第6話

文字数 5,732文字

 *  *  *  

 これまでの二十九年間の人生において、たった一度だけ、山科颯介はラブレターというものを書いたことがある。
 高校時代、卒業を間近に控えたころのことだ。
 彼には意中の相手がいた。
 転校してきて、はじめてまともに彼女と言葉を交わしたあのときからずっと、ひそかに想いつづけていた。もっと早くに想いを打ちあけて、あわよくば彼女と交際したいと、一度も考えなかったといえば嘘になる。
 だがそれはできなかった。当時の山科にはできなかった。
 だからといって、そのまま彼女になにも告げることなく、やがてはただの同級生としての存在すらも忘れ去られていくのだと思うと、ひどい焦燥感に駆られて、卒業の日が近付くにつれ彼は懊悩した。
 ほんのわずかでもいい。彼女の記憶の片隅に自分の存在を、足跡を残したい。
 そんな身勝手な、けれども切実な衝動に突き動かされるようにして、山科は手紙を書くことを決めたのだった。
 ああでもないこうでもないと、時間をかけて便箋と封筒を選び、それを広げた机のまえで、さんざん頭を悩ませながら文面を考えた。進学のための受験を控えたときですら、ここまで真剣に思い詰めることはなかった。
 悩んだあげく、結局、したためたのはただひとこと。
 好きです。
 それだけだった。
 うまく手渡せたとしても、彼女が手紙に目を通すかどうかはわからない。興味がないと、あるいは気味が悪いと、あっさりと捨てられてしまうかもしれない。
 そもそも、受け取ってもらえない可能性もある。
 そのときはそのとき。
 あとのことは運を天に任せるつもりで、彼は卒業式に臨んだ。

  *  *  *  

 山科は旧くから商いをつづけきた老舗の料亭の息子だった。
 といっても実子ではない。
 なかなか跡取りに恵まれない夫婦のもとに、遠縁の家から迎え入れられた養子だった。
 こうして、職人気質の父親と、おっとりした母親のもとでなに不自由なく育てられた彼は、ゆくゆくは自分がこの店の暖簾を継ぐのだと、そのために自分はこの場所に存在しているのだと、そう思ってきた。
 弟が生まれるまでは。
 山科がそれを知らされたのは、小学校最後の歳だった。
 今でもよく覚えている。まるで釜のなかで蒸し焼きにされるような、逃げ場のない殺人的な猛暑のさなか。それでも、夏の終わりが近付きつつあることを告げる、つくつくぼうしの声がようやく響きはじめていた。
 山科の母親はしばらくまえから体調を崩して床に就くことが増えていた。もともと身体の丈夫なほうではない。おそらく暑気あたりだろうと身体を休めていたのだが、それだけではなかった。
 弟か妹が生まれる。それがどういうことなのかわからないほど、山科は幼くなかった。
 彼がこの家に迎え入れられたのは、跡継ぎとなる子どもがいなかったからだ。両親の血を引く子が生まれてくるなら、この家に山科颯介が存在する価値はない。
 その考えを、短絡的だとは思わなかった。なぜなら、事実、そう口にした人間がいたからだ。
 先代の妻、つまり現在、店の主である山科の父親の実母にあたる人物で、山科にとっては祖母である。
 息子に権限を譲ったあとも、女将として店を仕切っていた祖母は、かつて女傑と謳われたほどのしたたかなやり手で、病に倒れた先代の跡を継ぎ、采配を振るった。
 むかし気質のかたくなな嫡男至上主義者であり、自分の血を引いた、家を継ぐ息子を常に立て、その主以外の人間にはひどく厳しく、辛辣なものいいをした。
「ようやっと跡取りに恵まれましたなぁ。いや、先祖代々つづいてきたこの店をうちらの代で絶やすようなことになったら、申し訳のぅてご先祖さまによう顔向けでけしまへんやろ。百合絵さんがうちに来はってからもうえらいこと経つのに、いっこうに子ぉがでけへんのんで心配しとりましたんや。いや、めでたいなぁ」
 いつになく上機嫌で空々しいことをいう祖母に、床に伏せたままの母親が謝罪の言葉をつぶやく。
 祖母の目に、山科の姿は映っていない。最初からずっとそうだった。この頑固な女傑が、たとえ遠縁であろうと、本家の嫡子ではない子どもを跡取りに認めるわけがない。ほんとうなら、この家の敷居を跨がせるのも業腹だろう。
 それをこらえたのは、ひとえに、息子のためだ。我が息子とはいえ、すでにこの家の主である人物が決めたこと。たとえいくら我慢ならないことでも、むかし気質の祖母がそれに逆らえるはずがない。
 山科がこの家に来てからも、祖母はことあるごとに母親をなじった。子どもができないのはすべて母親のせいだと、絡みつくようなねっとりした口調で追いつめていた。おそらく、嫁いできてからずっとそういわれつづけてきたのだろう。
 たぶん、だから、父親は山科を養子に迎えた。あの祖母を黙らせることができるとは思っていなかっただろうが、それでも父親なりに打開策を見付けようとしたのだろう。
 だが、母親の妊娠が判明したことによって、祖母の矛先は母親から山科へと移った。
「あんた、いつまでこの家にいますのや」
 今まで見向きもしなかった山科に、祖母は陰険な目をしてつっかかってきた。父親の見ていないところでそれは行われた。
 両親は複雑な思いをしていただろう。待ち望んだ子どもが宿り、ただただ喜ぶべきことなのに、山科の存在がそれを邪魔する。
 母親の妊娠が判明してからも、山科は彼らに邪険にされたことはない。ただ、彼を見るときの両親の申し訳なさそうな表情が、ますます山科をいたたまれない気持ちにさせた。
 帰る場所などない。
 一度、本家に養子に出された子どもが、役目がすんだからと、もとの家に戻ることはできなかった。少なくとも、山科家ではそうだった。本家から追い出された子どもを受け入れることは恥になる、そう考えられていた。
 生まれてきたのは男児だった。
 早産で未熟児だったこともあり、しばらくは危険な状態がつづいたが、小さな命はこの世界にしっかりと根付いた。
 すくすくと成長していく弟は、無邪気に山科に懐いた。母親によく似たやさしい顔立ちをした弟の相手をしながら、山科は何度か恐ろしい考えにとり憑かれた。
 この子さえいなければ。
 一瞬でもそう考えた自分に彼はぞっとした。
 跡取りという立場に未練があるわけではない。だが、跡継ぎであれば、この家に必要とされる。居場所がある。
 このままではいけないと、山科は家を出ることに決めた。祖母のいうように、本当ならもっと早くにそうすべきだったのだろう。
 彼は高校生になっていた。
 もしかしたら、という修羅のような恐ろしく浅ましい考えが、彼の心の底にこびりついていて、それが身動きを封じていた。
 万が一、弟の身になにか起きれば、ふたたび山科が身代わりとして必要になる。
 その可能性をかなぐり捨てて、山科は両親に意思を告げた。自分にはなりたいものがある。だからそのために家を出ると。弟のせいではない。あくまでも山科自身のわがままなのだと、その一点を強調した。まだ幼いとはいえ、正式な跡取りが生まれたから邪魔者を追い出した、世間からそう思われては外聞が悪く、商売にも障りがある。
 畳に額をすりつけるようにして許しを請う山科に、父親は無言だった。母親は泣いていた。
 結局、山科は、母親の故郷に身を寄せることになった。母親の実家では、母方の祖母がひとりで暮らしていた。そこにしばらく厄介になることが決まり、彼は家を出た。
 そうして、その街のとある高校に転校した山科は、香川佐保に出会ったのだ。

 祖母の家は、山科が生まれ育った街からはずいぶん離れた土地にあるため、言葉がまったく異なる。
 母方の祖母に会うのははじめてだった。
 山科の家では、母親も祖母も一年じゅう和服姿だったので、年配の女性が洋装で、しかも本に書かれた文章そのままの標準語で話すことに、最初はかなりの違和感を覚えた。
 だが、少し突き放したように聞こえる淡々としたその言葉が、当時の彼にとっては適度な距離感があって、ちょうどよく感じられたのも事実で。
 自分のこの言葉は否応なしにあの故郷を思い出させる。だから山科は、なるべく早く、新しい土地の言葉に慣れてしまおうと思っていた。
 だが、あの日。
「山科くんの話しかた、やさしくていいね」
 ふいにそういったのは、掃除当番で一緒に残っていた香川だった。
「すごく柔らかくて、すっと耳に入ってくるの。ずっと聞いていたいような不思議な気持ちになる」
 床を掃く手を止めてそういった彼女は、おそらくなにげない会話のつもりだったのだろう。けれど、予想外のその言葉は、山科にとってはまさに不意打ちで。
 心臓を撃ち抜かれた。
 もう二度と戻ることのないあの家でのこれまでの暮らしを、今となっては無駄な存在でしかない、ここにいる自分を、彼女のその言葉がはじめて肯定してくれたような気がした。
 反応しない山科に、気を悪くしたと思ったのか、あわてたように謝る香川に彼は首を振って応えた。
「おおきに、香川さん」
 そのひとことに込められた言葉の意味を、香川は知らない。
 それ以来、気付けば彼は香川の姿を目で追っていた。それが恋だと自覚したのはもう少しあとのことだが、なにものでもない、ただの厄介者の自分が色恋にうつつを抜かすわけにはいかないと、彼はその恋心を胸に秘めて卒業までの日々を過ごした。

  *  *  *  

 約十年ぶりの香川との再会は本当に偶然だった。
 山科は、母方の祖母の墓参に出かけた帰りで、まっすぐにマンションへ戻る気になれず、少しアルコールを摂取してから帰ろうと考えていた。
 彼女の姿に気付いたとき、彼は夢を、幻を見ているのかと思った。
 この十年のあいだに、山科は何人かの異性と関係を持っていたし、自分自身、香川への想いを引きずっているとは思っていなかった。
 それが、懐かしい彼女の顔を目にした瞬間、心の奥底にしまい込んで閉ざされていた感情が一気にあふれ出して、山科はひどく狼狽した。
 それと同時に、ああそうだったのか、と彼は自覚した。
 今までに付き合ってきた異性は、それぞれどこか香川と雰囲気が似ていた。無意識のうちに、自分は香川の面影を求めていたのだと。
 ――ほんま、アホやな。
 我ながら、執念深くて未練がましい。何食わぬ顔で彼女に話しかけながら、山科はそう自嘲した。

 *****

 寝室を出て、リビングの照明を灯した山科は、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し口を付ける。冷たい水が喉を滑り落ちていくのが心地好い。
 連日の熱帯夜だが、部屋のなかは冷房が効いていて過ごしやすい。ソファのうえで寝転がっていたココアが小さく鳴きながらとことこと近付いてくる。
 片手でその身体を抱きあげ、つぶらな瞳を覗き込んで山科は話しかける。
「あんた、重たなったなぁ」
 小さかった仔猫はみるみるうちに成長したが、人懐こい性格は相変わらずで、かまってくれと、しょっちゅうまとわりついてくる。
 一方、黒猫のミシマは、こちらも相変わらずで。涼しい部屋の隅に陣取り、いかにも億劫そうに目だけを動かして山科の行動を観察している。
 ミシマはもともと母方の祖母が飼っていた猫だった。ふらりと庭にやってきて、いつのまにかそのまま居着くようになったのだと祖母から聞いた。
 その祖母が亡くなり、家には伯父一家が越してくることになった。伯母が動物嫌いらしく、ミシマが追い出されるのは目に見えていた。
 ――ぼくとこ来はる?
 猫相手にそう聞いたものの、ひとに懐かないミシマが山科を選ぶとは思えなかった。
 ――ここと比べたら窮屈やと思うけど、行くとこあらへんやったら一緒に来ぉへん?
 最後に祖母の家を訪ねた日、動物用のキャリーバッグを持参した山科を、ミシマは胡乱なものを見るような目で眺めていたが、やがてのそりと起きあがると素直にバッグに入ってきた。
 山科は獣医になった。もともと動物は好きだったし、だれかの役に立つ、必要とされる存在になりたかった。
 だが、人間相手ではそれが難しかった。そういう意味では、山科もまたミシマと同様、人間不信に近かったのかもしれない、と思う。
 過去の恋人たちとは身体を重ねても、心まで明け渡すことは一度もなかった。
「おやすみ」
 ココアを降ろして寝室に戻る。
 ベッドサイドのほのかな明かりが、薄手のタオルケットにくるまって眠る彼女の姿をほんのり浮かびあがらせている。その隣に身体を横たえ、あらわになった細い肩をそっと撫でると、彼女がわずかに身じろぎをする。
 つい先ほどまで、冷房の効いたこの部屋で汗ばむほど激しく彼女を抱いていた。
 あの日。再会した夜に、ほとんど無理やりのように香川を抱いてから、山科は今度は焦らず、慎重に、時間をかけて彼女を口説き落とした。
 いまだに、香川が山科のこの話しかたに弱いらしいことはすでにわかっていた。ならばそれを利用しない手はない。
 使えるものはとことん使う。手段は選ばない。
 自分の存在意義が見出だせず、自信などもちろんあるはずもなく、恋心を封印するしかなかったあのころとは違う。
 こじらせた初恋はたちが悪い、と彼は苦笑する。あれだけの手荒な真似をしておきながらも、香川に拒絶されなかったのは奇跡に近い。
 こういった方面に免疫がないらしい彼女は、今でもときどき怯えたような、困ったような顔を見せることがある。そのたびに山科はとびきり甘い言葉をささやき、執拗なほどに愛撫を施し、彼女の芯までとろとろにとろかす。
 快楽に溺れさせるように。
 全身に彼の匂いをまとわせながら、無邪気に眠る恋人の唇にキスを落として山科はささやいた。
「おやすみ、かわいいひと」




 *  *  *  

 あの恋文を、香川が今もひそかに大事に保管していることを山科が知るのは、もう少し先の話。
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