ペンギンはなぜ空を飛べないのだろう。
文字数 2,801文字
「ペンギンはなぜ空を飛べないのだろうか」
先生はいつも唐突だ。
「そんなこと考えたことありませんよ」
先生は読んでいた本をパタンと閉じて——栞は使わない主義らしい——呆れたように大きなため息をついた。ちょっとむかつく。
「ダメだなぁ。自分が生きることに不必要、無関係な事情について考えることができるというのはあらゆる生物のなかで人間だけの特権じゃないか。権利というものは使わないと損だ」
あー、むかつく。
「僕は基本的にそういうもったいない根性は嫌いです」
「どうして?」
「面倒だから」
先生は頬を緩めて、
「それで、君はなぜだと思う?」
ずるいよ、先生は。それだけで、僕はすっかり毒気を抜かれてしまった。
「そうですね。少し時間をください」
暇つぶしに、と心の中で言い訳をしてから考えることにした。もちろん、と先生は頷いてから、さっき閉じた本に再び手を伸ばした。パラパラとページをめくる音が止まった。僕はたっぷり10分考えてから、何の前口上もなく回答をした。
「簡単に言ってしまうと、寒いからでしょうか」
先生は興味深そうにこちらを一瞥したが、すぐに本に戻って、
「その心は?」
顔は本に向かっているが、心なし声が弾んでいるように聞こえた。
「ひとつは、寒すぎて地上に敵がいないのではないかと考えました。……ちなみにここからはほとんど全てが僕の憶測で浅学菲才を披露してしまうことになり恥ずかしいのですが、ご容赦ください。
鳥が飛ぶようになったのは地上の敵から逃れるための独自進化であると僕は考えました。ということは寒いために地上に他の動物のいない南極では、空を飛ぶ必要がなくなるのではないか。それよりも餌を確保するためにそれに適した体に、すなわち空を飛ぶための体より泳ぎやすい体に。ということで空を飛べないように進化したということです」
「ふーん。他には?」
先生は変わらず本から顔を上げないが、それでもニタニタと気持ちの悪い表情を浮かべている。さっきの、むかつきを少し思い出したが、それを抑える。
「二つ目は寒いから、が直結します。鳥は空を飛ぶために、体重のほとんどが羽を動かすための筋肉であると聞いたことがあります。しかし、それでは寒さで簡単に死んでしまうでしょう。つまり、ペンギンは寒さから身を守るために脂肪を纏い、その結果空を飛べなくなったということです。これが僕が思いついたすべてなんですが、あってますか?」
そこでやっと先生は本を閉じて顔をこちらに向けた。先ほどと変わらず気持ち悪い笑みを浮かべたままだ。
「なんですか。あからさまな間違いはなかったと思うのですが」
「うん。なかったよ。そもそも俺がどうしてこんな質問をしたのかというとね、俺も昔に同じことを恩師に聞かれたんだ。そしてその時俺がどう答えたか。ほんとうに笑ってしまうほど、君と同じことを答えたんだ」
なんだか馬鹿にされたようでやっぱり腹が立った。僕の不機嫌な顔を見てとうとうこらえきれなくなったのか、失笑した。
「それはつまり、僕は正解だったということですか?」
「どうだろうね。それは俺も知らないや」
先生は投げやりに答えた後、途端に顔つきが真剣になった。驚いて、緊張してしまう。僕は自然と生唾を飲み込んだ。
「俺の恩師は俺の答えを聞いてから、こう教えてくれた。
『ペンギンは空を飛びたくなかったのさ』ってね」
僕は意味がわからなかった。
「どういうこと?」
聞き返すと、
「ほんとうに、わけわかんないよね。俺もその時は本気でポカンとしたもんだ」
先生はなんだか悲しそうだった。そして続ける。
「人間は飛べない。だから飛びたいと思う。飛べたならば、と夢想する。だったら鳥はどうだ?そもそも飛べるのならば飛びたいとは思わないだろう。飛べるからこそ、飛びたくないと思うことができる。そしてペンギンたちの祖先はそう、思ったのだろう。そして翼を捨てるために、そう進化できるような寒いところを目指した。寒いから飛べなくなったんじゃない。飛びたくなかったから寒いところに来たんだ」
そう言って笑う先生は、儚げだった。
「すみません。やっぱりまだ僕にはよくわかりません。そのことを通して先生の恩師は先生に何を伝えたかったのでしょう?」
「そうだね。つまり、『できる』ということは決して幸福ではない、かな。ペンギンたちがもし『飛びたくなかった』なんて理由で翼を捨てたとすると、君はどう思う?」
「それは……少しもったいないと思います。……何度も言いますが、もったいない精神は嫌いです。けれど僕は空を飛ぶことができないので、そんな理由で翼を捨てたのなら贅沢な悩みだと思います」
「だよね。俺もそう思った。けれどそれはペンギンたちにとっては、きっと、辛い言葉だろうね。飛びたくないのに飛べてしまうから、飛べることを羨むものに嫉妬されてしまう。もったいない、理解できない、愚かだ、といわれる。
人間は社会的な生き物だ。決してひとりで生きていくことはできない。だから周りに合わせながら、流されながら、空気を読みながら、『生かされる』ことを必要とされる——もちろん、それが全てではないけれど。また、人間はほんとうに弱い生き物だ。他の人間からの攻撃に対抗できる精神を誰もが持っているわけではない。それはつまり、『できる』ことが自分の運命を決定づけることになるかもしれないということだ——たとえ、『したいこと』があったとしても。
その点、ペンギンたちは強い生き物だよ。自らの背負う、空を飛ばなければならないという運命に逆らった」
そこで先生は一度区切った。僕は次の言葉を待った。
「つまり、その時先生が言いたかったことは2つ。『できること』と『したいこと』が一致しているということは何事にも代え難い幸福だということ。そしてもう一つは、そんなことは奇跡に近い、ありえないことだということ。全く、ひどいことだ。恩師は夢見る高校生だった俺に非情な現実を見せつけやがった。あの時は心底呆れたよ」
「先生はいま、まったく同じことを生徒である僕にしているのですが、それはどういうつもりなのでしょう?」
「そりゃ、八つ当たりだよ」
「ふざけんじゃねぇ」
先生はやっと真面目な雰囲気を取っ払って、笑った。
「でも、それに俺が一つ付け加えるとすれば、『それでも「したいこと」をしろ——運命に抗え——』かな。俺がこう教えたんだから、君はちゃんと、『したいこと』をして生きるんだぞ。つまんねえ奴らに負けて、諦めたらだめだ」
「先生はどうなんですか?」
「どう、ってなにが?」
白々しく聞き返した先生に、心底呆れながら、
「先生は『したいこと』、しているのですか?」
先生は自信満々に、
「さあな」
ほんとうに、むかつく先生だ。
先生はいつも唐突だ。
「そんなこと考えたことありませんよ」
先生は読んでいた本をパタンと閉じて——栞は使わない主義らしい——呆れたように大きなため息をついた。ちょっとむかつく。
「ダメだなぁ。自分が生きることに不必要、無関係な事情について考えることができるというのはあらゆる生物のなかで人間だけの特権じゃないか。権利というものは使わないと損だ」
あー、むかつく。
「僕は基本的にそういうもったいない根性は嫌いです」
「どうして?」
「面倒だから」
先生は頬を緩めて、
「それで、君はなぜだと思う?」
ずるいよ、先生は。それだけで、僕はすっかり毒気を抜かれてしまった。
「そうですね。少し時間をください」
暇つぶしに、と心の中で言い訳をしてから考えることにした。もちろん、と先生は頷いてから、さっき閉じた本に再び手を伸ばした。パラパラとページをめくる音が止まった。僕はたっぷり10分考えてから、何の前口上もなく回答をした。
「簡単に言ってしまうと、寒いからでしょうか」
先生は興味深そうにこちらを一瞥したが、すぐに本に戻って、
「その心は?」
顔は本に向かっているが、心なし声が弾んでいるように聞こえた。
「ひとつは、寒すぎて地上に敵がいないのではないかと考えました。……ちなみにここからはほとんど全てが僕の憶測で浅学菲才を披露してしまうことになり恥ずかしいのですが、ご容赦ください。
鳥が飛ぶようになったのは地上の敵から逃れるための独自進化であると僕は考えました。ということは寒いために地上に他の動物のいない南極では、空を飛ぶ必要がなくなるのではないか。それよりも餌を確保するためにそれに適した体に、すなわち空を飛ぶための体より泳ぎやすい体に。ということで空を飛べないように進化したということです」
「ふーん。他には?」
先生は変わらず本から顔を上げないが、それでもニタニタと気持ちの悪い表情を浮かべている。さっきの、むかつきを少し思い出したが、それを抑える。
「二つ目は寒いから、が直結します。鳥は空を飛ぶために、体重のほとんどが羽を動かすための筋肉であると聞いたことがあります。しかし、それでは寒さで簡単に死んでしまうでしょう。つまり、ペンギンは寒さから身を守るために脂肪を纏い、その結果空を飛べなくなったということです。これが僕が思いついたすべてなんですが、あってますか?」
そこでやっと先生は本を閉じて顔をこちらに向けた。先ほどと変わらず気持ち悪い笑みを浮かべたままだ。
「なんですか。あからさまな間違いはなかったと思うのですが」
「うん。なかったよ。そもそも俺がどうしてこんな質問をしたのかというとね、俺も昔に同じことを恩師に聞かれたんだ。そしてその時俺がどう答えたか。ほんとうに笑ってしまうほど、君と同じことを答えたんだ」
なんだか馬鹿にされたようでやっぱり腹が立った。僕の不機嫌な顔を見てとうとうこらえきれなくなったのか、失笑した。
「それはつまり、僕は正解だったということですか?」
「どうだろうね。それは俺も知らないや」
先生は投げやりに答えた後、途端に顔つきが真剣になった。驚いて、緊張してしまう。僕は自然と生唾を飲み込んだ。
「俺の恩師は俺の答えを聞いてから、こう教えてくれた。
『ペンギンは空を飛びたくなかったのさ』ってね」
僕は意味がわからなかった。
「どういうこと?」
聞き返すと、
「ほんとうに、わけわかんないよね。俺もその時は本気でポカンとしたもんだ」
先生はなんだか悲しそうだった。そして続ける。
「人間は飛べない。だから飛びたいと思う。飛べたならば、と夢想する。だったら鳥はどうだ?そもそも飛べるのならば飛びたいとは思わないだろう。飛べるからこそ、飛びたくないと思うことができる。そしてペンギンたちの祖先はそう、思ったのだろう。そして翼を捨てるために、そう進化できるような寒いところを目指した。寒いから飛べなくなったんじゃない。飛びたくなかったから寒いところに来たんだ」
そう言って笑う先生は、儚げだった。
「すみません。やっぱりまだ僕にはよくわかりません。そのことを通して先生の恩師は先生に何を伝えたかったのでしょう?」
「そうだね。つまり、『できる』ということは決して幸福ではない、かな。ペンギンたちがもし『飛びたくなかった』なんて理由で翼を捨てたとすると、君はどう思う?」
「それは……少しもったいないと思います。……何度も言いますが、もったいない精神は嫌いです。けれど僕は空を飛ぶことができないので、そんな理由で翼を捨てたのなら贅沢な悩みだと思います」
「だよね。俺もそう思った。けれどそれはペンギンたちにとっては、きっと、辛い言葉だろうね。飛びたくないのに飛べてしまうから、飛べることを羨むものに嫉妬されてしまう。もったいない、理解できない、愚かだ、といわれる。
人間は社会的な生き物だ。決してひとりで生きていくことはできない。だから周りに合わせながら、流されながら、空気を読みながら、『生かされる』ことを必要とされる——もちろん、それが全てではないけれど。また、人間はほんとうに弱い生き物だ。他の人間からの攻撃に対抗できる精神を誰もが持っているわけではない。それはつまり、『できる』ことが自分の運命を決定づけることになるかもしれないということだ——たとえ、『したいこと』があったとしても。
その点、ペンギンたちは強い生き物だよ。自らの背負う、空を飛ばなければならないという運命に逆らった」
そこで先生は一度区切った。僕は次の言葉を待った。
「つまり、その時先生が言いたかったことは2つ。『できること』と『したいこと』が一致しているということは何事にも代え難い幸福だということ。そしてもう一つは、そんなことは奇跡に近い、ありえないことだということ。全く、ひどいことだ。恩師は夢見る高校生だった俺に非情な現実を見せつけやがった。あの時は心底呆れたよ」
「先生はいま、まったく同じことを生徒である僕にしているのですが、それはどういうつもりなのでしょう?」
「そりゃ、八つ当たりだよ」
「ふざけんじゃねぇ」
先生はやっと真面目な雰囲気を取っ払って、笑った。
「でも、それに俺が一つ付け加えるとすれば、『それでも「したいこと」をしろ——運命に抗え——』かな。俺がこう教えたんだから、君はちゃんと、『したいこと』をして生きるんだぞ。つまんねえ奴らに負けて、諦めたらだめだ」
「先生はどうなんですか?」
「どう、ってなにが?」
白々しく聞き返した先生に、心底呆れながら、
「先生は『したいこと』、しているのですか?」
先生は自信満々に、
「さあな」
ほんとうに、むかつく先生だ。