◎マザー・パニック。(一)

文字数 4,105文字

 町外れの小さな教会。その隣に、寄り添うようにして木造平屋建ての建物があった。
 平屋の扉が開き、まだ十にもなっていない三人の子供たちが飛び出してくる。
 黄緑色の髪の少女が先に教会の影に隠れた。紅色の髪の少年は少女から離れた教会の背後の茂みの中に。水色の髪の大人しそうな少女は平屋の後ろに。
 じっと三人は息を潜める。
 すると、平屋の中から腹の底に響くような低い女性の叫び声が、周囲一帯に響き渡った。
「ぐおおおらあああイタズラっ子どもおおおッ。どこにいったぁあああッ!」
 シスター服を着た二十代前半ほどの女性が、教会の扉を蹴破って外に出てきた。子供たちに「マザー」と呼ばれて慕われている、孤児院となっている平屋建ての建物の主であり、この教会のシスターでもある女性が。
 マザーは必死の形相で辺りを見渡すと、まずは教会の裏手にいる少女を見つけた。
「ミド。モトはどこ?」
 想像以上の迫力に、黄緑色の少女――ミドは大慌てで首を振る。
「そう。知らないのね。――ところでミド、昼の野菜炒めのピーマン残したでしょ? 好き嫌いしていると、大きくなれないわよ」
「う、ごめんなさい」
「悪いと思っているのなら、よろしい。もうすぐ勉強の時間になるわ。部屋でレイお兄さんが待っているから戻りなさい」
「は、はい。あ、マトも連れていくね」
「いいわよ。もとよりあの子はなにもしていないのだから。どうせモトに誘われて逃げただけでしょ」
「う、うん。じゃあ」
「ちゃんとレイの言うこときくのよ~」
「はぁーい」
 平屋の影からこちらを恐る恐る眺めていた水色の髪の少女――マトの手を掴み、ミドは建物中に戻って行く。
 さて、とマザーはギンっと教会の背後の茂みを睨みつけた。
 殺気に驚いたのか、鳥が数羽空に飛び立つ。
「モト。出てらっしゃい」
 低く、穏やかな声だ。もしマザーがおっとりと微笑んでいたら、いくらイタズラ小僧のモトであっても茂みから顔を出していただろう。
 だけどいまのマザーの顔は、あまりにも怖すぎる。
 美しい顔を台無しにした形相に、すっかりモトは頭を抱えて縮こまってしまっていた。
(やべぇよ。どうしようどうしよう)
 そんな彼のもとに、足音が近づいてくる。
 顔を上げると、すぐそこにマザーの顔があった。
「みぃつけた」
 ホラーだ。
 モトはそう思い、大人しくこうべを垂れた。


「え、ちょっとマザー。モト、どうしたの? まるで化け物に会ったかのようにやつれているみたいだけど」
 マザーが部屋に入ると、黒板を背に本を広げていた少年――レイが困ったような顔で微笑んだ。
「ちょっと、悪い子にお仕置きをね」
 マザーの背後で、頭に大きなたんこぶをつけたモトが、手を握りしめていまにも泣きそうに顔を歪めていた。
 レイはモトから視線逸らし、部屋――いや、いまは勉強をするための教室として使っているので、教室と呼ぼう――教室を見渡した。
 十歳前後の少年少女が、引き攣った顔でマザーを見ている。その視線に気づいたのか、マザーはバツの悪そうな顔をして、「夕飯の用意をしてくるわ」と言って教室から出て行った。
 扉付近でひとり残されたモトが、少年を見上げる。
「レイお兄ちゃん……」
「モト、今度はなにををやったんだい?」
「ん……。ちょっと、蝉を二匹捕まえたから、マザーにあげようと思って部屋の中に放り入れた」
「……そう。それは、マザーも災難だったね。マザーって、確か虫が大の苦手だから」
 レイはモトの頭を撫でると、空いている席に誘導した。
 パンパンと手を合わせ、笑顔でレイは教室を見渡す。
「さて、授業を再開しよう」


 トントンと扉をノックすると、レイは返事を確認することなく部屋の中に入って行く。
 マザーが、項垂れるように机に肘をつき、両手で顔を覆っていた。
「またやっちゃった」
「うん。今回も怖かったね」
「て、レイ。レディの部屋に勝手に入ってくるなんて、とんだませガキなんだから」
「ちゃんとノックしたよ?」
 にっこりと微笑ましそうな顔で、レイがマザーを見る。
 マザーはまだ二十代前半だろう。「大人」というには少し微妙な境目で、孤児院の子供をほとんどひとりで面倒を見ている彼女は、自分の心を欺きながら、「大人」として子供たちに接している。そのため、まだ幼い子供から「マザー怖い」と思われていることを本人はいつも聞こえないふりをしていた。そしてことあるごとに、こうしてひとりで泣きそうな顔で項垂れては自分を戒めるのだ。
 それをレイは知っていた。マザーも、この孤児院で最年長の少年に対して、もう彼には知られてしまったことなのだからと、取り繕うこともなかった。
 レイは、半年ぐらい前からこの孤児院でお世話になっている――もともと旅をしていた、孤児だ。そういうことになっている。
「で、マザー。もう夜の六時だけど、夕飯はどうなっているの? 子供たちが、お腹すいたーってうるさいんだけど」
「……はあ、いまから作るわよ。待ってなさい」
「手伝おうか?」
「……ありがとう」


 その日の夜。
 レイは、幼い子供たちを寝かしつけながら、彼自身もうとうとしていた。そんな彼の傍に、紅色の髪の少年――モトが、じりじりと床を這ってやってきた。
「レイ兄ちゃん」
「……眠れないのかい?」
「ううん、違う。あのさ」
「うん」
「レイ兄ちゃんって、マザーが好きなもの知ってる?」
「……うん?」
 モトからの質問に、レイは少し考える。
 マザーの好きなもの……好きなものは……。
 そういえば、前に夜中にふと目が覚めて、廊下を歩いている時、廊下の窓から外に乗り出すようにマザーが月を眺めていることがあったことを思い出した。
 その時、その横顔が珍しく微笑んでいるように見えたから、レイはマザーに尋ねたのだ。
『マザーって、月が好きなの?』
『……別に、好きってわけじゃないのよ。ただ、あんなにも遠くにあるのに、どうしてあんなにもキラキラと輝けるんだろうって。嫌になんないんだろうって。もう長い年月、空で輝いているのにさ』
『……うーん。不思議だねぇ』
『私さ、なるべく怒らないように、キラキラ笑っていたいって思うのよ。でも、最近怒ってばっかりよね』
『もしかして、マザーはキラキラしたいの?』
『……少なくとも、子供たちの前ではちゃんとした大人でいたいのよ。子供の笑顔は私たち大人が護らなくっちゃいけないのだから』
『僕は、怒っているマザーも、いつもキラキラと逞しくて、楽しそうに見えるけどなぁ』
『それ、褒めてる? それとも、もっと私を怒らせたいの?』
『いやいやそんな。はははっ』
 そんなひと時の夜の風景を思いだし、レイはモトの問いに答えた。
「マザーはね、キラキラとしたものが好きらしいよ?」
「キラキラしたもの? お星さまみたいな?」
「そう。あと、そうだね。モトやミド、マトや他のみんなの笑顔もキラキラとしているから、好きだってさ」
「笑顔? おれ、マザーの笑顔みたい」
「そうだね。……もう遅いから、お休み。明日寝坊すると、マザーにドヤされるよ?」
「うん。おれ、もう寝る。レイ兄ちゃん、おやすみ」
「おやすみ」
 しばらくすると、モトはすやすやと寝息をたてた。
 レイは他の子供たちが眠ったことを確かめると、毛布を手繰り寄せ、重い瞼を閉じた。


 その事件が起きたのは、次の日だった。
 モトがマザーの許可を得ずに町に遊びに行ったまま、戻ってこない。
 ミドによると、モトは探し物をするために秘密裏に町中に行ったらしい。
 マザーはいたく取り乱し、レイは宥めるのに必死だった。
 夕飯時になっても戻ってこなかったモトを探しに行こうにも、この木造平屋建ての孤児院にいる大人は、現在マザーひとりだけなのだ。他の幼子を残して、探しに行くのは憚られた。レイはこっそり抜け出して町中に行こうとしたけれど、神経質になったマザーはそんな彼を許しはしなかった。
 だがあっさりと、モトは夕飯の途中に戻ってきた。
 顔をすすだらけに黒くした彼は、「へへっ」と自慢げに笑い、こっそりとレイに向かってピースをしてきた。
「なにを笑ってるの!」
 マザーは、そんなモトの頬に手を振り下ろそうとした。それを、傍にいたレイが慌てて止める。
「マザー、落ち着いて」
 深く一度深呼吸をすると、マザーはモトをキッとにらみつける。
「モトッ。早くご飯を食べなさい!」
「は、はい」
 まだ十歳にもならない少年は、どうして怒られているのかわかっていない様子で慌てて席につく。
 隣でため息をつくマザーを横目で見ながら、レイは困ったような顔で微笑んだ。
 なんとなく、レイには予想がついていたからだ。
 どうしてモトが町中に行ったのか。
 就寝前の会話を思い出す。
 きっと、モトは「キラキラ」としたものを探しに行ったに違いない。
 そして見つけた。
 モトは、いや、この孤児院の子供たちは、誰もがマザーを慕っている。
 いつも怒っているマザーを、どうしたら笑わせられるのか、そういう相談をレイは何回も受けてきた。
 その度レイは、首を傾げるばかりだった。
 口にするのは簡単だ。
 だけど昔、いろいろあったレイは、自分の言葉に自信が持てないことが度々あった。
 昔、この口は平気で嘘をついた。他人を嘲り、貶めるのを躊躇わなかった。他者に優しくされるまで、レイは優しさを知らないで生きてきた。
 そんな彼の言葉で、なにかが変わるとは思えない。
 レイは、項垂れるように食堂から出て行くマザーの背中を眺めながら、ゆっくりと言葉を飲み込んだ。


 後から後悔することは、これまで幾度もあっただろう。
 あの時、これをやっていれば、こう言っていたら、なにかが変わっていたのかもしれない、と。後悔は後を絶たない。
 けれど起こってしまった事実は、決して変わることがないことを、レイはその日、再び身に染みるほど理解した。

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