◎殺人鬼の憂鬱
文字数 3,183文字
「少し昔話をしようか。といっても、ほんの十年ほど前のことだけれどね」
男は唐突に語りだした。
「とある少女に会ったんだ。運命的ともいえるし、当時新米だった吾輩にとって、必然の出逢いだったともいえる。美しい黒髪の、吸い込まれるほど透明な黒い瞳の不思議な少女だった」
初老の男だった。髪やひげはもうすっかり白くなっていて、穏やかな笑みを浮かべている。
「吾輩はね、彼女を殺すために近づいたのだよ」
笑顔で男は言う。その瞳は血のような深い赤色で、真っ直ぐこちらを見ていた。
まるで見つけた獲物を逃がさないように、見定めている獣のようだ。
右手には草刈り用の鎌を持っている。月夜の光に反射したそれが闇の中、死神の鎌のような影を作っていた。
「死とは芸術だ。人は死ぬために生まれてくる。それに気づいたのは――妻の死だったのだけれどね」
長く連れ添った妻はある日、静かに息を引き取った。それはあまりにも突然の死で、男を絶望のどん底に突き落とした。
「どうして人は死ななければいけない? 人はいつか死ぬ。それは知っていた。ずっと昔から、誰もが知っていることだ。だけどそれはあくまで他人事で、自分の身に降りかかってくることのない絵空事だと思っていたんだよ。妻も、私も、自分が死ぬ人間だということを知らなかったんだ」
男は六十年生きてきて、やっとそれに気づいた。皮肉にも男の妻の死が彼に
「私は妻が死んだときに、どうしようもない恐怖に気づいたんだ。塵 のように燃やされるか、土に埋められるしかない」
空想したことはあるよ、男は言う。
「死んだらどうなるのかをね。眠るように意識を失ったらどうなるのか。天国や地獄はあるのか。死後の世界や輪廻転生なんて存在するのか」
そして私は――吾輩は、思ったんだ。
妻の死を嘆くより、自分の死に恐怖した男は言う。
「死がどういうものかわからないのなら、体験してみればいいのだとね。でも自分が死ぬわけにはいかない」
だからね、とまるで素晴らしいことがあったかのように手を広げて、恍惚とした笑みを浮かべて告げた。
「吾輩は人を殺すことにしたんだ」
その初めての殺人の被害者――彼がいうところの被験者に選ばれたのは、たまたま通りがかった美しい黒髪の少女だった。
彼は少女がひとりになるのを見計らい、彼女を路地裏に呼び出した。
驚くことに黒髪の少女は不安げな顔をすることもこちらを警戒することもなく、おとなしく男についてきたという。
そして男がいまからお嬢さんを殺すんだよと能書きを垂れ流すように告げると、彼女はただ静かに頷いたらしい。
男は少し不思議に思ったが、男の震える手が歓喜するように動き、細長いナイフで少女の首を切り付けた。
「まるで心地よい夢を見ているようだったよ」
思い出しながら悦に浸る男の手がフルフルと震えている。ほう、とため息を吐くと、彼は目を閉じた。
そのまましばらく無言になる。
沈黙に耐えられなくなった赤毛の青年は、きつく閉じていた唇を開く。
「その少女はどうなったんだ?」
「――――死んだよ」
幸せな時間を邪魔された音の眉がぴくっと動く。
煩わしそうに目を開くと、細めた目で赤毛の青年をにらみつける。
「いや、正確には死んだ――と思ったんだ」
「切りそこなったのか?」
「いや、そんなことはありえない。初めての経験とはいえ、吾輩は一発で殺した――はずだったんだ」
男の紅い瞳に浮かんでいるのは怒りだろうか。もしかしたら歓喜なのかもしれない。
「彼女は――生き返ったんだ」
殺したはずの人間が生き返る。そんなことをまともな人間が聞いたら、ありえないと大笑いを浮かべるだろう。
だが、赤毛の青年――ロンは
「彼女はとても不思議な少女だった。そして息を呑むほど美しい少女だったよ」
残念ね、と少女は言った。あたしは死なないのよ。
その言葉に男は大きな口を開けて呆然したのち、笑った。
「素晴らしい! そう思ったね。人は必ず死ぬ。老いも若くも男も女も大人も子供も問わず、人は死ぬ。人だけじゃない、犬も猫も――動物も、生物である限りは死は必ず訪れるんだ。――そう信じて疑わなかったというのに」
少女は死ななかった。
男は喜んだ。これで死の恐怖に怯えなくて済むと、そう思った。
「でも」
男は一転とても悲しそうな顔になった。
「他の少女は違ったんだ。あれから何人何人も、少女を殺して回っているというのに、あの時の黒髪の少女みたいに死んでも行きかえる人間に出会えていないのだよ」
彼女はどこにってしまったのだろうね。
ひどく残念そうに、殺人鬼は罪の告白をする。
いままで殺してきた少女の死を、その行いを、男はつらつらと並べ立てる。
それらを聞きながらロンは歯を食いしばった。
(反吐が出そうだ)
少女を殺しまわっている殺人鬼がその行いを誇らしそうに語るさまが、あまりにも悍ましくて、胸の奥がむかむかする。
「この、殺人鬼が」
ロンの呟きに、男は語りをやめた。
首を傾げた男が問うてくる。
「君と吾輩、何が違うというのだね」
「何もかもだ。この快楽殺人者が」
「ふむ。……これは吾輩の勘違いだったかな」
「何がだよ」
「だって、君は吾輩を殺すために近づいてきたのだろう? その君と吾輩、いったい何が違うというのだね?」
「……ッ、違うッ。なにもかも」
ロンが殺すのは犯罪者だ。何の罪もない少女ではない。
くっくっ。
殺人鬼の嗤い声が嫌に耳朶を叩いた。
「なにも違わないのだよ。吾輩がいまから君を殺すのと、君が吾輩を殺すの。それはどう足搔いたところで同じことなのだ」
「……ッ」
違う、となぜかロンは言い返せなかった。
殺すというのは、相手の意思を確認することなく自分勝手に命を奪うという行為だ。
この男が自分欲を満たすために少女を殺すのと、ロンが犯罪者を殺すという行為は、どちらも等しく他人の命を奪う行為でしかない。
(でも、だからといって……ッ)
殺人鬼と一緒にされるのだけはごめんだった。
「オレが犯罪者を殺すのは、この世から犯罪をなくすためだ」
「ああ、君は正義の執行者だったのだね」
それは素晴らしいと、男は拍手をする。
それにますますロンの右手に力が入った。
「そうだ。その為に、何年もつらい訓練を耐え忍んできたんだ。人を殺す技術を身につけて、本当に死なねばならない人を殺すために……」
ああでも、最初はそんな理由じゃなくって、もっと切実なものだったのかもしれない。
親の仇である、あの美しい黒髪の少女を殺すために、ロンは――。
「ふむ。そろそろ夜が明けそうだ、少年よ」
「……そうだな。そろそろ仕事を終わらせないとな」
男との間には距離がある。いくら男が俊敏に動けたとしても、その手に持っている鎌でロンを傷つけるのは不可能に近いだろう。
拳銃を構えると、男は「ほう」とため息を吐いた。
「肉を抉る感触を楽しまないとは、殺人鬼の名が廃るねぇ」
「オレは殺人鬼じゃねぇと、なんべん言えば気が済むんだ。クソヤロウが」
ロンの言葉に、殺人鬼が嗤う。
「吾輩も、君も、血に飢えた獣ということは変わらないのに、おかしなことをいうものだねぇ」
乾いた銃声が響いた。
◇
それから暫くして、その街の夜の恐怖の象徴だった「殺人鬼」が死んだというニュースが報じられた。
人々は喜んだが、その「殺人鬼」の死に際はあまりにも異質で、新たな「殺人鬼」が現れたのではないかと、街の人々は噂した。
だからその後も、その街の人々はほとんど夜に出歩くことはなかったという。
たった一人――彼を殺した「殺人鬼」を覗いて。
男は唐突に語りだした。
「とある少女に会ったんだ。運命的ともいえるし、当時新米だった吾輩にとって、必然の出逢いだったともいえる。美しい黒髪の、吸い込まれるほど透明な黒い瞳の不思議な少女だった」
初老の男だった。髪やひげはもうすっかり白くなっていて、穏やかな笑みを浮かべている。
「吾輩はね、彼女を殺すために近づいたのだよ」
笑顔で男は言う。その瞳は血のような深い赤色で、真っ直ぐこちらを見ていた。
まるで見つけた獲物を逃がさないように、見定めている獣のようだ。
右手には草刈り用の鎌を持っている。月夜の光に反射したそれが闇の中、死神の鎌のような影を作っていた。
「死とは芸術だ。人は死ぬために生まれてくる。それに気づいたのは――妻の死だったのだけれどね」
長く連れ添った妻はある日、静かに息を引き取った。それはあまりにも突然の死で、男を絶望のどん底に突き落とした。
「どうして人は死ななければいけない? 人はいつか死ぬ。それは知っていた。ずっと昔から、誰もが知っていることだ。だけどそれはあくまで他人事で、自分の身に降りかかってくることのない絵空事だと思っていたんだよ。妻も、私も、自分が死ぬ人間だということを知らなかったんだ」
男は六十年生きてきて、やっとそれに気づいた。皮肉にも男の妻の死が彼に
それ
を教えてしまった。「私は妻が死んだときに、どうしようもない恐怖に気づいたんだ。
私
はいつ死ぬ? それは明日かもしれないし、十年後かもしれない。運よく百歳まで生きられたとしても、その後に私は死ぬ。死んだらどうなる? 意識がなくなって心臓の鼓動が止まったら人は捨てられた空想したことはあるよ、男は言う。
「死んだらどうなるのかをね。眠るように意識を失ったらどうなるのか。天国や地獄はあるのか。死後の世界や輪廻転生なんて存在するのか」
そして私は――吾輩は、思ったんだ。
妻の死を嘆くより、自分の死に恐怖した男は言う。
「死がどういうものかわからないのなら、体験してみればいいのだとね。でも自分が死ぬわけにはいかない」
だからね、とまるで素晴らしいことがあったかのように手を広げて、恍惚とした笑みを浮かべて告げた。
「吾輩は人を殺すことにしたんだ」
その初めての殺人の被害者――彼がいうところの被験者に選ばれたのは、たまたま通りがかった美しい黒髪の少女だった。
彼は少女がひとりになるのを見計らい、彼女を路地裏に呼び出した。
驚くことに黒髪の少女は不安げな顔をすることもこちらを警戒することもなく、おとなしく男についてきたという。
そして男がいまからお嬢さんを殺すんだよと能書きを垂れ流すように告げると、彼女はただ静かに頷いたらしい。
男は少し不思議に思ったが、男の震える手が歓喜するように動き、細長いナイフで少女の首を切り付けた。
「まるで心地よい夢を見ているようだったよ」
思い出しながら悦に浸る男の手がフルフルと震えている。ほう、とため息を吐くと、彼は目を閉じた。
そのまましばらく無言になる。
沈黙に耐えられなくなった赤毛の青年は、きつく閉じていた唇を開く。
「その少女はどうなったんだ?」
「――――死んだよ」
幸せな時間を邪魔された音の眉がぴくっと動く。
煩わしそうに目を開くと、細めた目で赤毛の青年をにらみつける。
「いや、正確には死んだ――と思ったんだ」
「切りそこなったのか?」
「いや、そんなことはありえない。初めての経験とはいえ、吾輩は一発で殺した――はずだったんだ」
男の紅い瞳に浮かんでいるのは怒りだろうか。もしかしたら歓喜なのかもしれない。
「彼女は――生き返ったんだ」
殺したはずの人間が生き返る。そんなことをまともな人間が聞いたら、ありえないと大笑いを浮かべるだろう。
だが、赤毛の青年――ロンは
知っている
。「彼女はとても不思議な少女だった。そして息を呑むほど美しい少女だったよ」
残念ね、と少女は言った。あたしは死なないのよ。
その言葉に男は大きな口を開けて呆然したのち、笑った。
「素晴らしい! そう思ったね。人は必ず死ぬ。老いも若くも男も女も大人も子供も問わず、人は死ぬ。人だけじゃない、犬も猫も――動物も、生物である限りは死は必ず訪れるんだ。――そう信じて疑わなかったというのに」
少女は死ななかった。
男は喜んだ。これで死の恐怖に怯えなくて済むと、そう思った。
「でも」
男は一転とても悲しそうな顔になった。
「他の少女は違ったんだ。あれから何人何人も、少女を殺して回っているというのに、あの時の黒髪の少女みたいに死んでも行きかえる人間に出会えていないのだよ」
彼女はどこにってしまったのだろうね。
ひどく残念そうに、殺人鬼は罪の告白をする。
いままで殺してきた少女の死を、その行いを、男はつらつらと並べ立てる。
それらを聞きながらロンは歯を食いしばった。
(反吐が出そうだ)
少女を殺しまわっている殺人鬼がその行いを誇らしそうに語るさまが、あまりにも悍ましくて、胸の奥がむかむかする。
「この、殺人鬼が」
ロンの呟きに、男は語りをやめた。
首を傾げた男が問うてくる。
「君と吾輩、何が違うというのだね」
「何もかもだ。この快楽殺人者が」
「ふむ。……これは吾輩の勘違いだったかな」
「何がだよ」
「だって、君は吾輩を殺すために近づいてきたのだろう? その君と吾輩、いったい何が違うというのだね?」
「……ッ、違うッ。なにもかも」
ロンが殺すのは犯罪者だ。何の罪もない少女ではない。
くっくっ。
殺人鬼の嗤い声が嫌に耳朶を叩いた。
「なにも違わないのだよ。吾輩がいまから君を殺すのと、君が吾輩を殺すの。それはどう足搔いたところで同じことなのだ」
「……ッ」
違う、となぜかロンは言い返せなかった。
殺すというのは、相手の意思を確認することなく自分勝手に命を奪うという行為だ。
この男が自分欲を満たすために少女を殺すのと、ロンが犯罪者を殺すという行為は、どちらも等しく他人の命を奪う行為でしかない。
(でも、だからといって……ッ)
殺人鬼と一緒にされるのだけはごめんだった。
「オレが犯罪者を殺すのは、この世から犯罪をなくすためだ」
「ああ、君は正義の執行者だったのだね」
それは素晴らしいと、男は拍手をする。
それにますますロンの右手に力が入った。
「そうだ。その為に、何年もつらい訓練を耐え忍んできたんだ。人を殺す技術を身につけて、本当に死なねばならない人を殺すために……」
ああでも、最初はそんな理由じゃなくって、もっと切実なものだったのかもしれない。
親の仇である、あの美しい黒髪の少女を殺すために、ロンは――。
「ふむ。そろそろ夜が明けそうだ、少年よ」
「……そうだな。そろそろ仕事を終わらせないとな」
男との間には距離がある。いくら男が俊敏に動けたとしても、その手に持っている鎌でロンを傷つけるのは不可能に近いだろう。
拳銃を構えると、男は「ほう」とため息を吐いた。
「肉を抉る感触を楽しまないとは、殺人鬼の名が廃るねぇ」
「オレは殺人鬼じゃねぇと、なんべん言えば気が済むんだ。クソヤロウが」
ロンの言葉に、殺人鬼が嗤う。
「吾輩も、君も、血に飢えた獣ということは変わらないのに、おかしなことをいうものだねぇ」
乾いた銃声が響いた。
◇
それから暫くして、その街の夜の恐怖の象徴だった「殺人鬼」が死んだというニュースが報じられた。
人々は喜んだが、その「殺人鬼」の死に際はあまりにも異質で、新たな「殺人鬼」が現れたのではないかと、街の人々は噂した。
だからその後も、その街の人々はほとんど夜に出歩くことはなかったという。
たった一人――彼を殺した「殺人鬼」を覗いて。