第五章 神兵崩れ

文字数 8,810文字

第五章 神兵崩れ

   Ⅰ

 敵は一人、こちらは十人。
 イズライールの幹部たちが数の有利を盲信してくれたことは、ルーグにとって僥倖だった。
 護身用の短刀が、ルーグめがけいっせいに振り下ろされ。
「なんだその構え。無抵抗のやつ一人に、集団で制裁を加える時にしか使ってこなかったんだろ? 刃が泣いてるぜ」
 相手が「弱者」でも、ルーグは容赦しなかった。
 杖の先端に仕込まれた刃を剥き、血走り見開かれた眼球に、がなりたてるだけで間抜けに開かれた口、唯一衣服に覆われていない喉元を。
 貫き、抜く。
 貫き、抜く。
 貫き、抜く。死体製造機となったルーグは精密に、無表情に、あっという間に、「貫かれた急所から鮮血を吹き出して悶絶する人体」を三つ作った。
「安心しろ。あと三十分か一時間もすれば死ねる」
 海に入って切っ先の血を洗う。わざと見せた無抵抗な背中。「餌」に、たちまち次の獲物たちが食らいつく。
 シュッ。シュッ。シュッ。
 三本の頸動脈が切られ、中身を吹き出した。
 逃げ出す一人の背中を追いかけ、砂に足をとられて無様に転んだところを、無慈悲に刺す。
 残ったのは、首魁と、小柄な男と、少女の、三人。だが少女は明らかに戦う気もなく、傍観しているだけだし、小男は腰を抜かしていた。
 ルーグは、殺気を首魁に向けた。
 杖をわざとだらんと垂らし、隙丸出しで歩み寄っていく。首魁は、抜いた短刀をめちゃめちゃに振り回し、ルーグを牽制していたが、そんな穴だらけの守りで、彼を阻めるはずもなかった。
 緩慢にも見える動作で、ルーグは杖を突き出し、首魁の心臓を貫いた。

「おい、お前」
 ルーグは、わざと見逃してやった小男を呼び止めた。
 たまたま見逃したわけではない。臆病そうに見えるが、男たちの中では一番、それこそ首魁以上に賢そうに見えた。
「俺の質問に全部答えろ」
 スリサズを初めとする島大陸国家を目の敵にする理由を、知りたかった。ただ殺すだけでは飽きたらなかった。
「シャアアアアアッ!」
 ルーグの予想は見事に外れた。短刀さえ持たないその男は、怒りというよりは狂った、哀しみに近い形相で、ルーグの首を締めようと襲いかかってきた。
 ほんの一突きで、男は倒れた。
「アア、アア……」
 だが小男は死ぬ間際、すでに事切れていた首魁に這い寄り、体に跨って息絶えた。
「ホモかよ」
ただ首魁についていただけでなく、男と男の関係だったというわけだ。
 ルーグは、ダメ元で少女の方を向いた。
「言葉はわかるか?」
 少女は、こくりとうなずいた。
「俺の質問に答えられるだけ答えろ。俺には嘘や隠し事を見抜く能力がある」
「嘘をついたら殺すぞ」といいさし、ルーグは中断した。イズライールからの捕虜を見たことがあるのだが、いずれも死人のような目をしていた。毎日、毎時のように体罰を受け、人格を否定され続けたか、死の意味すらわかっておらず、脅迫が全く通じなかった。尋問が全く無意味だった。幼い頃から暴力とセットで理不尽かつ非科学的な摂理を教え込まれ、心が壊れてしまった操り人形だ。爆弾を抱いて死ねと言われれば、そのとおりに死ぬ。「近寄れば殺すぞ」「命を大切にしろ」という警告が、まったく役に立たない。
 少女は武器らしい武器を持っていないように、さらに暗器などを隠し持っている様子もない。ルーグは遠回りをすることにした。
「何か、してもらいたいことがあるか? 困っていることはあるか?」
 子供を飴玉で釣るのと原理は同じである。欲しいものを提供すれば、運が良ければ信頼関係を得られる。
「気分が悪い」
 少女は、腹を擦りながら答えた。
「まさか」
 少女の腹はやや膨らんでいる。男たちと一緒にいたのであれば、妊娠していると考える方が、むしろ自然だ。
 ルーグは理想的な父親代理となった。少女を木陰に休ませた。きれいな水を探し、それが無いと見切りをつけると、湧き水を沸かして湯冷ましを作った。
 出産は、三日後の夜だった。三日の間に、ルーグは少女の名がアルネットであると知った。思ったとおり、十二歳の時分にイズライールに拉致され、首魁専用の女にされていた。
 アルネットは身上を語った。
 拉致されるまでは、父母から相応の教育を受けていて、文字の読み書きもできた。
「女は無学のまま、男の言うなりにするべきである」というのが、イズライールが唱えるアラベスク原理主義である。連中の前提は、連中にとってのあるべき姿である、アルネットが字も読めない無学な女だと思い込み、部屋に作戦の書類を無造作に放置していた。隣の部屋で、新兵にする子供の拉致計画まで大声で話していた。

 イズライールの幹部たちは、端から世界をアラベスク原理主義一色に染めることなど考えていない。無差別殺傷を行うのは、世界をアラベスクと反アラベスクに二分し、対立の構図を作るためである。
 対立状態が恒久的になれば、中核である幹部たちの権威は保証される。連中は、アラベスクの主神に昏倒しているわけではなく、ただ自分たちの権力と権益を拡大するために利用しているだけだった。本来の教義に従えば、もっとも煉獄に堕ちるに値する所業だった。
「全員が他の宗派の者を邪教徒と呼び、死さえ恐れないというのが、俺たちが教えられてきたイズライールだったが……。中身はだいぶ違ったみたいだな。殺されるだけじゃなく、相手を殺せば殺すほど、奴らにとって願ったり叶ったりってわけか」


   Ⅱ

 うおぉおぉおぉおッ!! オオッ!! 
 岩場だらけの小島の海鳥たちが怯えて一斉に飛びたつほどの、咆哮。
 風さえ震わせる怒り、恨み。
 あの世のあらゆる魔物さえ逃げ出す程の憎悪を漲らせているのは、ヴァディルだった。
「畜生、畜生ッ。殺してやるッ! 皆殺しだっ! イズライールの奴ら、一度ならず二度までもっ!」
 荒波に向かい、ヴァディルは杖代わりの流木を打ちつけていた。砕いても砕いても波は途切れることなく打ち寄せ、ヴァディルの呪詛を飽くことなく飲み込んでいた。
「ルーグはいい奴だったッ! シークアは親友だったッ! パッヘルベルのおじさんもおばさんも、店の人たちもボクにとっては大事な家族だった。それを、それをっ」
 彼女の狂乱を見つめるのは、リンナァとアウェーダ。エリザベスは水や食料を探しに行くと言い置いてその場を離れている。
 アウェーダは竜と人との違いを思い出していた。
 竜は産卵と孵化に適した場所を求めて自ずと一箇所に集まる。成長すれば他者の助けを要しないのだから、群れ自体に意味はない。生まれ育った場所に魂の半分を置いたりはしない。
 子を産み育て、水と食料を集めて雨風を凌ぎ暖や涼をとる。個々でやるよりもそれぞれの仕事に秀でた者が分業した方が効率が良い。その代償として貨幣を使う。そのために長い幼年期の間、教育を受ける。人は弱いからこそ群れをなす。助け合う。楽しみだけでなく労苦を共にした同胞、土地は、まさに肉体と魂を共有する分身である。
 ヴァディルは、その半身を二度も、ごっそりとえぐり取られた。その痛みは言葉をとびこえ、アウェーダの感覚野に直に響いた。
「おいお前、いい加減にしろだミャ」
 それまで黙って見ていたリンナァが、波を蹴立てて海に入っていった。
 気づかないのか、気づいていて無視しているのか。いずれにせよこちらに向けたままのヴァディルの後頭部に、容赦ない蹴りを見舞い、彼女を海中に叩き込んだ。
「ぷはっ――」
 何をする、と言う前に、立ち上がったその胸ぐらをつかみ、反対側に投げ飛ばす。
「少しは面白い見世物が見られるかと期待してたけど、見損なったミャ。殺す? そんな感情剥き出しで喚いて前後も見られないありさまで、一体誰が殺せれるんだミャ? 臍で燗ができるミャ」
「なんだと?」
十八女(さかり)のついた雌猿でさえ、まだましだミャ。返り討ちにされるのは勝手だけど、誰が死体の後始末をすると思っているんだミャ」
「うるさいっ。さっきからなに笑ってるんだよ、ドラ猫!」
「お前との旅もここでおしまいだミャ。明日からはもっと楽しそうな道連れを探すミャ。捨て犬みたいについてこられても面倒だから、ここで始末しておくミャ。ほれ、お前の神様にお祈りするミャ。あっそうか、さっきいっしょに死んでたミャ」
「殺す!」
 あーあ、と、アウェーダはため息づいた。頭に血が上った状態で杖をふりかざしても、結果は目に見えている。案の定、付き入れた杖を苦もなく躱され、カウンターの掌底を腹に食らった。しかも二発。
「ぐはっ!?
 ぶんぶんと大ぶりの杖をかいくぐり、顎に、鼻面にと。
 髪をつかまれ、海面に押しつけられ、溺死間際で引き上げられ、を、数回繰り返される。猫じゃらしであしらわれる猫よろしく、ヴァディルは弄ばれた。
 鳩尾に掌底を食らい、腹を抱えてうずくまるヴァディルの首筋に、容赦なくリンナァは回し蹴りを見舞った。
 横っ飛びで吹っ飛び、うつ伏せのまま波間に漂うヴァディル。
(あら……?)
 その様子のおかしさに、アウェーダは気づいた。突っ伏してから数十秒経っても、ヴァディルはもがくようすも見せない。
「ちょっと、まさか――!」
「やっとくたばったミャ。どれ、死に顔を……」
 ヴァディルのローブをリンナァが引き上げたとき、それは、ローブだけだった。
「……!」
「シャアァアァアァアッ!」
 ローブを脱ぎ捨て、素っ裸同然の姿になったヴァディルが、ざばんと海中から現れると同時に、リンナァの両足首をつかみ、ひっくり返した。
「忍法〔空蝉の術〕だっ。どうだっ、海底の砂で思いっきり用をたしな、このドラ猫っ」
 空蝉の術なだけにセミヌードですのね、などと、アウェーダはアホな駄洒落を思いついてしまった。
「ひ、卑怯だミャ」
「罵れ罵れ、卑怯はボクの国では褒め言葉だ」
 あら、とアウェーダが気づいた。ヴァディルの顔が、いつもの聡明さを取り戻している。足首を持ち上げられ、アップアップと海面でもがくリンナァを見下ろす目は、もう血走っていなかった。
(これですわ……)
 同族の「死」という不可逆的な、どうしようもない現象に、怒り狂うしかない。理性が未熟な、不完全な知能ゆえに苦しむ。
 だからこそ互いに慰めあい、場合によっては叱咤する。
 竜では見られない光景の一つだった。この一見醜く、幼稚なじゃれ合いを見る度に、アウェーダは快感にも似た疼きを覚えるのだった。
 リンナァも、本気でヴァディルを殺そうとしているわけではなかった。頭に上った熱い血を、海水で冷やしてやろうとしただけだ。ヴァディルも、それを十分承知しているはずだっ――。
「死ね死ね死ね死ねっ!」
「ゲバゲボガベゲボ」
 下剋上を成し遂げたヴァディルは調子に乗ってリンナァにまたがり、首を絞めながら海中に沈めるという残虐行為に出た。
「こらっ! こらこらこらこらっ!」
 アウェーダは慌ててヴァディルを羽交い締めにし、溺死寸前のリンナァから引き剥がした。
「ほんとに死んでしまいますわっ!」
「ほんとに殺すんだからいいんだよ」
「何をわけのわからんことをっこのバカ女ッ。わたくしの胸の疼きはどうしてくれるんですのっ!」
「何をわけのわからんことを」
「いいからお前も前隠せミャ」
 死ぬ縁から蘇ったリンナァが、ぷっと海水を吐き出した。
「パンツのゴムが切れてほぼ全裸になってるミャ。お前には羞恥心というものがないのかッミャッ」
「失礼な。ここ女しかいないだろ。異性の前ではさすがに隠すよ」
「あの男と一緒に風呂に入っていたんじゃないのかミャ」
「あの男? ああルーグのことか。最初は戸惑ったけどね、どういうわけかあいつ、誰かと一緒に風呂に入ったり着替えをする際には、人に背中を向ける癖があってね」
「それ癖じゃ無いですわ」
「やっぱりこの女、アホだミャ。こういうやつが落ちる新しい地獄を埋立地にでも開発してやりたいミャ」

   Ⅱ

 ヴァディルは大きめの葉っぱを探し、リンナァは新たな地獄の設計図を考えだしたが、そこにトップヘビーの物体が、砂浜を歩いてきていた。エリザベスである。左手には、バナナのような果物をたくさん提げていた。
 傘のように見えるのは、よく見れば硬めの茎や樹皮でこさえた担架で、それを片手で頭上に掲げているのだった。
 担架なので、上には人が横たわっていた。
 砂に深い足跡を残し、エリザベスは果実と水場の場所を土産に戻ってきた。ディカオンが先導しているところを見るに、水場を発見したのは彼らしい。
 問題なのは、ついでに持ってきた人間である。ヴァディルたちより若干年上に見える。頭の天辺からつま先まで骨が現れていて、生きているのが不思議なくらいに痩せこけている。
 だがヴァディルが注目したのは、少年の足首に記された、一本の黒い線である。
「それは……」
「ああ、アウェーダ。君は目にするのは初めてなのかな」
「イズライールの〔兵士〕であることを示す刻印だミャ。こいつは一本。いちばん下っ端の、犬の糞より扱いが劣る兵士だミャ」
「いい拾い物をしてきてくれたね、エリザベス」
 頭を撫でられ、エリザベスは答えた。
「訊きたいことがあるんでしょう?」
「そのとおり。数分前なら即、殺していたけどね。イズライールの目的、信条。得られるだけの情報を得たい。そのためには、もう少し生きてもらわないと」
「魚か貝でも焼いて食わせるミャ」
「水が必要ですわね」
「魚で出汁をとったスープがいいだろうね。それより先に、日陰に休ませないと」
 ヴァディルとリンナァが草や葉を編んで、少年兵と自分たちが雨露を凌ぐ寝床を作っていた。アウェーダはエリザベスを伴い、大きい潮溜まりに足を向けた。
「こういう力の使い方をしていいものか………。ま、緊急事態ですし」
 アウェーダが右手を潮溜まりに突っ込むと、彼女の髪は竹箒のように逆立った。
 雷精の力を使い、一瞬、潮溜まりに電撃を走らせる。小さい電撃に打たれた魚たちが、ぷかりと浮いた。
「エリザベス、ありったけ集めておいて頂戴。私は岩場でグジマを剥がしてきます」

 幅広の海藻で作った鍋で湯を沸かすと、うまく出汁を取れた。そこに腸をとって三枚に下ろした小魚の骨を入れる。小魚と海藻の出汁がぶつかってしまうが、栄養価を高めるためである。そこに骨をとった小魚を入れて、スープを作った。
 他にも蒸し焼きにしたり、干物にして保存食を確保した。グジマも湯がいてタンパク質を確保する。
「ほら」
 匙すら持てない少年兵の口元に、ヴァディルはスープを運んでやった。少年兵の瞳に、これまで灯ったことのない光がさした。
「慌てるな。まだたっぷりある。代わりに、話を聞かせてもらう」
「あまり時間がありませねわよ」
 アウェーダが、ヴァディルに耳打ちした。
「その人間の生命の炎、尽きかかっているわ」

 少年兵が語るところによれば、イズライールには大雑把に二種類の人種が存在する。
 少数の、命令する者。
 多数の、命令される者。
 いわゆる〔幹部〕と呼ばれる連中は、現場で指揮を執る小隊長を除いては、全くと行っていいほど表に顔を出さない。小隊長でさえ下っ端で、幹部たちの命令を伝えることが役目だった。
 兵士の出自はさまざまだ。貧しさや身分の低さから抜け出すため、イズライールの主張に共鳴するもの。
 少年兵はこれに近かった。
 彼の出生は部族の中でも最も身分が低く、生まれた地域の汚臭がそのまま体に染み付いていた。就労でも結婚でも最下層に置かれた彼らが「脱出」するには、イズライールのような革命的組織に身を投じる他無い、と判断したのだった。
 身を投じるとすぐに、小隊に配属された。小隊長もまた、幼い頃からイズライールに拉致され、軍事に関する訓練を受けていた。一緒に拉致された少女は奴隷として売り飛ばすか、幹部たちが独占しているらしかった。
「神の兵士として死んだら、毎日のように宴が開かれる天国に行けるんだ」
 イズライールでの生活に、彼は不満を漏らさなかった。そこでは生まれに関係なく、皆平等であった。
「平等に使い捨てられるだけだからな」
 ヴァディルのつぶやきも聞こえず、少年はかろうじて聞こえる声で喋り続けた。
「食べ物だけじゃない。そこには美しい天女がいるんだ。大勢の天女が世話をしてくれて、気に入った子と結婚できるんだ――――――――。ああ、そうか!」
 少年兵は、両目をくわっと見開いた。
「そうか、そうなんだ。こんな美人たちに、こんな美食を食べさせてもらうなんて――。嘘じゃなかった、本当だった。ここが天国なんだ!」
 歓喜の笑みを浮かべたまま、少年兵は息絶えた。

「なんなんだ、これは」
 少年兵の瞼を閉じてやり、ヴァディルは呟いた。
「ボクたちが天女だって? ろくすっぽ味もついていない、小魚や海藻を煮ただけの汁が美食だって? こんなに笑えない冗談は初めてだぞ。どれだけ不味いもの食ってきたんだよ。どれだけ人生の目標設定が低いんだよ」

   Ⅲ

「やり方を変える必要がある。ボクたちは今まで、他神をあがめることを一切許さない、狂信的な集団という概念を抱いていた」
「そう思いこんでいたのは鳥頭のお前らだけミャ。実際にはいろんな理由から兵士になっているんだミャ。家族を人質を取られたり、どん底からはい上がろうとして協力しているやつが九割超えてるミャ」
「どうすれば壊滅させられる?」
「そのへんの解説は、自称高等生物様にお願いするミャ」
「なんか言い方が腹立ちますけど」
 アウェーダが前に進み出た。
「人間の英知はまだ発展途上ですわ。解明できない部分を『神』という、実在しない存在で補完する」
「それを悪用して、自らの権益を守り、増大させる連中もいる。実在もしない神の言葉を捏造してね」
「〔神官政治〕ですわね。イズライールとかいう連中も、その亜種みたいなもの。事実上の一神教しか存在しない地域では、いくら殺しても兵士は補充できる」
「目を覚まさせてやるというのはどうだろう。アラベスクの神なんて幻で、いいように利用されていると啓発する」
「身内を人質にとられていたり、他に這い上がる術を持たなければ意味はないですわ」
「惑わされているんじゃない。是どん底から這い上がる手段を知らない、いや、奪われている」
「その状態を、人は何と呼ぶミャ?」
「〔絶望〕」
 四方を高い壁に囲まれ、死までの道程において苦痛しか選べないとき、人は理性を奪われる。法による処罰も枷にはならない。適切な養育・教育を受けなければ公徳心も育たない。唯一残った本能である食欲・性欲を餌にされ、いくらでも替えの効く「駒」として使い捨てられる。
「そうさせないためには、どうしますの?」
「〔希望〕」
 ヴァディルの答えは早かった。
「正しい養育と教育を受けて、まともに働けば夏は涼しく冬は温かいところに住めて旨いものを食べられてそれなりの結婚ができてそれなりの家庭を築ける。その保証だ」
「具体的には?」
「教育、つまり学校の提供。そして職場の提供」
「それをすれば、おそらくテロリスト全般に狙われるでしょうね。もっとも目障りな存在ですから。直接襲撃するだけでなく、家族を拉致し、親類や友人を脅し、職場に圧力を加える」
「戦う力だ。自らの生活を脅かす脅威に対し、抗う術を持つ。警吏や同様の無法者の庇護に頼らず、自らの手で抗う力だ」
 イズライールがスリサズ、アルギスのような経済的に発展した国家を攻撃する理由は、連中の言う「神の国の樹立」ではないのだろう。幹部にとって迷惑なのは、「豊かさ」だ。資本家と労働者の利益が均衡を保てれば、資本主義は全員が豊かになる可能性が最も高いシステムである。経済的に豊かになれば、新たに事業を興し、職を提供できる。税収も増える。富を再分配するようになる。テロリストにとっては「貧富の差」が永遠に続き、不満が固着化すれば、攻撃を正当たらしめる名分を得られるのだから。一神教を標榜する破壊組織にとっての真の敵は、健全な経済発展だ。
「でかい風呂敷広げたけど、いきなりお前さんが気前のいい大富豪になるのは無理だミャ。最初の一歩はどうするんだミャ?」
「まあ焦るんじゃないよ、リンナァ君」
 ヴァディルは、諭すようにリンナァの前に掌を立てた。
「計画はすでに頭の中で進行中なんだが、その前に整理したいことがあってね」
 ヴァディルは、そこで勤勉に少年兵の墓穴を掘っているエリザベスに向き直った。
「聞かせてもらおうか。君が知っているすべてのことを」
 エリザベスは、大して驚きもせず、あいかわらずの人形のような表情で向き直った。
「遅かったわね。最初に会ったときから一週間は経つのに、漫才ばかりしているものだから、本物のバカかと思っていたわ」
「お待ちかねの尋問をしてあげるよ。アルギスはスリサズの未来の姿、ラグズは古代の姿。だが君と、君が乗っていた船はスリサズの延長線上にはない。まるでおとぎの、いや、絵本の裏から飛び出してきたような存在だ。ラグズに始まって、スリサズの滅亡も、イズライールの実態も、まるで興味がない。というより、まるで最初から知っているような態度だった。全部話してもらおうか。君はこの世界をどこまで知っているのか」
「全部話したら百年はかかるわ。あなたたちにも理解できるよう、十万分の一に要約して話してあげるわ」


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登場人物紹介

ヴァディル・イストリア

浮遊大陸スリサズで〔神騎士〕になるべく修行する少女だが、性別を男と偽っている。本来、自在に空を飛べる〔鳥人〕だが、幼い頃に両親と亡命してきて以来、背中の翅は失われている。身を寄せる商会の一人息子であるルーグとは修行仲間。想いを寄せられていることも、とっくに女性だとばれていることにも全く気づいていない。ネーミングは〔クォ・ヴァディス〕から。

シークア・イェークストルム

ヴァディルが師事する師匠の妹。幼い頃かルーグに想いを寄せているが、彼の扱いはぞんざい極まりない。ちなみにネーミングは某北欧女子マンガ家から。

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