神隠し ぼったくり 散歩

文字数 3,546文字

「よくぞわたくしめをお呼びくださいました。ささ、願いをどうぞ。どんな願いも叶えて差し上げましょう」 
 部屋いっぱいに書き上げた魔法陣の中心で悪魔は言った。
 黒いジャケットの男の体に黒い毛皮のヤギの頭が乗っている。
 部屋の四隅に立てられた燭台の蝋燭が、不気味に悪魔を照らしていた。
 悪魔は大きく手を振りかざして恭しくお辞儀をして見せる。
「悪魔ってのは願いの対価に魂を奪うっていうんだろ?」
 男は慎重に言葉を選んでおっかなびっくり悪魔に質問をした。下手に「質問に答えろ」とでも言おうものならそれが願い事と見なされかねないからだ。
 そんな心の内を見透かすように、
「そんな警戒なさらなくても大丈夫でございます。不当に願いを搾取するような真似は決していたしません」
 悪魔は明るい口調で男に語り掛けた。
「もちろん対価はいただきますが、魂、なんて曖昧な物はお客様としましても価値を測りかねますでしょう。対価は願いと釣り合ってこそです。そこでわたくし共は魂ではなく寿命を頂戴しております」
「寿命?何年分だ?まさか残りの寿命全部とは言わないだろうな」
 悪魔の口調に騙されない様にと、男は一層警戒して臨んだ。
「まさかそんなとんでもない。それではせっかくの願い事を楽しむ時間がないではございませんか。寿命は願いの大きさに応じた年数を頂戴しております。もちろん事前に提示させていただいて、お客様にご納得いただい上での契約とさせていただいております」
「悪魔の割に、ずいぶん親切なんだな」
「昨今は悪魔業界でもコンプライアンスが重視されておりますので。それにお客様にご満足頂いてこそわたくし共も働き甲斐があるというものです」
「はは。人間みたいなことを言うな」
 悪魔のあまりに丁寧な物言いに男は少し気が緩んでしまった。
 しかしすぐに自分の頬を両手ではたき込み、気を引き締め直す。
 なにせ相手はあの悪魔なのだから。そこにどんな罠があるか知れたものではない。
「良ければ願いをお聞かせ頂けますでしょうか?そうすれば必要な寿命も提示できますが」
「ラッシーを、飼い犬の病気を治してほしいのだが、どうだ?」
「なるほどお犬様の治療ですか。ちなみになんのご病気でしょうか?」
「そんな事まで話す必要があるのか?」
「詳しい症状などが分かればそれだけ費用も正確に出せますので」
「肺がんだ。すでにかなり進行してしまっている。手術ももう間に合わないらしい」
「なるほどなるほど。肺がんの治療、と」
「他にもガンが転移しているかもしれない。それも取り除いてくれ」
 男は慌てて付け加えた。悪魔の事だ。肺がんは取り除いても他の治療は契約外だ、なんて言いだしかねない。
「かしこまりました。でしたら費用は」
 悪魔は懐から算盤を取り出して珠をはじき始める。
「寿命10年分となりますが、いかがでしょうか」
 悪魔が算盤を男に示して見せる。示されたところでそこにどんな計算がなされているのかなど男には測りようがない。
「あ、もちろん。お犬様の寿命ではなく、お客様の寿命でございます」
 男はしばし逡巡した。自分の寿命の10年と言うのはいったいどれだけの価値があるのだろうか。
「一つ質問に答えてくれ。あ、いや、これは願いではなく質問だ。質問していいか?」
「もちろんでございます」
「俺の残りの寿命は何年あるんだ?」
「なるほど、残りの寿命ですか。それを教えることはそれ自体が願い事扱いになる価値のある事なのですが」
「だったら答えなくていい」
「しかし、残りの寿命を知らなければ払う寿命の価値も分かりかねるというお客様の考えもごもっともです。今回だけ特別に無料で教えて差し上げましょう。お客様の寿命は残り54年です」
 男はほっと胸をなでおろした。これで残り11年なんて言われたらどうしようかと思っていたからだ。
「54分の10。2割弱か」
「18・5%でございます」
「10年か」
 男は考えた。自分の10年と引き換えに、また、散歩が出来るのなら、と。
 男は独身だった。それどころか家族には先立たれ、天涯孤独の身であった。友人と呼べるような人も一人としていない。ただ愛犬のトイプードルだけが彼の心の支えであった。
 また元気な姿を見せて欲しい。河原を一緒に散歩したい。それだけが男の望みだった。
「いいだろう。俺の10年をお前にやる。治してやってくれ」
 男は決意を込めて悪魔に言った。
 しかし悪魔は返事をしない。ヤギ頭の顎髭をつまんで何やら考えるそぶりを見せている。
「どうした?やっぱり10年じゃ足りないなんて言わないだろうな」
「いえいえ、そうではございません。そうではございませんが、ここはどうでしょう、わたくしに15年分の寿命をいただけませんでしょうか」
「なに?」
 男は警戒して身構えた。
 悪魔は誤解だと言わんばかりにブンブンと両手を振った。
「なにも寿命を余分に頂いてしまおうという訳ではございません。しかし、お客様、お犬様の病気を治すだけでよろしいのですか?」
「どういう事だ?」
「いえなに、悪魔を呼び出すくらいですから、よっぽど大事になさっているお犬様なのでしょう。でしたらより長く一緒に居たいとは思いませんか?」
「当然だ」
「でしたら、病気を治すだけではなく、お犬様に若返っていただくのはいかがでしょうか?お客様の寿命を5年多く頂ければ、お犬様を10歳若返らせてみせましょう」
「そんな事が出来るのか?」
「もちろんです。本来ならば命の価値は1対1。10歳若返らせるのに寿命10年必要な所ですが、わたくしお犬様を思うお客様の心意気に感動いたしました。5年分はわたくしのサービスでございます」
「お願いする」
 男は1も2もなく悪魔の提案に飛びついた。思えばがんを治したとしても、老衰で直ぐに先立たれてしまっては何の意味もない。10年多く一緒に居られるのであれば自分の5年などいくらでもくれてやる。
「ありがとうございます。それでは商談成立でございます」
 悪魔が「パチンッ」と指を鳴らした。
 すると途端に男の視界が歪んでいく。世界が回って暗く沈んでいく。もはや立っていられない。
 男はその場に倒れこむ。
「お客様の15年、きっちり頂きました」
 気を失う直前の男の頭に悪魔の声がはっきりと響いた。

 男が目を覚ますともう悪魔はその場にいなかった。
 ただ魔法陣と燃え尽きた蝋燭が残されていた。
 男はすぐに立ち上がろうとして、膝の痛みを感じて動きを止める。
 どうやら長い事眠らされていたらしい。体の節々が痛かった。
「ラッシー、ラッシーは?」
 しかし体の痛みよりも今は優先すべきことがある。男は部屋を出て愛犬を探した。
「ラッシー。ラッシーーーー」
「くぅーん」
 微かな鳴き声を男は聞き逃さなかった。痛む体を引きづって声のしたリビングへと向かった。
 果たしてそこにはソファに乗り、力なく頭をうなだれた愛犬の姿があった。
 愛犬は男の姿を見つけると、
「くぅ」
 と一鳴きして立ち上がり、よたよたと男へと近づいた。
 男は愛犬を抱きとめた。もはや体はやせ衰え骨が浮き出てしまっていた。
「これは一体どういう事だ」
 まるで何も変わっていない。
 悪魔はがんを治してくれたのではなかったのか?
 ラッシーを若返らせてくれたのではなかったのか?
「ちくしょう!出てこい悪魔め!どうせどこかで見ていやがるんだろ!」
 叫ぶ男の目の前に、
「いかがされましたか?」
 ヤギ頭の悪魔が姿を現す。
 男は悪魔に詰め寄った。
「この悪魔め、騙しやがったな!何にも変わっていないじゃないか!ラッシーはちっとも元気になっていないじゃないか!」
 悪魔はやれやれとばかりに首を振る。
「お客様クレームはよしてください。わたくし契約はきっちり守ります。そちらのお犬様の病気はきっちり治しましたとも。もちろん若返らせもしました」
「だったらこれはなんだ!」
 男の手の中で愛犬は体をプルプルと震わせている。今にも事切れてしまいそうに息は細かった。
「願いは叶えましたとも。お客様の15年と引き換えにね」
 悪魔が手鏡を取り出して男の方へ向けて見せた。
「ヒャッ!」
 男は驚きのあまり声を上げた。顔面は皺くちゃで髪の毛が真っ白になった男の顔がそこにあった。
「なにも寿命は後ろからいただく、とは一言も申し上げておりませんので。あの日からきっちり15年頂戴いたしました」
 悪魔が新聞を男に見せる。15年後の日付がそこにはあった。
「いやあ、愛犬との感動の再開とは素晴らしいものですね。お世話して待った甲斐がありました。たいへん元気で可愛らしい15年でしたよ」
「そ、そんな、じゃあラッシーは」
 男は膝から崩れ落ちる。
「わたくしが見た所、寿命でございます」
 涙を流す男の手の中で愛犬は息を引き取った。
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