第3話

文字数 1,218文字

 お一人様大歓迎、という文字を確認してから思い切って扉を押した。暗い店内に橙色の照明がカウンターと酒の並んだ棚を映し、一人の男性客と店主が亜耶に目を止めた。やはり場違いだ、引き返そうかと思ったが、年配の店主はにっこりと笑って、どうぞ、と席に案内した。
 
 男性客の隣に座り、メニューを見た。ビール、ワイン、スピリッツにリキュールカクテルがずらりと書かれ、こんなにも種類があるのかと思いながら、何にしようかと悩む。お任せでも大丈夫ですよ、そうカウンター越しから顔を覗かせる店主の声に視線を向ける。彼はたれ目を緩ませ、歯を見せて笑った。

「どんな味がいいですか?」
「えーと、柑橘系で爽やかなカクテルがいいですかね。」
「わかりました。」
 
 そう言って、手際良くリキュールを調合し、音を立ててシェーカーを振る。その淀みなく流れるような、長年の熟練が体にしみついた動作に釘付けになる。あの、と低い声に亜耶は隣の男性を見た。グレーのパーカーに、髪を後ろで束ね、涼し気な切れ長の瞳が覗き込む。

「タバコ吸ってもいいかな?」
 
 あ、はい、と亜耶は答える。ありがとう、と言って、箱から一本取り出し、指に滑り込ませ、火を点けてゆっくりと煙を吐いた。何気ないその仕草にスポットライトが当てられたように、見入っていた。この非現実的な空間が、そう思わせているだけなのだろうか。そんなことを考えていると、目の前にレモンが添えられた鮮やかなカクテルが置かれた。

「チャイナブルーでございます。」

 ゆっくりと口に入れると、甘さの中に柑橘の爽やかな酸味が広がっていく。

「美味しいです。すごく。」
「それは良かったです。一人でこの店に入るの勇気がいるでしょ?」
「はい、勇気を出しました。でも、せっかく上京したので、こういうお店に入ってみたくて。」
「選ばれて光栄です。隣の彼は、まるくん、丸野想君といって随分前からここに通ってくれてるんですよ。」

 まるくん、と呼ばれた男性は照れ笑いしながら、よろしくと言う。それから、三人での会話は弾み、亜耶は「ブルーベール」に足を運ぶようになった。金曜日に行くとだいたい丸野がいて、初めて会う客を交えて話をすることもあれば、三人で語ることもあった。
 愛媛から上京し、大学を卒業後、ふらふらとしていた丸野は友人に誘われたのがきっかけで舞台にのめり込み、しばらくアルバイトをしながら舞台に立つ生活をしていたという。二十代後半に差し掛かり、さすがに現実と向き合わなくてはと、当時、デザインの専門学校に通っていた。彼は常に女の気配を纏わせていたが、駆け引きを知らない初心で、欲望を孕む視線に靡く様子のない亜耶には男の性を封印し、お前って妹みたいだなと言って、笑った。

 次第に亜耶は「マスター」、「まるさん」と呼ぶようになり、二人には何でも話すことができた。仕事の悩み、思いを寄せる同僚のこと、休日に観た映画や日々の他愛のないことも何だって聞き入れてくれた。
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