◎リリという少女の話。(二)
文字数 3,340文字
生垣から離れて、五分もすると小さなすべり台と小さなジャングルジムのある、図書館の四分の一もない公園についた。
リリに手を引かれるまま、女の子はたどたどしい足取りですべり台の近くに寄る。
「この上にあるのかもしれないわ」
「この上に、花なんて咲かないよ?」
「わからないわよ。すべっている途中に、見つかるのかもしれない」
「ちょっと、すべってみる」
リリからするとちょっと小さいすべり台の階段を、女の子が上って行く。女の子にはちょうどいい大きさだった。
震える瞼をぱちぱちすると、女の子は「えい」と勇気を出して滑り降りた。
視界の端の景色が一瞬で過ぎて行き、女の子は地面に足をつけて立ち上がると、「すごい」と素直な感想を漏らす。
「次はジャングルジムで探しましょう。この上から下を見下ろすと、見つかるのかもしれない」
「うん!」
女の子は疑問に思うことなく、ジャングルジムをよじ登り、立ち上がるのは怖かったので座ったまま下に視線を降ろす。
高いところから下を見下ろすと、いつもと違う光景に、女の子は目を見開いた。
このジャングルジムは子供用で、そこまで大きくはない。けれど、頂から見る景色は、まだ彼女の知らない遠くまで見通せそうだった。
リリが目を細めて、優しげに微笑む。
「次は、そうね。こっちなんていいかもしれない」
公園から出ると、道路を横断するリリに連れていかれたのは、公園から数分もかからない路地裏だった。
にゃおん、と数匹の猫がリリの足元にじゃれつく。中にまだ幼い子猫もいた。母猫と思われる黒猫と、一緒に蹲っている。
女の子は、その二匹の猫に誘われるように、近づいて行く。
母猫が警戒するように顔を上げたが、警戒を解き元の姿勢に戻った。
母猫の腹に頭を押し付けていた子猫が、女の子が恐る恐る差し出した手に、じゃれついてくる。
――温かい。
女の子は、ほっこりとした気分になった。
背後でリリが「どうして、こんなに猫に懐かれるのかしら。なにもしてないのに」と困惑した声を上げていたのがおかしく、女の子はますますにへらと顔を歪める。
路地裏に住む沢山の猫とお別れをして、リリと女の子はもう少し歩くことにした。
「後十分ほどね」
「なにかあるの?」
「すぐにわかるわ」
微笑むリリの顔を見て、安心した女の子は嬉しそうに頷く。
路地を出てからけっこう歩いているはずなのに、リリは足を止めない。
不思議そうに顔を上げると、やっとリリが歩みを止めた。
「ここよ」
「どこ?」
そこにはなにもなかった。
正確にはどっしりと構える大きな木と、それを囲うように背の高い草が生い茂っているだけで、それ以外はなにもない。
疑問に思う間もなく、リリがその茂みを指さして、告げた。
「ここの中を探してみましょう」
「でも、草が多くて、危ないよ。傷とか、できるかもしれないし」
「大丈夫よ。あたしが先行するから、そうしたら道ができるわ」
そう言われたら、いくら怖くても頷くことしかできなかった。
女の子は、黙ってリリの後を追いながら、茂みの中に入って行く。
いけどもいけども、周りにあるのは草、草、草。
探し物はまだ見つからない。
そこで、女の子は思い出した。
『願いを叶えるモモの花』を探していることに。
いろいろなものに触れて、すっかり忘れていたのだ。
女の子は、途端に不安に思う。
この先に、本当に『モモの花』はあるのだろうか。
幼いながらの知識でも、わかることはある。
『モモの花』は架空の花で、この世に存在せず、あの本の主人公の少女だって、まだ二一巻の終りでなにも見つけられていない。
あの物語では、主人公の少女がさまざまな自然や人と出会い、優しさに見送られてさまざまな国や町を旅しているだけ。一巻の終わりでも、『モモの花』がどこにあるのかわかっていない。二巻は読んでいないけれど、あの調子だとまた見つけられそうにない。
だけどリリは見つかるかもしれないと言っていた。
彼女の言葉は、どこか誠実で嘘など含まれているように思えなくて、それは真実なのだと思い込んでいた。
けれど、こんな生い茂った茂みの先に、本当に『モモの花』はあるのだろうか。
ふいに、リリが足を止める。
そして、草や泥の付いた顔で振り返り、リリは優しく微笑んだ。
「探し物は、これかしら」
女の子はいてもたってもいられず、リリの横を通り抜けると前に出た。
オレンジの明るい光に照らされた街が、そこにあった。
女の子がいまいるところは、図書館の裏手にある丘の上だった。
眼下に、夕闇に照らされたオレンジ色の町が広がっている。
いつも町中から高い建物に囲まれていて知らなかった。まさかこんなすぐ近くの丘の上から街が見下ろせるなんて。
思わず女の子は息を飲んでいた。
「どう? 見つかった?」
ああ、と女の子は思った。
リリという少女は、夕闇に照らされた頬をほころばせて、優しく微笑んでいる。
「うん、見つかった!」
女の子は、最近すっかり見せることのなかった満面一杯の幸せそうな笑みで、リリと笑いあう。
そこで、女の子は「あっ」と思い出した。
「帰らないと!」
「図書館まで送るわ」
リリに差し出された手を女の子が掴む。
「それじゃ」
「お姉ちゃん!」
踵を返したリリの背を、声を張り上げて呼び止める。
女の子は、振り返ったリリの顔を見上げて、ほんとうに嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう!」
「……どういたしまして」
そう言って、リリは今度こそ歩き去って行った。
また会えるかな。次はもっと遠くに探しに行きたいな。
女の子は、逸る気持ちを抑えながら、母の待つ家に帰るのだった。
母は、久しぶりに見る娘の幸せそうな笑みに、顔をほころばせて喜んでくれた。
それからしばらくして、母の病は回復に向かい、女の子が大人になるまで傍で見守ってくれた。
◇◆◇
――私は、それがとても幸せだったんだ。
リリとは、そのあと一度も会えなかったけれど、あの出会いは一生忘れられない。
現にいま、私は自分の想い出を、あんたに話しているんだからね――。
もう百歳に近い老婆は、そう言って子供っぽく笑った。
ロンは、老婆の家を跡にすると、とぼとぼと道を歩いていた。
オレンジ色が赤茶けた髪を包みこむように、ロンを影で覆う。緑色の瞳を、真っ直ぐ先に向けたまま、ロンは難しい顔で元来た道をひき返す。
先日のことだ。「リリ」という少女を探しているロンのもとに、朗報が入った。ある街の、ある一軒家に「リリ」という老婆が住んでいるというものだった。
ロンの探している「リリ」は少女だけれど、なにかわかるかもしれないと老婆の家を訪ねることにした。そうすると、その「リリ」という老婆から「リリという少女」の話を聞かされた。その話に出てくる「リリという少女」は、紛れもなく自分の探している「リリ」そのものだった。
老婆は、「いまもリリが生きていたら、きっと私より素敵なおばあちゃんになっているんだろうね」と言っていたが、そんなことありえないとロンは知っている。
ロンが「リリという少女」に出会ったのは、まだ彼が幼い頃だ。老婆はもうその頃にはとっくに女の子ではなくなっていただろう。
けれど、ロンは「リリという少女」に出会っていた。
老婆と同じ、「リリという少女に」。
ロンは、もうひとつ知っている。
「リリという少女」が死ぬことのない体を持った――不老不死だということを。
ロンは、彼女を殺してこの世から解放させるために旅をしている。
幼かったロンは、もうすっかり青年になってしまったけれど、それでも目的は見失っていなかった。
――手掛かりは見つけられなかった。
「でも、あんたのことを知っている人は確かにいた。まぼろしではなく、あんたは確かに存在しているんだな」
確かめるように、ロンは囁く。
オレンジ色の夕闇は、もっと黒い闇に誘うかのように、ロンを優しく撫でて離れて行った。