第6話

文字数 1,965文字

 コバルトブルーが一帯に広がり続けるこの景色は、憧憬か、どこかへと遠ざかっていたノスタルジーなのか、或いは孤独か―。
 青空には雲があっけらかんと浮かびながら、白い陽光が差し込む。歩み続けていても足に疲労を感じることはなく、空腹も微睡も女の体を欲することも、想の中から綺麗に消え去ったようだった。
 西日は壮大な光を海へと注ぎ込み、グラスからひっくり返したようなオレンジ色の粒が煌めいた。その吸い込まれそうな焼きつく夕陽が想の肌を照らす。
 やがて藍色の空にぽっかりと白い月が現われ、満ちた輝きが光の環を描いて漆黒に浮かび上がった。その月と散りばめられた星々の淡い光を頼りに進み続けると、目の前の黒い海に光の道ができている。東側を見ると灯台から光が漏れている。正面の遠く離れた先で、点々とした小さな灯りが連なるのが見え、安堵に息をついた。一歩踏み出すと、透明なガラスが抜け落ちたように足元が外れ、海へと溺れそうになる。咄嗟に後退り、ふらつきながら着地できる領域へと戻り、尻もちをついた。

「どうなってるんだ、この先は行けないってことかよ・・・。」

 踏み外したところに触れると、やはり海水で濡れる。落胆にため息をついて、座り込んで夜空を仰ぎ見た。
 朝焼けとともに昇る太陽は、やがて西へと傾きながら海を染め、静かな夜へと変わった。そして再び青空が広がっている。自然な流れに身を委ねながら、ぼんやりと寝そべり想は途方にくれていた。相変わらず、空腹も眠たさも、性欲も湧き上がることを忘れているが、さすがに飽きていた。想は起き上がり、あぐらをかいて胸ポケットから古びた茶色の箱を取り出し、リトルシガーに火を点ける。口に広がる苦味はだんだんとカフェラテのような味となり、口の中に煙をためてからゆっくりと燻らせた。

 高円寺のシーシャバーで働いていた頃を思い出した。フルーツやスパイスの様々な香りが薄暗い中に充満し、ワールドミュージックが流れていた独特な店内が蘇ってくる。持て余すのには丁度いいか、と自然と浮かびあがる記憶について考えることにした。オレンジ色の光が滲みながら、カウンター越しにぼんやりと男性が見えてくる。次第にはっきりと輪郭が現われ、紳士的に微笑むマスターがいる。かつて世界中を旅したという彼の話を聞くのが好きだった。ニューオーリンズのジャズバーで生演奏を聞きながら夜を明かしたこと、フランスのシャンゼリゼ通りで声をかけられた親日家の外国人とグラスを片手に日本文化について語り合ったことなど、自分の記憶と錯覚するように鮮明にあらわれる。
 鈴の音がなり、マスターと扉の方を見た。間違えて迷い込んでしまったように、緊張した様子の女性が立っている。小柄で色白の肌に細い瞳は若くありながら、冷静な女性を思わせた。隣の席に着くと、若者が珍しいこの街で出会った同世代の女にすぐに声をかけた。
 亜耶は笑うと、クールな表情からあどけなくなって、明るくて素直な子だった。次第に打ち解けるとマスターも亜耶のことを気に入って可愛がっていたし、いろんな酒を一緒に飲みながら他愛のない話をした。(今まで会った女の中で最も酒豪なのは間違いない。)三人で話す時間は俺にとって心地良かった。でも、とふと考える。亜耶と俺の関係はマスターがいて成立していた。二人で会うのも今回の通夜が初めてだし、やはりマスターがきっかけとなって再会した。俺と亜耶の繋がりって何なんだろう?出会ったばかりの頃、話すと溌剌とした笑顔で答えてくれる亜耶を、女として見ていなかったわけではない。媚びることを知らない彼女に対し、次第に駆け引きを越えた感情がわいて大事に接しっていたし、俺自身も自然体でいられた。本人には口が裂けても言えないが、地元に戻ると言い出したときどれだけ寂しかったか。親密な肉体関係になれば男女の友情はいとも容易く崩れてしまいそうだが、点と点だった客同士をブルーベールが糸のように繋ぎ止めていただけの関係だとしたら―。そう考えると純粋に虚しさが広がっていった。

「なんだかなぁ・・・。ん?」

 見つめる先の海に白い球体のようなものがぷかぷかと浮かび、想の足元でせき止められた。よく見るとそれは小鳥だった。羽に傷を負い、海に落ちて流れてきたのだろうか。そっと手ですくうと、ふわふわとした柔らかい羽毛が指先から零れ落ち、雪のように舞っていった。想はジャケットの内側に大事そうに小鳥入れて、体を温める。しばらくして、もそもそと手の平で動きだし、外に出そうとすると、白い羽毛からつぶらな黒目をじっと覗かせ、首を小さく傾げた。その愛くるしさに想は胸を打たれ、たまらなくなる。

「お前、すげぇ可愛いな。」

そう言うと、小鳥は嬉しそうに想の肩に止まり、小さく揺れて抜け落ちた羽根が静かに舞っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み