第4話

文字数 4,457文字

 *  *  *  

 目が覚めたとき、香川は自分がいったいどこにいるのかわからなくて動揺した。
 知らない部屋。知らない匂い。室内は薄暗く、明るい気配がする方向へ視線を巡らせると、ドアが開け放たれていて、その向こうから柔らかな光が差し込んでいる。
「ニャー」
 すぐそばでかわいらしい鳴き声がして、びくっとしながら視線を戻すと、布団のなか、香川の胸に寄り添うようにして小さな猫がころんと横になっていた。
 それを見て思い出した。香川は耳まで真っ赤になって飛び起きる。
「…………っ、」
 身体がだるくて重たい。下腹部に違和感がある。その原因は考えるまでもない。香川は額にへんな汗をかきながら着ていたシャツの胸許を握りしめる。
 少しばかり酔っていたとはいえ、山科となにをしたのかはしっかりと覚えている。
 とにかくここから出よう。家に帰ろう。考えるのはそれからだ。そう決めてそろりと身体を動かすと、香川のそばをすり抜けて床に飛び降りた猫が先導するかのようにドアのほうへと歩き出す。
 冷たい床に爪先をおろして香川はぎょっとする。彼女が着ているシャツはどう見ても男物で、太腿のあたりまで丈があるが、下はなにも身に着けていない。下着さえも。
 あわててあたりを見まわすが、香川が着ていたはずの服や下着はどこにも見当たらない。これでは帰れない。
 ベッドの端に腰かけたまま途方に暮れていると、ふとひとの気配がして、山科が顔を覗かせた。目が合う。香川が起きていたことに少し驚いた顔をしたが、彼はすぐに笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
「おはよう」
 近付いてくる山科から距離を取ろうとベッドのうえであとずさる香川に、彼は足を止める。そうして困ったように笑うと、距離を置いたまま尋ねてきた。
「身体はどないな? しんどいことあらへん?」
 あからさまな問いに、香川は赤面したまま目を伏せる。それを返事と受け取ったのか、彼は神妙な声で謝罪を述べる。
「ごめんな」
 その声の近さにびっくりして顔をあげると、いつのまに接近してきたのか山科がベッドの脇に立って香川を見下ろしていた。
「…………あの、」
「ん?」
「わたしの、服、は」
「ああ、今、洗濯してるとこやから、乾くまで待ってな」
 予想外の答えに絶句する。洗濯なんてしなくていいから、多少汚れていてもかまわないから放っておいてほしかった。まさか下着まで洗われたのだろうか。
 赤くなったり青くなったりとせわしない香川に、山科はなんでもないことのようにいう。
「よかったらお風呂入り。動かれへんやったらぼく手伝うし」
「えっ」
 とんでもない台詞をさらっといわれた気がして固まる香川に、彼は独特の口調で追い討ちをかける。
「いちおう、全部きれいに拭いたつもりやねんけど、ちゃんと洗ぅたほうがすっきりするやろ?」
 全部、きれいに、拭いた?
 香川は目を見開いて口をぱくばくさせる。その反応に、山科は先ほどと同じく困ったような薄い笑みを浮かべて説明した。
「身体じゅう、どこもかしこもどろどろになったはったし、あのまんまやったら気持ち悪なるやろな思て。気ぃ悪ぅせんといてな」
 顔から火が出そうだった。羞恥のあまり涙目になりながら香川はうつむく。穴があったら入りたい。とにかく山科のまえから消えてしまいたい、と切実に思う。
「…………帰り、ます」
 蚊の鳴くような声で訴えると、すぐさま返事があった。
「帰るて、その格好で?」
 驚いたような、いくぶん呆れたような響きの声に、香川はますます小さくなって顔を伏せる。
「帰られへんやろ。そないなこといわんと、服乾くまでゆっくりしていき」
 とてもじゃないが、ゆっくりしていられるような気分ではない。だが、人前に出られる格好ではない以上、山科のいうように、しばらくのあいだここに留まるよりほかはない。
 せめて、彼の顔を見なくてもいいようにと、すすめられるままバスルームを借りることにした。
 「もろうた試供品で悪いねんけど、よかったら使ぅて」と手渡されたシャンプーやクレンジングなどの一式を、戸惑いながらもありがたく受け取って香川はバスルームにこもった。
 昨夜はもちろん、化粧も落とさず、シャワーさえも使っていない。汗をかく季節ではなかったのが唯一の救いといえばよいのだろうか、と考えて、そんなのは気休めだとさらに落ち込む。
 おまけに、シャツを脱いだ香川は自分の身体を見て、思わずひっと息を呑んだ。胸許や腕の裏側、太腿の内側のきわどい部分にまで赤い斑点が散っている。それも、ひとつやふたつではない。
 それがいわゆるキスマークというものだと思い至り、香川は頭から湯気が出そうなほど顔を真っ赤に染めて、泡立てたボディソープで皮膚をごしごしとこすりあげた。
 しかし、肌に直接刻みつけられた痕がそんなことで消えるはずがなく、過度な刺激を受けた肌は痛々しく赤くなり、ひりひりと染みた。
 べそをかきながらも頭のてっぺんから爪先までまんべんなく洗い終えると、香川は途方に暮れた。
 これからどうすればいいのか。バスルームを出たら山科と顔を合わせなくてはいけない。気まずいなんてものではない。
 用意されていたタオルで髪や身体を拭いたあと、香川は脱衣場の床にへたり込んだ。
「香川さん、どないした? 具合悪いん?」
 どのくらいそうしていたのか。
 じゅうぶんな時間が過ぎたのに、いっこうに出てくるようすのない香川が心配になったらしく、脱衣場のドア越しに山科の声が聞こえてきた。びくっと身を強張らせた香川はあわててあたりを見まわし、籐のかごに畳んで置かれていた白いシャツを手に取ると肩から羽織った。
「ごめんやけど、ちょっと入るで」
 そう断ったあと、山科はゆっくりとドアを開けた。そうして、床にしゃがみ込んだ香川を見付けると驚いた表情になる。
 バスルームでべそべそと泣いていた彼女の目は赤く腫れていた。すぐにうつむいて顔を隠したが、山科には見られたかもしれない。
「やっぱりしんどかってんな、ごめんな」
 身体がつらくてうずくまっているのだと思ったのか、山科は申し訳なさそうにそういうと、香川の傍らに膝をついた。
「このままやったら身体冷えてまうし、少しだけこらえてな」
 香川の返事を聞かずに、山科は彼女の身体を抱きあげた。
「あっ」
「ソファまで運ぶだけやから、心配いらへんよ」
 そういう問題ではない、と思ったが、まるで猫でも担ぐようにして山科の両腕にやすやすととらえられて、香川は身を固くして怯えた。
 そして彼の言葉どおり、リビングらしき部屋に置かれたソファにおろされ、剥き出しの足を覆うように膝に毛布をかけられた。
 ちょっと待ってな、といい置いて山科はリビングから出ていく。シャツの前をぎゅっと掻き合わせたまま、香川はそろりとあたりに視線を向ける。
 落ち着いた色合いの家具で統一された室内は、そのままインテリア雑誌に登場してもおかしくないような部屋だった。
 ふと、視線を感じて振り返ると、隣り合わせのキッチンの冷蔵庫のうえ、そこからじっと香川を見下ろす金色の眼があった。先ほど彼女の隣で寝ていた猫とはまた別の猫で、こちらはどうやら黒猫らしい。
 高みからこちらを見下ろしているためか、睥睨するようなその目つきにひやりとする。
 黙って見つめ合っていると、山科が戻ってきた。その手にはドライヤーがある。彼は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
「喉、渇いたやろ。どうぞ」
 冷たいペットボトルを手渡されて、香川は戸惑いながら礼をいう。
「あ、ありがとう」
 彼女の視線をたどり、ああ、と山科はつぶやく。
「あの子はミシマいうねんけど、警戒心が強ぅて、ひとにはほとんど懐かへん。ココアと違うて、ちょっかい出してきぃひんから心配いらへんよ」
 ココアというのは、おそらくあの人懐こい猫の名前なのだろう。香川があいまいにうなずくと、呼ばれたと思ったのか偶然なのか、そのココアが寝室からとことこと現れた。いったん足を止めて「ニャー」とひと声鳴くと、まっすぐにソファへと向かってくる。そして香川の膝、毛布の上に飛び乗った。
 驚いたが、ココアが気になるのはペットボトルらしく、香川の手にあるそれに顔を近付けてにおいを嗅ぐ。
「こら、お行儀悪いで。降り」
「ニャー」
 ココアはペットボトルを諦めたのか、そのまま毛布のうえでまるくなる。それが居座る体勢だというのは香川にもわかる。慣れない彼女にとっては過剰なスキンシップに戸惑う一方で、気まずい山科とのあいだに割り込んでくる存在がいるのは、正直ありがたくもあった。
「触っても、いい?」
 膝のうえの白黒のまだら模様を見下ろしながらおそるおそる尋ねると、一拍置いたあと、傍らから返事があった。
「もちろんかまへんけど、大丈夫?」
「うん」
「そやったら、顎の下、喉のへん撫でてもろたら喜ぶわ」
「ん」
 教えられたとおり、ふわふわの毛をまとった喉のあたりをゆっくりと撫でてみる。すると、ココアは目を瞑ってごろごろと喉を鳴らした。振動が指先に伝わってくる。心持ち顔を仰向けて、ときおり耳をぴくぴくさせながら気持ちよさそうにしている姿はとても愛らしい。
「かわいい」
 思わずつぶやく。しばらく無心になって喉をさすっていたが、視線を感じて顔をあげる。ソファの背越し、香川の斜めうしろに立ったまま、山科が彼女を見つめていた。
 目が合うと、彼ははっとしたように瞬いて、手にしたものを思い出したように香川にいった。
「そのまま楽にしててな。風邪引いたらあかんよって、髪乾かすし」
「え、あの」
「ええから、じっとしとき」
 すぐにドライヤー特有の音が鳴り出し、香川の声を掻き消す。温風が頭に吹きつけられ、山科の指が頭皮に触れる。
 自分でやると訴えたかったが、膝のうえでくつろぐ猫の存在が香川の身動きを封じる。結局、首を竦めて山科の手に身をゆだねるしかなかった。
 ようやくドライヤーの音がやんだと思ったら、今度は櫛で丁寧に髪を梳かれた。肩にかかるくらいの長さで揃えた髪を、山科の指が整えていく。
「きれいな髪やな」
 思いがけずすぐそばでささやかれて、香川はびくっと震えた。振り向くことができない。香川の背後に立ち、身を屈めているのだろう、頭のすぐうえのあたりに気配がする。
「あのころは、髪、長ぅて、おさげに結ぅてはった」
 急に、あたりの空気の質が変わった気がして香川は息を呑む。この感じは身に覚えがある。
 昨夜、あの店で感じた、息苦しいような濃密な気配。
 すぐ背後から漂うそれに絡めとられてしまいそうで。ココアから離した手で毛布を握りしめる。香川のすぐ横、ソファの背に、山科が手を置いた。
「卒業式の日、香川さんに手紙渡したん、覚えてはる?」
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