第1話

文字数 623文字

 「店、なくなっちまうな。」
 黒いネクタイを緩ませながら、まるさんは深くタバコの煙を吐き出し、追いかけるように寒空を見上げた。そうだね、と呟く声が冷たい夜の外気へと吸い込まれていく。
 数日前、十一時過ぎに携帯の着信音で目を覚ますと、マスターが死んだ、と低い声で告げられた。
 「通夜、どうにかして来れないか?」
 亜耶はしばらく返事をすることができなくなった。そう、と呟きながら、嘘だ、嘘に決まってると言い聞かせた。
「山梨からは遠いよな。でも、どうにかして来てくれないか?きっと、マスターも喜ぶから。もし、来れそうなら金曜日六時に北口のスーパー前の喫煙所に来てくれ。そこにいるからさ。」
 じゃあな、と言って電話が切れると、ゆっくりと涙が流れていった。
 午後給を取り、甲府駅へと歩いていく。化粧室で喪服に着替え、その上には黒いウールのコートを羽織っている。先日天気予報で、今年は暖冬で温度差に波があると伝えていたのを思い出し、鮮やかな青空を睨みつけ、コートを脱いだ。
 中央線に乗り込み、四時過ぎには阿佐ヶ谷駅に到着した。駅前の喫茶店に入り、西日が差し込む窓側の席でコーヒーとサンドイッチを食べて、時間を待った。
 喫煙所に行くと、まるさんがスーツ姿でタバコを吸っていた。ジャケットのポケットに手を突っ込みながら、ひょろりとした細い体を少し曲げてゆっくりと煙を吐く。わたしに気が付くと軽く手をあげて、久しぶりだな、行こうか、と言って、葬儀場まで歩き出した。
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