第二章 獣の国は血の臭い

文字数 24,268文字

第二章 獣の国は血の臭い

   Ⅰ

 日の出とともに義翅で飛び立ち、夕暮れ前に着地。防水性のある布を張り、旅立つ前に仕込まれた「サバイバル術」を思い出しながら、罠を手がけること二時間余。場所を変え、餌を変え、足跡と体臭を消し、半日息を潜めて待って、捕まえたものは小さい野兎が一羽。
 皮を剥ぎ、肉を骨から削ぎ落とし、炎で炙る。味と歯ごたえは二の次だ。布で濾した沢の水で、食べられそうな木の実や雑草の根を茹でる。鍋は大きな葉で作った。
 臭くてまずかった。
 次の日は、葦の間に仕掛けた魚籠に鰻が入っていた。かつて獣人の国へと旅した先人たちの教えにより、ヴァディルは比較的水や食料を得やすいルートを通れていた。
「兎一羽と小魚一匹用意するのに半日かかってどうするミャ」
 ヴァディルが苦労して今宵の食と住を確保している間に、リンナァは木に登て鳥の卵を、そのまま枝から飛び降りて、猪の子を一撃で仕留めていた。そこから先、太い動脈を切ってとどめを刺し、皮と骨を剥ぐのは、刃物を持っているヴァディルの仕事だったが。
「肉をさばいた後はしっかり臭いをとっておかないと、罠にかからなくなるミャ」
「知ってるよ。だから行水したり、服を草で燻したりしてるんじゃないか」
「やれやれ。この義翅は便利だけれど、お前さんに合わせていると家にたどり着くまで百年かかるミャ」
「狩りのときには至って無口なのに。スリサズにいた頃は、さぞや口が疼いて辛かったろう」
 腹が立つ言い方だが、悔しいかな、ヴァディルは何も言い返せない。食料に巡り会えなかった日は、獲物を分けてもらったこともある。異国からの客人を「護衛」して送り届けるどころか、立場は対等、いやそれ以下だ。
 リンナァは、ヴァディルに早く支度しろと目線で訴えている。
「――さっさと食べてりゃいいじゃないか」
「お前はまがりなりにも文明人かミャ? 一人でガツガツ食べるのは野良犬だミャ。食事は大勢で取るもんだミャ」
「正論過ぎて反論できませんよ」
 ヴァディルは、ふと思い立った。
「君より前にも獣人が訪れてきたはずだけど、みんな同じだったんだろうか」
「物見遊山にお前たちの国を見に行ったけど、『でかい虫籠だった』『ままごとみたいな国だった』って感想の他は、面白い話も伝わってないミャ」
「ご期待に添えずにあいにくでござんした!」
「それでも炎はありがたいミャ」
 夜露に冷えかける体を、二人は焚き火を挟んで温めていた。夕食をとってしまうと、あとは寝るだけ……といいたいところだが、今宵は野犬の遠吠えが聞こえるので、うつらうつらと、話しながら徹夜だ。睡眠は夜が明けてからだ。
 それでもまだましな方で、気がついたら獰猛な肉食性の蟻が体にたかっていた朝もある。
 半分腹は立つが、こうして身近で話すことで、リンナァがわかってきた。俊敏さは地を這う獣そのものだが、野性むき出しではない。食事も卑しくがっついたりはしない。
「粗にして野だが、卑に非ず」
 雨に濡れることも嫌うし、冷え込む夜にはヴァディルの毛布にもぐりこんでくる。
「旅の道連れになって、早くも一週間だ。そろそろ君の国の様子を話してくれてもいいんじゃないか」
 大木に穿たれた穴に身をうずめながら嵐をやり過ごす夜、ヴァディルは訊いてみた。
「待つがいいのだミャ。お前さんの先輩のおかげで、旅は順調。明日明後日は嵐で飛べないけれど――」
 リンナァは瞼を閉じ、塞いだ視覚を補うように鼻と耳をうごめかせた。
「それを挟んでも一週間で着くミャ。たっぷり旨いものを食べさせてやるんだミャ」
「そんなことまで……」
 気圧や風の変化を聴覚で、湿度の変化を嗅覚で感じているのか。スリサズにも気象観測の技術はあるが、目視による雲の観測、気圧計、過去の記録からの類推によるものを、島間の伝達で共有するにとどまっている。避けようもない突然の嵐にあわてて家に駆け込んだり、寒気や熱波で不作に陥り、相場を荒らされてしまうことはしばしばだ。
「そう落ち込むこともないミャ。お前さんたちが秀でているものも、無いことは無いミャ」
「お褒めいただきどうも。では賢い獣人様に、一つお尋ねしたい儀、これあり」
「なんでも訊くが良いミャ」
「この旅を始めるとき、最初は無人で不毛の荒野、砂漠、森林を想像していた。太陽や星の巡りを頼りに、道なき道を迷いながら行くものと覚悟していた。ただ実際は違った。降り立つところ、廃墟がある。ほとんど崩れているが、たまに雨風をしのげる屋根や壁もある。ひしゃげた塔や道の名残が、おあつらえ向きに東西南北に伸びている。これは一体何だ? スリサズや君の故郷他にも、国があるのか?」
 廃墟は完全な無人ではなかった。ヴァディルも、そして当然リンナァも気づいているだろうが、身を隠してこちらを観察している気配を、確かに感じた。廃墟のどこかに住んでいるのだろうが、無用の詮索はかえって危険と判断し、知らぬふりをしてやりすごした。
「あるのではなく、あったんだミャ。滅んだ文明の名残だミャ」
「ここまで残っているのなら」
 ヴァディルの発想はパッヘルベル商会のものに切り替わった。スリサズが周回する空域は決まっている。手近なところに一つ、拠点として町を復興し、あとは西へと道路を復興させながら伸ばしていけば、安定して交流ができるのではないか。交流ができれば次は交易だ。どんな産業、特産物、資材が眠っているのか。電信が実用化され、交易ルートが確立すれば、スリサズはますます発展する。テロリストが餌とする「貧しさ」など、付け入る隙もなくなるだろう。
ふと正面を見ると、リンナァの瞳が炎を飲み、ヴァディルを見ている。あの夜と同じように、半ば嘲るような瞳孔――。
「『お前の浅ましい魂胆はお見通し』ってわけかい」
「交易とは相手があって初めて成立するもんだミャ」
「未だにそれが実現できていない理由を考えろ、ですか? ……ん」
 会話に夢中になって気づかないでいたが、ヴァディルの側に、一匹の小動物が寄ってきていた。
 図鑑でも見た覚えのない形質をしていた。頭と胴を合わせても三十cm、ふさふさとした箒のような尾は、同じくらいの長さがある。体毛は焦げ茶、茶色、白の縞模様。リスザルに似ているが、顎が長い。肉食なのか草食なのか、判別できない歯が並んでいた。
「怪我をしてるのか」
 肉食獣から逃れてきたのか。上質の襟巻きになりそうな毛皮だったが、泥と、自らの血に塗れている。
「こっちにおいで」
 なぜかヴァディルは、反射的に声をかけた。
「噛まれて化膿するかもしれないミャ」という忠告を無視し、抱え上げる。
「ふるえているよ」
 小さな体を包み、すがるような目で見られると、見捨ててはおけなくなった。
「あまり旨そうじゃないミャ」
「筋張っていそうだからかい?」
「そうじゃない。賢い獣は、肉がまずいと相場が決まっているんだミャ。それに……。この辺りに、そんなちっぽけな動物は棲んでいないはずだミャ」
「おやおや、獣人の君らしくもない。動物は移動する。君みたいに物見遊山で旅行するのもいるくらいだしね。どこから流れてきた種かもしれない」
「その傷は? そいつを狙うような獣も鳥の気配は感じたかミャ?」
「畜生というのはね、間引きのために、巣から弱い子供を追い出すこともある」
「動物差別だミャ」
「これは失礼。今こそ件数は少なくなったが、人間にだって、間引きするやつもいたからね。神の教えにもある。か弱いものを庇護するのは、崇高な精神を持つ者の役割だよ」
「ただの酔狂にたいそうな」
「なんとでも言っとくれ。心荒む道中の、せめてもの慰めさ。自由になりたきゃ、好きにさせるさ。そうだな、お前」
 ヴァディルは、小動物の頭を撫でながら言った。
「ボクの子になるんなら、[ディカオン]っていうのはどうだい?」
「それって、お前さんの故郷の、伝説的英雄の名前だったりするのかミャ? よくあるパターン」
「ああ、本当の故郷のね。創始者たる少年を導いて預言を与えた天使の名だよ」

   Ⅱ

 幼虫の油炒めにあたったか。悪い水でも飲んだのか。ヴァディルは一日熱を出し、一日腹痛で寝込み、一日野犬の群れが立ち去るのをやり過ごした。他は、おおむね順調に二人と一匹の度は続いた。
 そして、スリサズを発って一ヶ月後。
「……反則だな。予想していたものとぜんぜん違う」
 小高い禿山の上から、ヴァディルはため息混じりに感想を漏らした。
 リンナァが故郷だというアルギスの都は、周囲をぐるりと、巨人でさえ容易に跨げない塀で囲まれていた。遠目からでも、ところどころに建てられた先頭からでいりする見張りの兵士が伺える。さらに近づくと、塀の周囲には堀が設けられている。水のない空堀だが、小山のような岩が落とし込まれ、侵入を難くしていた。
「いい時期に来たもんだミャ。今は戦を仕掛けてくるバカもいないから、矢も鉄砲も射掛けられずに歓待してくれるミャ」
「……」
「いいがかりでもつけたそうな顔してるミャ」
「普通に歓待と言ったけどね。故郷に戻るんだから、少しは顔が緩んでもよさそうだろうに。君からはそれが感じられない」
「やっぱり気に入らないミャ。人の隙を目ざとく見つけて鼠みたいに潜り込む、その性根」

 首都の名は[ドモナーク]といった。
 東西南北に一つずつある大門には、二つの大きい列が作られていた。短い方は身分証を持っていたり、通行証を持つ常連の商人など。長い方は通行証の携帯を忘れた市民や個人の隊商など。リンナァは律儀に後者に並び、帰還を告げると、住民票との照合のために伝令が掛けていった。
 待ち時間が長い旅人目当てに、弁当売りが来た。「首都で使えるから」と持たせてくれたアルギス銅貨の初めての出番になった。
 せいぜい、笹か竹の葉に握り飯が包まれている程度かと思ったヴァディルだったが……。
「こ、これはっ!」
 塩焼きの鯖、擂身の煮物、白身魚の揚げ物の他、豚肉と玉葱の炒め物がたっぷりと。
 ごていねいに、竹の割り箸までついている。ディカオンが物欲しそうに髭をうごめかしていたので、豚肉をやると齧りついた。
 玄米と思しき飯を一口ほおばる。
「う、うまいっ! 普通に炊いたらパサパサになって歯ごたえも悪いはずの玄米が、もっちりとまとまっている。品種改良しているなっ!」
「それ、一番安い弁当だミャ」
 リンナァは、同じものを平然と頬張っていた。
「さっきから、雀とか燕とか鶏とかが往来してるんだけど」
「鳥人だミャ。お前たちは自分たちを『鳥人』と称しているけれど、本当は昆虫が祖だミャ」

 声をかけられ、ヴァディルは居眠りから目覚めた。ようやく入都許可が出たのだ。
 大通りは、スリサズの目抜き通りに比べて二倍以上の幅があった。両脇には食料品や生活用品、衣類を扱う店舗が立ち並ぶ。肉も、魚も、野菜も、穀物も、先刻門を通過したばかりの商品が店頭に並べられ、新しいものからさばけていく。並んでいる衣類はスリサズのものより品質が良く、意匠も凝っている。
(シークアが喜びそうだな)
 饅頭、串焼き、揚げた魚の屋台からは、競うように食欲を刺激する煙が漂っている。油の品質もよさそうだ。
(おやまあ、こちらはルーグが食べ過ぎで腹を壊しそうだ)
 両替商、街道馬車の旅券屋、女性用の小物。悔しいが、いずれの品質もスリサズは及ばない。一つの店舗だけでも、スリサズの店に比べて五倍の金の流れがある。同じ規模の店が、この都にはたして何件あるのだろうか。
(この町だけで、スリサズの経済圏に匹敵している?)
 行商人だけでなく通行人も、ヴァディル、そして連れのディカオンまでをも、市場で競りにでもかけるような目つきで見ている。治安がいいのか、隙あらばそろって拐かして奴隷商人にでも売り渡してやろう――などという輩はいなさそうだが(スリサズでは奴隷売買に投資する投資家もいたそうな)。
 ただ、腑に落ちないところもある。
 真っ直ぐで太い道かと思いきや、それが途中で大きな塀に阻まれ、不規則に折れ曲がっている。
「よそ見をすると迷子になるミャ。そっちに行くと、中心に向かうどころかもとの門に戻るミャ。ほら、その先は袋小路だミャ」
「なんだって、そんな道の造りを」
「そういうもんだから仕方無いミャ」
「市街図は売ってないの?」
「ドモナークでそんなもん売ったら牢屋行きだミャ」

 中心に近づくたび、街の様相が変わってきた。店舗は少なくなり、家屋を仕切る塀が高くなってくる。建材も簡素なものから、しっかりと固めた堅固なものに。行き交う人々は、武器こそ身につけていないものの、身のこなしや眼光から武人と分かった。
「つまりこの辺、武家屋敷ってやつだね」
「立ち止まるんじゃないミャ。家をジロジロ見ると、賊と疑われて連れて行かれるミャ」

 ここが生家だと連れてこられたのは、他の家と比して一回り大きい屋敷だった。
 それ自体で小要塞のような門には、鹿の角をはやした、老いた門番がいた。リンナァの姿を見出すと手にした槍を投げ捨てて駆け寄ってきた。彼女の重りや遊び相手も兼ねていたらしく、たいへんな喜びようだった。
「ディカオン。見境なく唸るんじゃないよ」
 娘の帰還とスリサズからの客人の来訪を告げるべく、老門番は主人のもとへ早足で歩いていった。塀の中は一面に、膝の半分くらいまで草が伸びていた。
 ヴァディルがためしに放置された槍を持ってみると、けっこうな重さだった。池もあり、魚が飼われている。しかし他には石どころか、木の一本も置かれていなかった。
 門まではひらけているが、敷かれた石畳はでこぼこしている。よく見れば、足元の草はところどころ結いてあり、うかつに歩けば転んでしまいそうだ。
「離れていろミャ」
 リンナァが声をかけた直後だった。
 玄関の奥から、ひゅうと音がした。リンナァは頭の横に手を伸ばした。
 その手には、矢が掴まれている。
「この道楽娘がっ!」
 大気どころか石畳すら震わせる怒声が響いた、かと思うと、玄関から飛び出してくるものがあった。
 赤い突風かと思われたその正体は、赤い鬣、鋼の筋を束ねたかのような両腕を持つ、獅子の獣人だった。
 突風の進撃を、リンナァは跳び上がり、ひらりと躱した。ピンと弾いた矢を、獣人の男は額の前で掴み、指の力だけでへし折った。
「見合いを断るだけならまだしも、当日になって行方をくらますとは。先方への恥は家への恥だぞ!」
「先方によく言っておくミャ。猫科は気まぐれなんだって」
「何が気まぐれか。用意周到に定期預金を解約して持ち逃げしていっただろうが!」
「花嫁修業に経費はつきもの」
「『あたしに相応しい花婿を探しに行くミャア』と書き置いて出ていったが、ならば当然捕まえてきたのだろうな?」
(置き手紙にまでミャア付けるのか。捕まえたってなんだ。ボクは獲物か)
 フフンと鼻を鳴らし、いつの間にかヴァディルの背後に来ていたリンナァは、彼女の襟首をひょいとつまみ上げた。
「これ」
「ふむ……」
 リンナァ父は、締めたての鶏でも目利きするように、ヴァディルをまじまじと見た。匂い消しの香草でも噛んでいるのか、意外に息は爽やかだった。
「オレほどでもないが、なかなかの美形だな。お前にしてはいい獲物だ」
「本当に獲物っていったよ、このオッサン」
「さっそく婚礼にするか?」
「いきなりすぎるわ!」
「まあ待つミャ。このあたしの婿にとって相応しい男か、じっくりと見極めて貰いたいミャ」
「よかろう。客間に通せ」
 その言葉を待っていたかのように、家人たちがわらわら現れ、恐るべき手際の良さでヴァディルとその荷物を奥の客間に運んでしまった。
 土産の置物のように呆然としていたヴァディルだったが、気を取り直し、廊下に出ると、メイドの少女を見つけた。真っすぐ伸びた銀色の角は、山羊の獣人だろうか。黒いまっすぐな髪と、銀色の双眸があいまって、絵画から抜け出したような美しさだった。
「ご用件でしたら手短にお願いしますお客人。日が暮れる前に、鶏小屋の掃除を済ませたいので」
 よほど忙しいのか、慇懃無礼の例文のような言葉で返されたが、めげるヴァディルでもない。
「忙しいのは分かってる。この屋敷の掃除を、一人で請け負って、予定通りに仕事しないと終わらないんだろ?」
「ええ、まあ……」
「この館のことを教えてほしいんだ。どのみち、他人が一人でうろつくのはよろしくないんだろう? そのかわりといっちゃなんだが、手伝うよ」
 パッヘルベル家で嗜んだ交渉術(またの名を籠絡の手管)が役に立ち、ヴァディルはメイド少女を伴い、堂々と邸の中を散策できた。
「手際がよろしいですわね。あなたがたも鶏を食べるなんて、共食いですわ」
「人なんて、しょせん共食いしてるようなものさ」
「未開な種族かと思ったら、結構洒落たことも言えますことね」
 メイドにさえ馬鹿にされるとは、どれだけスリサズの評価は低いのだろうか。だがともに仕事をするうち、リンナァの家についての情報は八割がた入手できた。
 リンナァの父はレグルといい、やはりというか、このアルギスを治める王であった。
 砂漠の、大きなオアシスに設けられたこの都を中心とし、アルギスは次第に領地と勢力を拡大した。近隣国家や、盗賊まがいの集団との利権争いを経て、現在の形と領土に収まっている。
「一人で大変だねえ。君は邸の掃除を、門にいたご老人は警備を、ほぼ一人で請け負っているんじゃないのかい?」
 メイドの名は、アウェーダといった。メイドを勤めていることが場違いなようにも思えたが、さりとて害意は感じられない。
「レグル様、どういうわけか人件費だけは削ってまして」
「ケチなのかな?」
「そうでもありませんわ。薮入には、お小遣いをたっぷり振り込んでおいてくださいます」
「リンナァは甘やかされてるのかな」
「小さい頃から遊び相手だったから、悪い子じゃないと存じておりますけれ、お年頃でもあります。見合いの話が春先の燕よろしく、次から次へと飛び込んでまいります」
 鶏小屋掃除のあとは、伸びた草を抜く。子供ですら見を隠せない程度に伸ばしておくようにと申し付けられているそうな。
 最後は風呂焚き。女二人で薪を割って竈に放り込むのは、既視感を覚える光景である。
「本人にその気はないのかな」
「ないからこそ、見合いの度に家出しているのでしょう。今回は少し長目でした」
「で、さっきから、塀の向こうで声が聴こえるんだけど」
「しばらくいらっしゃらなかったのに、街で、あのフーセン娘を見かけて慌てたのかしら。本人に直接話せばよろしいのに」
 アウェーダが露骨に面倒臭がっているので、ヴァディルが中二病を再発した。
「そこにいるやつ、いつまで隠れているつもりだい? いいかげん出てこいよ!」
 と――。
「いつから気づいていた?」
 予想違わず、塀の向こうから現れる顔が一つ。ノリがいい。ちょっと背伸びしているだけか、かなりの身長。そして爪先立ちしているのに頭はぶれていない。足腰は鍛えられていると見受けられる。
「その独特の体臭が、塀の外から臭っていたよ。風呂にちゃんと入ってるか? 女の子に嫌われるぞ」
「えっ嘘っ? リンナァに嫌われないように、ちょっと高めの石鹸を使ったのに」
 目当てと粗忽ぶりまでダダ漏れだった。
 頭の上に突き出た耳と灰色がかった髪の色。犬ではなく狼の獣人だ。
「嫌だねえ、うじうじして声もかけられない男は。毎晩そうしてあの娘の風呂をのぞいていたわけか」
「お、お前が次の婿候補か?」
「ヴァディル・イストリア!」
 ヴァディルは、返答を後回しにして名乗った。
「なんだい、知的で武勇に優れるアルギスの獣人は、名乗りもしない非礼を働くのか」
「バーデム・レッツェル!」
 塀の向こうで胸を張ったバーデムは、少しだけよろめいた。だがその目は油断なくヴァディルの全身を観ている。
「『体が細いな。こいつなら、自分でも勝てそうだ』とでも、思っているのか?」
「う……」
 一方的に観られるのも癪なので、ヴァディルはバーデムの浅い魂胆を見抜いてやった。
「どうして、それを……」
「あの父娘のことだ。縁談を持ちかけられる都度、手合わせをしていたんじゃないのか? 今までは、それに打ち勝った者もいなかったが、最近ではリンナァも相手をするのが面倒くさくなってきた。そんなところで覗き見するくらいだ。どうせまともに名乗りをあげたこともないんだろう。言ってみな。いつから彼女を意識するようになったんだい?」
「小さい頃は、女の子なんて意識しなかったんだ。でも中等部になってから、彼女の髪の匂いとか、体の匂いとかが気になりだして……」
「匂いかよ」
「……ハッ!? なぜオレは初対面のやつに、こんなに話してしまっているんだ」
「君は未開人とバカにしているだろうが、それなりの術も心得ているんだぜ。彼女が欲しけりゃ奪いにきな。でないと、スリサズに貰っていっちまうぜ」
「う、うわ~ん!」
 バーデムは、泣きながら帰っていった。
「フッ。戦う前から勝ったな!」
「調子乗ってるんじゃないミャ」
 さすがというか、気配を消して背後に寄っていたリンナァが、ヴァディルの後頭部に手刀を振り下ろした。
「明日から、というか今晩から忙しくなるミャ。とっとと風呂入ってごはん食べるミャ」
「気が早いなあ。ボクが女だとバレないうちに、祝言あげちまおうってのかい?」
「いえ、この邸の人間には、もうバレてますよ。ご自分で言ってたでしょ。男はそんな匂いしてませんから」
「え……」
 あっさりと、アウェーダが言った。
「まあお嬢様の道楽ってことで、誰もツッコミませんけどね」
「一人娘のあたしを嫁にすれば、それなりに顔もきくようになるミャ」
「ボクを打ち負かして婿になろうっていう輩が、挑んでくるわけだろう?」
「純粋に力で挑んで奪いに来ようって言うんなら、可愛げがあるミャ。そんなに単純じゃないから、面倒臭いんだミャ」

   Ⅲ

「ほう」とレグルが唸るほど、ヴァディルの食いっぷりはよかった。蕪や大根は、いずれも太く身が締まっている。鶏も牛も豚も、臭みのない脂が乗っていた。
「香辛料が惜しげも無く、しかも適切に振られ、肉の旨味を引き出している。鶏に果物を詰めるなんて、スリサズでは考えられなかった手法だっ!」
「よく喋る客人だ。気に入った。これまで来た男たちが口にするのは、飯ではなくて社交辞令じみた挨拶だけだったからな」
 アウェーダが言うからには、レグルにもヴァディルの素性はばれているのだろう。それを承知で提供してくれるのだから、食べねば無礼というものだ。
「おかわり」
「よくまあ肉ばかり入るもんだミャ」
「スリサズで出会ったときは、『あなたのそのワイルドなところが好きなの』と言ってくれたじゃないか、マイスイートハニー」
 煮ても焼いても食えない魚を釣り上げてしまったようなリンナァの顔に、ヴァディルとレグルはそろって大笑いした。

「これほど図々しい奴だったとは、想定外だったミャ」
「またまた。どうせ君の方から誘うつもりだったんだろ?」
 その夜、ヴァディルはリンナァの床に潜り込んでいた。
「安心しなよ。ボクはなりは男でも中身は女で、その手の性癖もないから」
「訊いておくミャ。どうして、あたしの部屋に来たミャ?」
「正面切っての勝負はおろか、場合によっては夜に忍び込んで、寝ているところをバッサリ、なんて輩もいるんだろ、この国じゃ?」
「……お恥ずかしいが、まったくそのとおりミャ」
「ボクが君と一緒に来ることになって好都合、と思ったんじゃないのかい? 以前客間に泊めた客が、襲撃されたんじゃないのかい?」
「急所は外れたけれど、剣士としては役に立てなくなったミャ」
「見くびっていたよ。君が家をでるようになったのは気まぐれやわがままじゃない。くだらない流血を起こさせないため、そんな争いを起こさせる自分の出自に、疑念を抱いたためだ」
「……」
「来たばかりだが、これだけは分かった。このアルギスは流通で栄えた。その点、スリサズと似ていなくもない。ただ地続きだったのが災いし、侵略が絶えなかった。侵略を防ぐには武力がいる。物と金の流れが太かったために国は繁栄したが、同時に武力に秀でた家系が発言力を持つようになった」
「おかげさまで、ここ半世紀は外部からの侵攻はなかったミャ。でも外からの侵攻が無いぶん、内側での争いがおっ始まったミャ」
「王の座は世襲かい?」
「ぶんどったもんだミャ。誤解するんでないミャ。麾下の戦力を比較して見せて、前の王から平和的に委譲させたんだミャ」
「裏を返せば、直接戦わずとも、強大な武力を動かせる立場にあれば、王の栄誉を得られるか。たしかに単純じゃない」
「あたしが嫁に行ったとしても、それは妻としでてではなく徽章の一つになるだけミャ。お前は同じ女として、そんな屈辱が許せるかミャ?」
「家出するね。もしくは――。胸に秘めた相手と、駆・け・落・ち」
「やめろ鳥肌立つミャ。だいいち、そんな相手いるわけないミャ」
「ふうん」
「つくづく腹の立つ女ミャ。さて、ガールズトークの時間はおしまいミャ。いいからとっとと寝るミャ。ここは客間じゃないし、いたとしてもすぐに勘づくミャ。夜の間だけは守ってや……。こいつ、もう鼾かいてるミャ」
 アルギスへの旅路で、野犬に足止めされたというのは半分は嘘である。
 野犬の襲撃を、ほぼ一人で撃退したのはリンナァである。前後左右だけでなく頭上からも、情けも容赦もなく襲い掛かってくる野犬の群れを、リンアァは尖った爪十本のみを武器とし、あしらった。
 ヴァディルも杖で応戦したが、おこぼれを退け、我が身を護ることで精一杯だった。ルーグ、いやアイアスでさえ、あれほどの数を相手にしては無傷では済まなかった。
 たった一人の片鱗から、スリサズの軍事力など、アルギスに遠く及ばないと、ヴァディルは思い知らされた。
 否、軍事力だけではない。たった一日街をみただけで、文化、民度、経済力の高さを窺い知れた。パッヘルベルの為替取引など、児戯に等しい。
 スリサズの元老たちが、「獣人」と蔑みながらも他国の存在をはっきりさせなかった理由が、やっとヴァディルにも理解できた。
 自分たちよりも優れた存在がいては、その統率者たる元老たちの存在意義に関わる。外の世界をなるべく隠蔽しなければ、自分たちの立ち葉が危うくなるのだ。
(くだらない)
 護神術において「敗北」は許されない。神の栄光を汚す敗北よりも、相打ちを選べと教えられる。その点、パッヘルベル夫妻から教えられた経営学は実利的だ。「敗北を認めよ。引き際を誤るな」だ。ヴァディルは後者の教えに、素直に従った。
 リンナァたち獣人の強さ、獣人国家アルギスの強大さは、素直に認めざるをえない。
 認めた上で、自分を安売りはしない。警戒されず、用心深く、それでいて鋭く、相手の懐に忍び込む。侮られず、一目置かれるよう。
 そのための「材料」も得た。
「矢がいきなり飛んできて、面食らったけどね」
「娘を政略の道具にしか考えていないからミャ」
「違うね。君もわかっているんだろ? あれは弓から放ったものじゃない、手で投げたものだ。だから君も容易く片手で掴められた」
「手元に弓が無かっただけミャ!」
「矢があるのに弓がないなんて道理があるか。君の父上、なんだかんだいって娘が可愛いんだよ。素直に結婚しろとは言わないけどさ、親孝行ってのは、『いつか』できるもんじゃないんだぜ。それこそ明日にでも、不慮の事故で死ぬかもしれないんだ……」
 最後の言葉で、さしものリンナァも黙ってしまった。

 翌朝から、本当にヴァディルは忙しくなった。「婿候補」を倒すべく、下心満載の候補者たちが手合わせを願い出てくる。レグルも拒まず、それを受ける。
 手合わせは道場ではなく、野外で行われた。鉄の爪、腕に嵌める刃、あるいは弓矢。受けるヴァディルは杖一本だ。彼らの全員が、ルーグか、彼を上回る技量を持っていた。
 全員を退けられたのは、なんのことはない、リンナァとアウェーダが手を回してくれたからだ。待合で出す茶に、相手に合わせて下剤や眠り薬、強い酒を混ぜてやったからだ。
 それでも、例外が二人だけいた。
 一人は、ガルダンという豹の獣人だった。リンナァに茶を出されたとき、「ふふん」と言いたげに髭をうごめかせ、口をつけなかった。細い瞳孔が、ヴァルディにはいちだんと気味悪く見えた。
 油断のならない輩かと思いきや、構えた木刀の腕は「並」だった。豹ならではの瞬発力は持ち合わせていたが、だからこそヴァディルはわたりあえた。これはリンアァが教えてくれた秘密なのだが、猫科・犬科といった形質によって、「最初の一撃」はほぼ決まっているのだ。
 それをやり過ごせば、ヴァディルの技量なら躱し続けられる。隙を取ればカウンターもとれる。
 勝負つかずのまま、ガルダンはひきあげていったのだが、嘲笑は消えなかった。ヴァディルを打ち負かしに来たというより、彼女自身を見にくることが目的だったように、だ。
(スリサズの同門にもいなかった。あれほど素直に嫌悪できるやつというのも、珍しいな)
 最後の一人はバーデムだった。茶を飲まなかったのは、一服盛られたことを悟ったのではない。緊張のあまり、茶が出されたことにすら気づかなかったからだ。
 バーデムは、最低でも三世代前から受け継がれたとおぼしき手甲を嵌めた。
 酔っぱらいや、下痢腹とは単純に比較できないが、ヴァディルは当初、ただ、逃げるしかなかった。
(この不器用さ故に結局得を持っていくこの性分。誰かに似ていると思ったら、ルーグだ)
 ヴァディルは、卑怯な手を使った。
「あいつは右足に、今でも痛む古傷があるミャ。そこを狙うふりをするだけで、隙が生まれるミャ」
 共犯であるリンナァは、面白くはなさそうに言った。ともかく、その古傷とやらを狙ったおかげで、ヴァディルは勝負つかずの時間切れに持ち込めた。

 立ち会いが終わると、まだ夕食までには時間があると言い、レグルは釣りに出かけた。この邸を訪問したときに出会った、老僕のモーゼルを伴っていった。二人の後ろ姿に、またディカオンは牙を剥いていた。
「お前ってやつはわけがわからない。旅の途中、ボクでさえ気づかずに近寄っていた獣の臭いを嗅ぎ当てて、警告してくれたよね。お前がいなけりゃ本当に危なかった。それだけじゃない、お前は人以上に人を見る目がある。ガルダンには唸ったけど、バーデムやレグル王には懐いていたしね」
 ヴァディルは、いたずら心がわいた。リンナァの我儘のおかげで休み無しの汗塗れなのだ。順番が最後であったのを幸い、帰ろうとするバーデムを呼び止めた。
「男同士、一緒に風呂に入らないかい?」

   Ⅳ

 人を疑わない性分なのだろう。バーデムは二つ返事で承諾した。
 前を隠すのは慣れていた。女特有の匂いも、風呂でなら隠せる。ルーグに似たこの男を、からかってみたくもあった。
 獣特有の体毛が生えていたが、なるほど、バーデムの体つきは、まさに「戦士」であった。交流の機会さえあれば、アイアスの道場に客人として招きたかった。
 右足の甲には、リンアァが言ったとおり、痛々しげな傷跡がある。
「その傷は?」
「小さい頃、どじを踏んだのさ。ここを狙ったのは、リンナァに教えてもらったからかい?」
「いいや。君の歩き方からさ」
「そうか……」
 どちらも大嘘つきだった。
 入浴前に問いただし、リンナァ自身から聞き出していた。学校の初等部にも上がる前、崖の中腹にある燕の巣をとってもらいたい、と彼女がせがんだのだ。
 幼馴染の誰もが尻込みする中、たった一人、登ったのがバーデムだった。
 無謀なこの挑戦は崖の半ばにして潰えた。手がかりにつかんだ岩が脆くも崩れ、バーデムは二十mを転がり、跳ねながら落下していった。右足の傷だけで済んだのは、神の加護があったからだと、大人たちは言った。
「あたしは無力だったミャ。泣き叫んで助けを求めるどころか、何もできずに突っ立っていたんだミャ」
 ヴァディルが笑いをこらえているのは、風呂の外に、リンナァの気配を感じているからだ。やはりバーデムが、他所の女と裸で一緒になっているのは気になる、というより面白くないのか。下手な猫足忍び足である。
「なんなら君も一緒に入るかい?」
「婚前前の女と男が、はしたない真似をするわけにはいかないミャ! 恥を知れミャ! バーデム、鼻の下伸ばしていつまで入ってるミャ!」
「なんで男同士で鼻伸ばすんだよ」
「うるさい! とっとと上がれ!」

 追い立てられてバーデムが帰ってしまうと、リンナァも戻っていった。新人の漫才でも観劇した気分で湯からあがったヴァディルだったが、籠に用意されていた服は、いつものものと種類が違った。
「アウェーダ!」
 客人にもかかわらず、ヴァディルは、不躾にメイドの名を呼んだ。
「そのお召し物では、お気に召しませんでしたか?」
「このフリルとか袖を絞ってあるところとか、とってもかわいいんだけどさ……。いやそういう問題じゃなくて、これ女物だよね?」
「これは失礼いたしました。すぐに取り替えてまいります」
「……わざとじゃないよね」
「なんのお話でしょうか?」
「早くとってきて。風邪ひく」
 アウェーダが男物の服を持って戻ってくると、ついでとばかりにヴァディルは尋ねた。
「君は、別の都市から奉公に来たの?」
「はい」
「リンナァははぐらかして教えてくれないんだけどね。この舘、国王のものにしてはおかしいところだらけだ。なんかこうもっと、役人とか衛兵とかが大勢いてさ」
「一世紀ほど前はそうでしたね。でもその場合、ここが攻め込まれたら官吏は皆殺し、国政が停滞してしまいます」
「衛兵が一人もいないのは?」
「護るはずが、既に買収されて寝返っていた前例がありまして。信頼おける者しか邸には置いておません。それに……」
「邸自体に防衛機能が備わっている。邸の構造は小さな城塞、庭石の配置は古来からの都市防衛法、籠城に備えて鶏だけじゃなく、池には魚が飼ってある――。ただの名残ってわけじゃなく、現役バリバリで。この国って、そんなに頻繁に攻め込まれてるの?」
「周囲の小国は二百年前にほぼ統合しました。相手方の自尊心を損なわず、かつこちらも宗主国としての格を貶めない程度の、理想的な朝貢関係が保たれています」
「その後は?」
「高い財力でより強い軍事力を備えたものが、歴代の王の座を実力で奪取してきました」
「平和的に選挙とかじゃなくて?」
「一度だけその方式で代表を選出しましたが、野盗が攻め入った際にまっさきに逃げ出しました」
「ああ、駄目だねそりゃ」
 一見すると時代遅れだが、アルギスではそれなりに合理的な選出方法なのだ。
「じゃあリンナァ関係ないじゃん」
「婚礼が決まれば相応の支度金が支払われます。レグル王の財力の数割が、血を流さずして委譲されるのです。いわば家族を介しての、財産・武力の奪取です」
「なんというか、乙女のロマンからかけ離れたシステムだねえ」
「それでいて、レグル王は娘の行く末も案じておられます」
「あー分かる分かる。下心満載の奴には、普通の親なら行かせたくない。唯一の有望株はヘタレだしね~」
 風呂で裸の付き合いをして判明したが、そのヘタレの知識はかなりのものだった。スリサズのことも知っていた。見識としては、リンナァに近いのかもしれない。
 とりあえずリンナァとリンナァパパの事情は分かった。これをネタに飽きるまで恋の媒をしてやってもよし、リンナァをからかい続けてもよし。
「それに、レグル王は自らの衰えも、悟っておられます」
「親の方にタイムリミットがあるか。めんどいねえ。一本勝負の他に、男として認められる手段はないのかい?」
「ありますよ。竜です」
「――竜?」
 絵本か、せいぜい中等部向けの本でしかお目にかからない生物の名を、ヴァディルは復唱した。
「竜ってあれですか。鋼鉄より硬い鱗、荒波をも砕く力。嵐をものともせず星までも飛び、雷を招き、寿命は人の千倍。獣の王者の代名詞ってアレですか。実在すんの?」
「それですし、普通に実在しますよ。会おうったって普通には会えませんけどね。ここより北の海、蟹の好漁場をさらに超え、北極のちょい手前。一年中氷が漂っている、海流が強めの海域にいます」
「聞くだけで寒そうな場所だ。で、そこに出かけて竜を一匹捕らえて、男の証を見せろってこと?」
「殺してもよし、生け捕りならなおよし」
「あー無理無理。行くだけでも大変なのに、そんな実在モンスターに喧嘩ふっかける輩は、命の前に頭が危ない」
「そうでもなくってよ」
 人形のようだったアウェーダの顔に、初めて人らしい笑みが浮かんだ。
「竜とて生き物。自然の化身でもなければ、その摂理から外れた異界の存在でもありません。生まれるためには卵から孵る必要があります。北の湖のとある火山島に、竜は孵化させるための卵を集めます。高熱と硫黄の蒸気のため、普通であれば卵泥棒の憂いもない場所です」
「ひょっとして、本気で挑むやつとかは……」
「たまにいるようですよ」

「ウィーップ……」
 おっさんみたいなゲップをして、ヴァディルは腹をさすった。
 今日は、ドモナークの創立祭だった。
 スリサズ同様都市の集合体であるアルギスでは、週に一度はどこかで祭りがある。テキ屋がキャラバンのように移動しては、子どもたちから小遣いを巻き上げていく。揚げ物煮物の蒸気、炎、煙、酔客たちの遠吠えが混じる、頭が痺れそうな闇だった。
 屋台の味も申し分ない。コナモノはスリサズの縁日でもあったが、ヴァディルは特に魚の揚げ物が気に入り、一抱えもある袋に詰めてもらっていた。
「そんなにがっつかなくとも、明日になれば作って差し上げますよ」
 アウェーダは冷たく言った。
 リンナァとも同行していたのだが、わざとらしく偶然を装ったバーデムとでくわした。
「ついてきたいんなら勝手にするといいミャ」とあしらったのだが、ヴァディルが気を利かしてアウェーダとともに離れたので、今頃はおデートの最中だろう。
「それにしても、いい硬貨使ってるねえ」
 アルギスの為替制度はスリサズ並だったが、瞠目すべきは硬貨の流通、そしてその質だった。
「銀が三%に、残り九十七%が銅。純度もだが、意匠が精密で偽造しにくい」
「不動産なんて、征服されれば収奪されるし、紙幣も国家が消えれば価値を失いますから。その点高品質の硬貨は純金に準ずる信用度がありますから」
「貨幣もご立派だけど、どうやって為替やってんの?」
「個人の身分証明書が、口座の通帳を兼ねているようなものです。支配者はせいぜい三十周年ごとにころころ変わってきましたが、貨幣の価値だけは普遍で不変。その点だけは、まあまあこの国の人間は成長していますわ」
 ヴァディルとはまた違う異邦人のように、アウェーダは評した。
「それにしても原始的ですわ。スリサズのように、神と崇める神霊樹があるならいざしらず、アルギスの民は何を祀っているのか。金か武力による世代交代、漂泊と征服によって、古代からの神もすでに失われているというのに」
「解答になるかはともかくとしてね、以前、論理学の授業で、こんな命題を出されたことがある。『神に見捨てられても、例えば神にお前たちを滅ぼすと言われても、最後まで信仰を保っていられるか』と」
「あなたはどう答えたのですか?」
「ボクは答えられなかった。答えられたのはシークア……君は知らないけれど、ボクの友達でね。『聖典に書かれた神も、神霊樹も、本当は人にとって真の信仰の対象ではないのではないでしょうか。人は誰しも、自分の人生を一つの芸術として後世に残したいと思っているのではないでしょうか。画家が画布に、楽師が譜面に、彫刻家が木や大理石にそれぞれの命を刻むように。信仰とは、その行為そのものではないでしょうか』とね」
「そうなると、あなたの郷里の人々のほうが、まだ敬虔であるといえますね。獣人たちが信奉しているのは、しょせん金の神でしょう」
「そうだろうか。少なくともリンナァとレグル王は、その虚しさに気づいているように見える。いや、この二人だけじゃなく、実はアルギスの住民のほとんどが、そうじゃなかろうか? だからこそ、もっと誇らしく頼れるものを、祭を介して探しているんじゃなかろうか」
「……会ってみたいものですね。一晩中神学論争のお相手ができそうです」
「君たちなら馬が合うか、逆に意見の相違から取っ組み合いが始まるかだね」
「女の子らしく恋バナでも咲かせておきましょう」
「ボクは今晩みたいに、男同士で夜通し、バカ話をしながら食べ歩く方が性に合っている」
「男同士、ですか。中の良い男友達がいらっしゃるので」
 アウェーダが、皮肉を言いたげな顔をしていた。
「男同士だからではなく、ずっと一緒に……」
 彼女の言葉が遮られた。それよりいち早く、ディカオンが尻尾の毛を逆立てていた。

「前兆」が実体化するために、十秒弱の、休符にも似た静寂を要した。
 初めは小さく次第に大きく。太鼓をクレッシェンドで連打するように、その振動はやってきた。
 衝撃波のような突風、首都を囲む堅牢な壁が崩れる音、群衆の悲鳴が、津波のようにドモナークを席巻する。
 ヴァディルはたまらず膝をついたが、アウェーダは呆然と、いや平然と立ち尽くしていた。
 ヴァディルたちのもとに届いたのは、唱和された悲鳴だったが、次第に聞き取れる、言葉の形をなしてきた。
 自分はいつの間にか寝ていて、夢の中にいるのではないかと、ヴァディルは一瞬、思った。
 竜だあー。
 同じ単語が、絵本や小説や、母から聞かされたお伽噺の中でしか存在しないはずの名が、現実の声となっていた。
 音の鳴る方へと顔を向ける。ちょうど、防戦用の大きな龕灯が向けられたところだった。
 小山か巨木、それこそ神霊樹の化身かと見まごう、黄土色の巨体が?そこにいた。
 身の丈は城塞の四方にあった櫓をとうに凌駕している。頭頂部には鈍く光る銀色の角が二本。赤い満月を落とし込んだかのような双眸。体を覆う黄土色の鱗は堅牢な鎧武者を思わせ、なぜか片腕には、巨石を抱えていた。
 愚かな獣人どもよ!
 ヴァディルも、そして彼女の周囲にいた獣人たちも周囲を見回した。竜のものと思しき声が、すぐ耳元で轟いた気がしたからだ。遠く一キロは離れていよう距離にあるにもかかわらず、である。
(こいつ、直接脳に……!?
 いかなる原理からか。竜は口蓋も音波も介さず、直接獣人たちの脳に話しかけていた。
「精神波ってやつか」
 我らが生域に間借りせしうぬら、これまでは矮小さ故に見逃しては来たが、貴様らの所業、もはや許せぬ!
(一体何処のバカが何をしたっていうんだよ)
 うぬらの何者かが、我らが卵を盗み出した。知らぬとは言わせぬ!
(あちゃー)
 どこのバカかかは知らねど、いい巻き添えである。
 それからしばし、竜は沈黙した。獣人からの返答を待っているのか。それにしては、両目をキョロキョロさせたり口を意味もなく開閉させたりと、落ち着かない様子だった。
 そして、一瞬、アウェーダが「苛立たしげな」表情を浮かべたのを、ヴァディルはみのがさなかった。
 我らのげ、げ、逆鱗に触れた痛み、非礼を破滅を持って知るが良い!
 竜は、どこかの台本からか持ってきたような言葉を言い終えた。「精神波で噛むなよ」とヴァディルは呟き、アウェーダはさらに、はっきり聞こえる舌打ちまでした。
 生物としての巨大さと能力を心構えもなしに見せつけられ、恐怖と混乱に陥ったまま下される災厄とはいかなるものか。炎か、嵐か、雷か。為す術なく立ち尽くすヴァディルは、竜が携えた岩を抱えあげるのを見た。
 巨石をそのまま投げるのかと思いきや、両肩の筋肉を隆起させ、竜は岩に力を込めた。
 砕かれて粉のようになった石が、パラパラと降ってくる。
「これが災厄?」
 いぶかるヴァディルだったが、そこに第二の声が覆いかぶさった。
「金だ」と。
 ヴァディルも、自分の周囲に落ちてきた粉末を手に取ってみた。鉱物のサンプルで数度、パッヘルベル夫人から「詐欺に遭わないように」と同じく数度、見せられたきりだが、岩に紛れた線上の輝きは、まごうことなき本物の金。
 竜は高純度の金の鉱石を運んできたのだ。
「これが災厄か?」との声もあがる。だがヴァディルはすぐに納得した。まごうことなき災厄だ。
 金は希少だからこそ価値を持つ。卑金属と同量に存在する鉱物など、財産としては意味を為さない。多額の金、いや、多量の金が埋蔵されているという「可能性」を持ち込めば、金本位制の経済などたちどころに崩壊する。経済力と、それに裏打ちされた軍事力で保たれているアルギスにとって、水銀以上の猛毒だ。
 随所であがる、豚が屠殺でもされるかのような悲鳴は投資家のものか、あるいは武人のものか。

   Ⅴ

 夜が明けた。
 竜は何処ともなく消えたが、彼の迷惑な土産は消えなかった。レグル王は警吏に命じて回収できるものは回収し、触れを出した。
「あの鉱石は竜の遺失物である。返却するために、手にある者は持参する旨。着服は窃盗として処罰する」
 面白味もない、散文的とも言える対策だった。返却するのであれば市場には出回らず、着服しても表の市場には出てこない。既存の金の価値は暴落しない。
 朝早く、レグル王はガルダンを邸に呼び寄せた。
 ヴァディルが解せないのは、その場にリンナァとともに立ち会うよう言われたからだ。
「いよいよお嫁入りですか、お姫様」
「今度言ったらその舌引っこ抜くミャ」
 生真面目な顔で現れたガルダンに、レグル王は開口一番、言い放った。
「二度と行くな」
「はて、なんのことやら……」
「お前の家に、巨大な卵が運び込まれたという話、耳に入らぬと思ってか」
「近々、お目にかける予定でしたのに」
「たわけ、おかげで竜に、昨夜のように立ち入る口実を与えてしまったではないか」
 さすれば、竜の卵を盗み出した輩とはガルダンだったのか。それにしては、「立ち入る口実」というレグルの言葉は妙だった。
 竜が自ら卵を盗ませたようではないか。
「あれは、放置されていたものをもってただけです」
「ならば、奴らも『ただ石を持ってきただけ』と言い抜けられる」
「恐れながら、国王殿下は竜を恐れておいでか。私ならば……」
「『王が竜を恐れている』と吹聴するつもりか? 愚かな一頭を退けたところでなんとなる。やつらの恐ろしさは、そんなところにはないのだ。それがわからぬようでは、お主は、婿失格だ」
「なんとでも。しかしそう言われては仕方ない。リンナァ殿は諦めましょう」
 相変わらず鼻でせせら笑うように、ガルダンは言い捨てて帰った。

 その夜――。
 ディカオンに鼻を舐められ、ヴァディルは目を覚ました。
「喉が渇いたのかい、それともおしっこかい?」
「お前も武術を嗜むのなら、侵入者の気配にくらい気づけミャア」
 リンナァが客間に忍び込んでいた。
「おやおや、あのガルダンという男が夜這いにでも来たのかい?」
「父上が、お前を起こせと言っているミャア」

「釣りに行かないか」
 夜明けにはまだ時間があると言うのに、レグル王は釣りの用意をしていた。
 彼女だけでなく、アウェーダと、乗り気でないリンナァも連れ出し、老僕のモーゼルに櫂を操らせ、近くの小島へと向かった。
「夜釣りですか。いいですね」
「ガルダンが来る前なら、一度誘いたかったのだがな」
「あいつがなにかするんですね」
「今朝のあやつの顔つき、どう思う?」
「時間帯を問わず嫌いですね」
「そんなわかりきったことはいいミャ。何かしら今晩、企んでいた顔だと言ってるんだミャ。やっぱ鳥は夜には頭の回転が遅いミャ」
「どこぞの猫科と違って、夜遊びに慣れてなれてなくってね」
「竜の卵のサプライズにしくじったんで、リンナァを腕ずくでさらいにくるんですか? でもおかしいな。この前ボクと立ち会いをしてから、三日程度しかなかった。北の海を往復するには、いくらなんでも日数が足りない」
「なにも自分で取りに行く必要はない。取りに行かせればいいんだミャ」
「武力じゃなく、財力の証明で?」
「しれっと持ってきて、お前さんとの立会のかわりにしようとしたんだろう」
 レグル王は、笑って言った。
「娘の戯言とはいえ、女に負けたとあっては婿どころか笑いものになるからな」
「みんな知ってるんですか」
「いや、あいつくらいだろう。鼻だけは効くからな。だが、保険をかけすぎる輩は、儂は好かん。慎重も度を越すと卑劣になる。慎重すぎていつまでも足踏みしている奴も、気に食わんがな」
「だから一家で夜逃げですか。」
「それもあるが、逃げ出させるためだ。お前さんをな。ガルダンのことだ、邪魔になる輩を、いつまでも放って置くまい。それこそ竜の襲撃に便乗して、お前さんを消しにかかる」
 潮時なので、そろそろスリサズに帰れと言っているのだ。

 レグルお気に入りの釣り場は、干潮時にのみ渡れる岩場の突端だった。
 リンナァは釣りには興味ないらしく、潮溜まりで海鼠や雲丹を玩具にしている。
「竜が持ち込んだ鉱石の話なんですが、仮に処罰も恐れずに着服したら、闇の市場とかに流れたりしないんですか?」
 ヴァディルの問いかけに対するレグル王の笑みは、口の端をにっと歪めたもので、偉大なる獣の王らしくなかった。
「娘よ。お前さんにいたやすく推察されるものが、この国に無いと思うかね?」
「だったら、どうして取り締まらないんです」
「金儲けの原則はなんだね、お嬢さん。『自分の手の余る畑には手を出さず、情を捨てる』だろう? 正確な規模は推し量れぬが、闇の市場は確かに拡大している。だが、既存の市場で満足している者は、あえて危険な相場に手は出さん。取り締まる側の役人も、勝手に儲けさせておけばいいという考えだ。この国の人間は、いつの間にかさかしくなりすぎ、牙も爪も失っていたのだよ」
 ヴァディルの背中に、一瞬の寒気が走った。「アルギスは近々、混沌のうちに滅びる」と言っているのだ。
「ボクだけじゃなく、リンナァも連れて逃げろ、という意味ですか?」
「知っているようで、あいつもまだこの世界を知らぬ――。おい、引いてるぞ」
「おっと。自分の手で海釣りなんて、初めての体験なもので」
 などと言いつつ、ヴァディルも細々とではあるが釣果を挙げている。イサキやガラカブ、カワハギがじゅうぶんに食いつく瞬間を手の感覚のみで伺い、上げる。慣れてくれば、杖術ので培った「勘」の応用でペースも早くなる。
「少し早いが、朝飯にするか」
 アウェーダが火の用意をしていたので、釣果をさっそく炙る。持参した握り飯と、軽く塩を振った焼き魚、その場でアウェーダが捌いた刺身だけだったが、これが美味い。スリサズで食べていた干物っとは比較にならない。残飯には決して口をつけないディカオンも、夢中で食べていた。鮮度が何よりの調味料なのだと、ヴァディルは味覚で痛感した。

 と――。
 彼女の目に、夢のような、喜劇のような光景が写った。考えたくないほど、非現実的だった。
 さっきまで釣りをしていた岩場の向こうに、モーゼルが船を漕ぎ出していた。分かれたときは、「戻るまでこの場で待っている」と約束したはずの老僕がだ。
「お別れでございます」
 船の上で、モーゼルは深々と頭を下げた。その様子が、かえってヴァディルには白々しく見えた。
 ここに置いていかれては、帰るすべはない。
 裏切った――!
「お前とは長い付き合いとは思っていたのにな。よほど美味そうな餌で釣られたか」
 誰が上手いこと言えと、ヴァディルはためらわず突っ込んだ。
「ガルダン様新政権樹立の暁には、これまでどおりの待遇で雇っていただけると約束していただいております」
「それはよかったな」
 レグルは、その器量で笑って頷いたが、ヴァディルもリンナァも「あちゃ~」と嘆息した。あんな男の口約束など、鳥の糞のようなものだ。証文をとってあるわけでもなし、用が済んだら鼻紙のように捨てられるのがオチだ。しつこく食い下がれば刀の露になる。

 モーゼルの船と入れ替わるように、大勢の男を連れた船がやってきた。
「奴らしい保険の掛け方だ。このまま儂を放って、留守の間に邸を奪えばいいものを、見よ、あれだけの人数を連れて殺しに来おった」
 こちらは満足に武器もない初老と、少女が三人。ついでに小動物が一匹。あちらはガルダン以下、完全武装した男が、少なく見積もって二十名。
「この釣りたての魚で懐柔できませんかね」
「いいところに目を着けたな。だがガルダンについていく連中だ。ものの価値などわかるまい――。さて、客人。お前さんならどんな手で迎え撃つかね?」
「狭い道まで逃げましょう。こちらは少数ですが、少人数ずつを相手にします」
「いい師をつけたな。おっと、矢を構えたぞ。とっとと逃げるか」
 しかし、ヴァディルはそれ以上の策を弄する必要もなかった。
 船が、なんの前触れもなく横転したからである。横転するだけでなく、真っ二つに折れた。
 ガルダンの策ではない。その証拠に、せっかくの武器も投げ捨て、粉々に砕けた船の破片にしがみついている。鎧を脱ぐことに間に合わなかった者は、哀れ海中に沈んでいった。
「あれは……!」
 異変をもたらしたものは、ほどなく姿を見せた。銀の角に黄土色の鱗。昨晩の竜である。
 竜は蝿でも止まったかのように頭をぽりぽりと掻いていた。悪意はなく、船を沈めたのはたまたまだったらしい。
「迎えに来たぜ」
 竜は、今度は人の言葉で語った。
「今度は噛んでないね」とヴァディルは呟いた。
「迎えに来たってさ、リンナァ。海の底からプロポーズとは、モテモテだねえヒューヒュー」
「あいにく、砂の上にウンコしてそのまま知らぬ顔でどっかに行きそうな小娘じゃねえ」
 ヴァディルの揶揄に答える竜。リンナァもつい、「お前らまとめて利子つけてコロス!」と言ってしまった。
「もう少し、ここで遊ぶんじゃなかったのか、アウェーダ」
「えっ」
 ヴァディルとリンナァは、同時にメイドの少女の方を振り向いた。
「ここが面白いのは争いが無い時だけ。それももうすぐ終わり。身の程を弁えないバカのせいで、また醜い小競り合いが始まるわ」
 岩場に顎を乗せた竜のもとに、アウェーダは歩み寄っていった。
「さようなら、獣の王。それに、獣の娘たち。あなたたちの漫才はそこそこ面白かったわ」
「やはりお前さん、ただの獣ではなかったな」
「さすがは王ね。獣のふりをしていたつもりだったけど……。一体いつ気づいたのかしら?」
「見た目の割に、履歴書の字がすごく下手だったからな。今月分の給金がまだだが」
「ここには遊びに来ただけですから。それに、あなたがたの貨幣というものは、私の国では役に立ちませんわ。あなたに雇って頂いたおかげで、妙な勘ぐりをされずにすんだわ。こちらの方こそ、礼を述べておくわ」
「では、頼みがある。お前さんの国に、うちの娘と客人も連れて行ってはもらえぬか?」
「「え」」
 二人でそろって声をあげた。スリサズに戻るはずが、とんだ申し出である。
「アタシは留学なんて嫌だミャ」
「その目で、世界の真実を見てこい。お前はその客人を馬鹿にするが、己の程度もさして変わらなかった事実を知ってくるがいい」
 有無を言わせぬ威厳に、ヴァディルの毛まで逆だった。
 アウェーダは、二人を見て、答えた。
「いいでしょう。この二人がいれば、多少は気が紛れるわ」
「アタシは……」
「行こう、アウェーダ。よくわからないが、父上の言う通りにしたほうがいいことはわかる」
 リンナァは、首を掴まれるようにヴァディルに引きずられ、竜の頭に乗った。レグルに言われ、釣り道具も持たされた。
「どうした。いい年をして、知らぬところには遊びに行けないのか。ヴァディルのほうが、よほど肝が据わっているぞ」
「と、年寄り一人残していくのが不安なだけだミャアッ!」
 久しぶりに、親子というものを、ヴァディルは羨ましく感じた。これから混乱に陥るであろうアルギスに、老いつつある父を一人残していくのはさすがに不安なのだ。唯一の救いは、「政敵」がいなくなることくらいか。

「こいつはギウス。適当に使ってやっていいわよ」
 黎明の海を、頭に少女三人を乗せた竜が走っていた。黄土色の竜を「こいつ」呼ばわりするアウェーダは、口調も態度もしだいに横着になっていった。
「そろそろ沈むぞ。アウェーダ」
「え、沈むって……」
 慌てて息を止めようとするヴァディルとリンナァに、アウェーダは「何やってんですの。深度二百mあるのに、続くわけないでしょう」と冷たく言った。
「仕方ありません。下等生物にはもったいないですが、精練術(スピリチュア)を使って差し上げますわ」
「セイレン?」
 アウェーダが手を挙げると、呼応したように、風が集まった。
 続いてギウスの頭部が海中に沈んでいくが、ヴァディルたちの周囲には、大きな泡で包まれたように空気が留まっていた。
「これは……。何だミャアっ!?
「風の精練術ですわ、深度三百mまでの水圧にも耐えられますから」
 神霊樹に、科学では解明できない力が宿っていることは知っていたが、それを自ら利用できる者がいるとは――。ヴァディルだけでなく、リンナァも驚きを隠せなかった。
「ね、アウェーダ。君の故郷って海の底なの?」
「ご安心を。齢百年足らずの幼竜のために、空気呼吸ができる空間もありますわ」

 ヴァディルたちが島から去って、数分後。
 彼女たちを見送ったレグルのもとに、歩み寄るガルダンがいた。全身ずぶ濡れで、髪は海藻のよう。上着を脱ぎ捨てているのは、濡れて岸に泳ぐためには邪魔になったからだ。
 彼の後には、同じような格好の家人たちが続いている。
「おう、やっと来たか」
 溺れそうになりながらも、ガルダンは杖を一本、すがるように持ってきていた。家人たちはそれぞれ、短刀を持ち出していた。
「つくづく呆れた奴だ。娘たちがいなくなるのを待っていたのは、暗殺を見られたくないからか。それとも、女三人が怖いからか?」
 嘲るような、睨むような目で睨まれ、ガルダンの足が止まった。
「レグル王は、竜に襲われて命を落とした。そう記録させていただく」
 ガルダンの持っていた杖が中ほどが鞘のように抜け、細い刃が現れた。抜いた半分に組み合わせ、細身の槍ができあがる。
「釣り竿しか持たぬ相手に仕込み杖か。かかってこい。娘がいずれ戻ってくるときのために、掃除をしておいてやろう」
 ガルダンの家人たちが、叫びを上げてレグル王に襲いかかった。
「よかろう、この生命くれてやる。お前ら全員の命と引き替えにな」

 孤島を、獅子の咆哮が揺るがした。
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登場人物紹介

ヴァディル・イストリア

浮遊大陸スリサズで〔神騎士〕になるべく修行する少女だが、性別を男と偽っている。本来、自在に空を飛べる〔鳥人〕だが、幼い頃に両親と亡命してきて以来、背中の翅は失われている。身を寄せる商会の一人息子であるルーグとは修行仲間。想いを寄せられていることも、とっくに女性だとばれていることにも全く気づいていない。ネーミングは〔クォ・ヴァディス〕から。

シークア・イェークストルム

ヴァディルが師事する師匠の妹。幼い頃かルーグに想いを寄せているが、彼の扱いはぞんざい極まりない。ちなみにネーミングは某北欧女子マンガ家から。

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