第三章・第二話 深まる想愛

文字数 8,665文字

 自分がいいと言うまで決して部屋に入るな――そう言い置いた夫は、公式の対面場である白書院(しろしょいん)へ入室した。
 白書院の奥――上段の更に奥まった場所にある書院と呼ばれる座敷飾りの障子戸を細く開けて、和宮(かずのみや)は中の会話に聞き耳を立てていた。
 客分の分際でありながら、熾仁(たるひと)家茂(いえもち)に、(しも)へ座るように促しているのが聞こえる。
 いや、熾仁の身分なら、やはり家茂のほうが下になるから、当然と言えば当然だ。婚儀の時も、和宮が上位の並びだったのだから、別段責められる謂われもない。けれど、なぜだか無性に腹が立った。
 そして、勅使として来たのにも関わらず、いきなり和宮が倒れた話に入った熾仁に、益々穏やかならぬものを感じた。
 一見、筋の通った言い分に聞こえたが、強引過ぎる。どうしても、この婚姻の破棄と、家茂の処刑をしなければ気が済まない、と聞こえたのは、これより前に熾仁と個人的に話をした先入観があるからだろうか。
 どちらにせよ、もう自分は熾仁の元へは戻れない。駆け落ち未遂の日に、彼に対する恋慕の情は、完全に溶けて消えてしまった。
 それに、滝山にはああ言ったが、今の日本の情勢で攘夷などできようはずもないことは、今は和宮にも分かっている。
 けれども、公武合体の目的が、あくまでも幕府と朝廷が手を取り合って対外困難に立ち向かうという意味ならば、婚姻の意味も夫婦でいる意味も、まったくないわけではない。
 そんなことを取り留めなく考えつつ、ハラハラしながらも、和宮は家茂の理路整然と述べられる反論に聞き入っていた。
(……皇女(あたし)の助けなんて、必要なかったか)
 元々、家茂が頭の回転の速い聡明な少年だということは、付き合っていく内に悟っていた。が、それでも『幕府』を背負った『将軍』として勅使と対するなら、どうにもならなくなる時があるかも知れない。
 だから、いざとなったら、家茂が呼ばなくても割り込もうと思っていたが、大丈夫だろう。そう思った矢先、熾仁の口から爆弾発言が飛び出した。
「されど、私が言わなければ、朝廷にも(しら)せぬつもりであったのでしょう。朝廷に内密にしておきたかったということは、宮様を亡き者にしようとしていた何よりの(あかし)。必ずや主上(おかみ)にお知らせし、相応の処分を下していただくゆえ、お覚悟を」
 論議が堂々巡りを起こし始めている。そもそも、なぜ家茂が仕掛けたわけでもない殺人未遂事件で、彼が処分されなくてはならないのか。
(もう無理、我慢できない)
 一瞬、唇を噛み締めると、和宮は出入り口へ敢然と歩を進めた。
「聞き捨てなりませぬ!」
 襖を()け放つなり、言葉を落とす。
 それまでその場にいなかった者の声がした為か、室内の男たちの視線が、一斉に和宮に集中した。
 しかし、和宮は構わず、(うちぎ)の裾を捌いて熾仁の左側へ歩み、腰を下ろす。
「熾仁様の言い分は、最初から矛盾しております」
 ジロリと睨み上げるように熾仁を見据えると、熾仁はその睨みに呑まれたような顔をした。
「……どういう、意味でしょう」
「最初、熾仁様は『わたくしが倒れたと聞いた』と(おお)せでしたね」
「……ええ」
「それがどうして、一瞬にして『わたくしが(はかりごと)で亡き者にされ掛けた』ことになったのです。わたくしの倒れた原因をもご存知だったということでは?」
「あっ!」
 と叫んだのが誰だったのか。
 同時に、今度こそ熾仁の顔からも血の気が引く。
「わたくしが倒れた、と聞けば、先に原因を(ただ)すのが当然では? もしかしたら、ただの軽い風邪やも知れぬものが、何故(なにゆえ)亡き者にされ掛けた陰謀になるのです」
「……それは……」
「それは? それは、何です」
「いえ、あの……攘夷ができぬから宮様を亡き者にせんと(はか)ってもおかしくないと……」
「思い込みだったらいかがするのです。いくら皇室や公家(くげ)が、武家より身分的に上でも、証拠もなく疑えば、(れっき)とした侮辱。コトが平民同士の(あいだ)で起きたそれでも同じでしょう。ましてや、身分的に目上の者が目下の者に何をしてもいいという謂われはありませぬ。寧ろ、目上の者こそ下位の者の手本となるが(つと)め」
「それは……ですが」
 熾仁は完全におたついて、ただ和宮を宥めようとしているように見える。けれど、和宮はそれに構わず畳み掛けた。
「もう一度伺います。何故(なにゆえ)、わたくしが倒れた原因が、暗殺未遂とお思いに?」
「いえ……ですから」
「もし、本当にわたくしの倒れた理由が暗殺未遂によるものだとしたら、現状それを知っているのは、(はかりごと)を企んだ犯人だけと存じますが」
 もう熾仁には、家茂以下、ここに居並ぶ勅使も老中も見えていないようだった。ただ、困ったように眉尻を下げ、両肩に手を触れる。
「宮……そうじゃないんだよ、私はただ」
「お控えに」
 和宮は、熾仁の片手をピシャリと払い除けた。
「ここは江戸城内・白書院の()。つまり、公式の対面の場です。私的な場ではなく、かつての婚約者同士の逢瀬の場でもない。いいえ、もとよりわたくしはもう、徳川十四代将軍・家茂様の妻です。気安く触れないでください」
 スッと立ち上がると、和宮は家茂の傍へ移動し、改めて腰を下ろす。それを見た、服装からして公家の人間と分かる男が瞠目した。
 だが、それには構わず、和宮は熾仁をヒタと見据える。
「第一、見ての通りわたくしは快復しております。殊更騒ぎ立ててコトを大きくすることは望みませぬ」
「しかし」
「確かに、今は攘夷ができぬかも知れませぬ。しかし、家茂様も若い。わたくしもです。攘夷は『すればよい』という話であって、いつまでにという期限までは約束していなかったはず。主上とて、わたくしと十五しか違いませぬ。老い先短いというわけではありません。長い目で見ていただくことが、何故(なにゆえ)できぬのです」
 言いながら、和宮は公家風の男にも視線をくれた。
 彼は、和宮と目が合うと、ばつが悪そうに逸らしてしまう。
 その男を瞬時、()め付けるように見てから、和宮は熾仁へ視線を戻した。
「熾仁様。今一度、家茂様が申されたことを伺います。あなたは、わたくしが倒れたという話を、どこで誰よりお聞きになりましたか?」
 もう、熾仁も無言になった。こんな展開になると思っていなかったのだろう。
 言い返す言葉も見つからないらしい。
 和宮は溜息を()いた。立ち上がり、再び熾仁の元へ歩み寄る。うなだれている彼の前へ膝を突くと、彼にしか聞こえない程度の声で耳元へ囁いた。
「……もう、こんなことしないで」
 途端、熾仁は見開いた目で和宮へ向き直る。
「あたしの心はもう、あなたにない。だから、これ以上あたしに関わらないで」
 短くそれだけ言うと、和宮は腰を上げた。
「……では、心当たりの者に直接訊ねます。その者の口は必ず割らせますが、今回の件を(おおやけ)にするつもりはございません。繰り返しますが、わたくしはすでに快復しております。主上に余計なご心労を掛けるのも本意ではありませぬし、もとより大奥内で処理する予定でしたので」
 上段から、家茂以外の男たちを睥睨(へいげい)する。
「この場にいる全員に申し渡す。くれぐれも他言は無用に。それでよろしいですよね、上様」
 家茂に目を向けると、彼は無表情で顎を引いた。
 和宮は頷き返し、再度男たちに視線をくれる。
「特に、大原殿」
 名を呼ぶと、本人が「は」と言って(こうべ)を垂れる。
「そなたは朝廷へ戻っても、今日のことは口外無用です。確認する方法はいくらでもあるゆえ、そなたが余計なことを言ったとわたくしに伝わったら、主上には相応の処分をお願いします。意味はお分かりよね」
「……肝に、銘じます」
 渋い顔をしたものの、皇妹に逆らうつもりはなかったようだ。素直に応じ、更に頭を沈めた。
 それを見届けた和宮は、「では、わたくしはこれにてお(いとま)します」と言って軽く会釈する。
「女人の身で政の場に踏み込み、ご無礼をいたしました」
 最後に、やんわりと嫌味を付け加えて、きびすを返した。

***

「……宮様」
 お錠口(じょうぐち)までは入側(いりがわ)に待機していた小姓に送られ、自室へ戻ってきた和宮を、邦子が気遣わしげな表情で迎えた。
 和宮は、邦子を無表情で見上げる。
 輿入れするまで姉妹のように過ごし、理想の女性として憧れていた彼女に、今は不信と失望しか感じられないことが悲しい。
 ふ、と息を漏らして意識を切り替えると、和宮はほかの女官に人払いを命じ、邦子だけを伴って休息之間(きゅうそくのま)へと引き取った。
 上座へ座ると、邦子も向かいへ腰を下ろす。
 考えてみれば、彼女と向かい合って話すのが、ひどく久し振りのように思えた。
「……姉様」
「はい、宮様」
「これから訊ねることに、正直に答えて。あまり何度も訊き直したくないことなの。できれば一度で答えて」
「……何でしょう」
 もう大体察しは付いているだろうに、とぼけるところを見ると、答えは得られないかも知れない。
 しかし、熾仁に『必ず口を割らせる』と啖呵を切ってしまったし、その場には家茂もいた。もうこの件を、これ以上長引かせない為にも、今日の内に決着を付けたい。
 瞬時、目を伏せ、意を決して口を開く。
「先日、あたしが倒れた夜の夕餉に幻覚キノコを入れたのは……姉様ね?」
 質問ではなく、最早断定――分かっていることへの確認だ。
 邦子は、微かに唇を噛み締めた。迷うように伏せた瞼の下で、視線をさまよわせる。
「さっき、白書院で熾仁兄様とお会いしたわ。すべて、お話いただいたの」
「まことですか」
「ええ」
 半分は嘘だ。
 口振りからして、すべてを目論んだのは熾仁にほぼ間違いない。だが、彼自身の口からはっきりそうだと聞いたわけでもないし、証拠もなかった。
 すると、顔色から察したのだろう。
「まことではございませんね」
 断定と取れる口調で言った邦子の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「されば、わたくしから申し上げることはございません」
「姉様!」
「わたくしから何か聞き出したくば、決定的な証拠をお持ちに。それでは、わたくしはこれにて」
「姉様、待って!」
 さっさと腰を上げようとする邦子の袿の裾を、素早く捉えた。
「……聞いて、姉様。あたし、もう熾仁兄様の元に戻るつもりはないの」
 袿の裾を掴まれ、動きを止めていた邦子は、目を見開く。そして、浮かし掛けていた腰を、ノロノロと落とした。
「……それこそ、まことにございますか?」
「うん。だから、もし兄様に従って京に戻る支度でもさせているなら、中止して。あたしはもう、家茂の傍から離れるつもりはないから」
 邦子は、ただ唖然としていた。
 顔を(しか)めようにも顰められず、()いた口が塞がらないと言った風情で微かに首を横に振っている。
「あたしの心はもう、兄様にはないの。申し訳ないけど」
 それは、もう随分前――駆け落ち未遂のあったあの日に、熾仁への恋情は綺麗に消えていた。江戸行きを渋っていたのは、偏に降嫁推進派のやり口が気に入らなかったからだけにほかならない。
「……本当に……それが、本心なのでございますか?」
「うん」
「では、本当に……この城からお出にならなくてもよいと?」
「場所に拘ってるわけじゃないの。ただ、家茂の傍ならどこでも構わないわ。それこそ、雨漏りするような藁葺き屋根の家でもね」
「……まことに、ご本心で?」
「ええ」
 くどいほど確認したあと、邦子はやや長い溜息を吐いた。そして、眉根を寄せ、額に手を当てる。
「……それはつまり……十四代をお慕いしているとでも?」
「もうほかの男は考えられない」
 愛している、と口にするのは簡単だが、それを邦子に言うのは躊躇(ためら)われた。遠慮でも何でもなく、単純に勿体ない。
 家茂以外の人間にそれを告げるのは、言葉の無駄遣いだ。
「まだ、何か訊きたい?」
 はっきり言わなければ納得しないのなら、聞かせてやっても構わないが。という気持ちを込めて、和宮は邦子へ視線を向ける。
 邦子は、額に当てていた手を鈍い動作で膝へ戻すと、こちらの本気を見極めようとするように、穴が空くほど和宮の顔を見つめた。
 それが、どのくらいの(あいだ)だっただろうか。
「……ご本心なのですね」
 どう頑張って観察しても、虚勢も強がりも見当たらない。真実、家茂を愛しているのだと認めたのか、邦子は居住まいを正した。
「……申し訳ございません」
 手を突き、その頭が深々と下げられる。
 後ろで纏められた黒髪が、彼女の肩をサラリと滑った。
「それは、何に対する謝罪?」
「宮様のお心も察せられず……出過ぎた真似をいたしました」
「はっきり言って。三日前、あたしの夕餉に幻覚キノコを入れたのは、姉様なのね」
「……はい」
 思わず、拳を握り締める。
 そうだろう、とは思っていた。予想は付いていたし、正直に言って欲しいとも思っていた。
 けれども、いざ現実になると、衝撃が重たい。
「すべて話して。熾仁兄様の差し金なの?」
「……(おっしゃ)る通りです。一晩で毒は抜けるし、後遺症が残る量でもない。将軍が問責されれば、晴れて宮様は将軍との離縁が叶い、熾仁様の奥様に迎えられるから手伝いをしてくれと……わたくしも、それが宮様がお幸せになれる道と信じ、手をお貸ししました」
 はっ、と思わず投げるような吐息が漏れる。
 最初はそう――この場合、熾仁と一緒になることが望み――だったとしても、人の気持ちは変わるのだ。そうは思うが、和宮は邦子を頭から責める気にはなれなかった。
 和宮自身、幕閣に対する悪感情は決して変わるものかと思いながら嫁いで来たし、その頂点に君臨する家茂には心を許すものかと思っていたのだから。それが、幕閣に対する意趣返しだと思っていたし、幕閣の横暴には未だに憤ってもいる。
 けれども、今は幕閣と家茂はまったく別の者だと知っている。
「宮様。どうぞ、ご存分にご処分くださいませ。覚悟はできております」
 深々と頭を下げたまま言葉を継ぐ邦子に、和宮は「もう一つ答えて」と問いを重ねた。
「ほかに、荷担した者はいるの?」
「いいえ。わたくしが一人でやりました。ほかに協力を頼むと、秘密の厳守が難しくなるので」
「そう……分かったわ。あたしとしては特別姉様を罰するつもりはないの。ただ、真相が聞ければそれでいい」
「ですがっ……!」
 (はじ)かれたように顔を上げた邦子の視線を捉え、和宮は淡々と言う。
「どうしても姉様の気が済まないなら、頼みごとをするわ。それでいい?」
「しかし、それでは処罰とは……」
「だって、処罰って言ってもどうするの? 身分降格? それとも、京へ送還? どちらも簡単じゃないし、姉様が帰りたいから帰すのならそれこそ処罰じゃないでしょ? それに、姉様が京へ戻れば、何があったんだって絶対お兄様が訊くと思うし……」
 邦子は、またも瞠目する。何かを言おうとして口を閉じ掛ける動きを繰り返した末に、改めて頭を下げた。
「……分かりました。何なりとお申し付けを」
「ありがとう。まず、この件の収拾を頼みたいの」
「収拾……でございますか?」
 問いながら、邦子がそろそろと顔を元通り上げる。
「うん。姉様も知ってると思うけど、この件で女中たちには結局二回も取り調べを受けさせたわ。一方的に疑われてかなり不愉快な思いをしてるはずだから、姉様がやったと知れたら当然、滝山辺りから相応の処罰を求められると思うの。できればそれに応じたいけど、あたしは酌量の余地があるのを知ってるから、応じるとしても軽く済ませたい。かと言って、被害者であるあたしが不問に付したいって言ってるんだから、で済む相手じゃないし……」
「皇女の名の(もと)、ごり押しは……利かないでしょうか」
 言われて一瞬、そうしようかとも思った。けれど、即座にそれを打ち消す。
「……できればそれ、もうやりたくないの。つい今さっきやっといて矛盾してると自分でも思うけど……」
 立てた膝に肘を突いて、口元へ拳を当てる。
「それ、どういう意味か、訊いてもいいか」
 直後、それまでそこにいなかった人物の声が掛かり、同時に次の間の境の襖が開く。
「家茂……」
 邦子共々、慌てて立ち上がる。邦子は更に下座へ下がり、和宮は家茂に上座を譲った。
「座っていいのか?」
 家茂が、からかうように上座を示して問う。
「……当たり前でしょ、あんたが夫なんだから」
 唇を尖らせ、上目遣いに睨むように言うと、瞬時、目を丸くした家茂がニヤリと唇の端を持ち上げる。
 こういう笑い方をする時、彼は大抵碌なことを考えていない。案の定、軽く口づけられた。邦子の目があるにも関わらず、だ。
「……随分な意識改革だな」
「……うっさい、元はと言えばあんたが悪いのよ」
「はあ?」
 いきなり責められた家茂は、当然の如く眉根を盛大に寄せた。
「何で俺が悪いってことになるわけ」
「だって……! だって一度目の前で死なれそうになってみなさいよ!」
 口にすれば、出し抜けに涙が溢れる。
「結局は夢の中みたいなもんだったけど! だけど……っ、今すぐにあんたがいなくなるんだって思ったら怖かった! 気付いた気持ちも聞いてもらえずに会えなくなるって考えたらおかしくなりそうで……! あんたをこの世に繋ぎ止められるなら何もかもどうでもよかったの!!
 嗚咽に遮られて言えなくなる前にとまくし立てたあとは、止まらない涙に往生しながら掌に顔を伏せるしかなかった。
 あの時は、こちらが死にそうだった。怖くて、恐怖で死ねると思った。
 この先も家茂と一緒に生きられるなら、彼に出会う前のすべての出来事を無にしてもよかった。
 嫁いで来た理由も、皇女として、内親王としての誇りすら、何の意味もない。
(意地なんか張ったら、後悔しか残らない)
 あの幻影の中、和宮は本気で死ぬほど後悔した。
 あれが、幻覚の中で見た夢が、ごく近い未来でないとどうして言い切れるだろう。
 助かったからと言って、幻だったからと言って、また自分の気持ちに蓋をして過ごしたら、今度こそ取り返しの付かないことになる。
 あの夢を現実にするくらいなら、誇りも意地も見栄も、使命だって捨てられる。
 もとより、与えられた使命を果たそうと思える理由は、幕閣を困らせる以外にはない。自分を駒として売った朝廷の臣下たちの為に働くのも真っ平だ。
「……こっちのセリフだ」
 ややあって、不意に耳元へ掠れた声が落ちた。かと思えば、伏せていた顔を無理矢理仰向かされる。
 抗う()もなく口づけられた。
「ッ……!」
 けれど、まだ頭の隅にある邦子の存在が、辛うじて口づけに溺れそうになるのを押し留める。
「や、待って」
 唇が離れた瞬間、制止しようとした。けれど、
「目の前で死なれそうになったのが、お前だけだったとでも?」
 と、普段より低い声で言われて、ハッと目を見開く。
 間近で見た瞳は、苦しげに歪んでいた。
「その辺は俺のほうが重症だぞ。何せ、倒れた原因だってよく分からなかったんだからな。助かる保証があるかどうかも分からなくて、翌日お前がケロッと目ぇ覚ますまでがどんだけ長かったと思ってる?」
「あ……」
「うっかり眠ったら、その次に俺が気付いた時にはもう死んでるんじゃないかって……どんだけ怖かったかなんて、お前は知らないだろ」
 それも知らずに、ついからかったことが脳裏をよぎる。
「ごめ、」
 謝罪は、彼の唇で遮られた。
 長く深い、情熱的な口づけは、相手が確かに生きていることを互いに実感させる。
 そう思うと離れ難くて、彼の温もりを逃すまいとするように、彼の首にしがみついた。辿々しくも彼の口づけに応え始めた和宮の頭には、すでに邦子の存在はなかった。

***

「……皮肉だよな」
 ごく自然な流れで、肌を重ねたあとの余韻に浸っていると、家茂が和宮の髪の毛を(もてあそ)びながらポツリとこぼす。
「……何が?」
「だってさ。有栖川宮が今回のこと仕組まなきゃ、未だに俺たちはお互いの気持ちになんて気付かなかったんだ。色々しがらみあるからな。そっちに囚われて、素直になるきっかけだって下手すりゃ掴めないままだったかも知れねぇのに」
 言いながら、家茂は唇を和宮の額に押し付ける。
「……感謝しなきゃいけねぇかも、なんて、お前が元気になったから言えるけど」
「……ごめんね」
 和宮は、家茂の腰に手を回した。胸元に額を押し当ると、彼の鼓動を感じる。
「もう……邦姉様の処分は家茂に任せるから」
 その邦子は、いつの間にやら姿を消していた。人払いでもしてくれたのか、未だこの休息之間に誰かが踏み入ってくる気配もない。
「……いいのか」
 確認するところを見ると、邦子との話を聞いていたのだろう。ただ、どこから聞いていたのかは分からない。
 けれども、彼のほうが恐ろしい思いをしたのは確かだ。立場が逆なら、和宮だってきっと、彼が正気に返るまで気が気でなかったに違いない。だから。
「……うん。陥れられ掛けたのも家茂だし。いいようにして」
 彼の腰に回した手に力を込めて、胸元に頬を擦り寄せた。
「……大好き」
 何の脈絡もなく、無意識にそう口に乗せる。すると瞬時、家茂が言葉を失ったように沈黙した。
 そろそろと目線を上げると、真ん丸になった黒曜石と視線がぶつかる。
「……本当だよ?」
「……別に嘘だなんて思ってないけど、お前さ……」
「何よ」
 答えは、言葉ではなかった。代わりに軽く唇を奪われる。
「天然?」
「は? 何が」
「誘ってるようにしか思えねぇんだけど」
「さっ……!」
 (またた)()に、熱が頬に(のぼ)るのが自分でも分かる。
 誘ってなんかない! と返すより早く抱き締められ、今度は深く唇を塞がれた。

 そのまま再度、やや強引に抱かれたのは言うまでもない。

©️神蔵 眞吹2024.
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登場人物紹介

【和宮親子内親王《かずのみや ちかこ ないしんのう》(登場時、7歳)】


生年月日/弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)

性別/女

血液型/AB

身長/143センチ 体重/34キロ(将来的に身長/155センチ 体重/45キロ)


この物語の主人公。


丙午生まれの女児は夫を食い殺すと言う言い伝えの為、2歳の時に年替えの儀を行い、弘化2年12月21日(1846年1月19日)生まれとなる。

実年齢5歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約するが、幕閣と朝廷の思惑により、別れることになる。

納得できず、一度は熾仁と駆け落ちしようとするが……。

【徳川 家茂《とくがわ いえもち》(登場時、15歳)】

□幼名:菊千代《きくちよ》→慶福《よしとみ》


生年月日/弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)

性別/男

血液型/A

身長/150センチ 体重/40キロ(将来的には、身長/160センチ、体重/48キロ)


この物語のもう一人の主人公で、和宮の夫。


3歳で紀州藩主の座に就き、5歳で元服。

7歳の頃、乳母・浪江《なみえ》が檀家として縁のある善光寺の住職・広海上人の次女・柊和《ひな》(12)と知り合い、親しくなっていく。

12歳の時に、井伊 直弼《いい なおすけ》の大老就任により、十四代将軍に決まり、就任。この年、倫宮《みちのみや》則子《のりこ》女王(8)との縁談が持ち上がっていたが、解消。


13歳の時には柊和(18)も奥入りするが、翌年には和宮との縁談が持ち上がり、幕閣と大奥の上層部に邪魔と断じられた柊和(19)を失う。

その元凶と、一度は和宮に恨みを抱くが……。

【有栖川宮熾仁親王《ありすがわのみや たるひと しんのう》(登場時、18歳)】


生年月日/天保6年2月19日(1835年3月17日)

性別/男


5歳の和宮と、16歳の時に婚約。

和宮の亡き父の猶子となっている為、戸籍上は兄妹でもあるという不思議な関係。

和宮のことは、異性ではなく可愛い妹程度にしか思っていなかったが、公武合体策により和宮と別れる羽目になる。

本人としては、この時初めて彼女への愛を自覚したと思っているが……。

【土御門 邦子《つちみかど くにこ》(登場時、11歳)】


生年月日/天保13(1842)年10月12日

性別/女


和宮の侍女兼護衛。

陰陽師の家系である土御門家に生まれ、戦巫女として教育を受けた。

女だてらに武芸十八般どんと来い。

【天璋院《てんしょういん》/敬子《すみこ》(登場時、25歳)】

□名前の変転:一《かつ》→市《いち》→篤《あつ》→敬子


生年月日/天保6年12月19日(1836年2月5日)

性別/女


先代将軍・家定《いえさだ》の正室で、先代御台所《みだいどころ》。

戸籍上の、家茂の母。


17歳で、従兄である薩摩藩主・島津 斉彬《しまづ なりあきら》(44)の養女となる。この時、本姓と諱《いみな》は源 篤子《みなもとのあつこ》となる。

20歳の時、時の右大臣・近衛 忠煕《このえ ただひろ》の養女となり、名を藤原 敬子《ふじわらの すみこ》と改める。この年の11月、第13代将軍・家定の正室になるが、二年後、夫(享年34)に先立たれ、落飾して、天璋院を名乗っている。

生まれ育った環境による価値観の違いから、初対面時には和宮と対立するが……。

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