第6話 おちひの霊感(?)弐

文字数 1,265文字

 次は、先ほどの話とはまったく毛色が違う体験である。

 話はおちひの音大生時代に遡る。卒業試験であるところの、ピアノ演奏の実技試験(「卒業演奏」というらしい)中にそれは起こったという。
 
 もちろん、試験に向けての準備はしっかり行ったつもりである。しかし、「生演奏」というやり直しのきかぬ一発勝負。間違えたからといって消しゴムで簡単に訂正できるような、そのへんの道端に落っこちているかのごとき凡庸な筆記試験とはわけが違うのである。その怖さは、演奏者はみな知っている。いくら準備・練習を重ねても、不安が消えることはないのだという。

 試験が始まり、おちひに演奏順番が回ってきた。
 大学が誇る広くて超本格的な音楽ホールにて、審査員となる教授連中がズラリと居並ぶ中、その視線を一身に浴びて行われる、演奏会形式の試験である。
 舞台上のピアノに向き合い、鍵盤に指を置いた。
 曲は、自らが選んだショパンの「バラード 第一番」であった。
 
 演奏を初めてどのくらい時間が経ったか。
 わたくしやまる蔵のような素人には全く分からないが、演奏者本人は弾きながら、自分のミスタッチや納得のいかぬ音運びに気づいていくものらしい。曲の進行とともにそれらがいくつか蓄積され、頭の中と鍵盤を叩き続けている身体とが乖離し始め、おちひは
 「ああ!曲頭からやり直したい!もうやだ!ここから逃げたい!」
という衝動にかられたらしい。演奏の手を止めようとした、まさにそのとき。
 
 背後に感じる、何かの気配。
 背中に触れる、温かくも確かな感触。
 背中をそっと押す、優しい力。
 そして、体内を巡った、新たに覚醒するような不思議な感覚……
 世界の動きが止まったかのような時間感覚であったが、現実には、一瞬のことであった。

 おちひは難曲を最後まで弾き終えた。

 審査員の教授連中に一礼し、舞台袖へと退きながら、おちひは、自分が中学生の時に亡くなり、自分のことをとても可愛がってくれていた、父方の叔母君のことを思い出していた。そして、
 「叔母さん、ありがとう。」
と、自然に言葉が出たという。

 その父方の叔母君に関しては、過去にも不思議なことがあったらしい。
 その叔母君は病気がもとで入院し、危篤状態となり、そのまま病院で亡くなった。
 亡くなったのとほぼ同時刻に、就寝中のおちひはふと目を覚ました。何かに、誰かに、左肩をやさしく叩かれたのだという。何だろうと思いながらも、不思議と嫌な気持ちはせず、また眠りについた。
 翌日、叔母君が旅立ったことを知らされた。亡くなったのは、おちひがふと目を覚まして時計を確認した、あの時刻だった。
 「ああ、そういうことか。最期に来てくれたんだ。叔母さん、今までありがとう。どうか安らかに。」
と、叔母君がいる北の方角へ手を合わせたのである。
 
 こういった話は人間界ではよく聞くものであろう。もちろん確証があるわけではなく、錯覚かもしれぬ。ただ、おちひはそう信じているのである。
 この一件以来、彼女は、叔母君がいつも自分を見てくれていると思うようになったのだった。

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