第1話
文字数 3,875文字
これまでの二十八年間の人生において、たった一度だけ、香川佐保はラブレターというものを受け取ったことがある。
高校の卒業式の日に。
相手は同じクラスの山科という男子生徒だった。
クラスメイトとはいえ、そんなに話したことはなかったし、自分は同性はおろか、異性から好意を寄せられるような人間ではないと思っていたので、ものすごく驚いた。
卒業式のあと、いつまでも教室に居残るクラスメイトたちに別れを告げて校舎を出たところで、背後から呼び止められた。周りには、ほかのクラスの生徒がちらほらといた。
そんななか、学生服をきっちり着込んだ山科は、人目を憚ることなく香川を呼び止め、封筒を差し出した。
なんだろう、と怪訝に思い首を傾げると、山科はまっすぐに香川を見つめていった。
「いきなりでごめんやねんけど、受け取ってほしいねん。返事はいらへんし、読んでくれるだけでええから」
二年生のときに関西から転校してきた彼は、その地方独特の話しかたをした。
馴染みのない言葉に、最初のうちは戸惑いを覚えたが、端整な顔立ちとおとなびた雰囲気をまとった山科は、一見、気安く近寄りがたい印象を与える。その彼が、外見とは裏腹に、口を開けば思いがけず柔らかなものいいをするのだ。
その意外性は親しみやすさとなって、排他的で多感な年ごろの集団にすんなりと受け入れられた。
その山科から突然声をかけられ、よくわからないながらも香川がおずおずと封筒を受け取ると、山科はわずかに表情を和らげて微かに笑った。
「おおきに。ほな、香川さん、元気で」
それだけだった。山科は振り返ることなくその場を去り、ひとりとり残された香川は呆然と立ち尽くすしかなく。
山科から手渡された封筒は水浅葱色で、彼がもし自分で選んだのだとしたら、同級生の男子にしては渋い色合いだなと、そんなことを考えていた。
そうして家に帰り、自室で封を開けて中身を確認したときにはじめて、それがいわゆるラブレターだということに気が付いた。
封筒と同じ風合の便箋には、これまた同級生にしては達筆な文字で、最初と最後に宛名と署名が記され、本文にはただひとこと、
好きです。
とだけ書かれていた。
人違いではないかと思ったが、山科はたしかに香川を呼び止めたのだし、宛名も間違いなく香川佐保様と書いてある。
次に、なにかのいたずらではないかと勘繰ったものの、少なくとも香川の知る限り、山科はそういったたぐいのいたずらや冗談を仕掛けるような人物ではない。
香川は困惑した。困惑したが、山科は「返事はいらない」といっていた。つまり、香川からの反応は期待していないし待つつもりはない、ということだろう。
去りぎわに「元気で」といっていたし、それは別れの挨拶だ。
そもそも香川は山科の電話番号やメールアドレスをいっさい知らない。山科のほうも同じだろう。そう考えて、ああ、だから手紙なのか、と思い至る。
いったいどうして山科から好意を持たれることになったのかはわからないが、手紙をまえにしばらく考えたあと、香川はそれを丁寧に封筒に戻すと机の抽斗にしまった。
それからもたびたび、香川はその手紙を取り出しては読み返し、短大を卒業後、就職のために実家を出るときには、身のまわりの荷物と一緒に新居に持っていった。
香川自身は、当時、山科に対してとくべつな感情を抱いてはいなかったが、取り立てて秀でたところがあるわけでもない自分のような存在に目を留めて、好意を持ってくれた人物がいたことは素直に嬉しいと思った。
それに、自分でもちょっとどうかと思うが、仕事などでいやなことがあったり落ち込んだりしたときに、かつて山科からもらったその手紙に触れると、不思議と心が慰められて、ささくれた気分がいくらか穏やかになるような気がした。
そんなふうに、いつからか、その手紙は香川にとってお守りのような存在になっていた。
学生時代のささやかな思い出。そうなるはずだった。それなのに。
たぶんもう会うことはないと思っていた山科と、香川は再会した。
*****
その日、香川は職場でいやなことがあり、気持ちが荒んでいた。彼女にとって、そんな日は珍しくない。
職場に同性の先輩がいるのだが、どうやら香川は彼女から嫌われているらしく、ことあるごとにちくちくと陰湿な攻撃を受けていた。
香川は人付き合いがあまり得意ではない。子どものころからそうだった。だれかと一緒に過ごすより、ひとりで静かにしているほうが落ち着くし、気が楽だった。
それは今も変わらない。暗い、と自分でも思う。
そんな香川は、仕事での鬱憤をだれかに話して発散することはない。ひたすら自分のなかに押し止めて、荒波が落ち着くのを待つしかない。
気分転換に、奮発して甘いものをしこたま食べたり、少しだけお酒を飲んだりして、感情の波をやり過ごすのがいつものやりかただった。
だからその日も、仕事帰りにとりあえず甘いものを食べようと、職場の近くにある洋菓子店に向かっていた。
幸い週末で、翌日は休みだと思うと、いくらか気分が浮上した。
「香川さん?」
ふいに、どこかで聞いたことのある声に名前を呼ばれた。
振り返ると、たった今すれ違った男性が、香川と同じく足を止めてこちらを見ていた。すらりとした長身に細身のスーツをまとい、ややもすれば冷たく見えるような端整な顔には、あきらかな驚きが浮かんでいる。
香川もびっくりして目を見開いた。
「山科、くん?」
卒業以来だから、約十年ぶりの再会だった。
あのころからおとなびた雰囲気を醸し出していた山科の面差しには、学生時代の面影があった。すぐそばを通ったのに彼に気付かなかったのは、香川の意識が洋菓子に向いていたせいだろう。
山科はふっと目を細めると懐かしい言葉を話した。
「いや、びっくりしたなあ。よう似てはる人がいてると思たら、ほんまに香川さんやねんから」
「よく、わかりましたね」
まだ驚きのなかに立ち尽くしたまま香川がいうと、山科はおかしそうに口許を緩める。
「そらわかりますわ。香川さん、少しも変わってはらへんもん」
悪気はないのだろうが、ちょっぴり傷付いた。十年経っても変わっていないというのは、たぶん褒められたことではない。
山科は、不躾ではない視線で香川の全身をざっと眺めると尋ねた。
「香川さんは、仕事の帰り?」
「あ、はい」
「今から予定あります?」
「え」
「せっかく会えたんやし、よかったら一緒に食事でもと思うて」
「えっ」
あまりに突然の再会と、それにつづく誘いに目を白黒させていると、山科は笑みを浮かべてさらりと尋ねた。
「そんなんしたら、彼氏が怒らはるかな」
「え、いえ、そんな相手はいませんから」
反射的に正直に否定すると、山科はにっこりと笑っていった。
「ほな、かまへん?」
その笑みにつられるようにして、香川はついうなずいてしまった。
そうして気が付いたときには、イタリアンの店で山科と一緒に食事をしていた。ひとりが好きなはずの香川だったが、不思議と苦痛ではなかった。
山科は、あのころと変わらない柔らかな口調で香川のことを質問しながら、あいまに自身の話をした。それに耳を傾けているうちに、香川は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
デザートまでしっかり平らげて満足したあと、会計のときに、香川は山科と少し揉めた。山科が払うといって譲らなかったためだ。自分が誘ったのだから払うという山科に、香川は心底困り果てた。
しかし、いくら経験が乏しい彼女でも、こういう場面で自分が我を通すのは、男である山科に恥をかかせる行為だというのはわかる。引き下がるほかない。
気持ちよく「ご馳走さまです」といえない自分が申し訳なくて、うつむいて自己嫌悪に陥る香川に寄り添い、山科がささやいた。
「香川さん、もう少し付き合うてもろてもええやろか?」
顔をあげた香川に彼はつづける。
「ゆっくり飲みたい気分やねんけど、ひとりやとなんや味気ないし。ちゃんと家まで送るよって、香川さん、付き合うてくれへん?」
そう誘いかける山科は、先ほどの香川のふるまいに気を悪くしたようすはない。それにいくぶんほっとして、少し考えたあと、彼女は小さくうなずいた。
「おおきに。ほな、ぼくの勝手に付き合うてもらうんやさかい、払いはぼくが持つし」
「え」
さらりといわれて香川はたじろぐ。そんな彼女に、山科はいたずらっぽい笑みを浮かべていう。
「ぼくの身代潰すくらい飲まはんねやったら別やけど」
冗談めかした彼の言葉に目をまたたかせたあと、香川は思わず笑った。
「いくらなんでも、そんなに飲みません」
「せやったら、なんも気にすることあらへん」
うながされて歩き出しながら、香川は傍らの山科を見あげた。それに気付いて彼が尋ねる。
「どないした?」
「あ、いえ、山科くんでも冗談いったりするんだなって思って」
「ぼく、そない堅物に見える?」
「そ、そういうわけじゃなくて。あんまり話したことなかったから」
あわててそういいかけて、香川は口ごもる。手紙の存在を思い出したのだ。記憶にある限り、山科との接触はあの一度きりといっていい。
山科はもう、あのことは忘れているだろう。十年もまえの話だし、まさか香川が今も大事に手紙を持っているなどとは思いもしないに違いない。
高校の卒業式の日に。
相手は同じクラスの山科という男子生徒だった。
クラスメイトとはいえ、そんなに話したことはなかったし、自分は同性はおろか、異性から好意を寄せられるような人間ではないと思っていたので、ものすごく驚いた。
卒業式のあと、いつまでも教室に居残るクラスメイトたちに別れを告げて校舎を出たところで、背後から呼び止められた。周りには、ほかのクラスの生徒がちらほらといた。
そんななか、学生服をきっちり着込んだ山科は、人目を憚ることなく香川を呼び止め、封筒を差し出した。
なんだろう、と怪訝に思い首を傾げると、山科はまっすぐに香川を見つめていった。
「いきなりでごめんやねんけど、受け取ってほしいねん。返事はいらへんし、読んでくれるだけでええから」
二年生のときに関西から転校してきた彼は、その地方独特の話しかたをした。
馴染みのない言葉に、最初のうちは戸惑いを覚えたが、端整な顔立ちとおとなびた雰囲気をまとった山科は、一見、気安く近寄りがたい印象を与える。その彼が、外見とは裏腹に、口を開けば思いがけず柔らかなものいいをするのだ。
その意外性は親しみやすさとなって、排他的で多感な年ごろの集団にすんなりと受け入れられた。
その山科から突然声をかけられ、よくわからないながらも香川がおずおずと封筒を受け取ると、山科はわずかに表情を和らげて微かに笑った。
「おおきに。ほな、香川さん、元気で」
それだけだった。山科は振り返ることなくその場を去り、ひとりとり残された香川は呆然と立ち尽くすしかなく。
山科から手渡された封筒は水浅葱色で、彼がもし自分で選んだのだとしたら、同級生の男子にしては渋い色合いだなと、そんなことを考えていた。
そうして家に帰り、自室で封を開けて中身を確認したときにはじめて、それがいわゆるラブレターだということに気が付いた。
封筒と同じ風合の便箋には、これまた同級生にしては達筆な文字で、最初と最後に宛名と署名が記され、本文にはただひとこと、
好きです。
とだけ書かれていた。
人違いではないかと思ったが、山科はたしかに香川を呼び止めたのだし、宛名も間違いなく香川佐保様と書いてある。
次に、なにかのいたずらではないかと勘繰ったものの、少なくとも香川の知る限り、山科はそういったたぐいのいたずらや冗談を仕掛けるような人物ではない。
香川は困惑した。困惑したが、山科は「返事はいらない」といっていた。つまり、香川からの反応は期待していないし待つつもりはない、ということだろう。
去りぎわに「元気で」といっていたし、それは別れの挨拶だ。
そもそも香川は山科の電話番号やメールアドレスをいっさい知らない。山科のほうも同じだろう。そう考えて、ああ、だから手紙なのか、と思い至る。
いったいどうして山科から好意を持たれることになったのかはわからないが、手紙をまえにしばらく考えたあと、香川はそれを丁寧に封筒に戻すと机の抽斗にしまった。
それからもたびたび、香川はその手紙を取り出しては読み返し、短大を卒業後、就職のために実家を出るときには、身のまわりの荷物と一緒に新居に持っていった。
香川自身は、当時、山科に対してとくべつな感情を抱いてはいなかったが、取り立てて秀でたところがあるわけでもない自分のような存在に目を留めて、好意を持ってくれた人物がいたことは素直に嬉しいと思った。
それに、自分でもちょっとどうかと思うが、仕事などでいやなことがあったり落ち込んだりしたときに、かつて山科からもらったその手紙に触れると、不思議と心が慰められて、ささくれた気分がいくらか穏やかになるような気がした。
そんなふうに、いつからか、その手紙は香川にとってお守りのような存在になっていた。
学生時代のささやかな思い出。そうなるはずだった。それなのに。
たぶんもう会うことはないと思っていた山科と、香川は再会した。
*****
その日、香川は職場でいやなことがあり、気持ちが荒んでいた。彼女にとって、そんな日は珍しくない。
職場に同性の先輩がいるのだが、どうやら香川は彼女から嫌われているらしく、ことあるごとにちくちくと陰湿な攻撃を受けていた。
香川は人付き合いがあまり得意ではない。子どものころからそうだった。だれかと一緒に過ごすより、ひとりで静かにしているほうが落ち着くし、気が楽だった。
それは今も変わらない。暗い、と自分でも思う。
そんな香川は、仕事での鬱憤をだれかに話して発散することはない。ひたすら自分のなかに押し止めて、荒波が落ち着くのを待つしかない。
気分転換に、奮発して甘いものをしこたま食べたり、少しだけお酒を飲んだりして、感情の波をやり過ごすのがいつものやりかただった。
だからその日も、仕事帰りにとりあえず甘いものを食べようと、職場の近くにある洋菓子店に向かっていた。
幸い週末で、翌日は休みだと思うと、いくらか気分が浮上した。
「香川さん?」
ふいに、どこかで聞いたことのある声に名前を呼ばれた。
振り返ると、たった今すれ違った男性が、香川と同じく足を止めてこちらを見ていた。すらりとした長身に細身のスーツをまとい、ややもすれば冷たく見えるような端整な顔には、あきらかな驚きが浮かんでいる。
香川もびっくりして目を見開いた。
「山科、くん?」
卒業以来だから、約十年ぶりの再会だった。
あのころからおとなびた雰囲気を醸し出していた山科の面差しには、学生時代の面影があった。すぐそばを通ったのに彼に気付かなかったのは、香川の意識が洋菓子に向いていたせいだろう。
山科はふっと目を細めると懐かしい言葉を話した。
「いや、びっくりしたなあ。よう似てはる人がいてると思たら、ほんまに香川さんやねんから」
「よく、わかりましたね」
まだ驚きのなかに立ち尽くしたまま香川がいうと、山科はおかしそうに口許を緩める。
「そらわかりますわ。香川さん、少しも変わってはらへんもん」
悪気はないのだろうが、ちょっぴり傷付いた。十年経っても変わっていないというのは、たぶん褒められたことではない。
山科は、不躾ではない視線で香川の全身をざっと眺めると尋ねた。
「香川さんは、仕事の帰り?」
「あ、はい」
「今から予定あります?」
「え」
「せっかく会えたんやし、よかったら一緒に食事でもと思うて」
「えっ」
あまりに突然の再会と、それにつづく誘いに目を白黒させていると、山科は笑みを浮かべてさらりと尋ねた。
「そんなんしたら、彼氏が怒らはるかな」
「え、いえ、そんな相手はいませんから」
反射的に正直に否定すると、山科はにっこりと笑っていった。
「ほな、かまへん?」
その笑みにつられるようにして、香川はついうなずいてしまった。
そうして気が付いたときには、イタリアンの店で山科と一緒に食事をしていた。ひとりが好きなはずの香川だったが、不思議と苦痛ではなかった。
山科は、あのころと変わらない柔らかな口調で香川のことを質問しながら、あいまに自身の話をした。それに耳を傾けているうちに、香川は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
デザートまでしっかり平らげて満足したあと、会計のときに、香川は山科と少し揉めた。山科が払うといって譲らなかったためだ。自分が誘ったのだから払うという山科に、香川は心底困り果てた。
しかし、いくら経験が乏しい彼女でも、こういう場面で自分が我を通すのは、男である山科に恥をかかせる行為だというのはわかる。引き下がるほかない。
気持ちよく「ご馳走さまです」といえない自分が申し訳なくて、うつむいて自己嫌悪に陥る香川に寄り添い、山科がささやいた。
「香川さん、もう少し付き合うてもろてもええやろか?」
顔をあげた香川に彼はつづける。
「ゆっくり飲みたい気分やねんけど、ひとりやとなんや味気ないし。ちゃんと家まで送るよって、香川さん、付き合うてくれへん?」
そう誘いかける山科は、先ほどの香川のふるまいに気を悪くしたようすはない。それにいくぶんほっとして、少し考えたあと、彼女は小さくうなずいた。
「おおきに。ほな、ぼくの勝手に付き合うてもらうんやさかい、払いはぼくが持つし」
「え」
さらりといわれて香川はたじろぐ。そんな彼女に、山科はいたずらっぽい笑みを浮かべていう。
「ぼくの身代潰すくらい飲まはんねやったら別やけど」
冗談めかした彼の言葉に目をまたたかせたあと、香川は思わず笑った。
「いくらなんでも、そんなに飲みません」
「せやったら、なんも気にすることあらへん」
うながされて歩き出しながら、香川は傍らの山科を見あげた。それに気付いて彼が尋ねる。
「どないした?」
「あ、いえ、山科くんでも冗談いったりするんだなって思って」
「ぼく、そない堅物に見える?」
「そ、そういうわけじゃなくて。あんまり話したことなかったから」
あわててそういいかけて、香川は口ごもる。手紙の存在を思い出したのだ。記憶にある限り、山科との接触はあの一度きりといっていい。
山科はもう、あのことは忘れているだろう。十年もまえの話だし、まさか香川が今も大事に手紙を持っているなどとは思いもしないに違いない。