キー子

文字数 10,057文字


 朝起きると目の前に『ワタシ』がいた。
「おはよう」
「おはよう」
 挨拶を交わす。『ワタシ』は苦笑した。
「驚かないんだ」
「だって『ワタシ』だし」
「怖くないの?」
「だって『ワタシ』だし」
「そっか」
 短いやり取りの後『ワタシ』は立ち上がった。
「『ワタシ』、どこ行くの?」
「『わたし』、朝ご飯よ」
 わたしも立ち上がりドアへ向かう。その後ろを『ワタシ』がついてきた。
「呼び方」
 わたしがドアノブに手をかけて部屋から出ようとしたとき『ワタシ』は後ろで言った。
「なに?」
「あなたのこと『わたし』って呼ぶことも、ワタシが『ワタシ』って呼ばれることも嫌よ」
「そうかな。わたしはどうでもいいけれど」
「ワタシは嫌なのよ。ワタシのことはキー子って呼んで欲しいな」
「どうでもいいけど。キー子はわたしのことをなんて呼ぶの?」
貴那(きな)に決まっているじゃない。だってそれがあなたの名前でしょう?」
 わたしはキー子を無視して部屋を出た。廊下をペタペタと歩いて誰もいないリビングへ。テーブルの上には昨日スーパーで買っておいたカレーパン一つ。しかも半額シールが貼ってあるやつ。これがわたしの朝食だ。
 わたしは水道水をコップに入れてから、適当に

。キー子もその横に座った。カレーパンの袋を破いてから気が付いた。
「どうしよう。キー子の分が無い」
「大丈夫よ。ワタシは貴那で貴那はワタシだもの」
 そう言って微笑む。それでもわたしが悩んでいると、
「早く食べないと遅刻するわよ」
 そう言ってわたしからカレーパンを取り上げて、ギュウギュウと口に押し込んできた。一口食べるとお腹が空いていたことを自覚した。半分ほど食べてから、
「キー子はどうするの?」
 わたしは学校に行くけれど、じゃあキー子はどうするのだろう?
「適当に過ごしているわ」
 三角座りの膝に顔を埋めながら、上目遣いでキー子は言った。微笑んでいた。その表情には、わたしが触れたことのない優しさがあった。それにしても、わたしと同じ顔の人間に笑顔で優しくされるというのはなんとも言えない感覚である。双子は毎日こんな風なのだろうか。
「本当におなかすかない?」
 わたしはカレーパンの半分を差し出しながら尋ねる。
「貴那は本当に優しいのね。あなたこそパン一個じゃ足りないはずなのに」
 図星だった。正直なところ、パンを見ているだけでよだれが止まらず、お腹が食べ物を欲する。けれど、それはキー子も同じはず。
「わたしは——」
「——ワタシは知っているわ。だって『わたし』だもの」
 わたしが誤魔化しを口にしようとすると、ことばを制された。続くはずだった言葉たちは、唾液と一緒に飲み込んでしまった。
「ほら、本当に急いで。遅刻しちゃうわ」
 キー子は立ち上がってリビングから出て行ってしまった。わたしはほんの一瞬ためらったあと、残りのカレーパンを一口で頬張った。そして自分の部屋へ向かう。部屋ではキー子が準備をしていてくれた。「リスみたいでかわいいわ」と笑われて、少し恥ずかしかった。
 キー子に手渡された制服に着替える。しわしわのポロシャツに腕を通し、ところどころ変な癖がついたままのプリーツスカートに左足から入れる。最後に紺色のソックスで足を包めば終わり。
 それから洗面所で顔を洗って歯を磨く。髪の毛は特に気にしない。寝癖があるけれど


 時間割は昨日確認してスクールバックに教科書を入れておいた。最後にブレザーを着て家を出る。普段より約五分の遅れ。
「いってきます」
「ちょっと待って」
 キー子が呼び止める。
「なに? 急いでいるんだけど」
「あなた寝癖」
 そう言って濡れタオルでわたしの髪を何度か撫でた。ぴょこっと跳ねた髪が馴染んでいった。
「女の子なんだから、きちんとしなきゃ」
 キー子はウインクした。
「別に」
 わたしは

家を飛び出す。ありがとうといい忘れたことを後悔して、
「ありがと!」
 立ち止まって振り返った。キー子はやっぱり優しく微笑んでいた。
 そこからまた急いで駆け出す。いままでで一番、心が軽い。このまま駆けていけば、たぶん間に合うだろう。

 間に合わなかった。
 エレベーターを待つのを惜しんだ結果、不運なことにマンションの階段から転げ落ちた。急ぎ過ぎで階段を踏み外したのだ。
 そこで二分ほど気絶。たまたま通りかかった下の階の住人さんが起こしてくれなければ、もしかすると次の朝を迎えていたかもしれない。
 手足はすりむいて、からだ中打撲だらけ。涙を浮かべてよろよろと学校に向かったがもちろん遅刻した。
 校門には生徒指導の先生が立っていてわたしが姿を現した途端、駆け寄ってきて心配してくれた。顛末を話すと笑われた。
 特別に遅刻はつけないから次回からは気を付けなさいと言われ、そのまま保健室へ連れていかれた。
 擦り傷を消毒してもらい、痣にはシップを張ってもらって解放された。
 重い足取りで教室に向かいドアを滑らせる。どうにか朝のホームルームには間に合ったようだ。先生の朝の連絡中。わたしは静かに自分の席へ歩く。
 誰もこちらを見ない。わたしはクラスに入ると透明人間にでもなった気分になる。別に嫌がらせをされているわけではない。決していじめではない。ただ、わたしがみんなに興味を持ってもらえないつまらない性格なのが悪いのだ。
 わたしが悪い。どうでもいいや。
 こう考えることが、毎朝教室に入った時のルーティンだ。こうするおかげで、学校生活が少し楽になる。
「今朝の連絡はこんなものかな。一時間目の用意しとけよ」
 担任は教室を後にした。
 いつもはいったん騒がしくなるクラスも今日は妙に静かなままだ。他の人にばれないようこっそり辺りを見回すとどうやら一時間目の数学の課題を急いでやっている人が多いようだ。ひとつの机に何人も固まって一枚のプリントを写している。その集団がクラスにいくつかできていた。
 わたしはきちんと家でやってきた。いうまでも無く、宿題を写さしてくれる友人はいない。写させてと言ってくる友人もいない。どうでもいいか。どうせわたしが悪いのだから。
 鞄に入っている青色のクリアファイルを取り出す。五色セットで100円の奴だ。そこから数学のプリントを探して抜き出す。探して。探して、抜き出す。探して。探して。探して?
 ない。プリントがない。昨日はきちんと寝る前に時間割を確認して教科書を入れたのに。
 もしかすると教科書しか入れていなかったかもしれない。自分の勉強机の上にプリントが放置されている光景がありありと想像できる。
 忘れた。
 せっかくやったのに。
 一人でショックを受けていると起立、と号令がかかる。いつの間にか担当の数学教諭が教壇に立っている。ひょろひょろの細長い体はまるでマッチ棒のようだ。いつもへらへらと笑っていてそれが不快だ。
 礼。号令係のシャキッとした号令に合わせて各々礼とは言えないような、だらっと首をかしげるような仕草だけをして座る。
「早速だが宿題を集める。後ろから回してくれ」
 わたしは宿題を忘れたことを告げるため立ち上がって教壇の方へ歩く。あいにくわたしにはその場で宿題忘れましたぁ、なんていう勇気はない。前まで歩くのさえ相当勇気を振り絞っている。
「どうした広瀬」
 数学教諭はわたしが何を告げようとしているのかを察し、威圧的に言った。
「宿題を、忘れました」
 どうにか言えた。わたしは背を向けて席へ戻ろうとする。
「おい待て、なんで席に帰ろうとするんだ。それがどうした」
 どうして席に帰ってはいけないのだろうか。学校でのわたしの、唯一の居場所に。あの居心地がすこぶる悪い、居場所に。
 本気できょとんとした顔をしていると数学教諭は呆れた顔をした。
「忘れた。だから何なんだ」
 意味がわからない。忘れた。それ以上にこいつに告げるべきことがあるというのか。
 数学教諭は、今度はこれ見よがしに大きなため息をついてわたしに言った。
「あのな広瀬。忘れました、だけでは小学生だ。中学生なら忘れたからどうするのか、それをきちんと言わなければ意味がないんだ。小学生からやり直すか?」
 またあのへらへらした顔。不快。緊張。
 クラスではクスクス笑い声。恐怖。羞恥。
 顔を真っ赤にして涙を堪えて、そうしてどうにか振り絞る。
「プリント、を、忘れました、ので、次回の、授業、で、提出します」
「おいおい、自分で勝手に決めるなよ。忘れたんなら放課後に取りに帰れよ。それとも本当はまだやってないのか」
 数学教諭は煽るように言った。理不尽だ。お前が尋ねたくせに、そんな風に言うなんてあんまりだ。振り返ればクラス中がわたしを馬鹿にするような笑顔でこちらを見ているのではないかと思うと怖い。
 いや、本当は馬鹿になんてしていないかもしれない。わたしの被害妄想だ。
「ほかに忘れた奴はいるのか」
 クラスのみんなは見事時間内に写しきったのか、返事はなかった。
「あの田中ですらきちんと提出してるんだ。広瀬、お前もっとちゃんとしろ」
「先生! 酷いっすよ!」
 クラスはドッと湧いた。ワハハと声が響く。
 ほら、やっぱり数学教諭は面白い先生で、クラスメイトはノリのよい面白い人ばかり。
 ほら、やっぱり悪いのはわたし。
 わたしが悪い。どうでもいいや。
 わたしは宿題を忘れたから、やってすらいないと疑いを掛けられる。みんなは友達がいるから宿題なんてやっていなくても休み時間に写して、提出して、褒められる。
 わたしが悪い。どうでもいいさ。
 ああ、こう思えば気持ちは少し軽くなる。
「もういい、ちゃんと明日提出しろよ。えーと、じゃあ前回の続きからいくぞ」
 数学教諭は、うつむいたままのわたしを鬱陶しく感じたのだろう、強引に話を切り上げて授業を始めた。
 席に着く。
 実にわたしの学校生活らしい。
 どうでもいいけど。
 わたしが悪いのだから。

 放課後、家に帰るとリビングのテーブルに五百円玉一枚。
 母か、父か、一度家に帰っていたみたいだ。
 良かった。今日もご飯が食べられる。明日の朝もご飯がある。
 そう思ったが我が家には今朝からもう一人増えたんだ。
 彼女は家にはいないのだろうか。自室を覗いてみる。
 いない。
「どうしたの?」
「……キー子、いたんだ」
 すぐ後ろで声がした。
「もぉ、少しは驚いてよね」
 振り返ると彼女はわたしと同じ制服姿だった。キー子を見ると安心した。涙が出そうになるくらい。でも泣かないぞ。
「隠れていたの?」
「いいや、今帰ったところだよ。そっちは?」
「わたしもいま帰ったところ」
「そっか」
「ねぇ、晩御飯買いにいこうか」
 わたしは五百円玉をキー子に見せて言った。
「いいよ」
「近所のスーパーの半額シールが貼られるのは十九時過ぎてからだからあと三時間ぐらい待たないといけないけれど」
「大丈夫だよ。何しよっか?」
 キー子はわたしを否定しない。拒絶もしない。
 ねえ、わたしが悪いの? どうでもなんてよくないよ。
「もう、貴那。どうして泣いているのよ」
 泣かないって決めたのに。何もかも、わからなくなっちゃった。

 部屋に戻ると案の定、数学のプリントが置いてあった。一番にそのプリントをスクールバックにしまってから、三時間キー子と課題をしたり、明日の学校の準備をした。
 キー子は大人っぽくて落ち着いているけれど別にわたしより特別に賢いわけではなかった。二人で考えながら取り組むといつもの半分の時間で終わった。楽しかった。
 次に二人で一つひとつ確認しながら教科書と取り組んだ課題を入れて、明日の準備をした。それだけのことでもやっぱり楽しかった。
 たぶんキー子はわたしと違って面白い子なのだ。だから一緒に過ごすだけでこんなに楽しい。それにわたしと同じ見た目なのに、どこか綺麗に見える。同じクラスの可愛い女の子たちと引けをとらない輝きがあった。
 全部済ませてもまだ少し時間が余ったから、今日あったことを話した。
 山田君がとても難しい高校の数学の問題を解いてすごかったこと。相川さんが体育のバレーボールでとてもかっこよかったこと。田中君とみんなのやり取りがとても面白かったこと。
「貴那も混ざりたいんだね」
 キー子は言った。
「わたしじゃ、無理だよ。だってわたしはすごくない、おもしろくない、かわいくない。ドジでまぬけで頭も見た目も要領も悪い。そんな人間はあんな人たちとは友達になれないよ」
「そっか」
「なにより、どうでもいい」
 話は途切れた。
 自分が情けなくて、恥ずかしくて、それでキー子の顔が見れなくなった。視線は彷徨ってしまう。
「そろそろ行こうか」
 キー子が指をさした時計はもう一九時を回っていた。
 わたしたちは家を出てスーパーに向かった。五百円玉を小さな手からこぼれない様に大事に握りしめて。
 徒歩で約三分のところにスーパーはある。
「キー子はどんなパンが好き?」
「貴那と同じメロンパンだよ」
「同じだ」
「同じだね」
 二人でクスクスと笑いあう。スーパーにつくとすぐに菓子パンコーナーに向かった。
「無い」
 メロンパンは売れ残っていなかった。
「残念だけれど。……ほら、クリームパンがあるわよ。私はメロンパンの次にクリームパンが好きなの。それに半額シールが貼ってある。これは嬉しいわ」
 落ち込むわたしにキー子はそう微笑んだ。
「でも一つしかないよ」
「ワタシは食べなくても大丈夫なのよ?」
「でも朝から何も食べてない」
「ふふ、貴那は本当に優しいのね」
 そういってわたしを撫でてくれた。
「その食費はいつまでの分かわからないでしょう? 二人分も買ってしまうと明日まですらもたなくなっちゃう。ワタシは大丈夫よ」
 行きましょうといってキー子はわたしの手を引いた。
 わたしは家に着くまでキー子にごめんねと言い続けた。
 レジのおばさんにすごく心配されたけれど構わずキー子に謝り続けた。
 キー子はまたわたしを優しく撫でてくれた。


 あれからわたしは独りきりの学校生活と、キー子との二人の生活を送っていた。どれだけ学校が辛く苦しくても、キー子といれば忘れられたし、幸せだった。
 さすがにキー子のご飯を用意しないのは心が詰まったため、さいきんはきちんと自分の分をキー子と半分こして食べている。
 キー子の嬉しそうな顔を見ると不思議と空腹感は生まれなかった。

 今日は遠足の日だ。バーベキューをする。班決めは名簿順で強制されて余ることはなかったけれど露骨に嫌な顔をされたのを覚えている。
 わたしはソーセージを持ってくる担当になったけれど、その代金が欲しいという書置きは『無理』の二文字で一蹴された。
 またクラスの人たちに嫌な顔をされるのが怖くて、キー子と二人で食費を削ろうと話し合った。けれどお金を求められたのが癪だったのか、お父さんとお母さんは、今までギリギリだった食費をさらに減らしたのだった。おかげで切り詰めて浮かせようとしていた分がぴったり無くなった。
 わたしは用意できなかったことがどうしても言えず今日は休もうかと思った。
「貴那、まだ寝ているの?」
「今日休む」
「体調悪いの?」
「ううん」
「今日遠足でしょう? 休んじゃうともったいないよ」
「遠足なんて別にどうでもいい」
「休んで先生からお母さんに連絡がいったら怒られちゃうよ」
「嫌だ」
 班の人に迷惑そうな顔を向けられ、嫌われるのは怖い。母に怒られるのも怖い。
 どうしようもなくてただわたしは泣いていた。
「わかった」
 キー子は強くいう。
「ワタシが代わりにいこう」
「へ?」
 驚いてかぶっていた布団から飛び出る。
「わたしが行って上手くやってくる。だから貴那は眠っていて」
 キー子は手でわたしの瞼に触れて、そこで途切れた。

 わたしは夢を見た。
 とても素敵な夢。
 内容はぼんやりとしていてよくわからない。
 わたしの憧れがそのまま形になったような、夢のような夢。
 幸せだ。それだけが理解できた。

「ただいま」
 目を覚ますとキー子がいた。
「今何時?」
「十八時を回ったところ」
 あれからずっと眠っていたようだ。
「楽しかったよ、遠足」
 キー子は嬉しそうに言った。
「すごい顔になっているわ」
 わたしの顔がよっぽど驚いていたのだろう。キー子は失笑した。
「そんなに笑わなくてもいいじゃん」
「あはは、ごめんね。拗ねないで」
「楽しかったって、隅っこで蟻みていたことがってこと?」
「いいや? みんなとお話ししたことが、よ」
「そんな馬鹿な」
「また変な顔になっているよ」
「キー子は意地悪な顔している」
「あら、それは失礼しました」
「どうやってみんなと仲良くしたの?」
「何も特別なことはしてないよ。皆さんいい方ばかりでしたから」
「そんなのありえないよ」
「まあまあ。ずっと寝ていたのだから、お腹も空いているでしょう。ご飯にしましょう。今日は帰りにワタシが買ってきたわ。珍しくメロンパンが残っていたのよ。早速食べましょう?」
 そう言ってキー子はわたしに手を差し出した。その手を素直に取って布団から起き上がる。
確かに、おなかはすいていた。しかし、一日中何も食べていなかったとは思えないほど少しであった。それにかすかな疲労感。寝過ぎはむしろ疲れるとはこういうことなんだろう。
「まあ、どうでもいいか。ご飯買ってきてくれてありがとう」
「どういたしまして」
 キー子はわたしに微笑んだ。

「おはよう」
 わたしがいつも通り俯きながら教室に入ると挨拶が聞こえた。
 一瞬わたしに言われたのかと思ったが、そんなわけがないと自意識を消し去る。
 なんせあのクラスで一番かわいい片岡さんだ。そんな人がわたしに挨拶なんて、しかも彼女からしてきてくれるなんてありえない。
「もぉ、キー子ちゃん。無視しないでよ。やっぱり朝は弱いんだね」
 キー子……、まさか昨日片岡さんと話したというのか。なんてやつだ。
「ご、ごめんね。気づかなくって」
「大丈夫! それじゃあまたあとでね」
 そういって彼女は去っていった。
 『またあとで』か。
 『あと』なんて来るはずがないのに、どうして。こんなに、待ち遠しく思ってしまうのだろう。
 席に着いてからも私はクラスの男女問わずに挨拶され続けた。ほとんどがびっくりしすぎて上手く返せなかったけれど、嬉しかった。
 
 三時間目の体育の授業。体操服を忘れた。
 準備はキー子ときちんと昨晩にした。
 それでも忘れたのは、靴を履いているとき玄関に置いてそのまま家から出たからだ。
 体育の先生は怒ると怖い。わたしはきっと言い出すことがなかなかできず、言うのが遅れてもっと怒られてしまうだろう。
 どうしよう、どうしようとトイレでパニックに陥っていると、コンコン、と扉を叩く音がした。
 怖くてパニックになって、なにも返せないでいると、
「貴那? ワタシ。キー子よ」
 と声が聞こえた。
「キー子!」
 わたしは個室の扉を勢いよく開く。
 そこにはキー子がいた。思わず抱き着いてしまった。キー子は「落ち着きなさいな」と苦笑いを浮かべながら言って、
「こんなところでどうしたの?」
「体操服を忘れちゃった。でも怒られるのは怖いし、このままサボるのも怖い」
「そっか」
「ねえ、昨日みたいにわたしの代わりに行って、誤魔化してほしいの」
「お安い御用だよ」
 キー子はわたしのお願いに二つ返事で答えた。
「それじゃあ、少しおやすみ」
 そういって昨日と同じようにキー子はわたしの瞼に優しく触れた。
 やっぱりそこで意識が途切れた。
 
 今回の夢もぼやけている。前回よりもほんの少し鮮明な気もする。
 途中まで気の休まらない嫌な夢だったけれど、最後には幸せな気分になった。

「貴那」
 さっきまでのトイレの個室。
「今は?」
「放課後だよ」
「何時?」
「えーと、十五時半回ったころかな」
 わたしはあれからトイレで寝ていたというのか。
「帰ろうか」
 キー子が帰りの支度をまとめて来てくれていた。
 家路につく。
「起こさなかったの?」
「あまりにも気持ちよさそうだったから」
 辺りの生徒たちが奇妙なものを見る目でわたしたちをみる。双子のように顔が似たわたしたちが話しているとやはり目を引くのだろう。
「どうだった? 怒られた?」
「少しだけれどね。まあそれぐらいどうしたことも無いよ」
「ありがとう、ごめんなさい」
「どうして謝るのよ」
「嫌なこと押し付けてしまったから」
「いいの。それがワタシの仕事ってところもあるから」
「でも……ありがとう」
「貴那が言っていた通りバレーボールって楽しいわね。いっぱい汗かいちゃった」
「体操服忘れたのに?」
「ええ。先生に頼んで制服のままさせてもらった。おかげで少し汗臭いけれど」
 そういうキー子だったけれど、鼻を近づけるととてもいい匂いがした。
「でも、わたしはいつも見る専門なの。みんなの邪魔にならないように見ているだけ。プレーはしないんだ」
「そっか」
「そういえばキー子、昨日片岡さんたちと話した?」
「マリのこと? うん。今日も一緒にお弁当食べたよ」
「そうなんだ」
「貴那も仲良くできるよ」
「そうだといいな。どうでもいいか」
 帰りにスーパーに寄る。
 まだまだ食費は乏しいままだった。


「おはよう、キー子」
「おはよう、マリ」
「おはよーキー子ちゃん」
「おはよう」
 クラス中の女の子が次々とわたしに挨拶をしながら集まってくる。
「あ、キー子、そういえば昨日の話の続き聞かせてよ」
「いいよ。……でもそろそろ時間だから、また給食の時間にね」
「早く聞きたいな。昨日はめっちゃいいところでチャイムなっちゃったし!」
 楽しみ! とみんな口を揃えて言う。
「おーっす、どうしたの?」
 盛り上がっていると男の子まで寄って来た。
「お昼はキー子の面白い話が聞けるんだよ」
「おおーまじか。楽しみだな」
 わたしはどんどん友達が増えて、今ではクラスの中心で楽しく学校生活を過ごしている。

「ただいま!」
 わたしは元気よく家の玄関を開いた。
「おかえりなさい」
 キー子が出迎えてくれた。
「今日も楽しかった?」
「うん! もうすっかり学校が大好きになっちゃった! これも全部キー子のおかげだよ!」
「そんなことないわ。すべてあなたの頑張りなのよ」
 キー子は変わらず謙虚で素敵だった。わたしはとっても嬉しい気持ちになる。
 机の上には一万円札と書置きがあった。
『週末、お父さんも休みみたいだから、一緒にご飯でも食べに行きましょう。 母』
『お仕事頑張ってくるよ! お父さんより』
 最近は両親とも上手くいっている。
「さぁ、ご飯買いに行こ!」
 わたしはキー子の手を取った。キー子は苦笑いしながら、足を進めなかった。
「キー子?」
「貴那、あなたが幸せになってくれて、

、ワタシ本当に嬉しいわ」
「それはキー子のおかげだよ」
「貴那の周りはたくさんの人で溢れて、もうワタシなんていなくても大丈夫」
「そんなこと言わないで! どれだけ友達がたくさんできても、わたしはキー子と過ごす時間が一番好き。キー子が一番大好き!」
「あら、とっても嬉しいわ。けれど、もうお別れなのよ」
「どういうこと? いやだよ!」
 わたしが訊いても、キー子はなにも答えないで微笑みながら顔を近づけてくる。
 怖くなってギュッと目を瞑ると、
「『私』を愛してくれて、ありがとうね。


 そう聞えた後に、おでこに柔らかい感触があった。それはチュッと弾けて消えた。
 恐る恐る目を開けると、誰もいなかった。
 当然だ。わたしには姉妹はいないのだから。
 じゃあさっきまで誰と一緒にいたのだろう?
 思い出せない。ただあるのは確かな心の空白。そしてそれを埋める寂しさ。
 涙が溢れてきた。
「ありがとう、ありがとう!」
 泣きながら、何度も感謝を口にする。
 その人は、

——

 高校の入学式。登校すれば隣の席の女の子は緊張しているようだった。私もかなり緊張している。大丈夫。自己紹介は考えてきた。
「初めまして。広瀬貴那って言います。私のことはキー子って呼んで欲しいな」
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