第2話

文字数 3,706文字

 山科に案内されたのは、めったに外ではお酒を飲まない香川には縁のない、ひっそりとした店構えのバーだった。
 店外の素っ気なさとは裏腹に店のなかは居心地よく、細部まで手が行き届いている。照明は薄暗く、磨きあげられたグランドピアノがほのかな明かりに照らされている。そのまえには、長い黒髪を結いあげた女性がシンプルなデザインのドレスをまとい、しっとりとしたメロディを奏でていた。
 思わず見惚れていると、女性と目が合う。彼女はきれいに化粧を施した顔で微笑みながら、香川たちに向かって軽く会釈をした。その笑みと、ドレスの袖からすらりと伸びた白い腕に、香川はなんだかどきどきして目が離せなくなる。
 店内にはカウンターのほかに、ピアノを中心にしていくつかの小さなテーブル席が設置されており、香川と山科はそのうちのひとつに腰を落ち着けていた。
 香川の視線に気付いて山科が尋ねる。
「どないしたん?」
「え、あ……、すごく、きれいな人だなと思って」
 答えると、山科は今はじめてその存在に気付いたというふうにピアノのほうへ目を向けて、ふたたび香川に視線を戻す。
 なぜか、その顔には苦笑が浮かんでいる。
「相変わらずやなぁ」
 先ほどのイタリアンで食事をするうちに、山科の言葉がずいぶん砕けてきていることに、香川は気付いていた。
 お互い、再会してからの会話には、敬語と通常の言葉が入り交じっていた。社会人としての立場と、かつてのクラスメイトという関係の狭間で、互いの距離を計りかねているように。
 香川はジュースのような甘い味のお酒を飲みながら、山科の声とピアノの音色に耳を傾けた。生演奏の音楽が流れているためか、山科は口数が少なくなっている。
 小さなまるいテーブルに着いているので、山科とはほとんど隣に座っているような状況だった。
 何杯めかのグラスを空けてほろ酔いかげんの香川は、隣で沈黙をつづける山科の袖をくいっと軽く引いて身を寄せると、その耳許でささやいた。
「山科くん、なにか話して」
 香川はアルコールに弱いほうではない。いくら飲んでもあまり顔には出ないし、意識が混濁することもない。
 だからといって、まったく酔わないわけではなく、ふわふわと気持ちよくなって、そのぶん、他人に対するガードが緩くなる。そんな状態を冷静に自覚する程度には理性は働いているので、アルコールに耐性があるのだと思っている。
 今も、ああ、自分は少し酔っているんだなと思いながら傍らの男を見つめた。ふだんはいえないような言葉が、するりと口からこぼれ出る。
「山科くんの声、好き。聞いてると落ち着く」
 山科はつかのま驚いたように目を見開き、それからすぐに無表情になった。
 高校時代、香川は山科の独特のしゃべりかたをいいなと思っていた。
 それまで彼女は、テレビに出ている有名人が話す関西系の言葉しか知らず、なんとなく、早口でまくしたてるようなイメージしかなくて、少しこわいと思っていた。
 もちろん、地域や話す人によって違いはあるのだろうが、土地の言葉を柔らかな口調でゆったりと話す山科の声を聞いて、それを心地好いと感じた。
 ふいに、彼の袖を掴んだ手を取られて握りしめられ、香川はびくりと身を固くする。とっさに腕を引きかけたが、山科は手を離さない。間近で顔を覗き込まれて香川は息を呑んだ。
「さっき、香川さんは変わってはらへんいうたけど、ほんまは嘘や。ますます別嬪さんにならはって、すぐには声かけられへんやった」
「え」
「そやのに、いわはることはあのころと変わらへんのやな」
 握りしめられた力が少し緩んだと思ったら、手首の内側、血管のあたりを軽く指で撫でられる。それだけなのに、身体が過剰に反応してしまう。
 なにか話してほしいとはいったが、今の台詞はまるで口説き文句のようだと思い、そう思った自分に香川はぎょっとする。
 まさかそんな。
 こわごわと視線を戻すと、すぐ目のまえに、熱を帯びた山科の眼差しがあった。
 急に、あたりの空気の密度があがった気がした。息苦しくなり、薄く口を開けて喘ぐように呼吸をすると、山科の目がその唇をじっと見つめる。
「…………っ、」
 そうして思わせぶりな仕草でふたたび手首の皮膚をくすぐられ、香川はびくんと身を震わせる。
 そんなはずはないのに、まるで彼の眼差しに唇を塞がれたように声が出ない。
 そのまま手を引かれて立ちあがると、香川はあやつり人形のように山科のあとに従い、勘定をすませた彼にうながされるままタクシーに乗り込んだ。
 どこへ行くのだろうと疑問に思ったが、無言で隣に座る山科に声をかけることができず、香川はぼんやりと窓の外を眺めていた。
 三十分ほど経ったころ、ようやくタクシーは目的地に着いたらしく停止した。移動中の景色を見ていて思ったとおり、香川が来たことのない場所だった。
 車から降りると、街路樹が並んだ歩道を抜けて、マンションとおぼしき建物のなかに招き入れられる。慣れた手付きでオートロックを解除する山科の背中を見つめながら、自分はいったいなにをしているのだろうと香川は思った。
 少し酔っている自覚はある。
 だけど、自分がどういう状況にあるのかを把握できないわけではない。なにかふつうではない事態にあるのだということは、ちゃんとわかる。
 だけどまさか、と思う。
 香川がとんでもない妄想をしているだけで、山科がそんなことを考えているとは限らない。
 ぐるぐるとまとまらない思考に翻弄されているあいだに、香川の身体はエレベーターで上の階へと運ばれ、通路に面して並んだドアのうちのひとつにたどり着いた。
 山科が鍵を差し込むと、どこからか微かに、動物の鳴き声のようなものが聞こえた。
「どうぞ」
 店を出てからはじめて、山科が香川に声をかけてきた。ドアを支えて待っている彼に気付いて、香川はおそるおそるなかへと足を踏み入れる。
 玄関口の足許にぼんやりと明かりが灯されており、そのなかに、小さな猫がいた。
「ニャー」
 先ほど聞こえたのはこの猫の鳴き声だったのか、と納得した。白と黒のまだら模様をした猫は、物怖じすることなく香川に近付いてくると顔を寄せてにおいを嗅ぎ、靴を履いたままの彼女の足に身体をすりよせてきた。ストッキング越しにふわふわとした毛の感触がする。
 香川の背後から続いてなかへ入ってきた山科は、ドアを閉めて内側から施錠すると、手を伸ばして廊下の照明のスイッチを入れる。
 そのあいだも、猫は香川の足にまとわりつきながらニャーニャーと鳴き続けていた。
 香川は動物に慣れていない。
 決して嫌いではないが、ペットを飼ったことがないので扱いかたがわからない。いま足を動かすと、この小さな動物を蹴ったり踏んだりしてしまいそうで、それがこわくて身動きが取れなかった。
 固まったままの香川の背中に寄り添い、山科が尋ねる。
「ごめん。猫、あかんやった?」
 香川はふるふると首を振る。
「違う。踏みそうで、こわい」
 カタコトに近い香川の返事がおかしかったのか、山科は息を吐くようにして笑った。
「かまへんよ。この子ら身軽やから危ななったら自分で避けはるし。多少蹴ったかて、この子ん場合、遊んでもろてる思て気にしぃひん」
 そういいながら、山科は香川の足にじゃれつく猫を片手で抱きあげた。そうして、鼻先をくっつけるようにしていい聞かせる。
「邪魔したらあかんよ。あとで相手したるよって。今、香川さんはぼくのもんやさかい、あんたにはあげられへん」
「ニャー」
 山科の手から床におりた猫は抗議するように鳴いた。それにかまわず、彼は背後から香川を抱き寄せると、彼女の顔を振り向かせるようにして唇を塞いだ。首を後ろに捩られ苦しくて口を開けると、唇をやわやわと食まれて舌を誘い出される。
「ん、う」
 ぬるりとした感触とともに、香川が飲んだものとは別のアルコールの味が伝わってくる。
 キスをされているのだと理解したとたん、身体がそれを拒んだ。身をよじって逃れようとするが、それを逆手に取られて身体の向きを変えられ、正面から抱きしめられてしまう。
 背中にまわされた腕に身体を固定され、後頭部を押さえた手によって顔を上向かされて深く口づけられる。溺れた人間が掴まるものを求めるときのように、香川の両手が山科の胸許をさまよう。
 何度も角度を変えながらキスはつづき、息継ぎのタイミングがつかめない香川は抵抗するどころではなく、ようやく唇が離れたときにはぐったりしていた。
 山科が顔を覗き込んでくる。
「ごめんな」
 ぼんやりと霞んだ頭で香川は彼の謝罪を聞いた。
 キスをしたことを謝っているのだろうかと思ったが、それならどうしてまだ身体を離してくれないのだろうとも思った。
 肩で息をする香川の目を覗き込む山科の眼差しは、どこか思い詰めたような暗さを宿している。
「狡いことしてんのはわかってる。自分でもひどい男や思てる。そやけどやめられへん。香川さん、堪忍な」
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