第三章 凍れる国の賢者

文字数 17,848文字

第三章 凍れる国の賢者

   Ⅰ

 若き竜ギウスの背に乗り、丸二日。
 大航海をする船になど乗った経験のないヴァディルだったが、肌で感じる速さは空も海も共通だ。頬に当たる風、その風を切る角の音から、毎時三十ノットという高速で、海上を滑っていることはわかった。
 体に磁石でも内蔵しているのか。ギウスは一切の迷いなく、不眠不休で、北北西を目指して泳いでいる。渦潮に突っ込んでも、小動だにしない。黙々たる航洋で、ギウスは黙って、その強靭さを雄弁に語っていた。
「寒いミャア。なんとかするミャア」
 南国生物由来のリンナァが、八重歯をガタガタ鳴らしていた。
「そこに湯たんぽがあるでしょうに」
 ヴァディルは、アウェーダに湯たんぽと称されたディカオンを抱いている。
「ずるいミャア」と連呼されてうるさいので、ヴァディルは旅用のマントにリンナァを包んでやった。リンナァがもぞもぞと頭まで潜り込もうとするのは閉口したが、こちらも温かいので互助関係が構築されていた。
「そろそろ潜りますわ」
 前方に、氷に覆われた山が見えてきたところで、アウェーダは言った。
「えっ潜るって」
 アウェーダがわざとそっけなく言ったのは、狼狽するヴァディルの顔を見たかったのだろうか。冷気から、海水温はせいぜい五、六℃だろう。
「空気があるところに浮上するまで十分は係るでしょうから、しっかり息を止めておいてくださいな」
「無理! 風呂で競争したことあったけど、五分が限度――」
「三、二、一。それ!」
 ギウスは海中に没した。
 目を閉じ、鼻を押さえ、リスのように、慌てて頬まで膨らませて空気を吸い込んだヴァディルとリンナァだったが……。
 妙だった。
 海中に没したというのに、肌は濡れない。心臓も麻痺せず正常に動いている。
 ためしに目を開ければ、笑いを必死に噛み殺し、口の端をヒクヒクさせているアウェーだがいる。
 ヴァディルが口を開けても海水は流れ込んでこない。自然に息ができる。それをリンナァに教えてやり、二人して言った。
「担いだな!」
「あまりにも騒々しいので、黙っていただいたまで」
 ギウスの「ふう、やれやれ」といいたげな鼻息が聞こえた気がした。
 いかなる原理か、ギウスを中心とし、泡のような空気の塊が形成されている。そのままギウスは深く潜ったが、海の透明度は低く、すぐに陽の光は届かなくなった。
 トロッコに乗ってお化け屋敷を移動するような感覚が続いた。
 そして浮上。
 ヴァディルたちが再び海面上に現れたのは、洞窟のように、陽の当たらない場所だった。
 ぐるりと上を見渡す。ところどころ、十cm程度の穴が空いていて、そこから陽光がさしこんでいる。他は一面、岩壁で覆われている。
 ギウスは砂地に乗り上げ、彼女たちを降ろした。空気はアルギスに比べればひんやりとしているが、毛布を被れば寝られそうだ。洞窟内であれば、外が暴風雨や吹雪でもやりすごせそうだ。
 ヴァディルは砂浜に降りた。真っ白で決めの細かい砂は、絹のシーツか、真珠を砕いて敷き詰めたようだった。
「ふふ……」
 ヴァディルは靴を脱ぎ、裸足で海に入った。海水は澄んでいて、泳ぐ小魚も見えた。
「冷たいけど気持ちいいねえ。ほら、リンアァも入ってみなよ」
 パシャパシャと足で海水を蹴立てるヴァディルだったが、リンナァは。眉をひそめ、言った。
「ヴァディル、アレ見て見るミャ」
「え」
 リンナァが指差す方を見てみれば、そこには大勢――三十頭はあろうかという、小さな竜の群れがいた。ギウスの体格と比べ、それは生まれて間もない幼竜の群れだとわかった。
 その竜の群れは、いっせいに海に尻を向け――。
 ブリッ! ブリブリブリブリリッ!
 排泄していた。小魚は、その「養分」に集まっているのだった。
「アギャァアアアアアアアアアアアアアーッ!」
 ヴァディルは、生まれて以来の大絶叫をあげた。

「ほらよ」
 しばらく姿を消し、戻ってきたギウスが口から吐いたのは、数匹の魚だった。
「不味かったら言ってくれ、またとってくる」
「ありがと。十分美味しそうだよ」
 ギウスは同様に、幼竜たちにも魚をやると、また外洋にでていった。腹をすかせていたらしく、幼竜たちは我先にと魚に群がった。なかなか板についた世話係だ。
「私を傭ったのはレグル王であってあなた方ではないわ。厩よりはマシな場所なら用意して差し上げるけれど、そこまでよ」
 アルギスには寝床があったが、ここ竜の国にはない。アウェーダは、自らの生国を[ラグズ]と呼んでいた。竜たちが称する正式な名称ではなく、スリサズ、アルギスにならい、彼女がつけた名称らしい。
「古代語でスリサズは風を、アルギスは炎を、そしてラグズは水を表すというミャ」
 竜と人とは体の構造が全く異なる。いなかる嵐が訪れ、豪雨と雷に打たれようが、竜はまったく動じない。砂漠の砂さえ焼き尽くす陽光も、吹雪も、その強固な鎧を穿つことはできない。
 服も不要。家は当然不要。生きるために必要な糧は、陽光や海から直接取り入れられると言うから、食事をとる必要もない。
 例外もあり、齢百歳に満たない幼竜たちは鱗も弱く、また自然から直接糧を得られない。抵抗力も弱く、他の動物と同じように病気にもかかる。こうして岩に囲まれた洞窟(アウェーダは【揺籃瀬】と呼んでいた)に集められ、成竜たちが運んでくる魚を食べているという。
「脆弱なあなたたちが過ごすには適切な場所でしょう」
「お気遣いどうもだミャ。ヴァディル、雨風凌ぐだけの厩みたいな場所に案内されて、そんなに嬉しいのかミャ?」
「いやぁ思い出すねえ。アイアス先生に連れて行ってもらった合宿。無人の浮島に渡って、一週間、水と食料を現地調達しながら乱取りするんだけどね」
 神霊樹の寿命が残っているにもかかわらず、交易に不便という理由で放棄されている浮島は、「無人島」となっている。アイアスは年に一度、そういった無人島に弟子たちを連れていき、衣食住を自分たちでさせる「合宿」を行っていた。
「合宿」と称すると聞こえはいいが、実際は、四六時じゅう食事の用意で、単純に「生き延びる」ための訓練だった。二時間かけて探した水場で水を汲み、沸かす。枯れ木や枯れ草といった焚き物を探し、石を組んで竈を作る。食材まで狩りで集めろといわれたら、脱落していただろう。夜も火を絶やさないよう交替で寝ずの番を務めねばならない。朝から次の朝まで「次の食事」の用意に忙殺され、とても武術の鍛錬どころではなかった。
「ご飯もパンもビチャビチャでね。店で出されたらとても食べられるシロモノじゃないんだけど、草原に寝っ転がって見上げた夜空が、今でも記憶に焼き付いているよ」
 ヴァディルは、鼻歌交じりで、食べられる魚とそうでないものを選別した。
「その鯛の仲間は食べられないのかミャ?」
「肝臓の脂が強すぎるやつでね。ビタミンAが多すぎて頭が痛くなる」
「そっちは猛毒の河豚だミャ!」
「カワハギだよ。確かに遠い親戚だけど、煮付けにすると肝が絶品。新鮮なやつなら刺し身もいける」
「その白くて脚がたくさん生えてるのは……」
「いいねえ、水イカだ。新鮮だからイカ刺しにしてもよし、湯がいて皮をはいで塩焼きにするといい肴になるんでゲソよ」
「語尾が変じゃなイカ?」
 ギウスが乾いた流木をこすり合わせると、またたく間に摩擦で火が着いた。リンナァに集めさせた流木や乾いた海藻に火を移し、岩を熱する。大きめの海藻で魚を堤、蒸し焼きにした。その手際を、リンナァはほうほうと、アウェーダはムスッと眺めていた。
 灰になった海藻ごと皮を剥ぎ、かじりつく。調味料はないが、塩味がほんのりと効いていた。
「我ながら合格点だ。ほら、ディカオンもおあがり」
 初めての料理を、ディカオンは鼻をうごめかして警戒したが、やがて一口ずつ、食べだした。
「ほんっと人間て面倒ですわ」
「偉そうに。なんでお前まで食べてるんだミャ」
「そういうあなたこそ……」
「アタシたちは親友だミャ」
 いつの間にか愚かで貧弱な虫人間から親友とやらに昇進できたらしい。
「竜はそこらで光合成すればいいミャ」
「人をミドリムシみたいにっ!」
「……ふぅん。実を言うと、さっきから気にはなっていたんだミャア」
 リンナァは、追い詰めた鼠をいたぶるような目で、アウェーダをなめまわした。
「――ぎく」
「妙だと思っていたんだミャア。アルギスからだいぶ離れたのに、彼氏の背中に乗ったまま」
「彼じゃなくて、ただの幼馴染ですわっ」
「不便だと文句を言うんなら、とっとと竜の姿に戻ればいいのに……」
「まぁまぁ母さんや、そのへんにしておやり」
 ヴァディルがおっさん口調で諌めるも、リンナァは構わず、告げた。
「どんな術を使ったかは知らないが、お前さん、人の姿から戻れなくなってんのと違うのかミャ?」
「す、姿を変えるためには多くの術力を要しますの。今は、そう今は、力を貯めているんですわ!」
「あーあ、竜としての実年齢は知らないけれど、いいわけや辻褄合わせは痴呆の始まりだミャ」
「や・か・ま・し・い。追い出しますわよ」
 言い争いながらも、二人はしっかりと焼き魚にがっついていた。無言で見下ろすギウスに視線で問いかけると、黙ってうなずき返し、リンナァ説を肯定した。

   Ⅱ

 竜としての実年齢はともかく、世代的にはヴァディルたちに近いと見え、悪態をつきながらもアウェーダはラグズについて語った。
 砂地に、やや丸みを帯びた正三角形を四つ並べて描き、更にその下に上下がひっくり返った同様の正三角形を四つ。
「あ、これ知ってる。大地の蝶形展開法だ」
 地平線・水平選の形状と観測から、この大地が平面でなく、半系約六千六百kmの球体であることはスリサズでも知られている。蝶形は、面積と包囲網双方を比較的正確に描ける地図法だった。
「ここがスリサズ、およびスリサズが実質的に支配する経済圏ですわ。あなた方虫人の連邦国家と呼んでいいでしょうね」
 アウェーダは、北半球の一点を指し示す。点の周りに幾つかに点。これが、数ヶ月前までヴァディルが知っていた「世界」だった。
「こちらがアルギス」
 アウェーダは、次にスリサズから見て西の大陸を指し示す。広いが、正三角形一つの、三分の一にも満たない。
「そして残りの大洋の大半を、私たち竜は自在に往来しているわ。事実上の領海と言って良いでしょう」
「絶句」という言葉を、ヴァディルは初めて体感した。横を向いて興味なさげにしているが、それはリンナァも同じらしい。
「でも、皮肉なもんだミャ」
 素直に卑小さを認めたくないリンナァは、短い髭をうごめかせて言った。
「お前さんの国は、まるで原始の生活ミャ」
「ぷっ……」
「む……」
 ヴァディルは思わず吹き出し、アウェーダは返答に詰まった。同族同志なら語らずとも意思を疎通できるので、文書が必要ない。それぞれが最強無敵の個体であるから、侵略を受ける恐れもない。したがって強者をリーダーとする必要もなく、通常の「国家」の形が存在しない。
 究極の進化を遂げた生物たちの暮らしは、文字を持たず、自然の驚異に為す術もなく怯え、洞窟に暮らしていた原初の人々となんら変わりなかった。

 穴籠もりも三日もすると飽きたので、ヴァディルとリンナァは外に出るための準備をしていた。
 幼竜が脱皮した皮は針が通るほど軟らかいため、ヴァディルはこれを裁ち、二人分の防寒着を作ってみた。
「ボクっ娘の分際で器用だミャ」
「奇妙な話さ。男のふりをしていろと言っておきながら、奥様直々に、料理も裁縫も、ひととおり仕込まれてね。ほれ、ドラゴンメイルの出来上がりだ」
 アウェーダに導かれ、二人は穴の外に出た。季節は夏だが、極地方の風は冷たかった。それでもお手製防寒着の具合はなかなかよろしく、雨風を遮断するだけでなく自在に動き回れた。
 見渡すかぎり、無人の原野である。遠くの山の頂上には雪すら残っている。海水浴には適さない浜辺には海豹や海象が群れなしている。突如海面から現れた鯱が、その子どもたちをさらっていった。
「お望み通り、『物を作れそうな何か』のあるところですわ」
 海流の関係だろうか。アウェーダが案内した島の反対側には、無数の漂着物が流れ着いていた。
「貧民街のドブ川を思い出すミャ……」
 魚の死骸に鼻をつまむリンナァだったが、その他にも大量の木材が打ち上げられている。
「ゴミってのは宝の山だよ」
「ゴミ屋敷の住民みたいなことを言ってるミャ」
 眉をひそめるリンナァだったが、ヴァディルはフンフンルンルンと鼻歌まじりで進んでいく。
「いいねえ、竹が打ち上げられてる。リンナァ、それにアウェーダも。よく乾いている流木は拾えるだけ拾っといて。焚付に使える」
「木っていうのは、見かけほど火力は強く無いんですわよ」
「だから竈を拵える。それに、考えもある」
 浜の散策(ビーチコーミング)を続けたヴァディルたちだったが、そのうち、自然物とは思えない漂着物も目につくようになった。
「なんだろう、これ」
 木材でも硝子でも陶器でもない、それでいて表面が風化している容器が、無数打ち上げられている。
 その表面には、おそらく中身の説明であろうか、○や十字を組み合わせた字が書かれていた。他にも、複数の文字を上下左右に組み合わせた文字もある。それこそ、宝の山を捜索するようにあちこち物色する二人を、ディカオンが冷ややかに眺めていた。
「墓場みたいだミャア」
「私もそう呼んでおりますわ」
 リンナァとアウェーダが評したとおり、空容器の他にも魚の骨、海豹の皮が打ち上げられた浜は、無縁の墓にも思えた。

 岩屋に戻ったヴァディルは、抜け替わった幼竜の乳歯を提供してもらった。
①この歯れを、金属のヤスリで研ぎ、鋭く曲げた針に加工する。
②同様に、抜けた竜の髭を頂戴し、より合わせて強固な糸にする。
③漂着した竹を適度な長さに切り、組み合わせ、五mほどの長さに組み合わせる。
「漁師さんに教わった知識が役に立った。①②③を合わせれば、釣り竿の出来上がり」
「その番号付は一体……」
「餌は浜辺にいる船虫なんかが使えるし、烏賊は餌木でもひっかけられる。いろいろ試してみよう」
「釣り竿なんか自作しなくとも、ギウスに言えば取ってこさせますのに」
「居候は肩身が狭いものでね。いくばくかなりと、お役に立ちたいのさ」
 ヴァディルとリンナァは、互いに顔を見合わせ、にやりと笑った。

「いやはや、面白いようにように釣れる」
「大漁大漁。刺身ならバケツ一杯食べられるミャ」
 折しも新月の闇夜。ヴァディルたちはギウスの背に跨り、暗黒の海を疾走する。これまた流木でこさえた鞍の両脇に、竹竿を二本差すと、餌木に烏賊が食らいついてくる。
「竜が釣り船にされて喜んでいるとは、堕ちたものですわ」
「そうは言うがな、アウェーダ。俺たちは本来、泳ぐ必要だってないんだぜ。海だけじゃない。俺たちは何のために空を飛ぶ? 何のために雷を呼ぶ? それは、お前だっていつか言っていたことじゃないか」
「……そんな七面倒なことを考えるから、私たちは爪弾きにされるんですわ」
「もとから群れてるだけでバラバラなんだ。今更シカトされたって屁でもねえ。おい、人間の嬢ちゃん。烏賊に飽きたら、別の魚が群れてる瀬に連れてってやるぜ」
「いいねえ話がわかるねえ」
「竜にしておくのはもったいないミャ」
 アウェーダは面白くなさそうに、ギウスの背を蹴った。

 他にも、太い竹を切って編んだ魚籠や、漂着物を加工した壺には、ヌタウナギや蛸がかかっていた。
「ヌタウナギは干物にするけど、蛸は刺身にするしかないねえ」
「卵と小麦粉があったらタコ焼きにできるのだがミャア――」
 ヴァディルには未知の食だった。

 皮や甲がついたものよりも食べやすいのだろう。ヴァディルが釣果をさばくたび、幼竜たちは寄ってきて新鮮な烏賊をねだった。
「暇だミャ、暇だミャ」
 リンナァは、巨大な昆布で作った鍋で海水を煮詰め、旨味成分たっぷりの塩を作っている。
「切るという行為は『割』、煮るという行為は『烹』。二つ合わせて『割烹』と、昔のとある国、料理を表す言葉があったそうミャ」
 食料を加工する光景は珍しいのか、幼竜たちは鼻をひくつかせ、昆布の周りに集まってきている。ただ、どの世界にもひねた者はいるらしく、一頭の幼竜は興味なさげに隅で寝ていた。
「というわけで暇つぶしの相手をしろミャ」
「邪魔ですわ、このネコ型天動説」
「天動説は百年前にとっくに否定されてるミャ。竜はひょっとして時代遅れのバカ揃いなのかミャ?」
「今すぐ竜の姿に戻って踏み潰してやりたくなりましてよ」
「無駄口はいいから、何して遊んでるか見せてみろミャ」
「遊んでるわけじゃ……ア――ッ!」
 リンナァは、アウェーダから大きめの紙片を取り上げた。アルギスから持ってきた大きな紙に、数日前に漂着物に見出した文字らしきものを書いている。
「これは?」
「単語らしきものに分解してみたんですわ。大まかに『洗剤』『飲料』『漬物』には分類できたんですけれど」
「その先は?」
「解析不能」
「分類の仕方が間違っているミャ。この、大に直線で構成された文字と、○、十字が組み合わさった文字は、同じ表音文字だけど別の系列と見ていいミャ」
「な、なぜそんなスキルを。獣人の分際で……」
「文字から離れた時間が流すぎゃミャねぇ。それから、こっちの上下または左右のパーツから構成されて、縦書きが主の文字は、おそらく表意文字だミャ」
「どうしてそんな解析が……」
「アルギスもスリサズも、表意文字から表音文字に進化してきたミャ。お前さんたちはなまじっか文字が要らなくなったから、リテラシーが退化したミャ」

 と――。
 隅でうずくまっていた幼竜が、突如、身悶えし始めた。
 その長い首を、天井を突くほどに伸ばしたかと思うと、どんと横たえ、飲み込んだばかりの魚を鵜のように吐き出した。
「喉に骨でも引っかかったかミャア?」
「最近ああなんですわ。どんな魚を持ってきても、受け付けずに戻してしまう」
「痩せてるミャ」
「二、三十頭に一頭、ああやってやせ細って、死んでしまう子がいたそうなんですけれど……」
「なんで過去形ミャ?」
「その割合が、少しずつ増えてきているようなの。だからこの千年で、種族の数が少しずつ減ってきている」
「原因は?」
 アウェーダは、疲れ気味に頭を振った。
「なにせ考えるのをやめた種族なものでね。症状も症例も、記録に残っていませんの。原因がわかったところで、竜の薬などだれが作れるものか」
「話は聞かせてもらった!」
 烏賊を捌いていたはずのヴァディルが、いつの間にやら二人の背後に立っていた。
「察するにその子、消化器。それも下の方の腸の具合が悪そうだね!」
「分かりますの?」
「ここに来たときから見てるけど、その子だけウンコ出てない」
「言われてみれば、そうだミャ。そいつだけウンコしてないミャ」
「ウンコが腹に詰まってれば食欲もわかないさね」
「ではさっさとウンコ出すミャ!」
「あんたたち、人の言葉で言うところの『年頃の娘』が、さっきから何回ウンコウンコ連呼してますの!」
「ウンコが出ないときの定番、それは、これッ!」
 ヴァディルは昆布の鍋に、どろりとした粘液状のものを満たしていた。
「……これ、何ですの?
「そして、これッ!」
 ヴァディルは竹の筒を加工して、水鉄砲のようなものを作っていた。
「だからそれ、何ですの?」
「浣腸」
「――は?」
「浣腸。本当はグリセリン液がいいんだけどね。代用品としてメカブトロロを摺っておいたのさ」
「お前、シコシコと何をこさえていたのかと思ったら、いつの間にこんなモンを……」
「消化器不良は万病の元だからね。ボクも小さい頃からよくお腹壊してね。食あたりのときも糞詰まりのときも下痢のときも、かかりつけの医者によく浣腸されたもんさ」
「最後のは、わけわかりませんわ」
「話は聞かせてもらった!」
 ヴァディルの真似をして、ギウスが海中からざばんと姿を現した。
「肛門が見えやすいのは、どっち?」
「仰向け」
 ギウスは嫌がる幼竜をぐりんとひっくり返し、後ろから両脚を持ち上げた。
 一人だけでは手に余るサイズなので、リンナァと、そしてアウェーダにも、大砲のような浣腸器を携えさせ……。
「覚悟!」
 狙い違わず、幼竜の肛門に先端が命中。
「グギャーッ!」
 浣腸液を注ぎ込み、抜かず、そのまま五分――。
 黒いヘドロのような大便をぶちまけた幼竜は、その日から嘘のように食欲を取り戻し、体重も戻っていった。

   Ⅲ

 数日後。
「ほれ、今日も仕事に出かけるよ~」
 釣り竿を担いで幼竜たちを引き連れ、釣りに出かけるヴァディルがいた。体格のいい幼竜に跨がり、十頭あまりの竜を引き連れる姿を見たら、ルーグやシークアはどんな顔をするだろうか。
 幼竜たちは背中に魚籠をくくりつけ、互いにとった魚を入れている。
「よく手なづけたものですわ」
「アナルを責められる歓びに目覚めたようだね」
 漁に出かけるのはもっぱらヴァディル一人で、アウェーダも、そしてリンナァも留守番をシている。
「せめて快便の歓びといいなさいな」
「それにしても面白いほどよく獲れる」
「実益を兼ねた趣味が見つかってようございましたね」
「まだまだ。そのうちもっと太い竿と釣り針を用意して――。狙うは鯨だよ」
「……は?」
「いつか、漁師が数十人係で仕留めて捌いたっていう鯨を食べたんだけどね。あの独特の食感、忘れられない」
「あなた、まさか、そのために幼竜たちを手なづけて……! 残念ながら、鯨は釣り針じゃ連れませんわよ」
「え」
「それに、連中が食べてるのは虫のように細かい海老ですから。それを口内に無数に生えた髭で濾し取って食べているんですの。魚や海豹を食べる種もいますけど、あなたごときじゃ歯が立ちませんわ。夢を叶えようとするのなら、餌の集まる海域で、大きな網かでかい銛でも用意しておくんですのね」
「フォーメーションを考え直す必要があるな」
「諦めてませんのね」
「スリサズだったら億万長者だからね」
「あなたでもホームシックというやつに罹りますのね」
「毎夜、枕を涙に濡らしていておりまして」
「そんなあなたの気晴らしになりそうなものを用意しましたわ。こちらにいらっしゃいな」

 アウェーダがヴァディルを案内したのは、彼女たちのサイズで通れるほどの穴をくぐった先にある洞だった。秘密にするというより、幼竜たちの悪戯を防ぐためだった。
 岩壁に立てかけてある木の板には、漂着した布が掛けられていた。布には、いつぞやゴミの浜辺で見出した文字が書き写されていた。
「釣りはお前さんに任せて、お勉強に勤しんでみたんだミャ」
 漂着したゴミに書かれていたくだんの文字が、体系化されて布に写されている。
「簡単なものは二十六種、こっちの○や十字で作ったのは九十種あるけれど、部品に分解できる。最後のは四十五種だけど、母音と子音で表になっているミャ」
「少なくともアルギス、そして私たちも、その文字が使われている文化圏を見た試しはありません」
「つまり、滅びてしまった祖先か、あるいは先住民族の文字? ひょっとして解読できたの?」
「それはまだですけれど、容器のラベルに書かれていたというのが肝ですわ。サンプルを集めて照合すれば、いつかは解読できるでしょう」
「滅びた原因がわかるかもしれないね」
「どうでしょう。文字を有して商売をするような種族が滅びたのです。記録する間も、その原因を悟る時間すら無かったのかも」
「ふうむ……!」
 しかつめらしい顔をしていたヴァディルだったが、表情を崩さぬまま立ち上がった。
「ディカオン、ちょっと降りておいて」
 と、やにわに傍らに漂着していた手頃な竹竿を取り上げ――。
「ふん!」
 リンナァめがけ突き入れた。
「甘いね」
 ディカオンを降ろした時点で「なにかやる」と悟っていたか。リンナァは難なく躱し、逆に竹竿の先端に降りた。
「ふんっ」
 踏ん張り、リンナァの足を掬おうとするヴァディル。リンナァは体重をどこかに置いてきたのか、臍を軸に風車のように回った。
「ならばっ!」
 ヴァディルは竹竿を引っ込め、高く左脚を蹴り上げ、リンナァの右足に左足を合わせようとした。これもリンナァは爪先であしらい、逆にヴァディルを崩そうとする。
「おっとっと……」
 よろめくも、これは芝居。ヴァディルは崩された体を装い、そのまま右足を軸にくるりと回り、リンナァの踵を薙いだ。
「チィッ!」
 不覚を取り、地上に戻ってくるリンナァ。だが着地と同時に跳び、ヴァディルの顔に鋭く伸びた爪を突き立てようとする。
 ヴァディルは竹竿を横にし、その爪を受け止めようとしたが――。
 その竹竿が、中央からぱっくりと割れ、リンナァの爪を挟み込んでしまった。
「ぐ……!」
「ボクの勝ちだ」
「偶然だミャ」
「実は最初から狙っていたのさ」
 組み合いを中断し、狙っていた狙っていないの言い争いになる二人を、ギウスは訳がわからないと言った顔で見下ろしている。
「獣人はわけがわからんな。なぜ争う。あいつら、友達じゃなかったのか?」
「友達同士ならいつも仲良く笑っていると思っている時期が、私にもあったわ。でも人の社会に出て、ようやくわかった。あれはじゃれ合っているだけよ」
「じゃれ合い?」
「爪は出しているけれど、いつでも寸止できる。動物の子供は狩りの能力を培うために、同族でじゃれ合っていたらしいわ。その本能も、私たちからは消えてしまったけれど」
「アウェーダ。お前、そのために……」
「ギウス、あなたも感じているでしょう? 私たちは生物としては完全になりつつある。その一方で、生物としての本能を失いつつある。私は怖いの。人の世で見た彫像は亀完璧に近づくほどに、裂が一つ入っただけで、価値を失ってしまう。私たちも、何かのきっかけで傷を負ってしまったら、化膿するよう広がり、種として滅びてしまうのではないかと」
「連中は、そのための特効薬――」
 いいさして、ギウスは太い尾を払った。牛であれば虫を追い払うためにしっぽを振ったような、無意識の一撃だった。
 砂、無数のゴミと共に舞い上がったのは、小さなディカオンの体だった。
「何をするの!?
 落ちてきたディカオンを、アウェーダはしっかりと抱きとめた。
「いや……」
 ギウス自身も、まるで自分の尻尾が別の生き物のように動いてしまったかのように当惑していた。
「こんな感情は初めてだ。そのちっぽけな生物が、俺たちの驚異のように思えた」
「『恐怖』というのかしら? でもギウス、ごらんなさいな」
 アウェーダが指し示す海に、無数の、同族の頭が見えた。

   Ⅳ

 彼らよりも年を経ている成竜の群れだ。老いた竜も混じっている。ばらばらではなく、海の一点を目指して泳ぎだしていた。
「どうなってるんだ。俺たちの墓場である南の海に向かうには、まだ早いだろうに」
「ヴァディルたちは自覚していないけれど、闘気は周囲に伝播するわ。人間ならいざしらず、私たち竜であれば、それを角で感じ取れる」
 アウェーダは、長年の宿題を果たしたような、高揚した表情を見せている。
「時が来たのよ。これまで無視していた私たちの敵を見出す時が。行くわよ、ギウス!」
 じゃれあうヴァディルたちをさしおいて、アウェーダはディカオンをかかえたまま、ギウスの頭に駆け上がった。ギウスはしぶしぶ、海に漕ぎ出した。
 声などあげたのは数百年ぶりではなかろうか。怒涛をも震わせる叫びをあげながら、成竜たちはひたすら、沖をめざして泳いでいた。
 やがて、鯨を追い込む漁のように成竜たちは輪を作り、一点を囲んだ。
 中心めがけいっきに迫り、海中に潜る。
「ギウス、あんただって勘付いてはいたんでしょう? 私たちを数百年、いやそれ以上前からじっと見ている何者かの存在を」
 初めのうち、「それ」はなかなか姿を見せなかった。竜たちが持てる膂力を振り絞り、両腕はおろか尾まで駆使して、ようやくその「獲物」は頭を見せた。
「なんですの、あれ……」
「あんな魚は見た例がねえな」
 竜たちがやっとの思いで担ぎ上げ、波の上に姿を晒した物体は、当初不気味な生物に見えた。何処が頭で何処からが胴体かさえ判然としない。目も鼻も退化した生物だろうか。ただし口も無い。
 鯨にも似た全身真っ黒の体。ただしその体は硬く、水を玉にして弾いている。
「こりゃ変わった魚を捕らえたものだねえ」」
「どうやって料理するのか見ものだミャ」
「あんたたち、いつの間に」
 ヴァディルとリンナァが幼竜を仔馬のごとく操り、竜たちの「狩り」を見物にきている。
 竜たちに山車のごとく担ぎ上げられ、滑ってはまた海中に没する、奇妙な鋼鉄の魚体。
しかし見え隠れをしながらも、ヴァディルたちに全容が見えてきた。
「隼に似ているね」
 通常に飛行している形態ではない。隼は地上の獲物を狙う時、翼を折りたたみ、紬糸のように姿を変えて真っ逆さまに急降下する。その速度、三角測量で試しに測ってみたところ、時速三百九十kmに達したという。
「空気抵抗を抑えた形だよ。とうぜん。水の抵抗も少なくなる」
「とっかかりもなくなるミャ」
 翼は無く、上部に縦長の煙突のような突起がある。尾部には捻れた団扇のようなものが六枚、柄でつながっている。それが尾鰭に相当するのだろうか、ぐるぐると回し、竜たちから逃れようとしていた。
 当初苦戦していた竜たちだったが、次第に要領をつかんでいった。単独で挑むのではなく、数頭で協力し、魚の下に回り込んで同時に持ち上げた。
「あれですわ」
 アウェーダが、長年の仇敵を見つけたようにつぶやいた。
「いやらしくも、私たちを海の底から、気づかれぬよう、じっと見つめていたもの」
 尾鰭を虚しく空回りさせながら、鉄の魚は高く、ヴァディルたちがぽかんと口を開けて見上げるほどに持ち上げていき……。
 落とした。
 すっかり戦いの「勘」を取り戻したか、竜たちは海上ではなく、ゴミが漂着する岩場へと、鉄の魚を落とした。
 ゴウン! と、島大陸の崩壊にも似た音が響く。浜から海へ、振動と、続いて津波が逆流し、ヴァディルたちの体を揺らした。

 横たわる獲物を見て満足したのか。成竜たちは、満足そうに吠えながら、住処へと戻っていった。

 鉄の魚は、ゴミにまみれて横たわっていた。
「やっぱり『船』だね、こりゃあ」
 鋼鉄の体は人工のものと考えるほうが自然だ。甲板もマストも見当たらないが、海を航行する以上、船と分類したほうがふさわしい。
 だとすれば、人が乗り込む場所があるはずだ。
 手分けして船体を探る。直径は七メートル、長さ五十mはある巨体だ。
 ギウスにも持ち上げさせ、下も見てみる。数カ所に、くだんの表音文字や数字らしき文字がみうけられた。
「ギウス、ちっとボクを持ち上げて。ディカオンがなにか言っている」
 言われるまま、ギウスはヴァディルを、ついでアウェーダ、リンナァを船の上部まで運んだ。ディカオンが、「ここを」といいたげに前脚の爪で船体の一箇所を叩いていた。
「よしよし、なにか見つけたんだな。ボクの見立通り、賢いねお前」
 やはり、あの高度から落とされたからか。無傷に見えた船体に、ディカオンが示した一箇所に、亀裂が入っている。
「要領がいいもんだな」
 ギウスは、気に入らないといったふうにつぶやいた。
 
「小動物相手にむきになるんじゃないわよ」
「そうじゃねえよ。初めて見るはずの船なのに、随分と勝手が分かってやがる」
「あんたが無能なのよ」
「お前は人形のときのほうが凶悪だな」
 手がかりが得られればしめたもの。ギウスは亀裂に指をねじ込み、こじ開けた。絞殺される獣のような不快なきしみを上げ、船体は真っ二つに裂けた。
 ギウスは、巨体と膂力に相応しからぬ繊細さで船体を前後に引き離し、ヴァディルたちが無理なく入れるようにした。
「鰻の寝床の輪切りだミャ」
 表面のすぐ裏は、蜂の巣を薄く広げたような構造になっている。その内側は上下二段構造。ヴァディルもリンナァも見たことがない、金属製の什器でびっちり埋まっている。中央に、人が二人並んべるほどお通路があった。
「狭い空間にこれだけの広さの通路っていうのも」
「変に贅沢か、理不尽な作りだミャ」
 まずは後ろから船内探検だが、これはすぐに終わった。後ろ半分の半分は、尾部の水中扇を動かす動力源が占有していたからだ。あとは、魚と同様、浮力調整のための浮袋・水袋。
 船の前半分は、左右に時計のような装置が並んでいた。傾斜のきつい梯子の先、天井に、本来の出入り口らしき扉があった。
 更にその先では、上下の部屋が階段でつながり一つの空間になっていた。
 他の空間が、船を動かす動力、計器が主体であったのに対し、五、六人ゆっくりくつろげる空間があった。
「正面に張ってある白い幕はなんだろうね」
 窓ほどの広さの幕である。
「黒板みたいな使い方をするんじゃないのかミャ」
 中央には、飲み物を取るのに丁度よいテーブルもある。人をもてなすための空間なのだ。
「人が、人をもてなす目的は二つ」
 ヴァディルは、パッヘルベル夫人にいつか教わったことを、自動人形のように喋った。
「一つ目は、商談において有利に取引を運ぶため。二つ目は自分の業績を誇りたいがため」
「ヴァディル?」
「主人自らもてなす場合もあるが、この鉄の持ち主にとって、ここはいわば【別荘】だ。別荘ならば、その管理には専用の人材を置くのが定石」
 ヴァディルは、組木細工を解くように、その「部屋」の床や壁を測っていった。
「ここは応接室だよ。主人が、客人を饗すためのね。だから……」
ヴァディルは、ソファーの上の壁を「どん」と叩いてみた。
「仕掛け」が解除され、壁に隠されていたものが姿を表す。ぱたんと開かれたのは、収納式の寝床だ。偶然ではない。人を饗すためならば、簡素ながらも寝床があるはずだと、ヴァディルが当たりをつけていたのだ。
 収納式の寝床はただ現れただけでなく、中身を持っていた。
「なんか転がって出たミャ」
 転がって出たものは、一人の少女だった。
「素っ裸だミャ」
 素っ裸だった。
「仕方ない。連れ帰って監禁するか」
「お前、犯罪者みたいだミャ」
 年の頃十歳前後か。長い金色の髪は頭の両脇で留めてある。
「ちょっと待って――」
 アウェーダが駆け寄り、少女の顔に頬を近づけた。
「この子、体温があるわ」
「肌の色いいから、死んじゃいないみたいだけどね」
「私たち竜ならともかく、あなたたちがあの高度から落ちて、生きていられまして?」
「ん? 柔らかそうな寝床だったからじゃないのかミャ?」
「一度同じ高さから落としてやりましょうか、このアホ猫」
「生きてるなら儲けものだ。言葉が通じるようになれば、いろいろとお尋ねしたいこともある」
 よっこらしょと持ち上げようとしたヴァディルだったが。
「重いぞ。この年頃の女の子より、目方が、そう、五割ほど大きい」
「ぎっくり腰起こされたんじゃ面倒ミャ。どれ、手伝うミャ」
「……海に捨てたほうが、無難ですわよ」

   Ⅴ

「俺も決めたぜ」
 鉄の船から少女を引っ張り出して三日目の、朝食の席。意を決したかのように、ギウスは言った。
 少女はいっこうに目を覚まさず、ひたすら安定した呼吸で時を刻んでいた。アウェーダが海藻の繊維で編んだ簡素な服を着させてやっていた。
「ウンコくらい出すんじゃないのかな」と裾をめくって下着を覗くも、排泄の気配はない。
「生きたまま死んでるんじゃないのかミャ」
「ゾンビじゃあるまいし」
「ねえ、俺の話聞いてる?」
「ハイハイ干物焼きながらちゃんと聞いてるわよ」
 ギウスの決意は一夜干しの鯵より軽く扱われている。
「俺も、外に出るぜ」
「出てるじゃない」
「マンザイとか言うやつじゃねーよ。俺もお前みたくラグズの外に出るって言ってんだ」
「だってあんた、人にはなれなんでしょう?」
「俺たちとは別の進化を遂げた種族もいるかもしれない。地表や水面に見えなければ、それこそ地底や海底、いやスリサズよりももっと高いところにいるかもしれないぜ。だから……」
「あっそう。良かったわね目標が見つかって。行ってらっしゃいな今すぐにでも」
「えっと、できれば一緒に……」
「引率が必要な歳でもないでしょうに」
 一方通行に近い会話を傍らで聞いていた女子二名は、くっくっと笑いを噛み殺している。
「ご覧なさいやリンナァさん。あそこにとてつもなく鈍感な女がおりまっせ」
「お前が言うかミャア」
 老竜たちはというと、悪い夢から冷めたかのように、再び起きているのか寝ているのかわからない日々に戻っていた。
「お前だって、確かめたみたいんだろ?」
 ギウスは、まだアウェーダを口説いていた。
「獣人たちは獣から進化したと、爺さんたちは言う。じゃあ俺たちは何から進化した? まさかこの世に生まれたときから、この姿だったわけじゃあるまい。お前だけじゃないんだ。俺はな、自分の出自が気になって仕方ない。その人形は壊れているのかもしれないが、他の鉄の船からは、ひょっとしたら壊れずに取り出せるかもしれない」
「あんたもいろいろ考えてたのね」
「爺さんどもと一緒にするない」
「さっそく願いは叶えられそうよ」
「えっ……?」
 アウェーダの言葉に「まさか」と思い、ヴァディルも少女人形のもとにかけよった。
 瞼が、わずかに動いている。
「生きているのかミャ?」
「しまった。訊きたいことを整理しておくんだった。とりあえず、好きな異性のタイプは?」
「興味はあるけど、優先順位はもっと下のはずミャ」
 気がつけば人形少女の瞳はぱっちりと開き、獣人たちを交互に見ている。
 あらためて、本当に人形のようだなとヴァディルは思った。初等部五年くらいの幼い体。きれいな金髪、エメラルドのような瞳、抱きしめて頬ずりしていっしょに寝たくなるような幼い体。
「どこをとってもボク好みの……」
「この非常時に何言ってんだミャ、変態」
 人形少女は、ヴァディルたちの言葉を真似するように、小声で鸚鵡返ししした。かと思うと、明瞭流暢な口調で、こう告げた。
「あなたがたが、わたくしを連れ出したのかしら? 竜たちが、あのような行動に出るなんて、想定外だわ」
 ヴァディルは、アウェーダを呼びつけ、三人と一頭揃って整列した。
「ボクはヴァディル。こっちがボクの次に賢いアウェーダ、そしてボクの次に可愛いリンナァ」
「非常時でないなら、ぶん殴っているところですわ」
「初対面の相手にはきつすぎる冗談だミャア」
 人形は、三人を一瞥して、一言。
「アホとブサイクが見事に三匹揃ってるわね。そっちの竜のほうが、よほど寡黙で男前だわ」
「……」
「いい根性してますわね」
「初対面でなかったら、道場の裏に呼び出して集団リンチかけてるところだミャ」
「時間がないわ。肛門みたいな口じゃなく、芋虫みたいに短い足をせっせと動かしなさい」
「待ってよ。君の名は?」
「エリザベート」
「じゃあベスか」
 エリザベートはヴァディルたちを、もといた船へと案内させた。
 エリザベートは、船内にもぐりこんでボタンを押したりレバーを下げたりしていたが、舌打ちして呟いた。
「あんたたちの馬鹿力のおかげで船体が歪んだわよ。あんたの男に命じて、引っ張り出して貰うから」
「男ってなによ」
「いいから彼氏に頼んどくれよ、アウェーダ。差し迫っているのは本当らしい」
 エリザベートは船首に当たる部分から壁をこじ開け、小舟ほどの大きさの円筒状の包を引っ張り出させた。
 これを海まで運ばせ、側面のボタンを押すと、包は瞬時に、オレンジ色のサヤエンドウのように拡がった。
 ヴァディルが初めて触れる、つるつるとした布だ。単色ではなく、天井は黒い板材が張られ、側面には丸い窓もある。尾部には、鉄の船と同じような鰭もある。
「水と食料を積みなさい。ついでに、あたしの服も。先土器時代みたいな格好だわ」
「まるで島大陸が崩壊するみたいな」
「この大陸は間もなく崩壊するのよ。間抜け面で間抜けなことのたまってないで、とっとと用意するのよ貧乳」
「あのね、さっきから言いたい放題だけどね」
 ヴァディルたちの問答は、しばし中断することになる。はたして嚆矢となったのは、「ヒュルルルル……」という、打ち上げ花火のような飛来音だった。
「危ねえっ!」
 視覚よりも早く、その優れた「感覚」で察知したか。ギウスはその巨体にもかからわず誰よりも早く動き、ヴァディルたちを巨体で覆った。
 直後。
 エリザベートが乗っていた黒い船は、破裂した。
「何事っ?」
 混乱するアウェーダに、ギウスは順を追って解説した。
「東の海上から放物線状に飛んできた、お前らほどの大きさの鉄の球が、あの鉄の船に命中して破裂した。目方は俺の体重の半分はあるだろうよ」
 慌てて東の海上に目を凝らすも、ヴァディルは視認できない。より遠目の利くリンナァも同じらしい。
「ギウスは見えませんの?」
「分からねえ。音より先に、衝撃波を感じたから、辛うじて避けられたようなもんだ」
 水平線までの距離は、自身の身長の平方根を三千五百七十倍したものだという。頭の高さ七メートルのギウスで視認できないとなれば最低でも二十六km。その位置から正確にこの場所を狙ったのであれば――。
「鳥にでも観測させたのかね」
 弾丸は一発では終わらない。花火大会よりも景気よく、いくつものヒュルルルが飛来した。ヴァディルは慌ててディカオンを懐に収め、慌ただしい出国の用意を余儀なくされた。
 ようやく危機を察した老竜たちが、見えざる敵を探しだす。
「海流がある所までは俺が引っ張ってやる」
「どうしますの、ギウス?」
「ここでお別れだ、アウェーダ。俺はチビどもを別の揺り篭に連れて行く。あてのない旅になる。人の姿のお前は、そいつらと一緒の方がいい」
 次の安住の地はどこになるのか。この広い海で探し出せるのか。あった所で、アウェーダはそこに帰って来られるのか。永遠の別れにもなりかねない。だからアウェーダの不安げな顔を、ヴァディルもリンナァもからかわなかった。
 ゆっくりと時間が流れる国から、慌ただしく旅立つ。
 岸から離れ、竜たちが集って「戦い」を挑む姿を、ギウスに曳航されながら、ヴァディルたちは見た。
「あれ、〔カノン〕じゃないか!」
 海面にわずかに見せる曲面状の甲板。そこから斜めに突き出ているのは、巨大な砲身。
 エリザベートが乗っていたものに比べれば二倍以上大きい船が、数十隻集い、ラグズを砲撃している。
 竜たちも襲いかかるが、爪も歯も通らない。為す術もなく、祖国を蹂躪されている。
 故郷が滅びる。
 アウェーダの体が震えている。彼女にしてみれば、いつかは滅びると予感はしていたのだろう。だが自分の代で終末が訪れるとは、思っていなかったのか。
「心配すんな。滅ぶわけじゃねーよ」
 アウェーダの脳に、ギウスの声が直接響いてくる。
「俺たちは、その気になりゃ氷山でも海底にでも住める。命が集う場所、それが〔故郷〕じゃねーのか?」
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登場人物紹介

ヴァディル・イストリア

浮遊大陸スリサズで〔神騎士〕になるべく修行する少女だが、性別を男と偽っている。本来、自在に空を飛べる〔鳥人〕だが、幼い頃に両親と亡命してきて以来、背中の翅は失われている。身を寄せる商会の一人息子であるルーグとは修行仲間。想いを寄せられていることも、とっくに女性だとばれていることにも全く気づいていない。ネーミングは〔クォ・ヴァディス〕から。

シークア・イェークストルム

ヴァディルが師事する師匠の妹。幼い頃かルーグに想いを寄せているが、彼の扱いはぞんざい極まりない。ちなみにネーミングは某北欧女子マンガ家から。

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