第二章・第三話 その夜の契り
文字数 7,567文字
総触れのあと、改めて大奥へ来た
「……お医師でもないのに、何でそんなこと分かるのよ」
何の感慨もなく納得している彼に、どこか面白くないものを感じて和宮は唇を尖らせる。
すると、家茂はその切れ長の目元の中にある黒曜石を、ツイと和宮のほうへ動かした。
「ある意味、予想通りだったってだけだよ。ワライタケに代表される幻覚キノコって種類は、食中毒は起こすけど身体にまったく害はないらしいから。まあ、患者の年齢や食べた量にもよるけどな」
「……一晩中傍に付いててくれるくらい心配してたクセに?」
からかい半分に問うと、家茂は一瞬顔を強張らせ、「うるせぇ」とだけ返しながら目を逸らした。
「症状からそう予測しただけで、医者の診断も要領得ないってなりゃ、心配するなってほうが無理だろ」
「……何がおかしい」
「別に?」
と言いつつ、答えとは裏腹にクスクスと笑い続ける和宮に、家茂はすっかりお冠の様子だ。
しかし、「それはそうと」と吐息混じりに言って話題を転じた。
「問題はこれからだな。お前が快復したからって、放っとくわけにいかねぇ」
「あんたを狙ったつもりが、たまたまあたしの膳に毒キノコが入ったとかじゃないの?」
元々、
「俺を狙うなら最初から致死毒を使うだろうさ。それも、ただの幻覚キノコなんて生易しいモノじゃなく、砒素とかトリカブトとかな」
「……あっさり怖いこと言うわね」
「あっさり言おうが重々しく言おうが、内容は変わらないだろ」
ふん、と鼻先で笑って、家茂は和宮が手ずから用意したお茶に口を付ける。
普段、いくら御風違いで衝突していても、将軍に茶を用意するのは女官の役目だ。だが、熾仁と邦子が接触しているかが分からない以上、今は自分以外は誰も信用できなかった。
「とにかく、その辺はこれからすぐ調べる」
「あたしにも何か手伝わせてよ」
すると、家茂は何かを誤魔化すようにまた一つ湯呑みを傾け、沈黙する。
「……何よ。ぶっ倒れたのはあたしなのよ? 自分の身の安全を守ろうってのが悪いの?」
しかし、彼は珍しく伏せた瞼の下で、尚も黒曜石を左右にウロウロさせた。そして、言い辛そうに口を開く。
「……いや」
「じゃあ、何よ」
「言ったろ。俺は俺の暗殺計画の話してた奴は知ってるって」
「それが何……」
言い掛けて、ハタと思い至る。
今この時、『将軍を殺す』なんて大それたことを言っていたのは、和宮の知る限り、たった一人だ。
「……あたしと熾仁兄様が……八日前に会った時の……会話の内容、知ってる?」
「……悪い」
「……盗み聞きでもしてたってこと?」
何でそんなことするのよ! と続け掛けるが、それを空気と一緒に呑み込む。
家茂は、仮にも将軍だ。飾り人形だなんて本人は言っているが、彼の気性で、いつまでも
いずれ必ず、自分の手に将軍としての権利を取り戻すだろう。その準備をしていないはずもない。
江戸城内から掌握する備えを始めているとすれば、細かな情報収集は必要だろう。その一環だと思えば、納得はできた。
(……気分がいいとは言えないけど)
それでも、一方的に責め立てることは、今の和宮にはできなかった。それは、合理的判断でも何でもなく、単純に『惚れた弱み』でしかないのだが。
「……ごめん」
他方、こちらの沈黙が長過ぎた所為か、家茂が謝罪を重ねる。ばつが悪そうに目を逸らしたままの表情は、まるで悪いことをして主人の叱責を受けた仔犬のようにしおれている。
それでいて、言い訳一つしないその潔さには、「もういいよ」と答えるしかない。
「だけど、それとこれとは話が別よ。何であたしが手伝っちゃダメなの? あたしは皇女よ。いざとなったらお兄様の力だって借りられるわ。皇室の影響力、ナメてる?」
「……いや」
「じゃあ、ちゃんと説明して」
美貌が益々難しげに歪む。だが、瞬時目を閉じた家茂は、やがて腹を決めたように、湯呑みを受け皿に置いた。
「……お前を巻き込みたくないし、傷付けたくないんだ」
「悪いけど、遅いわよ。今、どこが巻き込まれてない状況なわけ? ぶっ倒れた時点で物理的に傷付きもしたと思うし、そもそもあたし、あんたの妻よ? 伴侶になった時点でとっくに巻き込まれてんですけど」
「……そうだな」
クスリ、と家茂の唇から自嘲的な笑いがこぼれる。その頬にも、同じ微苦笑が刻まれた。
「……でも、そういう意味じゃなくて」
「じゃ、どういう意味よ」
「お前、馴染んだ人間を疑えるか?」
「えっ?」
問われた意味が分からなくて、和宮は目を
「こいつは俺の手の者の報告だけどな。桃の井はあれから
「……それは……」
膝に置いた手を、無意識に握り締める。
まさか邦子が、という思いは確かにある。ただあの日、熾仁と約二年振りに会って、邦子も交えて話をしたあの日から、邦子や熾仁の考え方との間に、温度差を感じているのも確かだ。
攘夷の為なら将軍を殺すのも当然であり仕方ないと、熾仁が平然と言い放ったあの時、正直付いて行けないものを覚えた。やはり、そんな一面を隠した
その考えに、邦子がやはり当たり前のように頷き、ただでさえ現実的でない熾仁との復縁話を喜んでいたことにも、理解が追い付かない。
あの日から、本当に二人は自分の知る二人なのだろうか、とずっと考え続けている。
(……いいえ、違う)
和宮は、胸元に手を当てた。
恐らく、変わったのは自分のほうだ。知らず、家茂に惹かれて行く内に、何かが少しずつ変化した。
攘夷や外国人への考え方も、武家への見方も。
他方、熾仁はずっと京にいたから言うまでもないとして、邦子は大奥にありながらも未だ
もっとも、彼女自身にその自覚はないだろうけれど。
(……でも……まさか、邦姉様が?)
いくら今、彼女を信用できなくても、彼女が和宮に危害を加えるなんて思いたくない。仮に、『症状が一晩で収まる幻覚キノコだから』と誰かに
それを熾仁が指示したとも――。
思考に沈む内に、俯いていた視界にふと、家茂の手が映る。その手が、和宮のそれを取ったので、和宮は惰性で顔を上げた。
「……悪い」
真摯な顔で、和宮を覗き込む家茂と視線が絡む。
「お前を悩ませるのは分かってた。だから、言いたくなかったんだ」
「……家茂……邦姉様が……何か、したと思う? 熾仁兄様が……」
情けない話だが、きっと今の自分は、泣き出す寸前の顔をしていたのだろう。
痛みを覚えたように顔を歪めた家茂は、和宮を引き寄せ、優しく抱き締めた。
「……まだ、何とも言えない」
「……だよね、ごめん」
現実から逃れようとするように、和宮は家茂の胸に顔を埋めた。髪を梳かれる感触が心地好くて、目を伏せる。
「……だから、お前は何もしなくてもいいんだぞ」
しばらくののち、耳元に柔らかな声音が落ちる。
家茂は、やはり強制するようなことは言わない。『何もするな』ではなく、『しなくてもいい』――つまり、現実を直視するのが辛ければ、調査に関わらなくてもいい、彼に任せて逃げてもいい、という家茂一流の気遣いだ。
けれども、和宮は首を横に振った。
(……もう何も……一人で背負わせないから)
彼の背に回した手で、強くしがみつく。
(守られるだけでいたくない)
皇女だからこその自分にできることが、何かあるはずだ。
だから。
「……大丈夫」
決然と顔を上げると、家茂は少し驚いたように瞠目した。けれどやがて、仕方がないと言いたげな微苦笑が、その美貌に広がる。
「……分かったよ」
答えたその声音は、かなり不承不承という色を含んでいた。
***
聞き取り調査はその日の内に済んだ。が、早い話が何も出ては来なかった。
家茂から滝山に協力を仰ぎ(この時の彼の顔と言ったら、苦虫を何匹も噛み潰していそうな印象だった)、昨日の夕餉の毒味役、厨房係、支度に関わった女中たち全員を、家茂自ら尋問し、和宮もその場に立ち会ったが、怪しい証言は得られなかったのである。
「……あとは、外から出入りする食べ物売りとかその辺しか残ってねぇかー……」
和宮が書き取った調書の束を、
和宮の使っている居室、
「ほかに何か手懸かりないの?」
「あとは、
崇哉、というのが誰かが分からなかったが、多分家茂が信用する者の名だろう。ほとんど無意識の内にそう断じた和宮は、そのことには敢えて触れなかった。
「じゃ、やっぱり鍵は」
「ああ。桃の井と有栖川宮しかいない。もっとも、二人がお前に危害を加えるってのも考え
「だとしても、狙いは結局何なんだろ……」
和宮も、拳を口元へ当てて考え込む。
すると、その手首を家茂のそれが不意に掴んだ。
「……何?」
眉根を寄せて問うた言葉への答えは、口づけだった。軽く啄むように押し当てられた唇は、一瞬で離される。
「……い、いきなり何なのよ」
「糖分不足で頭回んねぇから、糖分補給」
「い、いつも金平糖とか氷砂糖とか持ち歩いてるじゃない!」
なるべく大声にならないように文句を言う間にも、家茂は和宮の掌にも口づけている。
「実際に身体ん中入れちまうと、摂り過ぎだって時々医者に怒られるからな。その点、お前なら甘いし、身体にも悪くない」
「……ひ、
「人聞き悪いな。甘味より大事だと思ってるつもりだけど?」
くれた流し目がひどく
目の前にある案件が、どうだってよくなってくるのだから、始末が悪い。
「……ひどい、反則」
空いた片手へ顔を突っ伏すと、「何がだよ」と本気で何も分かっていない声が返ってくる。
「……何でもない。それより、中奥に戻んなくていいの?」
じき、就寝の刻限だ。ふと、それに思い至り、手へ顔を伏せたまま、モソモソと問う。すると、「今日から泊まり込むから平気」という回答がまたしてもあっさり返された。
「と、泊まり込むって」
びっくりして、和宮は反射で伏せていた顔を上げる。
「だ、だって何か色々手続きとかあるんじゃないの?」
それに、将軍が奥泊まりするということは、正室である
しかし、家茂はその辺は考えていないのか、「前もって言っといたから今回は大丈夫だよ」とあっけらかんと言った。
「それに、まだ誰が犯人か分からないトコに、お前一人置いとけないだろ? お前を中奥に呼べるんなら別だけど」
さすがにそこまでのごり押しは、いくら将軍でも難しいらしい。そもそも、一応『将軍』ということで表向き立てられてはいても、今はまだ実権もないに等しいお飾り将軍なのだ。
「う、うん……」
けれども、その辺は今の和宮にはどうでもよかった。
空いた手の甲で、再度顔を半分隠す。頬に上った熱が、中々去らない。
(……何でコイツ、素でこんな殺し文句が次々言えるのよ)
服毒なんてしなくても、心臓が止まりそうだ。
同時に、今が夜だったことに感謝する。明るい日中だったら、赤面しているのがバレバレだろう。
しかし、真顔になった家茂は、不意に顔を隠しているほうの手も取り上げた。
「い、家茂?」
「……悪い。今日は我慢するつもりだったんだけど」
「な、何を」
家茂は、片手で和宮の両手首を纏めると、文机を横へ押しやる。
「そんな顔されたらな。も、限界」
「って、どんな顔よ!?」
「さあね。鏡で確認してみれば?」
と言いつつ、確認の猶予を与えるつもりも、家茂にはなかったらしい。
彼は、和宮の後頭部に手を回して引き寄せる。最初から深く口づけながら、和宮の袴の結い紐に手を掛けた。
***
長い――長くて、短い夜だったような気がする。
矛盾しているけれど、そうとしか表現できない。気付けば周囲は明るくなり始めており、腕の中には和宮の寝顔があった。
(……ちょっと……無理、させ過ぎたかな……)
彼女の頬に手を這わせながら、軽い自己嫌悪に陥る。
自分は経験があったが、彼女は多分正真正銘、男に抱かれるなんて初めてのことだったろう。けれど、嫉妬も手伝い、途中からしっかり加減を忘れていた。
いくら何でも、婚儀の前に熾仁が彼女に手を出したとは考え辛い。しかし、唇くらいは合わせたかも知れない、と思うとそんな記憶は消し去りたいとばかり、夢中で貪ってしまった。
覚えず、溜息が漏れる。自分がまさか、こんなに独占欲が強い節操なしだとは思わなかった。
第一、気持ちを確認し合ってまだ一日も経っていない内にこんなことになるなんて、という思いもある。
(……っても、本当なら婚儀の夜にはこうなってるはずだったしなー……)
小さく寝息を立てる和宮の緋色の髪を、指先で
貴人の家に生まれた以上、政略結婚は避けられないものだ。初めて会った相手とその日の内に、好むと好まざるとに関わらず、同衾だってしなくてはならない。
好きだと確認できてから、などという悠長なことは、本来なら許されない。それが、自分たちの場合はまず婚儀に漕ぎ着けるまでがかなりごたついたから、こんな状態もある程度は仕方がないと許容されてきた面もあるだろう。
やっと、名実共に夫婦になったからと言って、後ろ指を指される謂われもない。
しかし、それはそれとして、家茂個人としては、やはりある種の罪悪感が拭えなかった。何だか、一方的に襲ってしまったような気さえしている。
もう一つ、そっと吐息を漏らしたところで、和宮の眉がむずかるように寄せられた。それから長い睫毛がピクリと震える。
すぐに目が開くかと思ったが、そうでもない。
往生際悪く幾度か寝返りを打った彼女が目を開けるまで、しばらく掛かった。どうも、寝起きの悪い類型のようだ。
だが、目を上げれば自然、家茂と目線が合う。
「……よお」
どう声を掛けていいか分からず、結局当たり障りなく出した声は、やや掠れていた。
言うべきことが分からなかったのは、和宮も同じだったらしい。見る見る内に頬を染めて、身体に申し訳程度に掛けられていた着物を口元までずり上げた。
そして、伏せた目の下で黒目がちの瞳をウロウロさせた末に、コロリと背を向けてしまう。
その拍子に、サラリと緋の絹糸が滑り、露わになった白い肩を見た途端、家茂の身体は勝手に動いた。
「ひゃっ!」
自然、後ろから抱え込むようにしながら肩先に唇を押し当てると、頓狂な悲鳴が上がった。
「なっ、……な、何すんのよ朝っぱらから!」
声量を下げながら言った和宮が、勢いよくこちらを向く。
その機を逃さず、家茂は彼女の顔の側面にあった髪を捕まえて、額を彼女のそれに押し付けた。
「……やっとまともに口利いてくれた」
「あっ……」
しかし、間近で目が合うや、和宮はまたもどうにか視線を逸らそうとする。
だが、家茂のほうはそれを許すつもりは更々ない。掴んだ髪を痛くない程度に引っ張って仰向かせると、彼女の唇を自分のそれて啄むように塞いだ。
ん、と甘い声が反射で上がるのを聞けば、もう一度抱きたい気分に駆られるけれど、どうにか理性を総動員して欲をねじ伏せる。
「……そろそろ起きる?」
「……う、ん」
またしても伏せた瞼の下で視線を右往左往させている妻の額に、軽く口づけして家茂は起き上がった。
見苦しくない程度に身支度する間、彼女はなぜか恨めしげにこちらを見上げている。
「何だよ」
「……何だよ、じゃないでしょ。何であんたはフツーに動けるわけ?」
そりゃあ経験と体力の差だろう、なんて口が裂けても言えない。さあな、と適当に
「お前こそ、起きるんじゃなかったのか?」
「……誰かサンの所為でダルいし腰が痛い」
「……すいません」
そこは全面的に自分に非があったので、素直に謝罪すると、なぜか両手が差し伸べられた。
「……何をして欲しいわけ」
「察しなさいよ」
普通に考えれば『起こせ』だろうか。
呆れて目を細めながら、彼女の白い腕を取って肩を抱き寄せた。
「なあ、お前さ」
「何よ」
「もしかして、俺をオトコだと思ってないだろ」
中性的な顔らしいという自覚はある分、洒落にならない質問だと自分でも思う。だが、和宮はまだ寝ぼけているのも手伝っているのか、訝しげに眉根を寄せた。
「何でよ」
「だって、ちょっと冷静に考えてみろよ。そんな格好でオトコに抱き起こしてもらったら、もう一戦させられるかもとか思わないわけ」
すっぽりと家茂の腕の中に抱き込まれた彼女は硬直する。
ぎぎぎ、と擬音がしそうなぎこちなさで、彼女の黒目がちの瞳が家茂に向けられた。その顔はやはり真っ赤だ。
次いで、素早く家茂の手を振り払った彼女は、足にまだ掛かっていた着物を胸元へ掻き集める。
「きっ、き、昨日散々……!」
「うん、分かってる。ホント申し訳なかった」
思わず両手を挙げて、降参の意を示した。涙目で睨まれたら、益々再度押し倒したくなる。その衝動を苦労して無視しながら、彼女が抱え込んだ着物以外のそれを着せ掛けてやった。
©️神蔵 眞吹2024.