちぼうけだよ」
 先刻ヴァディルにまとめて乱取りを挑んだ連中は全員、他に数名混じっている。
 全員、良からぬ思惑が露骨に顔に現れていた。
「街中で女の子に声をかけた方が、よっぽど時間を有効に使えたろうに。青春は短いよ、少年たち」
 ヴァディルの飄々とした物言いに、同門たちは余計に腹を立てた。
「黙れ! 亡命者の、人殺しの息子が」
「そうだ」
「先生にちょっと目をかけられたくらいで。調子に乗りやがって!」
「そうだ、そうだ」
 陳腐な前置きの口上に「やれやれ」と呟くと。
 延べ十本あまりの棒が、ヴァディルに襲いかかった。
 悪魔の鞭のようにしつこいリンチを受けること十余分――。
「てめえらっ!」
 門徒たちの群れに、猛禽のように襲いかかる影――。ルーグが、怒りをむき出しにした形相で杖を振るい、不埒者たちを薙ぎ払った。
「『なんでお前がここにいる』って顔並べやがって。ヴァディルが先生に呼び止められたとき、てめえらでよからぬ打ち合わせをしていたみたいだから、念のために街をうろついてたんだよ」
「お、おれたちは稽古の続きをしていただけだ。な、なあ……」
 目配せを受け、他の門徒たちはうなずきあった。実践を重んじる護神術は、時として一対多数の組合もする。
「ほう、そりゃ面白い。だったら俺も仲間に加えろや。こっちは一が二になるだけだ」
「い、いや……」
 一、二位の高弟相手には十人がかりでも叶わないと知ったか。門徒たちは後ずさりし、やがてくるりと背を向けて逃げ去った。
「やれやれ、君も酔狂だな、ルーグ。シークアと逢引でもしていればいいものを」
 ヴァディルが、さしたる痛みを感じた様子も見せず、稽古着の埃を払って立った。
「酔狂はお前だ。俺がいなくとも、お前ならあの程度の連中、薙ぎ払えたろうに。どうして無抵抗で好きになるさせた? 急所はしっかり躱していたみたいだけどな」
「『無用の争いは火種のうちから避けろ』というのも先生の教えにあるじゃないか。数人がかりとは言え、『薄汚い亡命者で裏切り者の人殺しの子供に正義の鉄槌』を下せば、上機嫌でいられる。今後も無用の恨みを買わずにすむ」
「お前は、財産や命を差し出せと言わてたら惜しげもなくくれてやるのか」
「周りを見ろよ。あのメンツの中に、元老院議員の孫がいただろ?」
「いやしくも我がスリサズは法治国家だ。連中が言ったとおりの稽古の続きなら、俺に非はない。逆に単なる袋叩きなら、やはり俺に理はある」
「だから君はアホなんだよ。世の中、理が通じないどころか、無理に曲げようとする連中だっているんだ。――図星だからって、さっきよりも怖い顔するなよ。ほら、さっさと帰ろう。仕事が待ってる」
「人の話を途中でぶった切るなよ!」
 振り下ろす相手を失った杖を担いで、ルーグはさっさと歩き出すヴァディルの後を追った。

   Ⅱ

 日が暮れ、他の多くの店が戸締まりを始める中、その屋敷の門からは煌々と明かりが漏れていた。数分ごとに帳面とランタンを抱えた奉公人が出入りし、休む気配を見せない。
 それもそのはず、従業員は交代で休むものの、年末年始を除いては年中無休、昼も夜もなく開いている店なのだ。
 アーチ状に組まれた軒には[パッヘルベル商会]と刻まれた飾り煉瓦が組まれている。
 アーグ・パッヘルベル、キール・パッヘルベルの夫妻が仕切るこの店舗はルーグの家であり、ヴァディルが下宿しているパッヘルベル家でもある。
 ほんの十余年前までは、槍や刀剣を扱う中規模の鍛冶屋だった。それこそ、護神術で使う杖や儀礼用の弓矢も扱っていた。
 様相を変えたのは、とある家族がこの島国に亡命し、パッヘルベル夫妻のもとに身を寄せてからだ。
 その夫妻は、生国では火砲を研究していた。イズライールのようなテロ組織に国を支配され、その技術を携えて亡命してきたのである。
 夫婦の研究は、スリサズで結実した。直径51cmの砲身を有し、神霊樹ごと敵国を粉砕する超兵器――[パッヘルベル・カノン]の出現により、スリサズは徴兵制を免れ、産業に集中できるようになった。
 ではなぜ、開発者ではなくパッヘルベルの名が冠されたのか? 立役者になるべき夫妻は、完成間近の段階において、火薬の暴発で事故死してしまったからだ(これを、功績を独占したいパッヘルベルによる忙殺だと噂だてる輩もいた)。
 不憫に思ったか。両親を亡くした亡命者の子は、パッヘルベル夫妻が引き取り、我が子と扱いを変えることなく養育し、教育している。
 その子こそが、ヴァディル・イストリアである。
 祖国を捨てた亡命者はただでさえ蔑まれる。その功績により我が身が守られ、繁栄と娯楽を謳歌しても、大量殺戮兵器を開発した人殺しの子との烙印も押される。
 それを判別するのに名前や詳しい人相は要らない。スリサズに限らず、島大陸に生きる人間が等しく持ち合わせる、蝶、蝉、飛蝗、蜂――彼らの祖たる昆虫から受け継いだ翅を、亡命者は持てない。
 島大陸に住む人は、そこに生える神霊樹と一体といって良い。いや、言わねばならない。神霊樹が肥やす土、神霊樹が垂らし涵養する水、神霊樹が清める空気により、その島大陸のすべての生命が育まれている。島々に根付く神霊樹たちは兄弟姉妹みたいなものなので、別の大陸に移っても生きてはいけるのだが、体の中でももっとも繊細な部分――翅だけは落葉のごとく抜け落ち、体が島に「慣れる」まで生え変わらない。
 ゆえに、神霊樹を失った島大陸の人々は飛ぶ力を失い、海に落下する他ない。
 両親だけでなく、ヴァディルもまた持って生まれた、蝶の翅が抜けた。
 遅くて数年もすれば生えてくる翅が、ヴァディルに限っては生えてこなかった。両親には、蝶の翅が生えていたそうだが。
 生前からの約束だったのだろう。パッヘルベル夫妻は、実子たるルーグとヴァディルを、公平に育てている。事実上の養子といえよう。両親かあるいはアイアスの薫陶あってか、ルーグもヴァディルをよく庇ってくれている。
 ただしそれは、二人を甘やかすという意味ではない。
「二人とも、食事をとったらすぐに仕事に入りなさい」
 他の従業員に対するものと同じ口調で、キール・パッヘルベルは二人に命じた。
 ヴァディルは夫人に招かれ、従業員たちがせわしなく行きかう大部屋とは別の、奥の部屋に連れて行かれた。ルーグは炭小屋に回された。
 巨砲で成した財を、アーグ・パッヘルベルは浪費せず、外敵の脅威が去れば人々が産業に専念できるようになる。確固たる産業の基盤は、投資の好機でもある。
 目論見は当たった。スリサズは他の島大陸の中でも、秀でて優れた製品を作れるようになった。高品質の工具・家具・建材。薬。病虫害を防げるようになり、安定して農作物が取れるようになった。
 パッヘルベル・カノンは国家が設計ごと買い上げた。スリサズと軍事同盟を結ぼうと、他の島大陸が続々手を挙げた。パッヘルベル・カノンの中枢部は秘密だが、準ずる中規模の火砲なら供給できる。名目上は独立国家だが、数十の島大陸の経済的な盟主は、スリサズだった。
 稼いだ金で外の製品を輸入する――。それから始まった為替というシステムは、それこそ火薬のように爆発した。直接製品を取引するわけではない。離れた地の農作物を先物買いし、売買する。離れた地の債権で売買をし、さらに利益を上げる。投資をする会社に投資をする。それらの情報を交換するため、他の島大陸が接近する度に、暗号表を抱えた専門職が情報を交換する。昼は手旗で、夜はランタンで。現在開発中の無線とやらが実用化すれば、見えない金がもっと飛ぶようになるだろう。
「今買うとすればどこの株ですか、ヴァディル?」
 キールがおもむろに尋ねた。
「業務用の大型義翅(ヒュージダイダロス)の開発に着手したアリアドネ商会が有望と思います、奥様」
「香辛料の農場を専門に投資する集団に注目しておきなさいと言ったはずですが?」
「その経営者の羽振りが随分良いという情報を得たために、避けました」
「よろしい。及第点です。今のところ投資には成功していますが、調子に乗って金を浪費する輩の懐からは、やがて金が飛んでいきます」
 ヴァディルは毎夜キールの部屋に呼ばれ、書類の整理や財産の整理を手伝わされている。冒頭で必ず行われるのが、このような彼女自らの「試験」だった。

 深夜勤の従業員たちが出社する頃、ようやくヴァディルは湯に入れる。時間帯がずれているため、湯を独占できるのは、ヴァディルに与えられたささやかな贅沢だった。
「傷に湯が染みるよ。もう少し優しく沸かしておくれよ、ルーグ君」
 風呂の外、釜に薪をくべているのはルーグだった。
 ヴァディルが数字と格闘している間、彼もまた薪や炭とに塗れている。パッヘルベル商会の発祥は小さな鍛冶屋。その初心を忘れぬようにと、夫婦はあえて息子に黒く染まる仕事を命じている。
「後継ぎの坊っちゃん手ずからの湯だ。ありがたく入りやがれ」
「いい迷惑だ。一緒に入れば、熱さが分かるだろうに。なんなら今からこっちに来るかい?」
「ばか言え!」
 必要以上に大きく怒鳴り返すルーグ。その声が、日増しに大きくなっている気がするのはヴァディルだけだろうか。
「真夜中にうるさいわよ、バカ」
「ぐわっ!?
 ルーグの頭を、背後から情け容赦なく薪で叩く少女がいた。ヴァディルが羨むほどの亜麻色の黒髪が、竈の炎を受けてルビーのように輝いている。大理石に掘られた女神が動き出したかのような容姿だったが……。
「痛いっ、てめえ、手加減てやつを兄から学ばなかったのかっ」
「あら、一撃で仕留めるつもりだったのに、死ななかったの。あたしも未熟ね」
「テメエシークアコノヤロウイツカコロス」
 悶絶するルーグを見下ろしてゲラゲラ笑うこの美少女、シークア・イェークストロム。
 アイアス師匠の妹である。
「敬愛の念が足りないわね」
 シークアの手には、湯気を立てる籠が提げられていた。
「夕方、三日ぶりに、近くの漁師が戻ってきたのよ。できたての鯖まんよ」
 鯖の身を解し、小麦の皮で包んで蒸した鯖饅頭。これ以上美味い夜食というものを、ヴァディルは知らない。
「いただきます」
 行儀もへったくれもなく、まどごしに受け取った鯖饅頭を、ヴァディルは湯船に浸かったまま齧った。
 海からはるか高みにある島大陸では、魚は高級品だ。食料品というよりは希少品に近い。海面ぎりぎりまで降下し、一本釣りした魚を籠に積めるだけ積んで水揚げする漁師という職業は、力と胆力がなければ務まらない。
 この事業に投資しようといったのは、ヴァディルだ。これまでは人力に頼りっぱなしだったが、パッヘルベル商会では動力で空を飛ぶ[義翅(ダイダロス)]を開発する事業に投資している。食生活が豊かになり、魚の需要が高まっている――。
 と、夫人には説明したが、本当の理由はルーグにあった。
「一度、漁師だけが口にできるっていう、刺身ってやつを食ってみたいな」
 ルーグの独り言を、耳にしてしまったからだ。

 外でじゃれ合う二人のようすを伺いながら、ヴァディルは風呂から上がり、下着をつけた。ルーグと同じ服屋で買った男物だが、ひとまわり小さい。
(そういえば、いつから三人一緒に入らなくなったのかな)
 一つ屋根の下で暮らす二人と、二人が通う道場の娘。幼い三人がいっしょに遊ぶ様になるのに、時間も理由も要らなかった。三人で買い食いもしたし、神霊樹の枝に登って滑り落ちて泣いて、いっしょに叱られた。
(そうか、十歳になるくらいか。ちょうどシークアが、杖を薙刀に持ち替えた頃だ)
 第二次性徴に合わせてあるのか。女の子はやがて、アイアスとは別の師範代が見るようになる。女友達とともに行動することが多くなったシークアのほうが、一足先に大人に近づいたように見えたものだ。
 いや、こっちが勝手に距離をおいているのか。シークアは相変わらずの屈託の無さで、パッヘルベル家に第二の我が家のように出入りする。年越しには、神霊樹への初礼拝に三人で赴き、屋台で買い食いをして初日の出を拝む。
 そんな三人を見ての、誰かが立てる噂も耳に入ってくる。「年頃になったら、シークアは、いったいどっちを選ぶんだろうねえ」と。
「それこそ、下衆の勘繰りというやつさ」

 パンツをはくと、ヴァディルは作り物の男性器を、その中で填めた。

 自分が女であることを隠すようにと、ヴァディルはパッヘルベル夫妻から命じられている。他の大陸から内密に取り寄せた、女性としての成長を抑える薬まで、わざわざ飲ませている。彼女の翅の再生が遅いのは、その副作用だった。
 性別を偽らせた理由はわからない。だが、この秘密は、同じ部屋で暮らすルーグにさえ打ち明けていない。

   Ⅲ

「ちょっとちょっとちょっと聞いた聞いた聞いた?」
「繰り返さなくても聞こえてるよ」
 稽古が終わり帰宅して、いつものようにヴァディルは投資を手伝っていた。一息つくべく、ルーグが早めの風呂を沸かしている側で、サトウキビを齧っていたところに、シークアが飛び込んできたのだ。
「昨夜の漁師、獣人を拾ってきたんですって!」
「へえ……」
「ほう……」
 獣人とは、ヴァディルたち島人とは別の種族の人類である。たまに海に漂ったり、海上の無人島に流れ着いているところを、漁師たちが助けあげてくる。
 角や、蝙蝠のような翼を持つ者もいるが、頭頂部近くに突き出た耳が最たる身体的特徴といえよう。その形質を見るだけで、どの動物から進化したかわかるというのだから。

「へえほーって、気にならないの、二人とも?」
「見世物にされる気分はよぉっく心得てるんでね」
「どうせ尋問してる役所には、野次馬がつめかけてるんだろ? 傍で見ていて、あれほど醜いものもない」
「昨夜も言ったでしょ、顔なじみの漁師だって。そのツテで、役所に回す前に特別に見せてくれたのよ――。けっこう可愛い子だったわよ」
 ルーグがひょいと腰を浮かすのを、ヴァディルは冷たい目で見た。

「今更ながら信じられないね、ルーグ。可愛けりゃ獣でも構わないってか。可愛けりゃ鳥や魚とも結婚するってか」
「魚人の美少女も存在するっていう都市伝説があってだなフンフン♪」
「風呂に入っていてもいなくても、君の鼻歌の音痴っぷりが凄まじいな」
 足取りも軽く、獣人の女の子が泊まっているという屋敷に向かうルーグ。彼を焚き付けたシークアも、そんな彼を面白がっている。ルーグの背中を忌々しげに見るヴァディルは、自分がばかばかしく思えていた。
「流木にしがみついてたんですって」
「どこから来たかは分からないの?」
「さあ。いつもそうだけど、獣人にはあたしたちの言葉はわからないみたいだから」
 別の島大陸から来る客人は、どこかしら大きな屋敷にある客間をあてがわれる。イェークストロム家の裏から回り込むと、なるほどその屋敷の勝手口に出られた。
 夕食も終わり、すでに床についているものもいるのか。使用人の姿もうかがえない。唯一の番人である飼い犬は、ふだんは頼もしいのだが、顔なじみのシークアの手土産であっけなく籠絡されてしまった。
「お宝はどこですかい、シークア親分?」
「へっへっへ慌てるんじゃねえヴァー公。屋敷の見取り図はこの頭ン中に入ってるぜ」
「怪盗小説の読みすぎだ、二人とも……」
 見つかったら即刻通報間違いなしの三人組は野次馬の喧騒を遠くに聞き、離れの客間の方へと回り込んだ。こういった屋敷は盗賊対策に高い塀があり、今回の客人も自由に庭を散策できるらしい。
 さて忍び込んだはいいものの、三人は途中で行き詰った。目指す客間には明かりが灯っているものの、肝心の部屋の主の気配がない。
 時間は遅いが、遠くからの客人から、何かしらの土産話を聞けないものかと母屋に呼ばれているのだろうか。とんだ肩透かしとばかりに、ヴァディルたちが諦め、帰ろうとしたとき……。
 シークアが、ヴァディルの裾を引いた。
 宿直の従業員にでも見つかったか、どんな言い訳をしようかなとも考えたが、そうではない。幽霊でも面白がる彼女がらしくなく、表情をこわばらせている。
 屋根の上に、そいつはいた。
 夜も更けるというのに、自分の時間はこれからだといいたげに、ピンとたった両耳。項まで垂れた、赤みを帯びた髪。東の空に浮かんだ三日月が半面を照らしている。瞳孔は満月のように開かれ、半月のように象った口の端は、笑みとも嘲りとも判じられない。
 いつからいたのか。
 ヴァディルが悪しき同門たちの目論見を最初から察していたように、彼女は最初から、侵入者たちの訪問を見透かしていた。見透かし、「縄張り」を徘徊する様子を見下ろしていた。
 武術を嗜む三人の脳を、「必至」の文字が貫いた。たがいに打ち込めず膠着しているように見えるが、どうあがいても負けは確実という局面である。アイアスと組むときにも似たような威圧を覚えるが、質が違う。文字通り、巨大な肉球に押さえつけられているような圧迫感だ。
「出直そう」
 ヴァディルの敗北宣言に、残り二名はおとなしく従った。

「身振り手振りで、なんとか会話しているようだ」
「しょせんは獣、我々の言葉はわからないようだぞ」
 本来公開されていないはずの徴収の内容が、当然のように市井で噂に上っている。五人のうち四人が資産運用をしているだけあって、情報の入手だけは素早い。それが完全に正しいかどうかは別としてだ。
 誰にも咎められないものの、侵入が事実上失敗に終わり、悪夢の先取りをしたような夜から、一週間。
「なぜ黙っていた」
 いつもどおり、街中での乱取りのさなか。ヴァディルは押し寄せる同門をあしらい、ルーグに執拗に絡んでいた。
「なんの話だ」
「とぼけるな。他の家ならともかく、仮にもパッヘルベルで働くボクに隠し通せると思ったか。あの獣人の女の子を本国に送り届ける役、仰せつかったそうだな」
「――まあな。元老院議員の覚えもめでたい我が家だからこそ、お声がかかったんだろう。いい機会だし、見聞てぇやつを広めてこようと思ってな。無事送り届けて戻ってきたら、出世も約束されているそうじゃないか」
「見くびるな。君は馬鹿だが、愚かじゃない。……シークアも知っていた。おどけていたけれど、泣いてたぞ、彼女」
 遭難した獣人が拾われるのは、今回に限った話ではない。会話も成立せず、絵を指し示したり身振り手振りでの意思疎通なのだが、亡命の意図もなく、本国に帰りたがる場合がほとんどだ。その度に、元老院は使者を付き添わせて本国に送還していた。
 ただ、国交も成立していないし、獣人の「本国」といっても、この広い大海原のどこにあるのか、正確な位置はつかめていない。過去の経験から描かれた地上海上の地図において、「だいたいこのあたり」と見当をつけて行くしかない。神霊樹の加護も得られず、地上までは義翅で降下し、そこから先は徒歩になる。
 無事帰還するどころか、行くことさえ難しいとされている。これまで何人が使者に立ち、はたして何割が戻ってこられたのか、このスリサズでさえ知るものは少ない。そのため送還という措置さえ内密にされている。
「ばかだよ、君は。だからあれほど言っただろ。元老院の身内を、あまり叩きのめすなって」
 先日叩きのめした同門には、現元老院議員の孫もいる。ただ、理由はそれだけではないだろう。スリサズに財力をつけ、それに伴う人脈をつけ、何より国防の要たる巨砲の技術を有するパッヘルベル商会が目障りな輩もいるはずだ。
 断るか、代役を立てることもできただろう。だがそんな真似をすれば、報復として、パッヘルベルを狙い撃ちしたかのような規制を設けるだろう。稼業と従業員を守るために、ルーグは危険な航海を買って出たのだ。
 そんな彼の性格が知られているからこそ、誰もが認める跡継ぎを堂々と葬る、絶好の機会だったのかもしれない。

 出立を明後日にも控えた夕刻。ルーグは餞別代わりに、アイアスに呼ばれて特別に稽古をつけてもらった。
「遅いわね、ルーグのやつ。最後に遊び納めしてるのかしら」
「蓼食う虫も多いからね。複数の女の子に言い寄られてるのかもよ」
 その帰りが遅いのを、パッヘルベル家に遊びに来ていたシークアが気にしていた。ルーグの代わりに風呂を沸かすヴァディルだったがどうもうまく行かず、湯船の方から文句をつけられている。
「……人の苦心も知らずに」
「今更だけど、あいつが風呂入ってる時って、あんたが追い焚きしてやったの?」
「面倒だけどね」
「覗いた?」
「たまにね。その度にあいつ、湯船に飛び込んでいたけど」
「へえー」
 窯の前に、普段ならまず姿を見せないキールが現れたのは、その時である。
「こんばんは、シークア。ヴァディル、お湯はもういいわ。今日は遅くまで付き合ってもらうけれど、いいかしら?」
「構いませんけど。どうしたんです?」
「ルーグが暴漢に襲われて負傷したそうです。たった今小遣い走りが飛び込んできました」

 ヴァディルたちが医院の病床でルーグに面会できたのは、治療と保安官の聴取が終わっての、かれこれ一時間経ってからだった。
 額と手の甲にガーゼが当てらてているが、一番ひどいのは包帯でぐるぐる巻にされた右の臑だ。明朝にはしっかり固定するという。
 夫人は婦長と入院の手続きをしているので、シークアが面白がって話しかけていた。傷口を「どう。痛む。痛む?」などと言いながらつんつん突いている。
「あんたをここまでボコるとは見事な闇討ちじゃない。ちょっとでいいから顔の特徴とか覚えてないの? 一人一万ニューで射ってやるわよ」
「覚えてない。というより暗くて全く見えなかった」
 ルーグによれば、曲者たちは彼がアイアスと別れた後、人気の多い繁華街から人気の少ない住宅街にさしかかった瞬間を見計らって襲い掛かってきたのだという。
 まず彼の頭上に、拳大の石つぶてが降り注いだ。それを躱し、杖で振り払っていると、今度は暴漢の捕縛に使う捕網が投げられた。
 動きを封じられた彼一人に、五人はいたという。しかも執拗に足を狙ったというから、策を練っていたことが伺えよう。
 ヴァディルたちだけでなく、ルーグは保安官にも「顔は見なかった」と言っている。仮に見えたとしても、彼は言わないだろう。
 護神術は自己を研鑽するための武道ではない。あくまで実戦を目的としている。戦闘における殺し合いでは、敵は一人ではない。公平な条件が用意されているわけではない。いついかなる時、いかなる相手でも勝たねば意味がない。部外者、いや当事者でないものがいかに同情しようと、この結果はルーグの不覚でしかない。

   Ⅳ

「しかし、困ったな」
 後日、ヴァディルを呼び出したアイアスは彼女を前につぶやいた。
「ルーグの脚の完治には一月はかかるという。獣人警護の役目、どうしてもうちの道場から出さなくてはならない。形ばかりではなく、役目を果たせる力量を持つ者をだ」
「先生も人が悪い。ボクを呼びつけておいて。もう結論は出ているんでしょうに」
「行ってくれるか」
「スリサズを離れるとなれば、神霊樹の加護は受けられない。義翅の扱いにはボクの方が慣れています。そのほうが都合いいんでしょ」

 道場からの帰途。
 自分を目の敵にしているはずの同門たちを、薄暗い路地に呼びつけているヴァディルがいた。
「よくやってくれたよ。礼を言っておく」
 そう言って、ヴァディルは同門たちに五万ニュー分の札を配っていた。
 彼らに指図し、ルーグを襲撃させたのは、他ならぬ彼女である。
「信じられないな」
 門弟の一人が、金を受け取りながらもつぶやいた。
「この金については心配するな。ボクが稼いだものだ。念を押しておくが、人には漏らすなよ。そのときは君たちも共犯だ」
「そうじゃない。お前、何度もルーグに助けられているだろう。良くも平気な顔をして……。うっ」
 ヴァディルは、ひと睨みで黙らせた。
「軽蔑するかい? 勝手にすればいい。彼を殺したわけじゃない。ちょっと休んでもらうだけさ。ボクにも出世欲があった。それだけの話さ」
 これ以上の関わりは無用とばかりに、同門たちは散り散りに去っていった。

(少し疑念もあるけどね)
 頻度こそ高くないものの、スリサズにも獣人の漂着者は訪れる。他の大陸でも同様に救助し、本国に送り届けているはずだ。
 他の道場からではだめなのか。どうしても、アイアスの道場から一人を選び、獣人の少女を送り届けなければならない事情があるのか。
 しかも期限が迫っているという。助けてから、十日足らずではないか。それほど急いで送り返さねばならない理由があるのか。
「疫病を垂れ流すわけじゃあるまいし、まるで強制退去だな。それこそ、亡命者より扱いがひどい」

 獣人の少女との顔合わせが、改めてその翌日に行われた。夜の屋敷に忍び込んだときの、あの不思議な圧迫感はなかった。
 いや、それこそ爪のように隠していたのか。
 数少ない得られた情報の一つが、[リンナァ]という彼女の名前だった。

 行き先も、帰りもいつになるか分からない出立の朝、パッヘルベル夫妻が彼女を見送りに来てくれた。
「必ず戻っていらっしゃい」
「私たちも手を尽くしておく」
 その一言は、単純に嬉しかった。
「倅から預かっているものがある」
 夫妻は、年季の入った布きれをヴァディルに渡した。
「これ……」
 ごつごつとした木綿に、幾重にも針を通してある。知らない者にはただの雑巾みたいな布きれに見えるが、稽古の際に巻いて手首を守るための籠手布だ。
 アイアスの道場に通い出した頃、シークアがヴァディルとルーグのために縫ってくれたものだった。

 スリサズを遠く離れるのだから、神霊樹の加護も及ばない。二人には二人乗りの大型義翅が用意された。
 出立は早朝。どういうわけか、元老院の命令で誰からの見送りも許されないのだという。
 島大陸の断崖から見下ろすはるか下の海面は、おりしも強風で波立っている。
 しっかり捕まっておくようにとリンナァに言うと、ヴァディルは朝日に後押しされるように、スリサズの地面を蹴った。
 最初、スリサズの地から離れた義翅はゆっくりと下降しながら滑空していたが、日の光を浴びると西めがけて進路をとった。

 その姿を、一人で見送るシークアがいた。
 そこにいないヴァディルに向かい、彼女は夢でも見るかのように、つぶやいていた。
 ルーグもだけど、あんたも大概には不器用だわ、ヴァディル。
 あんた、知っていたんでしょう? 獣人を郷里に送り届けるという役目、出世コースが確約された名誉ある仕事というけれど、実際はそれだけじゃない。危険ではあるけれど、帰ってこられないわけじゃない。
 問題なのは、帰ってきたあと。
 帰還を果たしたはずの人物を見たものが、ほとんどいない。
「ある事情で、幽閉されている」って噂もある。
 外の世界への旅は命がけだけど、戻ってきたものを外に出してはいけないという秘密が、何かある。だからルーグも、お守り代わりに籠手布をあんたに渡したのよ。
 それに……。
 あいつを蹴落として出世街道に乗りたかったわけじゃない。あたしに気を遣ったのね?

 渡り鳥の羽毛と骨格から作られた義翅は、太陽が出ている間だけ飛行ができる。移動速度は二十ないし三十km毎時。一日二百kmの移動が限度である。
 偏西風に乗り、獣人が住むという国にはおよそ二週間の日程である。
 数日分の水と食料は積んであるが、そこから先は木の実を取るなり、魚を釣るなり、獣を罠にかけるなどして自力で糧を確保しなければならない。そのための知識も授けられ、訓練も受けてはいるが、獲れる保証はない。
「しかも、一人だけじゃないからなあ……」
 黙って飛んでいるとさすがに気が滅入るので、ヴァディルは独り言をつぶやいた。この大事なお客人の食料まで、確保してやらねばならないのだ。
「いらぬお世話だミャ。自分の餌くらい自分で獲れるミャ」
「そりゃ頼もしいねえ……って、ええっ!?
 返るはずのない返事が返ってきたので、さしものヴァディルもあやうく義翅の操作を謝謝り、失速するところだった。
「勝手にハーネスを外すな。猫みたいに骨組みの上を歩き回らないでよ。いや、そういう問題じゃない。君、喋れたのか?」
「お前たちは羽を持って進化したのに、いろいろと不便だミャ」
 リンナァは、退屈そうに大欠伸をした。
「騙していたのか?」
「人聞きの悪い。騙していたんじゃなく、黙っていただけミャ。こちとらメジャーなだけでも十種の種族と言語が入り乱れている国だなんだミャ。お前たちの単純な言語なんて、すぐに学習できたミャ」
「どうして黙っていたんだ? いや、その様子だと、ただ難破したんじゃないな」
 リンナァは、待ち望んでいた玩具を手に入れたように、ニンッと笑った
「『お前もそろそろ年頃だなあ』と、その気もない相手と結婚しろと言われたら、お前ならどうするミャ?」
「それは……」
「分かるはずミャ。同じ女なんだから」
 あの夜だろうか。ヴァディルの正体も、とっくに見抜かれていたのだ。
「ボクには親がいるだけでも羨ましいけどね。結婚する気がないんなら、適当な男に芝居を頼めばいいじゃないか」
「それが難しいんだミャ。これでもあたしは人気があるんだミャ。芝居に乗ってくれるやつが、国にはなかなかいなかったんだミャ」
「まさか、それだけのために……」
「わざわざ海流に乗って漕ぎだした甲斐があったミャ。本国に着いたら、しばらくあたしの恋人になってもらうミャ」
 なんてこった、と、ヴァディルは大声で叫んだ。

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登場人物紹介

ヴァディル・イストリア

浮遊大陸スリサズで〔神騎士〕になるべく修行する少女だが、性別を男と偽っている。本来、自在に空を飛べる〔鳥人〕だが、幼い頃に両親と亡命してきて以来、背中の翅は失われている。身を寄せる商会の一人息子であるルーグとは修行仲間。想いを寄せられていることも、とっくに女性だとばれていることにも全く気づいていない。ネーミングは〔クォ・ヴァディス〕から。

シークア・イェークストルム

ヴァディルが師事する師匠の妹。幼い頃かルーグに想いを寄せているが、彼の扱いはぞんざい極まりない。ちなみにネーミングは某北欧女子マンガ家から。

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