第5話

文字数 1,836文字

 再会してから互いに一度も触れずにいた核心に踏み込まれて、香川の心臓が大きく跳ねる。どくどくと早鐘を打つような鼓動に、無意識のうちにシャツの胸許を握りしめた。
 動揺のあまり返事を忘れていた香川に、山科は自嘲するような口調でつぶやく。
「覚えてはらへんやんなぁ、あんなむかしのこと」
 香川はあわてて首を振ってそれを否定した。
「お、覚えて、ます」
 つかのまの沈黙のあと、山科は意外そうにいった。
「いや、ほんまに? あのときの香川さん、鳩が豆鉄砲食らったような顔したはったから、ぼく、なんやけったいな男や思われたやろなぁて思ててんけど」
 うつむいた香川の膝のうえで、ココアの背中がもぞもぞと動く。耳をぴくぴくさせながら、もう撫でるのやめたの?といいたげに彼女をちらりと見あげてくる。
「手紙、読んでくれはったやろか」
 こくりと、香川は小さくうなずく。
「おおきに」
 息をひそめて、ふたたびココアの喉をすりすりとさすりはじめた香川は、自分の指先が震えていることに気付く。ごくりと唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
 つづく山科の言葉に、彼女は硬直する。
「好きなんや。今でも変わらへん。香川さんのことが好きで忘れられへん」
「…………え」
「まさか会えるとは思うてへんやった。卒業して地元離れはったて聞いてたし。そやから夕べは頭に血ぃのぼってしもてん。あかん思ても止められへんやった。このまま別れたらもう会われへんようになる思たら、絶対離されへんて」
 香川は目を見開いて呆然とする。
 山科が、今もまだ自分のことを好きだと。たしかにそう聞こえた。
 もう何度も読み返してきたあの手紙の文字が、それを綴った本人の言葉によって息を吹き込まれ、妙に生々しく香川の脳裡に浮かびあがってくる。
「好きや。ほんま、自分でも執念深ぅてびっくりしてる。卑怯な手ぇ使ぅてでもぼくのもんにしたい思うくらい、香川さんが好きや」
 架空の物語のなかでしか聞いたことがないような台詞を、淡々とした、それでいて柔らかな口調でささやかれて香川は困惑する。
 告白をされるような状況ではない。少なくとも香川にとっては。
 十年ぶりに再会した同級生と、その場の雰囲気に呑まれるようにして一夜をともにしたばかりで。
 平凡だが、それなりに穏やかな人生を送ってきた彼女からすれば、ありえないことばかりで。なにかいわなければと思うのに、言葉がまるで出てこない。頭のなかが真っ白になる、というのはこういう状態なのだろうかと、そんな関係ないことを考えてしまう。事態はすでに彼女の許容範囲を超えていた。
 おもむろに背後の気配が動いたと思ったら、山科が隣にやってきた。思わずびくりと身を退くと、それに驚いたようにココアが膝から飛び降りる。
 逃げかけた香川の手を掴んで引き寄せた山科は、顔をあげた彼女を見て困ったように苦く笑う。
「そんな泣きそうな顔せぇへんでも。っていうても、そんな顔させてんのぼくやねんな」
 ごめんな、とつぶやく山科から目を逸らして、力なく首を振る。掴まれたままの手を、へんに意識してしまう。離してほしいと思うのだが、試しに少し手を引いてみると、それを拒むように逆にぐっと引き戻された。
「あかんて。離さへんゆうたやん。いま手ぇ離したら香川さん、ぼくから逃げはるやろ?」
 聞き分けのない子どもにいい聞かせるように、だけどよくよく聞いてみるとなにやら恐ろしいようなことをいう山科に、香川はますます途方に暮れる。
「逃げないから、離して」
 か細い声で訴えるが、山科は黙って彼女を見つめるだけで。
「服がないと、帰れないから」
 そうつづけると、ようやく山科は力を緩めた。
「香川さん、天女の羽衣いう話、知ったはる?」
 唐突にそんなことを尋ねられて、香川はきょとんとする。山科の意図がわからず、それでもこくりとうなずいて知っていることを示すと、彼は口許だけで笑っていった。
「あの話の主人公、なんやアホなことしよるなぁて思ててんけど。今なら、気持ちがわかる気ぃするわ」
 どういう意味だろうと、怪訝に思いながら、子どものころに読んだむかしばなしを思い出そうとする香川の視界の端で、黒いものが動いた。驚いてそちらを見ると、キッチンの冷蔵庫のうえ、先ほどと同じ場所で、黒猫が頭をもたげてこちらを見ている。
 金色をした一対の瞳が、なにもかもを見透かすような眼差しで香川を見下ろしていた。
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