最終話

文字数 2,729文字

 痛む頭を持ち上げながら、重い瞼をゆっくりと開ける。突っ伏していたカウンターの目の前にはボトルが静かに並んでいる。ぼんやりと棚を見つめていると、肩から何かが舞い落ち、柔らかな細い毛のようなものを指先で拾う。想は目を大きくした。白い羽根は手の平できらきらと光っている。我に返り、慌てて胸ポケットの中身を確かめる。しわくちゃになった箱を手に取り、中を覗くとリトルシガーが二本。

 想は立ち上がった。飲み干した二つのグラスが置かれたその横で小さな頭をうずめる亜耶に駆け寄った。

「おい、亜耶。起きろよ。亜耶!」

しばらくして、亜耶はゆっくりと顔を上げ、目を半開きにしながら想を見た。泣きはらした顔は化粧が剝がれ落ち、ほとんど素顔に近い。

「あれ、ここは・・・?」
「阿佐ヶ谷のブルーベールだ。戻ってきたんだ。」
「・・・。」
「大丈夫か?」
「懐かしい場所にいるようだった。・・・戻りたくなかった。」

亜耶は俯きながら消え入りそうな声で言った。想は怒りがこみ上げ、肩を激しく掴んだ。

「お前、何言ってんだよ。まじで危なかったんだぞ。戻ってこなくていいって・・っ。」

亜耶の表情に感情的に出てくる言葉を飲み込んだ。

「あの世界にいた子供のままなの。何かが変わったり、失ったりすることをただ見つめることしかできない子供なんだよ、わたしは。」

「・・・。」

「ここに通っていた頃はね、マスターもまるさんもこのお店も街の中にずっとあるはずだって、思ってたよ。その頃はここから離れる日がくるなんて、考えられなかった。それぐらい大切だった。でもだんだんと年を重ねて、仕事はどうにか続けてたけどキャリアも日常も変えることのできないままで、思ったんだ。これから先、このまま月日だけが過ぎていったらもっと生きづらくなるのかもしれないって。変えないと、努力しないとって思うほど息が詰まるみたいに言葉が出なくなった。仕事で報告をしなくちゃいけないのに、社内を飛び交う言葉は知らない機械的な言語みたいに聞こえてきた。おかしいでしょ。ここに来て二人に会うのも怖くなってた。」

正面を向いたままの彼女の横顔を見つめる。確かに、明るかった亜耶の記憶ばかりだったが、地元に戻ると言い出した頃の彼女は以前に比べて大人しかったかもしれない。

「それなら話してくれればよかったのに・・・。」

亜耶は想の方を向き、小さく首を振った。
「煩わしく思われたくなかった。それに本当はわたし、まるさんに憧れてたんだよ。自然体なのに堂々としていて、人を引きつける魅力がある。透明な圧力でありふれた世の中でうまく生きることができるまるさんが、羨ましかった。」

そんなことない、と言いかけた言葉は力なく笑う亜耶の表情に消されていった。亜耶の髪に伸ばしかけた手を戻し、想も視線を落とした。
 
扉の向こうから白い光が溢れ、朝陽が入り込でいる。朝を迎えた外ではさえずりとともに、稼働しはじめる営みの音が徐々に大きくなっていった。

「ありがとうございました。」
二人の面接官に頭を下げてから退室する。一週間以内にご連絡します、と見送られながら人事担当者に言われ、会社を後にする。軽自動車に乗り込み、エンジンをかけてしばらく経っても鼓動は波打ち、体から力が抜けない。亜耶は軽くため息をつき、アクセルを踏み込んだ。
 
派遣として働いていた製造会社の事務職は三月末で期間満了となる。そのため合間でハローワークに通い、履歴書の作成や面接の日程をおさえる日々が続いていた。四月からすぐに働きたいが、その望みは薄く、しばらくはこのような日々が続きそうだった。もしずっとこのままだったら。一度考え出すと不安の靄が広がり、覆われていく。それでも、進むしかない。そう自分に言い聞かせ、一歩づつ歩みはじめていた。

実家の近くにあるスポーツ公園の駐車場に車を止める。温かな日差しにジャケットを脱いでから、車を降りた。

道の両側にある並木はピンク色の蕾で溢れ、青空へと伸びている。あと何日かすれば蕾が開き、微睡む温かさの中で桜が咲き誇る。花びらが春風に揺られ、他愛のない話をしながら歩いた善福寺川の桜が目の前に広がり、やがて滲んでいった。携帯が鳴る音がし、カバンの中から取り出すと丸野からだった。

「もしもし。」
「亜耶、久しぶりだな。今って大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
「実は俺、松山に帰ることにしたんだ。引っ越しも終わって明日東京を出る。」
「え・・・そうなの?」
「ああ、俺ももう少しこっちにいるつもりだったけど、あの日、ブルーベールに行ってから瀬戸内が恋しくてさ。もともと地元で独立するつもりだったし、少し早い気もするけどいいかなって思って。」
「いつかは戻りたいって言ってたもんね。でも、寂しいな。もう誰もいないんだね。」
「お前の方が先に戻ったくせに。」
そう言われ、亜耶は弱々しく笑った。
「大丈夫。離れても俺たちの中にはいつまでもブルーベールがある、そうだろ?」
「うん、そうだよね。ずっとある。」
「最近はどうなの?仕事とか」
「実は派遣の仕事が今月末までで、就活してるんだ。今日も面接だったの、全然ダメだったけどね。あと、そろそろ婚活もしようかなって思ってる。苦手だけどそういうイベントととか参加してみよかなって。」
「・・・そっか。いろいろ頑張ってるな。応援するよ。」
「わたしもまるさんのこと応援してる。」

しばらく沈黙が続いた。亜耶が名前を呼ぼうとすると、息を吸い込む音がしてから返って来た。

「亜耶、近々松山に遊びに来いよ。いいところだぞ、景色もいいし飯もうまい。前から来てみたいって言ってただろ。」
「でも、就活があるし・・・。」
「息抜きも大事だろ。それにさ・・・。」
「ん?」
「・・・いや、な、何か変わるかもしれないだろ。気分転換したら良い方向に事が進むかもしれないし、旅にはそういう力があるよ、うん、絶対そう。」
「・・・。」
「まあ、考えといてよ。」
「じゃあ、来週行く!」
「へ?!・・・ら、来週?」
「え、まるさんから言ったんじゃない・・・。」
「あー、いやいや。いいんだ、わかった。来週な、空けておくから。」

慌てた様子の丸野を不思議に感じながら、励まそうとしてくれる優しさに亜耶は口元を緩ませる。
「まるさん、案内よろしくです。」

明るい声でそう言うと、ふっと小さく鼻で笑い、また決めようぜ、と言ってから電話が切れる。

かつてマスターから聞いた熱い光が煌めくカリブ海は、いつまでも遠い夢の中にあり続ける。美しい小さな島で、誰かの帰りを待っていた少女の前に懐かしい人が手を差し伸べたのを思い出す。亜耶は目を細めながら、並木道の先を見つめる。光をたたえる静かな海が広がっている、そんな気がした。

(完)
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