透き通る海のように(織田作之助青春賞一次選考通過)

文字数 9,026文字

 街は騒々しい音に包まれていた。大きな家電量販店の店員がしきりに大きな声で客を呼ぶ声だったり、彼のすぐ横の大きな通りをトラックが通る音だったり、近くの駅に電車がちょうど止まる音だったりした。優斗は不安と期待の入り混じった気持ちを抱えながら大通りの横の歩幅の狭い道を歩いていた。辺りを見渡すと、レストランやコーヒーショップの看板が目に留まり、その手前には大きな交差点を通る無数の人の流れが見えた。街の雑音と目に飛び込んでくる情報量の多さを感じながら、彼は交差点の前で立ち止まり、信号の色が青に変わるのを待った。彼は本当にこんなところに海があるのか疑問に思っていた。八月を迎え、午前中の強い日差しが彼の肌に照りつけた。太陽は彼の真上の遥か遠くに強い光を放ちながら輝いていた。暑さで彼の皮膚からは汗がにじみでてきた。時折、彼の頬を汗がつたいその度に彼は手で汗をぬぐった。
 信号の色が変わり、交差点を渡ると、向かいからたくさんの人がやってきて彼とすれ違っていった。彼はその先の道をずっと歩いた。すると生暖かい風に乗ってわずかに潮の匂いがした。その匂いは昔、海に行ったときに嗅いだ匂いと同じで、その瞬間に今までの海に関わる記憶が蘇ってくるのを感じた。それはとても曖昧な記憶だったが、彼はまるでその頃に帰ったような懐かしい気持ちがした。彼はさっきよりも気分が高まり、早足で先へと進んで行った。駅から少し歩いただけなのに、喉が渇いていた。彼の背負っているバックパックはずっしりと重みがあった。
 しばらくの間、喉の渇きを我慢しながら歩いていると、彼の向こう側に白い壁でできた横に大きく広がった建物が見えた。彼が近づいていくにつれ、その姿は少しずつはっきりとしてきた。その横のコンクリートの壁の向こう側には青々とした海面が見え始めた。彼がそちらへ向かって行くと、徐々に波打つ海面が広がって行った。
 港に着くと、海には小さなボートが浮かんでいて港につながれていた。海の向こう側には大きなビルの並ぶ街が見え、そのすぐ近くを数隻の大きな白い船が通っていた。彼は本当にこんな都会に港があったのだと驚きを感じていた。こうして広大な海を眺めていると、この先にどんな絶景が待っているのか心が躍った。港の周りにはチケット売り場やレストランの入った建物があった。彼はチケット売り場へ行ってこれから乗る船のチケットを探した。一泊二日の短い旅は彼にとって初めての経験だった。彼が向かう島のホテルはすでに予約してあり、そこまでの道も事前に調べていた。それでもどこか心が落ち着かなかった。上の電光掲示板には船の出航時刻が大きく表示されていた。彼はそこから目的地に向かうまでの便を決めて、チケット売り場の制服を着た若い女性の店員に声を掛けた。
「すみません。十一時十分発の六便のチケットを買いたいのですが」
「六便ですね。少々お待ちください」
 女性はそう言ってコンピューターに何かを打ち込んだ。すると手前の方の機械から水色のチケットが出てきた。
「チケットはこちらになります」
 そう言って女性は名刺くらいの大きさのチケットを彼の前に置いた。彼はポケットから財布を取り出して代金を払いチケットを受け取った。
 出航まではまだ少し時間があったので、彼は港の中にある建物に入って行った。中には街で見かけるカフェやコンビニエンスストアなどが並んでいて人で賑わっていた。どこかで時間を潰そうと思いながら先へ歩いて行くと、垢抜けた茶色の看板が立っているカフェがあった。彼はそこに入ることに決めた。
 店の中は上品な雰囲気で木目調の壁や橙色のランプが店内を照らしていた。彼は空いている窓際のテーブルに座り、アイスコーヒーを注文した。窓の外には港と海が広がっていた。大きな旅客船が海の上を通っていき、白い水しぶきがあがっていた。海面は真夏の太陽に照らされてきらきらとしていた。そんな光景を見ていると彼は早く島へと行きたくなった。彼が生活をしているところは自然が少なかったので、島の大自然への憧れがあった。彼が綺麗な自然を見たのは高校生の頃、友達と卒業旅行に行った時だった。彼は南の方へ飛行機に乗って行った。その時に見た海の景色を彼は忘れることができなかった。海は果てしなく水平線に広がっていて、周りには何もなく、水面は底が見えるほど澄んでいた。彼はそこでしばらくの間何かから解放されたような気がしていた。
 それから彼は大学生になったが、友達とは少しずつ距離ができ始め、子供の頃のように夢中になって遊ぶことは少なくなった。日々の生活には何かが抜け落ちたような感覚がしていた。何か夢中になれることを求めているのだけれど、それが何かわからなかった。
 店内の銀板の丸時計の黒い針は刻一刻と船の出航時間に近づいていった。彼は頼んでいたコーヒーを飲み干して、店を後にした。胸が鼓動する音が聞こえた。これから何が待っているのか期待は高まっていった。
 船の乗り場の前には横長の青い椅子が並んで置いてあり、そこには大人から子供まで席に座れず立っている人がいるほど、混んでいた。彼はチケットを確認して乗り場へのゲートを通過した。その先には屋根のついた細い通路があった。彼の前には黒いボストンバッグを肩に担いだ青年が歩いていて、彼はその後ろから付いて行った。通路は船内に通じていて、彼は船に乗った。船内は想像していたよりも広く、まるで新幹線の中のように座席が縦と横に並んでいた。船の窓の外からは果てしない海が見えた。ちょうど時刻は正午になったところで、太陽の光はとても眩しく、海面は光を反射する鏡のようだった。彼は船内からデッキへと移動した。船の外に出ると、より海面が近くに見えた。彼の真下には波打つ海が広がっていた。船がゆっくりと揺れているのがわかった。薄い水色の空にはまばらに白い雲が浮かんでいた。
 船の周りを歩いていると、小さな子供を連れた家族がいたり、若い男女がデッキの手すりにもたれ掛かって話をしたりしていた。ちょうど船内へと向かう老人の姿もあった。こうしてみると、様々な人がこの船には乗っていた。
 彼は人の少ない船の後ろの方へと行き、デッキの柵に両腕を乗せて、海の景色を眺めていた。高校生の頃に見た海は海岸からだったので浅かったけれど、今見ている海は船の上からなのでより迫力があった。海の中は深い青色で、その奥はいったいどうなっているのかわからなかった。もし今この海の上に浮かんでいたら恐怖を感じる気がした。
 彼が海の景色を眺めているうちに船の汽笛が大きな音を立てて鳴った。彼の乗っている船はゆっくりと動き始めた。彼の胸は今までにないくらい鼓動していた。これからまだ行ったことのない自分の知らない場所へ行くのだ。その先にはどんな景色が待っているのだろうか。少しずつ船は速度を増していき、やがて激しい水しぶきを上げながら海の上を進んで行った。風が強く体に吹き付け、彼の着ているシャツや髪をなびかせた。
 海はどこまでも果てしなく続いていた。遠くには白いかもめが飛んでいるのが見えた。出発した港は今はもうとても小さく見えた。辺りには何もなくて、彼は少し不安になる反面すがすがしさを感じていた。彼は長い間、海の景色をデッキから眺めていた。
 船内に戻ると、彼は売店でサンドイッチを買った。チケットを確認し、自分の席まで向かった。席はリクライニングになっていて、窓際だった。荷物を棚の上に置いて、彼は席に座った。さっきまで立っていたので少し体が休まる気がした。彼はサンドイッチのパックを開け、中から一切れずつ取り出して食べた。窓の外には青い海面が波立っているのが見え、水色の空に白い入道雲が浮かんでいた。
 窓からは船が進んで行き、海面が移動しているように見えた。外の景色を眺めているうちに彼は目を閉じて、窓に寄りかかった。船の揺れと、船内の乗客たちの話し声や船の音を聞きながら彼は眠りに落ちていった。
 大きな汽笛の音で目を覚ますと、窓の外には大きな島の姿が見えた。彼は時計で時間を確認すると船が島に到着する時刻になっていた。彼はバックパックの中に荷物を詰め込んで席を立った。周りの乗客たちも少しずつ席から立ち上がり船から降りる準備をしていた。彼は船内を歩いて行き、デッキへと出る扉を開けた。外からは涼しい風が吹き込んできた。目の前に広がる海は海底の岩が見えるくらい澄んでいて、緑と青が混じった透明の色をしていた。東京で見た海とは違い想像以上に綺麗だったので、瞬間的に心が動かされた。
 船は島の港に着いて、乗客たちが船内から出てきた。乗客たちも海を見て感動したようで口々に感想を言っていた。彼はバックパックを背中に背負い、他の乗客たちの後に続いて船を降りた。
 港に降りると、今まで船で揺れていたせいか、地面がゆっくりと揺れているような感覚がした。目の前には大小様々な大きさの建物が並んでいて、その奥は木々が生い茂る森になっていた。島の周りに建物が点在し、島の中央は山になっていて、そこは深い森になっているようだった。海の方を振り返ると、そこには薄い水色の半透明の海が果てしなく続いていて、太陽がその上に輝いて白く強い光を放っていた。
 彼はチケットを渡し、港の外に出た。海沿いの道を他の観光客たちと一緒に歩いていた。島は東京よりも湿度が少なくて涼しく感じた。風が海の方から吹き付けてきて、その度に周りの木々は揺れていた。港から少し歩いたところに彼の泊まるホテルが見え始めた。白い壁の建物は少し古い造りだった。ホテルは小高い丘の上に立っていて、その前の道は坂になっていた。彼はその坂を上って行った。周りには木々が生い茂っていて、蝉が騒がしく鳴く声がした。ホテルの入り口まで辿り着くと、エントランスはガラスの扉になっていた。ホテルの中は派手ではなかったが、赤いカーペットが床を覆っていて広々としていた。大理石でできたホテルのフロントには制服を着た中年の女性と若い女性が立っていた。
 彼はフロントで自分の予約していた名前を告げた。若い女性が厚めのファイルを開いて確認し、一枚の紙を差し出した。彼はその紙に住所と名前と電話番号を書いた。
 若い女性は彼を部屋まで案内した。ホテルの奥には小さなエレベーターが付いていた。女性がボタンを押すとエレベーターが下に降りてきて扉が開いた。彼らはエレベーターに乗り、部屋の階まで上がって行った。部屋の階に着くと、オレンジ色の光に照らされたどこか落ち着きのある廊下があった。女性は彼の部屋の前まで付いていき、彼に鍵を渡した。部屋の中に入ると中にはベッドが一つとその奥に鏡の付いた机があった。台の上に載ったテレビが机の後ろの方に置いてあった。机とテレビの間に大きな窓があり、窓を開けると外の涼しい風が部屋の中に吹き込んできた。彼は部屋に置かれたベッドの上に寝転がりながら、これから何をしようか考えていた。島の全体を示す地図があったので、それを眺めていると、ここから少し歩いたところに海岸があった。彼はそこへ行ってみようと思い、小さな鞄に必要なものだけを詰め、部屋を後にした。ホテルの廊下を歩いて行き、エレベーターで下に降りた。一階に着くと、フロントの女性が「いってらっしゃいませ」と彼に声を掛けた。
 ホテルの外に出ると海から吹き付ける午後の涼しい風を感じた。目の前には夕焼けに照らされた海と白い砂浜が広がっていた。彼はホテルの坂を下りて行き、海岸沿いの道に出た。海は橙色の太陽に照らされて輝いていた。海岸に沿って歩いていくと、電信柱や民家が見えた。民家は瓦屋根の家もあり、白いコンクリートの壁で囲われていた。途中道路から海岸へ降りることができたので、彼は砂浜の上を歩いた。砂はさらさらとしていて歩くたびに靴の中に少し砂が入った。波が彼のすぐ近くまで来て、海の中へと戻っていった。その先には黒い大きな岩があり、そこに波が当たって白い水しぶきがあがっていた。彼が岩の方まで歩いて行くと、そこには岩に持たれながら海を見つめている一人の少女がいた。彼は何気なしに彼女の方へ行った。彼女の髪は肩までの長さで、風になびいていた。肌は日焼けしていて黒く、健康的な容姿をしていた。白いティーシャツとハーフパンツを着ていて、おそらくこの島に住んでいるようだった。
 彼が彼女の方へ近づいて行くと、彼女が彼の方を振り向いた。彼は咄嗟に彼女に声を掛けた。
「こんばんは。ここで何をしてたんですか?」
 彼女は彼を見つめながら、「海を見ていたの」と言った。
「この島に住んでるの?」
「そうよ。あなたは?」
「僕は東京から今日この島に来たんだ」
 彼はそう言って彼女の隣へ行った。彼女は彼のことを見つめながらはにかんでいた。
「観光しに来たのね。綺麗な海でしょ」
「本当に綺麗だね」
「少しその辺を歩かない?」
「いいよ」
 二人は岩場から離れ、砂浜を歩いた。彼は砂の柔らかい感触を足の裏に感じた。出会ったばかりの彼女の隣を歩きながら、彼の胸は鼓動していた。
「東京の海はもっと青々としているから、こんなに透き通った海を毎日見られるなんてうらやましいよ」
「私は都会に住んでいるあなたがうらやましいわ。何度か東京へ行ったことがあるけど、色々なお店があってとっても楽しかった」
「僕はこの島の方が好きだな」
「きっと住んでみたら都会が恋しくなると思うわ」
 彼女はそう言って笑いながら彼の先を歩いて行った。彼も彼女の後を追って行った。彼女の歩く先には大きな岩場があり、彼女はその横を通り抜けて行った。彼も彼女に続いてその横を通ると、目の前には誰も人のいない岩に囲まれた砂浜があった。目の前には沈んでいく太陽が深い青色の空に輝いていた。辺りには潮風と、波の音しか聞こえなかった。
 二人は砂浜に腰を下ろした。彼女と一緒に過ごしていると東京での生活が遠いものに感じた。彼は手を後ろにして体を支えながら海を眺めていた。
「ここは秘密の場所なの。観光客もここまでは来ないし、私時々こうやって一人で海を眺めているの」
「素敵な場所だね。海を見ていると心が安らぐよ」
「本当ね」
 彼女と彼はそうやって海を眺めていた。体に吹き付ける風は少しずつ冷たくなっていき、太陽はゆっくりと水平線に沈んでいった。彼は彼女の隣で何かに包まれたような安心感を感じていた。彼女の海を眺める目は輝いているように見えた。
「私、大学生になったら東京へ行こうと思っているの」
「ここを離れて一人暮らしをするの?」
「そうよ。家族と離れるのは寂しいけど、都会での生活を楽しみにしているわ」
「上手くいくといいね」
 太陽は海の水平線上にわずかにその形を残しながら赤い光を辺りに放っていた。辺りは暗くなっていき、遠くの海の景色が曖昧になっていった。彼は彼女の隣でまるで時間が止まったような感覚を感じていた。彼女の笑い声や仕草を見ていると、子供の頃に帰ったようだった。
「もし私が東京へ行ったら、その時私に会ってくれる?」
「もちろん。君が来るのを楽しみにしているよ」
「約束ね」
 そう言った彼女はまるで無邪気な子供のような笑顔を見せた。日は水平線の奥に沈んでいき、辺りは暗く青い夜の世界に包まれた。空には銀色の小さな輝く星が散りばめられていた。
「綺麗な空だね」と彼は言った。
 都会にいるときは気付かなかったけれど、空はこんなにも大きかった。目の前に広がる海も空もどこまでも果てしない存在だった。波はとめどなく彼らの砂浜に打ち寄せてきた。世界は相変わらずこうやって動いてきたし、これからもこうやって動いていくのだろう。辺りは少しずつ光が減って遠くが見えなくなっていった。隣にいる彼女の顔もおぼろげになっていた。
「もうそろそろ帰らないとね」
 彼女は少し寂しそうにそう言った。
「また来年もここに来るよ」
「あなたが来るのを待っているわ。もう一つの約束ね」
 そう言って彼女は笑みを浮かべた。彼らはお互いに手を振り別々の方へ歩き始めた。彼は彼女の姿が見えなくなるまで彼女の方を見ていた。彼女の後姿は徐々に闇の中へと消えていった。
 彼は海岸からホテルまでの道を歩いた。最後に彼女と別れた時の彼女の表情が何度も頭の中に蘇ってきた。どこか寂しげだけれど愛おしい笑顔だった。海岸から道路に出ると、靴の裏に付いていた砂がアスファルトの地面に足跡のように残った。辺りにはまばらに街灯が立っていて、その光は周りの住宅や海を照らしていた。通りには誰も歩いていなかったので、彼は少し不安を感じていたが、小さい頃にここに来たことがあるような懐かしい気持ちも感じていた。それはどこか落ち着きのある光景だった。夜風は涼しく彼の服をなびかせた。
 木でできた焦げ茶色の古い建物の横を通って行くと、海岸沿いの道に出た。月の光が海を照らしていた。月の引力によって海の波が起きているはずだったが、こうして見ると、それはとても不思議なことに思えた。月は黄色の光を放ち、真っ暗な空に浮かんでいた。
 先へ先へと道を歩いて行くと、ホテルの姿が見え始めた。ホテルの窓からは白い明かりが見えた。どこか夜の小学校のような雰囲気をもっていた。ホテルへの坂道を歩いて行くと風に揺れる木々が彼の周りを覆っていた。ホテルの明かりを頼りに彼は先へ進んで行った。ホテルの扉をくぐるとフロントの女性が「おかえりなさいませ」と彼に言った。彼が時計で時間を確認すると夜の八時になっていた。お腹が空いていたので食事をしようと思い、ホテルの食堂の方へ行った。
 ホテルに付いている小さな食堂には緑色の暖簾がかかっていた。中には横に長いテーブルが縦に並べられていた。数人の宿泊客が食事をしているだけで、すでに多くの客は食事を終えたようだった。彼が席に座ると店員がグラスに入った水を持ってきた。彼は立てかけてあったメニューを開き、定食を注文した。
 厨房からは肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。しばらくすると店員が定食を彼の元へと運んできた。豚肉の生姜焼きと野菜炒めが白い皿に載っていた。それにご飯と味噌汁が付いていた。一口食べると甘いたれの味と柔らかい肉の食感を感じた。彼は味噌汁を飲み、ご飯を口に運びながら定食を食べた。
 食事を終えると彼はエレベーターに乗り部屋に戻った。部屋のドアを開けると中は出掛けたときのままで電気が点いていなくて、カーテンが開いていた。窓の外からは海の景色が見えた。彼は電気を点けて部屋のカーテンを閉めた。洗面所へ行くと、バスタオルが置いてあったので、彼は風呂に入ることにした。彼は洗面所の中で服を脱いで、部屋についているユニットバスの中に入った。中は少し手狭だったが、シャワーのお湯を浴びると温かく体が休まる気がした。彼は石鹸で体を洗い、風呂にお湯をためて湯船に浸かった。体の芯まで温められていき、体から力が抜けていった。
 風呂から出ると、彼はベッドの縁に腰を下ろして、ペットボトルの水を飲んだ。部屋の中はしんと静まり返っていた。夜になったせいか、彼は少し実家が恋しくなった。でも明日この島を離れなければいけない切なさも感じていた。
 机の上に置いてあったリモコンでテレビをつけると、ニュース番組がやっていた。内容は今日のプロ野球の試合のことだった。特に興味があったわけでもないが、彼は試合の様子を眺めていた。
 寝る時間になると彼は部屋の電気を消し、ベッドに潜り込んだ。ベッドの中で目を閉じていると今日のことが蘇ってきた。初めて綺麗な透き通った海を見た時の感動や、偶然彼女と会い二人で話をした光景を思い出していた。体がゆっくりと揺れているような感覚がして、彼は海の中にいるようだった。

 翌朝、目覚めるとカーテンの隙間から強い日差しが部屋に差し込んでいた。部屋の中はクーラーの冷気で少し寒かった。彼はゆっくりと体を起こし、ぼんやりと部屋の中を眺めていた。ベッドから起き上がると、洗面所へ行って顔を洗い、歯を磨いた。部屋に戻り、ベッドの端に置いてあったバックパックの中を探り、中から新しい服を取り出した。今着ている服を脱ぎ、新しい服を着ると体がさっぱりとした気がした。部屋の中に置いてあった自分の荷物をすべてバックパックの中に詰め、財布と携帯電話をポケットに入れた。バックパックを背負い、部屋の中に忘れ物がないか確認して彼は部屋を出た。
 ホテルの廊下には若い女性がいて、彼女は大きな荷物を持っていた。彼は彼女とすれ違いながらホテルのエレベーターに乗った。エレベーターで下の階に着くと、小さな女の子を連れた家族がそのエレベーターの前に立っていた。女の子は両親にこれから海に行くことを楽しそうに話していた。彼はフロントへ行き、鍵を返して部屋の代金を払った。それが済むと彼はホテルを後にした。
 外は昨日と同じように日差しが強かったが、潮風が吹いてきてそれが心地よかった。空は澄んだ水色で白い雲が薄く広がっていた。港までの道を彼は名残惜しさを感じながら歩いて行った。アスファルトの地面の隙間には草が生えていて、砂浜の白い砂が風に乗ってここまで来たらしい。港は彼の向こう側に見えた。ちょうど船が他の観光客を乗せて島に来たところだった。彼は港まで小走りで行った。港に着くと、たくさんの観光客が船の前で荷物を持ちながら待っているのが見えた。船は港に着くと、そこから乗客たちが順に降りてきた。全員が降りると港で待っていた観光客たちが船に乗っていった。彼もチケットを見せて彼らに続いて船に乗った。船の中は行きに来た時と同じで、席が縦と横に並んでいた。彼はバックパックを背負ったまま、デッキの外に出る扉のところまで行った。扉を開けると、海は太陽に照らされて透き通っていた。デッキの柵のところから海を見下ろすと、海面のすぐ近くを小さい魚が泳いでいるのが見えた。遠くには海鳥が羽ばたいていて、時折海の方へ降りて行った。しばらくすると船の汽笛が鳴った。大きな音を立てて船はゆっくりと動き出した。大きな島の全体が少しずつ離れていくのがデッキから見えた。彼はここで出会った彼女のことや美しい自然のことを思い、胸が締め付けられるような思いを感じた。
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