第六章 水槽を破る

文字数 17,057文字

第六章 水槽を破る

   Ⅰ

「どっちがいい?」
「は?」
 知っている事実を洗いざらい話せというヴァディルの命令に、エリザベスはいきなり選択肢で返してきた。
「どっちって?」
「私の口からか、それともこの世界を作った本人か」
「ちょっと待って。世界を作った本人て――神様?」
「実質的にはそう」
「だったら話が速いミャ。神様の方をセレクトするミャ」
 ヴァディルもアウェーダも、依存はない旨を伝えると、エリザベスは瞼を閉じて沈黙した。
 次に目を開いたとき、彼女の中にある別の何かを、ヴァディルたちは感じた。
「この世界は、一度滅びている」
 同じ声でありながら、百歳、いやそれ以上の老人のような語り口。
 そのまま一人語りでもするのかと思いきや、エリザベスの中の人はヴァディルたちを一瞥した。
「虫、獣、竜。ひと通り揃っているな」
「あなたは神様なの?」
 ヴァディルは尋ねた。
「自由に思えばいい」
 中の人は、そう呼ばれるのはまんざらではない様子であったが。
「ボクたちは、むやみに神の名を唱えてはならないと教えられている。他に呼び名は?」
「では〔ハーミット〕とでも呼ぶがいい」
 勿体をつけた言い方だなと、思った。ハーミットとは、どこかの古代語で〔隠者〕を意味する。自称神様の底の浅さが垣間見えたが、自称神様の機嫌を損ねるわけにもいかず、ヴァディルたちは黙ってうなずいた。
「神様なのに滅びから救えなかったの? それとも黙示録に書かれた終末が一度訪れたってこと?」
「その責を人類にだけ帰すのは酷というものだ。地球が氷河期に入り、人類は十億人にまで出産調整を行い、眠りについた。冷凍睡眠状態と凍結受精卵を管理するわずかな者だけが世代を交代しながら起きていた。
「あなたは、その起きていた方?」
「だが誤算が起きた。冷凍睡眠状態を維持するためにはエネルギーも必要だ。維持するための原子力発電設備が故障した。我々は緊急措置として冷凍睡眠状態の電源を切断した」
「つまり、寝ている間に方舟から降ろしたわけですわね」
 用語の数々は不明だが、人工の太陽が壊れたことは分かった。アウェーダは、それを聖典から引用したまでだ。
「事故によりプルサーマルの燃料も失われた。氷河期が完全に終わる前に、受精卵を解凍しなければならなくなった。我々は、より強い種として生き延びればならなくなった」
「つまり太陽さんが一つ消えただけじゃなく、残った一つも小さくなって、大水が引いて島にたどり着くまでに水と食料が尽きそうになった、と」
「……緊急避難だ」
 間を省いた。眠っている人間たちを「間引いた」のだ。
 ハーミット的にはとても難しいことを語っているのに、幼児向けの絵本の水準にまで下げられ、面白くないようであったが。
 なんとかの板、という用語をヴァディルは思い出したが、三人には、エリザベスの中の人が、一瞬、笑ったように思えた。
「管理者として残った中で、私だけが遺伝子工学の技術を持っていた。幸い機材もあった。だから、組み替えた。これもやむないことだ。私に与えられた使命だった。家畜用として保存しておいた受精卵もあったからな」
「ちょっと待ちなよ。『組み換え』って何? ひょっとしてさ……」
 マウントを取った、といいたげな、顔が垣間見えた。
「虫人の祖にも獣人の祖にも、手許にあるだけの遺伝子を、家禽になる前の野生種だ。竜人は爬虫類、両生類、魚類を混ぜ合わせた。お前は昆虫だな」
「そりゃどうも神様。鍋物の具にされた気分だよ」
「君たちが種としてこの惑星上に現れたのは、電源が完全に消失した千年前だ。そのときに、人類の歴史はリセットされた」
 自分たちが何かしらの「混ぜもの」であることは、ヴァディルたちもとうにご存知であった。自分たちの祖の姿を解明すべく、掘り出した化石や現存する生物などの研究も始まったと聞く。
「厨房の奥から現れたシェフに、レシピのネタをバラされた気分だよ」
「ただ復活させたのでは面白くない。歴史の繰り返しになるからな。私たちは自分の命と引き換えに君たちを誕生させたのだ。格別の慈愛も与えた。人類としての進歩を早めさせてやることにした」
『早めさせてやる』という言い方には、要らぬおせっかい以上の悪意が含まれていた。
「君たちフロスト教徒の聖典も、アラベスク教の聖典も、もとは同じ旧約聖典であるとは知っているな」
「神学の試験を受けているつもりはないんだけどな」
「その聖典の原案は、もともと一万年前にある。それを君たちが理解しやすいよう下準備を整えてやったのは、私だ」
「待つミャ。お前さんが聖典の原型を? どうやって? アタシたちが使う文字の原型ができたのは、五百年前だミャ」
 リンナァが異議を発した。
「その文字の原型も、私が考えた。ある方法で、君たちのごく一部の祖先に文字の原案となる閃き――宗教的には〔天啓〕を与えた。進化が最も速いのは手先が器用で、口蓋の構造から最も言語を発しやすかった獣人だ。最も繁殖しやすいと思われる地域を中心に〔天啓〕を与えるよう細工しておいた」
「一箇所だけで?」
「一箇所でじゅうぶんなのだよ。情報伝達の速度、知識共有の精度において、明瞭な言語、それを支える文字を獲得した部族が圧倒的に有利となる。私が原型を与えた文字をもとに、君たちは発展を遂げた」
 当初は木の実、次に干物、そして貨幣と、ヴァディルたちの祖先は「価値あるもの」を取引してきた。商業の発展は流通の発展だ。遠隔地にある食料や情報が、商人という専門家を通じて入手できるようになる。納税の制度により国家が形成される。いずれにせよ「価値」を正確に共有しなければ経済の発展はありえない。文字や数字というものは、それ自体が宗教であったのかもしれない。
「あんたがカンニングさせてくれたのはわかったよ。でも、それならなぜ、アラベスク教まで生み出した? あれさえいなければ、ボクは二度も国を失わずに済んだんだぞ!」
「殺し合いは生存本能を刺激する。新たな武器の開発、防諜。それが科学と経済を発展させてきた。天秤のように、いずれかが発展すれば反対側も発展する。理論通りだ」
「理論だって?」
「これは人類の発展における私の理論の実証でもある」
「ふざけるな。ボクたちは卵のときから管理されている虫篭の虫か? 水槽の金魚か? お前の理屈の実証とやらのために、何人殺されたと思ってるんだ!」
「このガイノイドの首を締めるなど、無意味なことはやめたまえ。大局的に考えられないのか。餓死者がいたからこそ一次産業は発達した。病死者がいたからこそ医学は発達した。戦死者が出ないよう先に殺す道具が発達した。互いに殺し合ったからこそ宗教が求められた。端的に言おう。今、君が生きているのも、物事を考えられるのも、私がいたからだ。人としての進化を遂げて自らを考えるゆえに自らいられるのも、私がいたからだ」
「アラベスクの下っ端に爆弾を抱えて特攻させたのも、島大陸同士を激突させたのも、あんたの差し金か?」
「それは買いかぶりだ。私は『種』を与えたにすぎない。島大陸は互いに衝突しないよう設定したが、唯一、互いの神霊樹の根の和が素数となった場合、そのロックは外れる。本来は八本に設計してあるが、三本を腐らせれば、足して十三。近接したときに自動的に衝突する」
「貴様が吹き込んだのかっ!?
「死に方を実践したのは君たち自身だ」
「都合の悪いことだけこっちの仕事かよ。出てこい! エリザベスを介してじゃなく、ボクたちの前に出てきて、自分の口で喋ってみろ!」
「それはできない。私の肉体は、氷河期の終わりと同時に、誰も手の届かぬ場所に保管してある。エリザベスは、私の脳を複写したニューラルメモリの情報をロードして喋っているにすぎない」
「実体のない幽霊になるからって、ずいぶん好き勝手してくれたもんだ」
「そうか。君は身内を失ったのか? だがそれは君だけではない。君程度の『犠牲者』なら瓦礫のごとく存在している。歴史とは幾多の死、恨みの積み重ねだ。」
「じゃあ何か? これから先も想定済みってやつか?」
「資本主義が発達して貧富の差が拡大するか、世俗主義が蔓延して節度が失われれば、息苦しい原理主義への回帰が起きる。やがて原理主義の非現実性が見破られ、再び資本主義・世俗主義に回帰する。その繰り返しだ。君たちフロスト教徒はその一端に過ぎない。殺し合いは永久に続く。百年もすれば核兵器にたどり着く。その開発を潰すための侵攻、それを口実としたテロが永久に繰り返される。互いに核で滅ぼし合い、放射能が無くなるまで冷凍睡眠に入る。本質は変わらない。音楽理論の『カノン』のように、永遠に続くはずだ」
「なってたまるかよ! 仕掛け人がべらべらと喋ってくれたんだ。ボクたちを馬鹿にするな。事実を知れば、断崖になど行くものか」
「君たち三人が『事実』を知って吹聴したところで、誰かが耳を貸すと思うかね? もっとも、余計な勘ぐりを入れた連中は偽りの天啓を吹き込んで排除したがね。ヴァディル・イストリア。君の両親のようにね」
「……なんて、いった?」
「〔パッヘルベル・カノン〕などと称したあの武器の原案を提供したのは私だよ。検証を早めるための道具だったがね。君の両親は、下手に賢くてね、自らに与えられた〔天啓〕の出自を疑い始めた。ちょうど道具としての利用期間も終えたから、別の形で天啓を与えて始末したがね。ガスの圧縮比を火薬を過度に使わせて爆死させた」
「貴様ーッ!」
 なおも我を忘れ、エリザベスの首を絞めようとするヴァディルと、リンナァは必死で抑え込んだ。手がふさがっている二人の代わりに、アウェーダが尋ねた。
「ひょっとして、スリサズ以外にも島大陸をぶつけ合い、潰しているのでは?」
「島大陸のような閉鎖的な場所で文明がどのように発展するか検証するためだ。予想とおり、一部の権力者が外界の情報を閉ざしている。やがて外界からの圧力に耐えきれず、自己崩壊するか、クーデターが起きる。もう飽くほどに見てきたから、終わりを早めただけだ」
 間引きのつもりかと叫ぶヴァディルを制し、アウェーダが言った。
「わたしたちは、あなたに見世物をお見せしているつもりはないんですけれど。勝手に退場させないでもらいたいものですわ」
「スポンサーの特権だよ」
 ハーミットは、悪びれもせず答えた。
「では、私はそろそろ消えるよ。予言が聞きたければまた呼び出すがいい」
 言いたいことだけ言い残すと、ハーミットは、エリザベスから消えた。

   Ⅱ

 その頃。
 ルーグは〔ナウシズ〕という名の、いくつかの島からなる国にいた。拾ってもらった船の行き先である。
 船に乗っている間に、ルーグの翼もヴァディルと同様、すっかり抜け落ちてしまった。だがナウシズの民族にも翼はない。犬か、猿かから進化したのか。空を飛ぶという前提がない街の構造なので、不便は感じなかった。
 スリサズで習った地理にはない国だったが、遭難した漁師がそのまま帰化していて、港で逗留しているうちに言葉を教えてくれた。文法は同じだったし、名刺の性別も無く、冠詞や語尾変化がかなりいい加減でも通じたため、単語さえ覚えれば会話が通じるようになった。
「スリサズよりも人と物と金に溢れている。会話が通じなくとも為替レートと書類で交易が成り立っている。食べ物がうまい。世界中から集まる雑多な人種のために雑多な食堂がある。それらを融合させて新しい味も生まれている……」
 ナウシズには篤志家により、ルーグやアルネットのような亡命者に、一月ほど宿と食を提供する宿泊所もあった。長期休暇と洒落込み、ルーグはナウシズの公立図書館に通っていた。
 古い貴族の邸宅を改造したもので、居室の多くは書架が並べられている。当初は篤志家の寄贈により書籍が集められ、司書が雇われた。借りたまま古本屋に売り飛ばす不届き者もいるが、読み終えた本を寄贈する善意もある。ジャンルごとに十進分類をつけるのも市に雇われた司書の仕事だが、あまりに量が多いのでほぼ毎日、日雇を使う。ルーグも三日に一度書籍整理のバイトをしているが、居心地が良いので非番の日にも館内をうろついている。
「何を読んでいるの?」
 廊下でごろりと寝転がりながらシリーズ物の小説を読んでいたルーグに話しかけたのは、大きめのバスケットを抱えたアルネットだった。
 働く司書や一日中居座る連中は、外注で弁当を頼むことが多い。アルネットはそういった業者の一つを紹介してもらい、弁当屋で働いていた。ルーグも、辻売りの少年から餡掛けパスタを買おうかと思っていたところだ。
「学生のところに、ある日天界から女の子がやってきて、古代魔族と戦いながらイチャイチャするっていう、ありふれたジャンルの本だ。〔ラノベ〕とか言うらしい。スリサズじゃ不道徳扱いされただろうな」
「そっちの方は、小説じゃないみたいね」
「この国の歴史の教科書だ。中等部向きだが、まとまっていて、下手な小説よりも面白かった」
 ルーグが感心したナウシズの教科書には、この国の、まだ資料がないはずの時代からの成り立ちが深く考察されていた。

 国家の成熟過程は宗教と切り離せない。ナウシズも他の国家と同様、原初の宗教は夜の闇や猛獣、落雷や暴風、津波といった自然災害に対する「畏れ」だった。
 移動を伴い、確固たる住居を持たない原始的な狩猟生活から農耕生活に移ると、定着した土地への〔埋葬〕が始まる。大地と一体となった先祖の魂は住み続ける〔土地〕と一体化し、〔神〕となる。ただ、当時は「山の神」「風の神」「雷の神」といった普遍的な言葉で現され、固有名詞はなかった。現在もなお、未開部族では「〇〇の神」といった呼称が用いられている。
 無名の神への祭祀を司る者が事実状、小さな集落ごとの支配者となった。貨幣の発明以前でも、貢物をピンはねできるわけだから、権力を集約するために祭司職は世襲になっていた。
 やがて小部落ごとの宗教集団は武力や婚姻により集約され、小国家を形成する。ナウシズでは、〔オノゴロ〕という小集団が、文明的に先行していた大陸側国家の〔ギョウシュン〕から支配のためのシステムとその有力なツールである〔文字〕を導入し、ナウシズ統一に乗り出す。
 小国家が擁していた無名の神々に「名」を与えたのだ。祭司職すなわち支配層に、オノゴロの使者はこういったのだろう。
「我々は天の神〔スメラギ〕の使いである。一つの強大なな国家としてまとまるために、共に天の神をまつろうではないか。そのための供物を、我々が代わって徴収する。代わりにそなたたちが祀る神を〔先代からの土着の神〕と認め、大陸から伝わった伝わった〔文字〕による〔名〕を与えよう」
 名前を与えることで、土地の神は普遍的なものからその土地専用の神になる。地方の祭司職は権力を中央政府に保証される。土地神を介して全国住民が把握され、供物の形で納税がなされる。住民と土地把握、納税、支配体制の確立。一見シンプルなようだが、極めて効率的な〔統一〕の手段だった。
 スメラギを祖とする支配体制は七百年ほど続き、やがて軍人による政権に代わった。いわゆる封建体制も一族を交代しながら五百年続き、支配体制が古臭くっ世界から取り残されたところで、ふっこ運動が起こった。スメラギの名のもとに軍事政権は倒された。「維新」と称していたが、その別称は「神政復古」であり「政権奉還」。武家の一族が使う武器を新しくしただけ、実態は神の名を用いての単なるクーデターだった。維新後半世紀が経つと「政財官が癒着し労働者画貧しいままなのは本来の神聖政治が失われているからだ」と、トップを狙ったテロも企てられた。いずれも新制度ではなく、「神の名を借りての国家統一」の焼き直しだった。実際にはスメラギによるナウシズの確立は、企業の買収工作に近い泥臭い打算と取引の成果だった。
「ナウシズ人たちは神に生活を支配されていないわ。ご利益の在りそうな宗教をどんどん受け入れて商売に使っている。この国の主神はスメラギのはずなのに」
「違うな。この国に今も根付いている本物の神は、原初からの名も無き神々だ。神であろうが科学であろうが、森羅万象の〔真理〕を受け入れて共生する。それがこの国の、神の正体だ」
「その理屈だと、私の部族も同じように無名の神を祀っていたことになるわね。でも今、周りででかい顔をしているのはアラベスクの皮を被った犯罪者だけだわ」
「こっから先は俺の仮説なんだが、ナウシズの国土のせいかもしれないな。火山の噴火、洪水、暴風雨。この国は災害の百貨店だ。人も傷つくが、国土も傷つく。この国では神も傷つき、死ぬ。冥府の神は大勢いるが、『死んで冥府の神になった』という女神は、ナウシズにしかいないんだ。他の国の国土は堅固だった分、無機質になってしまった。無に近づき、祭祀が意味をなさなくなったところに、きちんと文書で定義された神がやってきた。『説得力』があったんだろうな」
「あなた作家にでもなるつもりなの?」
「締切前に何日も缶詰にされるのは御免だ。あてはあるがな。どうせなら、本当の意味の仇討ちを兼ねて就職したい。君はどうする」
「裁縫と調理の資格を取るわ。子供のためにも働かなきゃ」

 アルネットが人生設計を固めたように、ルーグもまた、虚しくない、「復讐」の方策を固めていた。
 彼が訪れたのは、黄土色の煉瓦でできた、四階建ての建物だ。向かって右側の煉瓦は一部崩れていて、木の板で補修した跡がある。
 押しても引いても開かず、呼んでも誰も応答しない扉は訪問客を戸惑わせる。返答もなく開く気配もないので、訪問販売などは諦めて毒づき、帰ってしまう。
 お隣はというと普通の建物ではなく、高い天井から何本ものケーブルが垂れ下がり、下の機械に繋がっている。機械には一台づつ女性が構え、渡された型紙に従って生地を裁断したり縫い合わせている。企業からの注文に従って作業着や制服を縫う縫製工場だ。
 ルーグは、後ろから三列目、左から二人目の女工の側に歩み寄った。そこで、ある型紙を見せる。一見すると普通の型紙だが、縫っていくとちんばになることに気づく。玄人でしか見抜けない「デタラメの」型紙が、鍵だった。
 女工はルーグを伴い、作業用のバルコニーにルーグを案内する。そこから、表からは見えない通路を通り、表札もない複数の扉を通り、隣の、ルーグが本来用のある建物にようやく入れる。
 十人近い人間の信用を得て、鎖のように繋げてたどり着いた入口だ。
 ルーグは、ノックもせず、最後の扉を開いた。
 ゴミ屋敷かと見紛うほどの膨大な紙の束、山、森。それらはすべて文字やら図面が書きつけてある。一見だけでは意味不明な羅列だ。資料の奥の、机らしきものに、小国の主が鎮座していた。
「何か用か、小僧。わざわざここにたどり着いたってことは、命懸けで載せてもらいたいネタでも持ってきたか。それともオレを殺しに来たか」
「どっちでもねえよ、編集長」
「ふん……」
 鼻髭を生やし、頭の天辺が禿げた中年の男は、ルーグを一瞥し、鼻を鳴らした。〔ウィークリー・パラサデル〕という週刊誌の編集長で、名をチョップスという。
「散らかっているように見えて、いや実際ひでえ有様だが、あんたの頭の中には、何の資料がどこにあるのか入っている。あえて整理しないのは、万が一賊が入っても資料を盗られにくくするためだ」
 アイアスの道場をふと思いだし、ルーグの胸はじいんと疼いた。道場の床にあえてバケツや剣山といった障害物を散らかしての乱取りもあった。
「おい、死んでも踏むんじゃねえぞ。命懸けで裏を取ってきた大事な資料だ」
「分かってるよ」
 ルーグは波をかき分けるように、資料の海をチョップスの方に漕ぎ渡っていった。
「俺を雇ってくれ」
 チョップスは、即答はしなかった。
「〔アルカディア〕を知らないとは言わせない」
 チョップスの薄い眉が、ぴくりと蠢いた。
〔アルカディア〕
 アラベスク教の一派で、起こりはほんの百年前である。アラベスクもフロストと同様、本来は教典を媒介として布教していたが、識字率が低い国家では、教義が神職に都合のいいように改変され、原本の中で都合の悪い部分は隠される。原理主義というより〔原点回帰〕というべき一派で、興った当時は教典の原典を剣・盾とし、権力者と同義であった既存の聖職者を弾劾した。いわゆる革命的な聖職者の処刑に陥らなかったのは、アルカディアがクーデターを目的としなかったからである。
 しばらくは表舞台から姿を消し、数名の者だけが理念をほそぼそと引き継いできたこの宗派が、にわかに信徒を増やし始めている。
「矛盾している。アルカディアは本来、不正に使われている教義を正すことで、権力者の座を奪うことじゃない。それが――」
「企業を立ち上げている」
 食いついてきたのか、それともルーグの能書きを聞くのが面倒くさくなったか。チョップスは口をはさんできた。
「最初は弁当・仕出しの、十人程度で親族経営しているだけの会社だったが、規模が拡大し、今ではリネン・縫製・清掃を請け負う部門を持つ、年間十億ニューを売り上げるまでに膨れ上がった。従業員は二百名。家族まで含めれば千名」
「ナウシズの市議会議員は三千票集めればなんとかなる。あんたもアルカディアに何人か覆面記者を潜り込ませているが、今の所面白いネタはつかめていない。それどころか……」
「事故死したやつもいる」
「あんたは何が気に食わない? 部下が殺されたことか。アルカディアの主宰者が現代の聖人扱いされていることか」
「部下が何のネタも掴めず死んだことだ」
「ひでえ編集長だ」
「ばか野郎。編集長なんて皆そんなもんだ。俺様は正直なんだよ」
「だったら俺を雇え」
「お前記事が書けるのか。見たところ、初等部の作文もおぼつかなさそうだが」
「慌ててんじゃねえ。俺もアルカディアに潜入捜査する。他の記者と違うのはな、簡単には、事故死しないってことさ」

   Ⅲ

 ルーグが神騎士とは関係なさそうな就職先はを決めた頃。
 なんの因果か、ヴァディルたちもまた、ナウシズのとある企業を訪れていた。
 白い玉葱のような屋根が大小取り混ぜて二十はある。中広場には泉が湧き、庇からかけられた天幕の下では男女が洗濯をしたり昼食の干物を焼いたり茶を入れている。手代の一人が応対しているのは香辛料でも売り込みに来た隊商だろうか。建物の隙間から飛び出してくるのは、従業員の子供だ。ぎゃあぎゃあとうるさいが、来客の方も慣れていて、渋い顔をしたりはしない。
〔バグナード商会〕。
 もともとは繊維を仕入れ、服飾店に卸す問屋だったが、三代前に大きなビジネスチャンスを掴み、一気にナウシズの有力企業の座に躍り出た。国軍が制服を新調する情報をいち早く聞きつけ、安く量産できるよう素材と型紙を決め、縫製職人を一気に抱えこんだ上で入札にのぞんだ。同業他社に比して二割安く、直前の仕様変更にも柔軟に応じた。
 商売人にとって信用は無形の財産だ。国軍のお墨付きを得たバグナード商会はその後も声をかけてもらえるようになり、しだいに本業意外の業種にも手を広げた。縫製に限らず、繊維を仕入れる隊商、蚕農家、綿花農場、下請けの縫製にとどまらず、雇い人が食事をとる食堂、作業着を洗う洗濯女にいたるまで、関連企業まで含めれば「町の中の町、国の中の国」と称されるほどである。
「求人の案内を見てきたんだけど」
 生後三ヶ月と思しき赤ん坊に乳を演っている婦人に尋ねると、同僚や上司に聞いて、手代のケセルという男を訪ねるようにと教えてもらった。
「なんでここを選んだんですの? 業務内容も明記されていなかったし、労災は当然として今どき福利厚生や年休が空欄なんてありえませんわ」
「このぜいたく竜女(ドラゴーナァ)め、リンナァのご実家の待遇が良すぎたんだ。他の中小企業まで同じ待遇を求めるのは酷なもんだよ、アウェーダ」
「お前はここを――ここで働いている連中を見てどう思うミャ?」
 怪奇なことにヴァディルとリンナァは就業先としてこのバグナード商会を選ぶよう、意見を一致させたのだった。
「どうって……あくせくしないで、のんびり働いていますわ」
「のんびりね。ものは言いようだ。確かに堅苦しい職場で、ギッチギチに働かせるのはかえって能率が下がる」
「でも締めるべきところは締めないと、いろいろ漏れるミャ。ほれ、あの女は洗濯の水を流しっぱなし。あの女中は皿も片付けずに喋りっぱなし」
「世で人殺しが大罪なように、商人が金を殺すのは大罪だよ。血が流れ続ければやがて人は死ぬ。金が流れ続ければ企業が、いや街が死ぬ」
「病人と同様、そういう企業に限って、どこかに悪い血が溜まっているミャ」
「資本主義の病巣は原理主義者の格好の餌だ。だから、そこを治療して差し上げようっていうわけさ」

 ケセルという手代は、求人に応募してきた四人とおまけの一匹を一瞥しただけで、若い女中に話しかけるのに夢中だった。客観的に見れば一方的にだが。ケセルは紹介せず、向こうも名乗りはしなかったが、「ウェンナ」と呼ばれていた。うるさいことを言われず、採用はかなったようで、ケセルは仕事の話は下働きの男に聞けと、四人を追いやった。
 説明を受けろと言われて向かったのは、マロスという巨漢だった。地黒な上に日焼けが加わり、肌はつややかな黒だ。頭部に巻いた手拭いを外すと、短く刈った髪が現れ、汗が滝となって流れ出た。
 自家菜園はないが、庭木の剪定、鶏小屋の掃除で体に染み付いた臭いと、道場の稽古で染み付いた汗の臭いとでは勝負にならなかった。
(フッ、負けたな……)
(変な争いで強敵を作ってるミャ)
(まるごと三日かけて洗いたい)
(アタシは嗅覚がないから分からない)
 それぞれ勝手なことを考えながら、四人は黙々と薪割りをしていた。三人そろって感心しているのだが、バグナード商会は従業員用に大浴場を備えている。家庭用の十倍の湯を沸かすためには相応の薪が必要だ。地味で簡単そうだが、炎天下でもひたすら手斧を振るい、凍える冬の夜も火を焚き続ける、しかも雇い主は人件費をかけたがらない。
「なんでここを選んだミャ?」
「君んところはさっと行水するだけで、風呂に入る習慣がなかったね、リンナァ。前の家でもやってたから分かるけどね、人間裸になっていい気分になると、ずいぶんと口が軽くなるんだ」
「しかもこの浴場は、別け隔てなく誰でも入れるし、女湯と男湯が隣接している」
 風呂どころか行水の習慣すらなかったアウェーダにも、合点がいったようである。
 マロスは聾唖ではないが、読み書きはおろか語彙も少ない。ヴァディルたちへの仕事の説明も、身振り手振りを多く使った。粗暴ではなくむしろ親切で純朴な男だが、学歴がないがために、嫌がられる仕事に回されている。
 ヴァディルたちの見込みは外れていないあった。商家の口である耳とも言えるこの職場を、見下し、ないがしろにしているあたり、バグナード商会の経営陣はがたついているといって良い。
「ただね、救いというか希望は残っている」
「うみゅ」
「そうですわね」
 食堂で供される食事は、実に美味しかった。
 三代目の程度はともかく、創業者たる祖父が築いてきたものを、目先の損得でたやすく廃止したりはしていない。厨房も風呂も、新しい改修の跡が伺えた。
「会ったことはないけど、いいんじゃないか、この三代目」
「見込みがあるなら、追い出さずにすませてやれるかもしれないミャ」
 ヴァディルが苦もなく手斧を落とし、スパンスパンと小気味よく薪を縦割りにしていく様を、エリザベスは感心したように観ていた。刃物をあまり扱わないリンナァも、腕力に頼るアウェーダとの違いは瞭然。二人とも力の効率が悪い。無駄な力を受けて飛ぶ欠片を、ディカオンが避けている。割れる薪も左右非対称だ。

 午後の三時、従業員にまんべんなく配られるおやつの時間を終えると、バグナード商会の気温は高くなる。早上がりの職人が押し寄せるため、厨房も湯場も一気に火を入れ始めるからだ。
 荷物の積み下ろしをしていた人夫、旅を終えた出入りの商人、学校帰りの従業員の子供たちが最初裸になる。子どもたちは、この頃から湯船に入る前は体を洗うよう躾けられる。
 湯船もわざわざ周りからは数段高く、中二階程度の高さに設けてある。水汲みは大変だが釜を大きく作れ、使い終わった湯は下で洗濯に使えるようにしてあるわけだ。
「よく思いついたものですわ」
「初代は相当切れて、金に苦労もしたんだろうね」
「でも湯船に罅が入って湯が漏れてるミャ」
「そうとも。どんなに苦心して作ったものでも完璧じゃない。ましてや時代は移るし綻びも生じる」
「経理をやっている者を尋ねても、はっきりしませんでしたわ」
「ボクはちょいと盗み見たよ。複式簿記どころか、今どき単式簿記だ。しかも相当いい加減につけている予算も立ててないし、決算もいい加減。取り立て不能の未収、相手先が倒産した未払い含めて資産がいくらあるのか、誰も把握してないね」
「売掛で仕入れて請求があれば手許の現金を払う。一度不渡りが出れば雪崩状に信用を落とす。危険な為替操業だ」
「でも見捨てられないんですのね?」
「初代の頃からの伝統というかね、ここの従業員、悪く言えば総じて杜撰で呑気。良く言えば人が良くて楽観的なんだ」
 一日の風呂が終わるのは、日付が変わってからだ。市場が開く直前、ヨダカと呼ばれる下級娼婦たちが湯を使いに、人目を忍んでやってくる。中には幼い子供を連れてきているヨダカもいる。金銭的に恵まれないものに資産を供せよという初代からの鉄則を、この浴場は守っている。厨房の裏口では余った食材を、縫い場の勝手口では端切れを分けている。
「見捨てられた弱者を唆して良からぬ企みをする輩がいる。だからね、この会社は生き延びる価値があるんだよ。ここだけじゃない、良質な企業が揃っている国だ。カモンベイビーナウシズだよ」
「どこの歌謡曲からインスパイアしたんだミャ」

 バグナード商会に来てから一月が経った。
 ヴァディルは、未だ男と偽って通している。女ばかりというよりも、そのほうが立ち回りやすく、情報を得やすいためだ。自分からそうだと触れ回ったわけでもなく、「ヴァディルはスリサズの豪商の御曹司で、身分違いのリンナァと駆け落ちしてきた。アウェーダは幼い頃から彼に仕えるメイド、エリザベスは逃避行の途中で拾った孤児」などという物語が、従業員の間で買って広がっていた。ヴァディルは面白がって話を合わせていた。
 さて、バグナード商会の現在の経営者こと三代目であるバグナード・ジェイスと話す機会を得たのは、ヴァディルたちが就職してから三週間後の、明け方も近い頃だった。
「こんな時間にお一人で入浴とは珍しいですな、若旦那」
 ジェイスはもちろん、いつもこの湯船に浸かりはするが、一人で入るのは初めてだ。他の従業員に聞かれてはまずい会話をするのは、今をおいて他にない。
「さっきまで商工会青年部の宴会でね。川に落ちずに無事帰ってこられたよ。酒を抜きたいから熱くしてくれ」
「汗をかいたって酒は抜けないよ、若旦那。適温にするからゆっくり浸かってたっぷり寝て、栄養のあるスープでも飲んで肝臓に栄養を送るといい」
「詳しいんだな」
「酔っ払いはけっこう見てきてるもんで。その点若旦那は感心だ。酒席につき合っても泥にならず、ちゃんと自分の足で帰ってこられるんだから」
「褒められるのは悪い気分じゃない。で、君たちは何者だ? 店の誰かに小遣いを渡されて、ケセルを追い出すよう唆されたのか」
「まさか。他所からやってきて他人サマの家を引っ掻き回すような無粋な真似はしない。でも若旦那、分かってるだろ。このままじゃバグナードで真面目に働いている連中がバカを見る。悪貨が良貨を駆逐するように、見込みのある従業員は将来性のある、道理が通るほうの会社に転職する。ケセルには無い将来への責任が、あんたにはあるんだ。だから訊いておきたい。ジェイス、あんたはこの商会をどうしたいんだい」
 ジェイスは湯船に頭まで浸かった。
 ぼこぼこと泡を出し、「ぶはっ」と、再び顔を表出す。
「ケセルには、彼に付き従う者もろとも店を出ていってもらいたい。ざっと勘定してみても、塩漬け状態の事業を潰せば残った人間だけで店は回る。ただし、辞めていく連中にも食っていけるだけの職は世話してやりたい」
「呆れるほど優しいね。OK、ボス。あなたの願望にボクたちの目的が沿うことを確認しただけだ。あなたはあなたの意思を持って隠密のうちに計画を進めるといい」

 翌日から、ヴァディルたちは「噂」を流した。
 浴場を使う従業員に直接語りかけるのではなく、あくまで三人の中で会話するという風を装った。
「ジェイスは近々、勤務態度が良い従業員だけ残し、不採算部門を切り捨てる腹積もりだ」と。

 釣果は早くも現れた。
 勿体なくもケセル本人が、マロスを伴い、丁度風呂が混み合う時間を見計らって現れたのだ。
「雇ってやった恩を返すどころか、嘘八百を触れ回ってるそうだな!」
「誤解も甚だしい。ボクたちただ好き勝手に喋っているだけ。それを触れて回るのはそれこそ人次第」
「それともリストラされる覚えでもあるのかミャ?」
「やかましい。マロス、このガキと小娘どもに、礼儀と序列を教えてやれ」
 と、大きな子分に命じ、ケセルはその背後に隠れるように下がった。
「頼むよ、アウェーダ」
「何でわたくしが。ご自分で相手なさいな」
「ボクやリンナァ相手だと『運が悪かった、不意を突かれた』くらいにしか思わないだろうからね。圧倒的な、如何ともし難い力の差という奴を、愚かな人類に見せてやっておくれ」
 リンナァも「お手並み拝見」と言いたげにパチパチとやる気のない拍手を送っている。
「貸し一つですわよ」
 やれやれという顔で、アウェーダは承知した。
「今日のおやつのプディング、分けてあげるよ」
「ならばよろしい」
 いろいろ問題のある商家だが、食事の内容だけは文句ないアウェーダである。
 言うが早いか。
「――!」
 マロスの視界から、アウェーダが消えた。
 正確には消えたのではなく、跳躍し、マロスの肩に飛び乗っていた。
 そして、固めた拳で、ただの一撃。
 ゴン! という、大工が基礎の杭を打ち込むような鈍い音は、浴場の湯まで揺るがした。続いたのは、頭頂部を強かに殴られ、目を回したマロスが倒れる音だった。
「さて……」
 逃がすものかと、逃げ出すケセルの前に先回りし、ヴァディルは冷酷な宣告をした。
「人に喧嘩売っておいて、無傷で帰れるなんて思うなよ。さっきのも、これから起きることも、『従業員同士の取るに足りない小競り合い』さ。君が周りや雇い主に、そう嘯いて来たようにね」
 ケセルに事実上の死刑宣告をしたヴァディルだったが……。
(おや?)
 肩から下ろしておいたはずのディカオンが、彼女とは反対側の植え込みにいて、じっと見つめている。
 彼女ではなく、ケセルの方をだ。
(違う――)
 その毛並みから、それが〔ディカオン〕とは違う個体であることを、ヴァディルは見抜いた。世界に一匹しか存在しないとはむしろ考えにくく、誰かがどこかで拾った別の個体を飼っている――と説明できなくもない。
 しかしその「佇まい」に、ヴァディルは説明のつかない、不快に近い不快感を覚えていた。


 一分足らずの「小競り合い」を堺に、バグナード商会は少しずつ、だが劇的に変わった。
 翌日、早速ジェイスはケセルを呼び出し、彼に提案をした。
 新部門の長になってくれと、打診したのである。
 純粋に〔投資〕による運用益を稼ぐための部門である。条件は、冗談かと思うほどに良かった。人件費を含めたすべての費用を新部門にまるまる委ねる。
 利益の半分は本部に渡すが、残りは新部門に繰り越す。利益を上げれば上げるほど、ケセルの懐が豊かになる。
 ケセルは、あえて勿体をつけて二つ返事で承諾した。鼻と一緒に用心棒をへし折られて、不承不承追従してきた従業員は露骨に彼を見下すようになっていた。いつ呼び出され袋叩きにされるか、内心ではビクビクしていたのだ。
 それから一週間。
 尻尾を振る従業員を引き抜き、一kmほど離れた場所に新しく用意された事務所で、ケセルの〔王国〕は稼働を開始した。
 同時に、ジェイスは財産の整理を始めた。案の定というか、取引先からの多額の未収金、実態のない企業への未払金、債権、実体のない固定資産が見つかった。そのスレッドはほぼケセルに繋がっていて、総額は三千万ニューにも上ったが、ジェイスはあえて、彼を問い詰めはしなかった。

 二週間も経つと、ケセルの「地」が露見してきた。バグナード商会という柔らかい殻の中、手代という地位があればこそ勝手に業者を決め、勝手な発注をかけ、小金を懐に納められたのだが、いざ独立すれば負債はすべて自分が背負わねばならない。「良い儲け話がある」「絶対に損はさせない」「君だけ特別に仲間に加えよう」と投機を持ちかけてきた連中は例外なく金を持ち逃げした。損を取り戻そうと人件費にまで流用し、これも溶かした。目端の効くものは給料の前払いを要求し、ケセルはこれを断るのに一日を費やしている。夜逃げをさせまいと、彼の部屋には常に誰かしらが目を光らせている。
「投資部門は、残念ながら発足三ヶ月足らずで廃止しそうだ」
「何が『残念ながら』だよ。最初から狙っていたくせに」
 ヴァディルたちが閉口したのは、明け方近くの人目につかない時間を見計らい、ジェイスとウェンナの二人が風呂に入りに来たことだ。以前から惹かれ合っていたのか、あるいは漂流状態のケセルから乗り換えたのか。昼の清楚なメイド姿とは裏腹にジェイスに胸を押し付けるウェンナの様に、当初は同性だからこその嫌悪を覚えたものだ。
 その様子がおかしいと気づき出したのは、三日も経たないうちだ。ヴァディルもリンナァもまるっきりのネンネちゃんではない。家人の色恋沙汰は朝食の漬物と同じくらい目にしてきている。
 互いにくっつけ合っているように見える二人の体も、熱を帯びているのはウェンナの方で、ジェイスの体からはむしろ、氷の彫像のような冷たささえ感じられた。
(おやおや、これは定石と逆だね)
(普通はウブなお坊ちゃんが、女中に熱を上げるもんだミャ)
 ウェンナの言動も滑稽なほどにちぐはぐさが目立った。「自分の知っている会社を買収してほしい」「利回りの高い債権を知っている」など、売りたいものが自分の性器ではない。不器用なセールスマンなのだ。そのことごとくをジェイスは適当な返事ではぐらかし続けた。ウェンナのスポンジは泡立たなくなり、顔にも剣が立ちだした。
 武術を学んだおかげの「勘」だろうか。
 今日あたり「何かが動く」という兆しをヴァディルは感じていた。リンナァも、黙って頷き返した。
 風呂場に入ってきたウェンナは、顔どころか全てがおかしかった。ジェイスと顔を合わせようとせず、脱衣からして動きがぎこちない。
「やあ。先に入っていたよ」
 ジェイスは、背中を向けて湯船に浸かっていた。ヴァディルたちは彼がのぼせないよう、釜を種火にまで落としていた。
 ウェンナの目には、自分のためにお膳立てされた何もかもが、写っていなかった。
「あんたが悪いのよ」
 仮初とはいえ、愛を閉めるには、ありきたりな言葉だった。
 ウェンナは股間に手を充てがうと、折りたたみの小刀を引き抜いた。当人は頭を使ったつもりだろうが、腰つきが奇妙だったので、ヴァディルには最初からお見通しだった。
 窓から飛来した木片が、ウェンナの右手を強かに打ち、小刀を弾き飛ばした。
 痺れる右手を呆然と眺めるウェンナ。木片が外から飛来したと知り、振り向けば、最初からお見通しのヴァディルたち。
 ウェンナは捨て身の行動に出た。手にした手拭いをジェイスの首に巻き付け、絞殺を試みた。が、ジェイスは手拭いと首の間に手首を挟んでいた。
 全てが失敗に終わったと悟ったウェンナは、裸のまま脱衣所から逃げ出していった。

 ウェンナがいなくなって、ようやくジェイスはゆったりと湯船に体を沈めた。
「最初から気付いていたのかい?」
「部門替えを打診した時、ケセルの顔に浮かんだのは当惑ではなく安堵だった。彼が全てを仕切っているのではなく『仕切らされていた』のだと、遅ればせながら気付いたのさ」
 とにかく、ジェイスにしてみれば病巣とその芯をやっと除去できたわけだ。
「三代目は、一体どんなタイプをお嫁さんにしたいのさ」
「良くも悪くも店のことを考えて、僕に代わって皆を采配する技量の持ち主だな。君たちみたいにね」
「あいにく、こいつにはもう男がグミュウ!」
 余計なことを漏らさないよう、ヴァディルは汗拭き用の手拭いをリンナァの口にねじ込んだ。
「店を営むのは絵本に描かれているような仲良しだけじゃ勤まらない。麦のように踏まなきゃいけない時もある。悪い枝を切り捨てる非情さも要る。その点男は駄目だね。恨みに耐えきれず悪い情に流されて、全てを駄目にしてしまう。女性は海であり大地だ。恨みを吸っても平然としている」
「目当てはいるのかミャ」
「内緒だよ」
「嫁さん探しは、もう一段落つくまで待ったほうがいいね、三代目。ボクの経験に照らし合わせれば、あの手の輩はもう一つ、仕掛けてくる」


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登場人物紹介

ヴァディル・イストリア

浮遊大陸スリサズで〔神騎士〕になるべく修行する少女だが、性別を男と偽っている。本来、自在に空を飛べる〔鳥人〕だが、幼い頃に両親と亡命してきて以来、背中の翅は失われている。身を寄せる商会の一人息子であるルーグとは修行仲間。想いを寄せられていることも、とっくに女性だとばれていることにも全く気づいていない。ネーミングは〔クォ・ヴァディス〕から。

シークア・イェークストルム

ヴァディルが師事する師匠の妹。幼い頃かルーグに想いを寄せているが、彼の扱いはぞんざい極まりない。ちなみにネーミングは某北欧女子マンガ家から。

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