◎黒と白の狭間にて。
文字数 5,199文字
「ここはどこ?」
気がつくと、リリは不思議な世界にいた。
絵本のように煌びやかなそこは、背景はピンク色で空に浮かぶ雲は青空のように澄み渡る水色。あたりの木々や草は黄色だった。
見渡す限りは草原。家などは見当たらない。
「……?」
そういえば、自分はどうやってここに来たのだろうか。
気がついたらここにいた。どこからどうやってこの世界に来たのか、現実とは違う絵本のような世界に、どうやってきたのか。リリは思い出すことができない。
「とりあえず歩きましょう」
まずは行動だ。と、リリは歩き出す。
最初は気のせいだと思った。だけど、視線を感じる。
上を見上げて右を向き、ついでに左を見てみるが誰も見当たらない。
目を凝らして、耳も澄ましてみるが、なにも見えないしなにも聞こえない。
見られている感覚にむず痒い思いをしながらも、リリは歩き続ける。
しばらくすると唐突に視界が開けた。
草原が行進するのをやめたかのように、ピタッと草のない空間が現れる。
そこには大きな館があった。
館の前には帽子を被った紳士が立っている。
「やあやあ、こんにちは。ようこそいらっしゃいました、リリさま。お待ちしておりましたよ」
「……あなたは、誰? どうしてあたしの名前を知っているの?」
「おお、これは失礼いたしました。挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。わたくしは、一介の帽子売り、いや、帽子屋といったほうが解りやすいでしょうか。ただいま中では、ささやかなパーティーを催しております。皆さま、リリさまをお待ちかねでございますよ。さあさあ、どうぞ中へ中へ」
「どうしてあたしの名前を知っているのか、答えてもらっていないわ」
「立ち話もなんですから、どうぞ中へ。お茶でも飲みながら、ゆっくりお話しいたしましょう」
帽子をくるりと一回転すると被り直し、帽子屋と名乗った紳士は館の扉を開け、恭しい動作で中へと誘い入れようとする。
リリは不思議に思いながらも言われるがまま中に入っていった。
「これは、また」
外観からだと三階建てに見えた建物。その内部に、部屋はひとつしかなかった。いや、三階ほどの建物の内部がすべてくりぬかれて、屋敷全体がひとつの建物となっているのだ。
銀食器や金ぴかナイフ、花柄のコーヒーカップなど、ごちゃごちゃといろいろなもので溢れかえっている部屋の中心には、長机がある。
そこにはひとりの少年がいた。満面の笑みで、フォークを振り回す。
「あ、お姉ちゃん! 待ってたよ!」
真っ白い紳士服に、赤いスカーフを首に括りつけた少年は、口の周りにケーキの食べかすがある。
「シロ。行儀が悪いですよ」
「クロもいたんだ。いっけね」
帽子屋に怒られたシロが、慌てて近くのナプキンで口を拭う。
「リリさま。お待たせしてしまい申し訳ありません。さあさあ、こちらの椅子にお座りくださいませ」
シロのちょうど向かい、そこに椅子を用意して帽子屋のクロが座るように促す。
歩き回って疲れていたため、言葉に甘えてリリは腰を下ろした。
机の上には、甘そうなお菓子が盛りだくさんに積み重ねられていた。
いちご味のクレープ、ビスケットの挟まったチョコ、クリープたっぷりのショートケーキ、バナナ味のマカロン、抹茶のムース、ミルクのかかった黒糖ゼリー……。
胸やけをおこしそうな光景だ。
それを片っ端からシロが口に運んでいく。ぱくぱくむしゃむしゃと甘いお菓子が口の中に消えていく光景は微笑ましく思えるのに、甘いものばかり食べているからか、見ているこちらが胸やけしそうになる。飲み物はココアだろうか。甘いものに甘いものを合わせるという行為が、リリには信じられなかった。
別にリリは甘いものが嫌いというわけではない。ティータイムにコーヒーと一緒に食べるお菓子は逸品だと思っている。だけど目の前の少年は、お腹に入りきらないのではないかというぐらい大量に甘いものを食べているものだから、リリは眉を潜めて顔を逸らすことしかできなかった。
コトッとカップが置かれ、そこにコーヒーが注がれる。それと少しのミルク。
まるで自分の好みが分かっているかのようなもてなしに、リリは小さく驚きの声を上げる。
「リリさま、どうぞ」
ありがとう、と小声で言うと、湯気の出ている珈琲にフーフーと息を吹きかけ、少し口に含んでから、飲み込む。
体が温まる気持ちに、リリはため息を吐く。
「コーヒーありがとう」
「どういたしまして」
「ところで、さっきの質問に答えてもらってないのだけど。どうして私の名前を知っているの?」
「さあさあ、リリさま! 楽しいパーティーを始めましょう!!」
リリの質問に答えることなく、クロは両手を広げると大きな声で嬉しそうに言う。
どこからか楽しそうな音楽が流れ出してきた。
帽子を一回転させてお辞儀をすると、クロがシロの隣に腰を下ろす。
もう質問するのも馬鹿らしく、ちょうど目の前にあったシフォンケーキにリリはフォークを突き刺した。
何分経っただろうか。もしかしたら何時間も経っているのかもしれない。
時間感覚が曖昧だった。
そういえばとリリは思う。
いまここにいるのは自分を含めて三人だけだ。
コーヒーの合間にお菓子を摘まむリリ、甘いものを片っ端から食べているシロ、それからお菓子をどこからか運んでくるのにどれにも手をつけることのないクロ。
この屋敷に入る前、彼は一体なんて言ったのだろうか。
『皆さま、リリさまをお待ちかねでございますよ」
そんなことを言っていた気がする。
だけど、いまここにいるのは三人だけだ。
皆さま、ということは複数の人がいるのだと思ったのだけれど、中にいたのはシロだけだった。他に人はいない。
リリは首を傾げる。そして、質問の答えを返してもらっていないことを思い出した。
ちょうど給仕係の如くコーヒーを淹れにきたクロの腕を掴む。
「そういえば答えてもらっていなかったわ。どうしてあたしの名前を知っていたのかどうかを」
「おや? お答えしませんでしたっけ?」
惚けた顔だ。
「いますぐ答えてくれないかしら」
「これはこれは、すごい迫力ですね。いやはや参りました。……とと、シロどうしました?」
クロの言葉で異変を察し、リリは思わずシロを見る。彼はいつの間にか懐中時計を手に持っていた。秒針を真顔でのぞき込み、彼は「大変だ!」と叫び出した。
「大変だ、大変だ! クロ、時間だよ! ボクが帰る時間だよ!」
「それは大変でございますね、シロ。では、帰りはお供いたします」
リリの手を優しく離し、クロは帽子を深く被り直すとシロの腕を取り出入り口に向かっていった。
一歩遅れて、リリは跡を追う。
シロとクロの跡を追い屋敷の外に出たリリは、そこではたと足を止めた。
世界が変わっていたからだ。
色とりどりだったはずの世界は、黒くなっていた。
真っ黒い世界に、真っ白の草花が咲き乱れている。――不気味だ。
リリは眉を潜める。
黒と白の世界に、ではなく――そこに、クロとシロがいないことに。
二人が出て直ぐにリリも扉を開けて出てきたはずだ。
だというのに、そこには誰も見当たらなかった。
目の前の白い草原に、道しるべのようにできている道があるぐらいで。
不機嫌そうな顔でリリは振り返るが、そこにあるはずの屋敷もなくなっていた。
リリは考えるのが馬鹿らしくなり、とりあえず道しるべを辿ることにした。
ひたすら道を進んでも、世界は黒と白のまま変わらなかった。
疲れてきたので足を止めると、たまたま近くにあったベンチに腰をおろす。この時のリリは、なぜこんなところにベンチがあるのか、すこしも疑問に思わなかった。
「どうしたんだぁい、お嬢さん」
頭上から声が響いた。
リリは驚いて顔を上げると、木の枝に座っている少年がいた。頭にはピンク色のオモチャの猫耳をつけている。
「道に迷ったのかなぁ?」
「そうかもしれないわね。……あなたは、誰?」
「オレかぁい? オレの名前かぁ……適当に、ネコさんとでも呼んでくれて構わないよぉ」
「じゃあ、ネコさん。ここはどこ?」
リリが訊くと、ネコさんは目を真ん丸に見開いた。
「へぇー、知らないのかぁ。まあ、いまのきみに判別はできないよねぇ」
意味深な言葉にリリは眉を潜める。
「どういう意味かしら?」
「答えるのがめんどくさいからぁやめとくよー」
「ふざけてるの?」
「えー。べっつにぃ」
ニヤニヤと少年が笑う。
「それよりもさぁ。きみは、やっぱり道に迷っているのかぁい?」
「それさっきも聞いたわ」
「でもオレは答え聞いてないよぉ。きみは、これからどうするのさぁ?」
「元の世界に戻るわ」
「違う違う。そういう意味じゃなくってねぇ。うーんと。こういったほうがいいのかなぁ……。きみは、元の世界に戻ったあと、どうやって生きていくんだい」
まるで獲物を見定める肉食獣のように、ネコさんは口に笑みだけを浮かべたまま、低い声で唸った。
リリは思わず口を噤む。
――自分は、これからどうやって生きていくのか。
自分の体の仕組みについてはわかっているものの、よくはわかっていない。
どうなっているのかは知っているが、どうしてこうなったのかはわからない。
自分が死なないことは知っているのに、どうして死ぬことができないかなんて知りはしなかった。
この死ぬことのない不老不死の体を、いつ自ら自覚したのかはわからないけれど、少なくとも冬を百単位で過ごしてきたことは覚えている。雪が降っている冬。振らない冬。寒すぎで動けなくなった冬。暖かい冬。
だけどそれぐらいだ。
いつの間にか不老不死になった彼女は、ただ一瞬で過ぎていく日々に退屈していた。
目的などありはしない。
ただ不老不死だということを隠すために、この広い世界を歩き回っている。それだけだった。
だからリリは――彼女は元の世界に戻ったところで、なんの目的もなくただ日々を過ごしていくだけだった。
道に迷ってはいない。迷う道もない。
「オレはね」
いつまで経っても返答をしないからか、しびれを切らしたネコさんが木の枝の上に仰向けになった。そこまで太い枝ではないのにうまくバランスを保っているのか落ちそうにない。
「生きていくことに理由なんていらないと思うんだよね」
「じゃあ、どうして訊いたの?」
「ただ、興味があったからさ。きみがこれからどうするのか、その長いながい命を、どう扱って生きていくのか。オレは酷く退屈なんだ。ここでただ生きている身としては、きみがこれからどうするのか、どうなるのか、ただ退屈に気になる、それぐらい退屈なんだよぉ」
退屈、退屈、と気だるげにネコさんが呟く。
「きみも退屈しているだろ。オレにはわかるんだぁ。だから訊いてみた。きみはこれからどうやって生きていくんだろうってさぁ」
欠伸を噛み殺す音。
ネコさんはうーんと伸びをすると、ごろりと寝返りを打ってリリを見下ろす。
「どうなんだい?」
「いままで通りよ」
ただ冷たく、リリは一言で返す。
命ある限り続く世界。
終わりなく続くリリの命は、それでもどこかで終わるのかもしれない。
命には、終わりがある。
それは人だけじゃなく、動物や自然、この惑星でさえも、いつかは滅びる運命なのだろう。
ならばどうして生まれてきたのか。
それはリリには分からない。この世の誰にも分かり得ないことなのかもしれない。
リリに、いま生きている理由や目的はない。
ただ、生きている。それだけだった。
ネコさんが悲しそうな顔をする。彼は唇を尖らせると、再び仰向けに転がった。
「目的があったほうが、生きやすいと思うんだけどなぁ」
「そうかもしれないわね。でも、あたしには必要ないわ」
「まあ、でもこれから見つけるのもありかもね」
ネコさんがわざとらしく欠伸をする。
「じゃあ、オレの話は終わりだよぉ。この道を進んでいけば、元の世界に戻ることができるから、振り返らずに行くがいいさぁ」
白い草原の道を指さし、ネコさんはニヤニヤと笑みを浮かべる。
指し示す方向には、輝きを放っているピンク色の扉があった。
リリはなに言いたげな顔をしたものの、扉に向かって歩き出す。
扉の取っ手を握ったとき、後ろから声が聞こえてきた気がした。
「目的が欲しいのなら、同じ存在のものを探す、とかいいんじゃないかなぁ? なぁんてねぇ」
だけど確かに聞こえたはずのその言葉を、扉から出たリリは思い出すことができなかった。