第2話 歌う女と揺れる男

文字数 1,650文字

 二人が越してきてしばらくした頃、わたくしはあることに気づいた。二人の家から、何やら唸っている人間の声がちょくちょく聞こえてくるのである。その声色は女のもの。どうやらおちひが発しているらしい。
 
 ある日、わたくしは庭の大岩によじ登り、こっそり家屋の中を窺った。
 
 おちひが一人、箒で部屋を掃除していた。掃きながら、何やら唸っている。よく聞くと、節がついているように聞こえる。どうやら歌っているようだ。
 さらに聞く。歌っている歌は、よく分からん。おそらくおちひ自作のものだろう。
 後から知ったが、これは特別なことではない。おちひにとっては自然発生的なことであり、しごく当たり前のことなのである。
 
 ピアノの修練の一環として、おちひは「歌う」ことにも取り組んでいる。しかしこの場合の「歌う」は、発声や音感を磨くための、いわゆるアカデミックなものである。
 わたくしがここで記そうとしているのは、そういう意味での「歌う」ではない。
 
 内偵の結果わかったことであるが、単調なことや退屈が続くと、おちひの脳は音楽を奏で始めるらしい。外界には聞こえない、おちひの頭の中だけで鳴る音楽。まるで頭の中で蓄音機が音源を再生しているかのように、はっきりくっきりと曲は流れるという。それはいわゆるクラシック音楽であったり、童謡であったり、コマーシャルソングであったり、「いつかどこかで聞いたことがある曲」という括りの中、多種多様・雑多な選曲が勝手になされるという。
 何の脈絡もなく、突然に音楽が脳内で再生されるとおちひは言うが、その感覚は、わたくしにはさっぱり理解できぬものである。
 さらにおちひは、その「能力」は誰にでも当たり前にあるものだと思い込んでいたというから、わたくしは思わず「にゃあ!」と驚きの声を上げてしまった。
 傍らに座っているまる蔵にも、もちろんそんな「能力」はない。そもそもこの男は、人前で歌うということもしないのであった。

 わたくしの所見によると、おちひが歌っているときは、そういった具合で脳内で勝手に流れ出した曲を、そのままなぞっていることが多い。
 一方で、「突発的・即興的」に新たな自己流の曲が出来上がり、口をついて出ることもまた、非常に多いのである。メロディだけのときもあれば、詩がついているときもある。
 それらは一度限りのいわば「瞬間芸術」であり、再生・復唱は二度と叶わぬ。
 音として生み出され、宙を漂い、やがて消えていく。実に儚い曲であり、歌である。
 おちひはそんなふうにして、これまでどのくらいの歌を生み出してきたのだろうか。わたくしには想像もできぬ。

 ある日、おちひが歌っていた。
 その日の曲は自作曲ではなく、人間界では様々な場面で流れるというパッヘルベルの「カノン」であった。わたくしもこの曲は知っており、どちらかといえば好みの曲である。
 おちひには音感があるゆえ、歌っていて音を外すということがない。さらに、とても耳障りの良い声をしておる。よってわたくしも安心して聞いていられるのである。野良稼業のささくれを癒すべく、庭の大岩の上に寝そべり、おちひを見ながら恍惚として聴いていたのであった。

 そのときである。

 歌うおちひの背後で、何やら動き出した物体があった。

 まる蔵である。

 この男、今の今まで座して書物を読んでおったものの、台所に行って戻ってきたと思ったら、何やら体を動かし始めたのである。左右にゆらりゆらりと身体が振れたかと思うと、前後・上下にも不規則に伸びたり縮んだりしながら、なおも全身を駆使して揺れている。いわゆる舞踊でもなければ、亜細亜の太〇拳のような健康体操でもない。ひたすら怪しく動き続けている。何かに憑依されたのか、あるいはついに「別の世界の住人」になってしまったのか……

 気配を察したのか、おちひは振り返った。不思議に思い、歌うのを止め、
 「どうしたの?何かの体操?」
と、自分に背を向けて揺れていた男に尋ねた。

 まる蔵は振り向かずに言った。
 
 「指揮。」

 と……
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