将来に殺される②

文字数 2,783文字

 ——あいつは、いつも私の目の前にいた。
 初めてあいつの存在に気が付いたのは、小学6年生の夏。夏休みの宿題に『将来の自分』というテーマの作文が出た。
「ねえ、『将来』ってあたし、どうしよう」
 確か、母に尋ねた。
「そんなの


 母が指さした、私の目の前に、あいつは現れた——いや、ずっとそこにいたのだ。
「なに?」
 とぼけた顔で、あいつは聞いてきた。
「あたしの『将来』ってどうしたらいいのかな。わからないよ」
「そうだねぇ、具体的にしたいことはないの?」
「うん。したいことがないというか、わかんない。あたしが何をしたいのかわからない」
「ふーん、あっそ。だったらとりあえず、

いろいろやってみたらいいんじゃない? ……小学生から始められることといえばまあ、勉強かな」
「えぇ、勉強? あたし勉強嫌い」
「そんなこと言われても。じゃあ自分のやりたいこと探しなよ。それからそれに向かって努力したらいいじゃない。けどあなたがわからないとか言って自分のことをしっかり考えないから、提案しただけでしょう」
「だってー」
「だっても何もないよ。別にしたいことしたらいいんだよ? 強要なんかしてない。だったらなにが好きなの?」
「ピアノ弾くのが好き」
「だったらそれを頑張ればいいじゃない」
「うーん。でもでも……」
「そりゃまあ、たしかに今すぐに決めるのは難しいだろうね。だから、とりあえず

出来ることから頑張ればいいんじゃないって話だ」
「……わかった。あなたのいうことを聞くことにする。

勉強するよ」
 これが私とあいつとの出会い。最初の会話、そして最後の『

』だった。

 それからは毎日、あいつと私は一緒に過ごした。
 違う。
 それから私はあいつの奴隷になった。

頑張れよ」

努力しろよ」

我慢しろ」


 私がどれだけ苦しくても、辛くても、悲しくても、あいつは絶対に私を甘やかさなかった。
「もう嫌だ! 

どうして私がこんなに頑張らなければならないのよ!」
 一度だけ、私にどうしても限界が来たことがあった。確か高校三年の冬。大学入試も差し迫った2月、ここにきてとうとうプレッシャーに押しつぶされて、勉強に耐えられなくなった。するとあいつは、
「だったらやめれば? 俺は最初に言ったじゃない。別に強要なんてしていない。これは



 だったら。
 私は思い切り自分の気持ちを叩きつける。
「もううんざり。わかった。あなたのいうことなんて聞かない。私は私がやりたいことをやる。

なんてもうしない。あなたの言いなりにならない。
『私』は、私が生きる」
 するとあいつは満足そうに笑って、
「それでいいんだよ」
 ふっとあいつの存在に気がついたのと同じように、ふっとあいつの存在は、失われていたのだった。
 
 あの日、私は勉強をやめた。そして母と父に音大に進みたいと告げた。私はピアノを真剣にやりたかったのだ。
 当然母は猛反対した。私も母も絶対に譲らず、怒鳴り合って、掴み合って大喧嘩になった。父はそれをなにも言わずに黙ってみていた。
「あなたもなにか言ってよ!!」
 母は私の髪を思い切りよくつかみながら——プチプチと髪がちぎれる音がしていた——、私は母の服を引きちぎらんばかりにつかみながら——ビリビリと服が破れる音がしていた——。そんな状況で母がヒステリックに叫ぶと、父は静かに、
「好きにしなさい。お前の人生は、お前のものだ」
 拍子抜けしたのか、母の手が離れた。私もキョトンとしてしまった。父は続けた。
「お前がいま何をするか、これから何がしたいのか、選択することはお前の自由だ。そして俺たち親はそれを全力で応援する。束縛も、制限も、邪魔も、しない。けれどそれだけだ。応援以上は何もしない。できない。
 成功も失敗も、幸福も不幸も、お前の人生は全部、お前がひとりで背負うんだ。お前の将来どうなろうと、俺は知らない。母さんは助けない。お前の望む進路を選ぼうと、母さんの勧める進路を

、それはもちろん変わらない。それを理解した上で、それでも、決意は揺るがないんだな」
 私は何の迷いもなく、力強く頷いた。
「そういうことだ、母さん。もういいんだ」
 母は子どものように泣き始めた。私も我慢できなくて、母を抱きしめて泣いた。私は母に抱きしめられながら、泣いた。
 それから私は音楽の勉強を始めた。いままでの何倍も辛かったし苦しかったが、それ以上に楽しかった。充実していた。
 2年後、無事私は音大に進学した。そこでプロを目指したりもしたけれど、才能の壁は超えることができなかった。
 プロの道は諦めたけれど、それでも何かピアノに関わる仕事がしたかったので、楽器屋に就職した。けれど何かが違うと思って1年もたたずに辞めてしまった。
 しばらく何もする気が起こらなかった。バイトもせずただ実家に迷惑をかけているだけの時期もあった。それでもピアノだけは、決してやめなかった。私はピアノが大好きだから。とにかく弾き続けた。
 私は、『私』がしたいことをし続けたのだ。

 そして今、私はピアノの先生をしている。
 怠惰な、堕落した日々を過ごしていた頃、それでもピアノを弾き続けた甲斐あって、近所の女の子がピアノを教えて欲しいと訪ねてきた。それが今の私につながる。
 私はたくさんの苦労をした。大変だった。上手くいかない日々しかなかった。きっとあの日、母の言う通りにしていれば——あいつの言う通りにしていれば、今ごろいい会社に就職して、いまよりもうんといい給料をもらって、結婚して、子どもをもうけて、


 けれど、そんなあいつに——『将来』に殺された『私』なんて、私じゃない。
 たしかに、世間からみれば私なんてとてもお粗末な人生を送っているように見えるだろう。三十過ぎてなお、未だにピアノの先生だけでは食べていけない。週に3回パートに入っている。素敵な恋人だっていない。ここ十数年好きな人すらできない。笑えることに、これからの私の人生は全く保障されていない。将来なんて、


 それでも、私はこれでよかったと胸を張れる。こうでなければならなかったと断言できる。
 
 『将来』なんていらない。あんな奴、こっちから願い下げ。
 ねえ、どうせ聴いているんでしょう?
 あなたなんていなくても、私には不安なんて無いわ。
 だって、私は『今』を生きているのだから。
 
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