第一章・第一話 乙女の奮戦

文字数 8,594文字

「――ねぇ、お聞きにならしゃいました? ウチのお(ひい)さんの話」
「どんな話?」
「何でも、本当は丙午(ひのえうま)生まれなんですってね」

 嘉永(かえい)六年十二月二十一日〔一八五三年一月十九日〕。
 この日、毎年のように誕生日の宴が開かれ、招待客を見送ったあとのことだった。八歳になったばかりの和宮(かずのみや)は、邸の女房〔侍女〕の潜めた声に、思わず足を止めた。
「ウチのお姫さんって……和宮さんのこと?」
「決まっとるやおへんか。ウチにお姫さんはお一人しかあらしゃいませんでしょう」
 宮様、と小さな声で、侍女兼護衛を務める土御門(つちみかど)邦子(くにこ)が、その場を離れようと促す。しかし、和宮は手を挙げて邦子を制した。
 その間に、和宮と邦子がその場にいるのを知らないらしい女房たちの噂話は、次第に甲高い響きを帯びて行く。
「せやかて、宮さんのお生まれは乙巳(きのとみ)でっしゃろ?」
「年替えがあったんです。丙午生まれの女は、長じて夫を食い殺すて、恐ろしい言い伝えがあらしゃいますやろ? せやから、宮さんが二つにならしゃったみぎりに、年替えの儀ぃを執り(おこ)のうて、乙巳生まれて体裁を整え遊ばしたんや」
「ほなら、有栖川宮(ありすがわのみや)さんはご存じで?」
「そこですわ。万が一、丙午生まれや言うことが知れたら、宮さんは(れっき)とした皇妹であらしゃりながら、一生()かず後家いう憂き目に遭うかも分からしまへんよって、バレへん内にお婿様を確保しなさったんや」
「ほなら、ご存じやあれへんのか」
「そこまでは知らしまへん。けど、ご存じやなかったとしたら、知れた時が見物やと思わん?」
「まー、意地の悪い方や。何ぞ、宮さんに恨みでもありますのんか?」
「そういうわけではあれへんけど……ねぇ?」
 押し殺しても殺し切れない忍び笑いには、明らかに嘲笑の色が含まれている。
 和宮は、父・仁孝(にんこう)帝が亡くなってから、母が皇宮(こうぐう)の外で産んだ子だ。それゆえなのか、皇女と言っても、どこか軽んじられていると感じる時もある。
「宮様」
 潜めた声音で、再度邦子がその場を離れようと促す。
 邦子の手を握って、和宮はきびすを返した。

***

 翌日、和宮は縁側に腰掛けて、何をするでもなく、裸足のままの足をプラプラと揺らしていた。公家社会では、どんなに寒くても、帝の許可が下りないと足袋を履くことはできない。
 足の動きに従って、深紅の袴の裾が、ヒラヒラと揺れる。それをぼんやりと目で追っていると、不意に「和宮」と名を呼ばれた。同時に、コン、と頭に軽い衝撃を感じた。
 艶のある緋色の髪で覆われた頭に手をやり、目線を上げる。その先には、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の面長の輪郭の中で、切れ上がった目元が微笑していた。その鼻筋はまっすぐに通り、唇は穏やかに両端が上がっている。
「……熾仁兄様」
 熾仁とは、本当の兄妹ではない。とは言え、彼は和宮の亡き父・仁孝帝の猶子(ゆうし)となっている為、戸籍上は兄妹だ。
 しかし、和宮が六歳――実年齢五歳の頃、彼とは婚約の儀を結んだ。ゆえに、彼は将来の夫でもある。
 ただ、猶子云々は関係なく、出会った時から和宮は熾仁を『兄様』と呼んでいるし、実際熾仁は兄のように接してくれている。
「どうしたんだい? 今日は浮かない顔だね」
「……そういうわけじゃ」
「そういうわけだろう。ほら、可愛いほっぺが膨れてる」
 チョンと頬をつつかれ、和宮はますますお冠になった。
「宮?」
「どーせ、兄様だって知ってるんでしょ?」
「何を」
「あたしが、本当は丙午生まれだって。食い殺されるかも知れないのに、婚約までして……怖くないの?」
 唇を尖らせたまま、ボソボソと問う。
 バレたときが見物だ、などと、あんな風に扱き下ろされては、いい気分はしない。今の和宮には、熾仁に露見して嫌われるかもという恐怖より、彼女たちに気持ちのいい見物なんてさせるものか、という意地のようなものがあった。
 あのあと邦子に訊いたところ、和宮の本当の誕生日は、弘化(こうか)三年(うるう)五月十日〔一八四六年七月三日〕だという。従って、現在の本当の年は七歳だ。
 弘化三年は、干支(えと)に直すと丙午の年で、迷信好きな公家社会では『不吉』ということになるらしい。当然、母やその周囲の(ちか)しい人間はそれを恐れ、和宮が二歳になる頃、年替えの儀を行ったという。
 それによって、和宮の誕生日は、弘化二年十二月二十一日〔一八四六年一月十八日〕となり、今は毎年、内輪での誕生祝いの宴が開かれている。
 くだらない、と思った。たかが迷信でそんな――と。
 けれども、その『たかが迷信』は、大人たちには何より大事らしい。
(……熾仁兄様も、大事なのかな)
 将来の妻より、食い殺されるかも(・・)知れないという言い伝えのほうが大切だろうか。今頃になって、理由の分からない不安に襲われ、いつしか下げていた視線をまた熾仁へ向ける。
 しかし、隣に腰を下ろした彼は、変わらない笑みを浮かべていた。
「どうして?」
「え、だって……」
 当然のように聞き返され、和宮は戸惑った。
「だって……あたしが兄様を食べちゃうかも知れないって」
「誰が言ったんだい?」
「女房の……あまり顔は見掛けない人だったけど」
 すると、熾仁は苦笑のような吐息を漏らす。
「何だかんだ、彼女たちも暇なんだ。噂話と悪口言うことしかすることがない人たちだからね。許してやって」
 言いながら、彼は掌を、そっと和宮の頭に乗せた。
「今の和宮は、乙巳生まれだろう?」
「……うん」
「つまり、年替えの儀を行ったってことだ。だったら大丈夫。忌みごとはそれで解消されたはずだし、何より君はこんなにいい子じゃないか」
 ね? と柔らかい微笑と共に、熾仁が小首を傾げる。
 心底ホッとした和宮の顔にも、同じように笑みが浮かんだ。
 それを見計らったかのように、「宮様」と廊下のほうから声が掛かる。振り返ると、邦子がそこに立っていた。
 頭頂部で結い上げた髪は、漆黒の艶やかな滝のように背に流れている。ほっそりとした身体には、白い小袖と深紅の袴を纏い、その上から重ね着した(うちぎ)を羽織っていた。整った目鼻立ちと相俟って、四つしか違わないと思えないほど美しく大人びた邦子は憧れで、和宮は彼女を『姉様』と呼んで慕っている。
「これは、熾仁様もおいででしたか」
 邦子はキビキビと裾を捌き、片膝を立ててしゃがんで頭を下げた。
「やあ。邦子も久し振りだね。元気そうで何よりだよ」
(いた)み入ります」
「ところで、和宮」
「何?」
 不意に呼ばれて、和宮は邦子に向けていた視線を熾仁へ戻す。
「この前出した宿題は終わった?」
 彼は、婚約者であるばかりでなく、書と歌の師でもある。
「もちろん!」
 来て、と言って立ち上がると、和宮は熾仁の手を引いて、自室へと歩を進めた。

***

 カッカッカッ、と馬の蹄が地面を叩く音と、的に着矢する軽い音が混ざり合って、青い空に溶ける。一拍遅れて、集まった人々の中からも歓声が上がった。
 その中に紛れ、和宮も馬上の少女――十二歳で宮中行事である流鏑馬(やぶさめ)に出場している邦子に、拍手を送る。
(やっぱり、格好いいなぁ)
 まるで、恋する相手に対する台詞を脳裏で呟きながら、和宮は邦子に見惚れていた。
 陰陽師の一門・土御門家に産まれた邦子は、幼い頃からいわゆる戦巫女(いくさみこ)として、教育を受けていたらしい。女だてらに馬術・弓術のみならず、剣術や体術も相当な腕だという。
 和宮の侍女兼護衛として、橋本邸に召し抱えられたのも、それゆえだ。
「和宮」
 ほうっ、と感嘆の溜息を吐いた時、頭上から声が掛かる。和宮をここまで連れて来てくれた、熾仁だ。
 今日は彼にねだって、やや強引に付き添いを頼んだのだ(もっとも、付き添いを頼んだのは和宮の母・観行院(かんぎょういん)だが)。恋人同士のお出かけみたいじゃない? などと、和宮は浮かれていたが、熾仁の表情は最初から随分硬いような気がしている。
「もう帰ろう」
「ええー」
 しかし、せっかくいい気分でいたところに水を差され、たちまち熾仁の表情に対する懸念は、頭の隅へ追いやられた。和宮の唇は尖り、眉根にはしわが寄る。
 しかし、熾仁は和宮の機嫌に構わず、和宮の手を引いて人混みを抜け出た。
 人が疎らになる場所へ停めてあった牛車に向かって、足早に和宮を導く。すでに十九歳と大人の域に達している熾仁と、まだ八歳の和宮の歩幅には大きな差があり、和宮は熾仁に手を引かれている所為もあって、半ば小走りだ。
「あっ!」
 そして、ついに熾仁について行き切れずに、足をもつれさせた。転倒の拍子に、彼と手が離れる。
 熾仁は苛立ったような溜息を吐いて、和宮をやや乱暴に立たせた。
「宮様!」
 その時、背後から邦子の声がした。
「邦姉様」
 振り返って呼ぶと、彼女は駆け寄って、和宮の着物の埃を払ってくれる。
「お怪我はありませんか?」
「……う、ん……多分」
 倒れた衝撃で、まだ身体の前面がジンジンと悲鳴を上げている。どこかに擦り傷があったとしても、自分ではよく分からない。
「だからお屋敷でお待ちくださいと申し上げましたのに」
 困ったような顔で言いながら、邦子は熾仁へ視線を移した。
「申し訳ございません、熾仁様。ほかにご用がおありだったのでは?」
 すると、熾仁は一瞬ばつが悪そうな表情になる。が、それは刹那の瞬間のことで、彼はすぐさま、邦子に苦笑を向けた。
「……いや、別に。でも、仮にも先帝の皇女がこんな人混みにって思うとね」
「お気遣い、傷み入ります」
 邦子は、和宮の肩先に手を当てながら立ち上がり、頭を下げた。いつものように結い上げた漆黒の髪が、サラリと彼女の肩先を滑る。
「宮様。わたくしはまだ後片付けなどがありますゆえ、先に熾仁様とお戻りください」
 腰を屈めて和宮と目線を合わせて言った邦子は、次いで腰を伸ばし、熾仁を見上げる。
「熾仁様。お手数ですが、和宮様を橋本邸までお送りくださいますか」
「ああ、もちろん。来る時も一緒だったしね」
「それと、今し方のこともお伝えください。和宮様がお転び遊ばされたとそれだけお伝えくだされば、あとは乳母(めのと)殿がいいようになすってくださるでしょうから」
 邦子の頼みに、熾仁はまたも一瞬、どこか迷惑気な表情を浮かべた。しかし、それは錯覚かと思うほど一瞬のことだった。
「分かってるよ」
 そう返事をした時の熾仁は、もういつもの穏やかな顔だった。

***

 しかし、橋本邸へ戻った和宮は、結局自分で転んでしまったことを乳母の藤に伝えた。
 熾仁はと言えば、帰り道もずっと無言で、橋本家の家人に和宮を預けるや、さっさと帰ってしまった。
 転んだことを聞いた藤は、大急ぎで湯殿の用意を若い女房に命じ、湯の準備ができると和宮の衣服を脱がせた。袴の下にあった膝は、案の定、擦り剥いており、肘は打ち身になっていた。
 藤は、清潔な布で膝の擦り傷を丁寧に拭いてくれ、全身を清めたあと、打ち身になった肘に湿布をしてくれた。

「――姉様」
「はい?」
 その夜、布団に入ってから、いつものように寝付くまで傍に付いていてくれる邦子に、和宮はそっと話し掛けた。
「やっぱり、その……武術、教えてもらえない?」
 和宮は、以前から邦子に、武術を教えて欲しいと頼んでいた。宮中行事でことあるごとに彼女が見せる武術の立ち振る舞いに、初めて見た時から魅了されている。
 以前にも一度、弓術と馬術を教えて欲しいと頼んだが、『護衛なら自分がいるから大丈夫』だと断られてしまった。
 じっと縋るように彼女を見上げると、彼女はいつもと変わらない、柔らかな微笑で和宮を見つめた。
「宮様。以前にも申し上げましたが、宮様をお守りする為に、この邦子がいるのです。どうぞ、ご案じ召されますな」
(……そうじゃないんだけど……)
 案じているとかいないとか、邦子の腕を信じているとかいないとか、そういう問題ではない。ただ、憧れる彼女のようになりたかった。
 それに、今日は熾仁にまで迷惑を掛けてしまった。たかが一緒に歩くというだけで、実際に彼は迷惑そうな表情をしていた。
 公家や皇室の姫は今時、大体家の中に引き籠もっているのが常識だ。みだりに外を出歩いたり、ましてや馬に乗ったり走り回ったりは、はしたないとされている。
 けれど、それではだめだと、和宮は今日の出来事で痛感した。
 普通の公家の姫と同じことをしていては、熾仁の心を捉えることはできない。書や歌、華道や香道も、皇族の姫として(おろそ)かにはできないが、それだけではだめなのだ。
 今のままでは、熾仁は和宮を『妹』か、もしくはそれ以下の『足手纏いなお守りの対象』としてしか見てくれない。
 女として、将来の妻として見てもらう為にはどうすればいいか。幼いなりに考えた彼女が辿り着いたのが、邦子のように武術を身に着けるという結論だった。
 邦子は、同性の和宮から見ても魅力的なのだ。それで武術を習うというのも短絡的ではあるが、形から入る以外に今の和宮に思い付けることはない。
 しかし、普通に頼んだのでは、彼女は了承してくれそうにない、ということは理解できた。
 また日を改めるしかない。そう落胆と共に脳裏で呟き、目を閉じようとした直後。
「火事だ――――!」
 就寝時間の静寂を裂くような、けたたましい警告の声に、和宮の横へ手枕で横になっていた邦子は、機敏に起き上がった。
「宮様」
 邦子に、見苦しくない程度の身支度を手伝ってもらっていると、母・観行院が寝所へ藤と共に駆け込んで来た。
「何事です」
「御所が、皇宮が燃えているのえ」
 オロオロとした口調で言ったのは、母だ。
 母の言葉通りなら、ここへ火の粉が降り懸かるのも時間の問題だ。何しろ御所は、和宮の住居ともなっている母の実家・橋本邸の目と鼻の先にあるのだ。
「ひとまず、青蓮院(しょうれんいん)へ。藤様、観行院様を頼みます」
 邦子が手短に告げると、藤は小さく頷き、観行院を促した。

***

 御所から火が出てから約半月後、和宮たちはひとまず橋本邸へ戻った。
 幸い、と言っては何だが、御所は高い塀で囲われている。火は、その塀に遮られ、延焼を免れた。その為、塀の表の通路を挟んで筋向かいに位置していたにも関わらず、橋本邸は無傷だった。
 久方振りに戻る私室でようやく腰を落ち着けると、身支度を終えた邦子が茶菓を手に、和宮の私室へやって来た。
「どうぞ、宮様」
 小さな盆の上に載っているのは、お茶と金平糖だ。
「熾仁様から、火事見舞いだそうですわ」
「そう……」
 熾仁とは、あの流鏑馬の日から顔を合わせていない。火事の数日後でさえ、顔も見せなかった。
「……ねぇ、邦姉様」
「何でしょう」
「やっぱり、武術を教わりたいの」
 盆の上から顔を上げると、真ん丸になった邦子の目と視線がぶつかる。直後には、彼女はいつもこの話題を出すとこの表情、という困った微笑を浮かべた。
「……宮様。いつも同じ返事をするようでまことに恐縮でございますが……」
「半月前の、火事の時に思ったの。これからは、いくら皇女でも、姉様やほかの護衛の陰に隠れてちゃ、身を守れないんじゃないかって」
 あの夜、母や邦子、乳母の藤と共に、避難の為に外へ出た。塀を隔てた向こうにある御所は見えなかったが、塀から漏れ出た炎の明かりが、真昼のように辺りを照らし、火の粉が舞う(さま)は恐ろしくも美しかった。
 邦子に促されるまで、身体が動かなかったのは、恐怖からか、常ならぬ炎への畏怖からか。
「それにあの火事、放火だって噂もあるじゃない?」
「……ただの噂でございますよ」
 宥めるように言う邦子に、和宮は怯まずに言葉を継いだ。
「ただの噂で済めばいいけど、今日本中が騒がしいことくらい、あたしだって知ってる」
「どちらでお聞きに?」
「ウチには、噂と悪口しか仕事がない女房もいるから、その人たちから」
 半分は、邦子に言っても仕方がない嫌みだ。本当ならこういうことは、本人たちに言いたいのだが。
「攘夷とか開国とか、それを口実にバカ騒ぎする人とかが増えてるって言うじゃない? そんな人たちが、御所に火を着けたって不思議はないと思うわよ」
 それに、そういうバカに罪を着せる為に、内輪の人間が火を着けたのかも知れない――というところまでは、口にはしなかった。ここまで言ってしまうと、貸本屋から借りた、謎解き小説の読み過ぎを疑われてしまう(実際好きだし、それは邦子もよく知っているが)。
「そういう愚か者が、御所じゃなくて橋本邸に来ることだって考えられるじゃない。その時、万が一邦姉様も近くにいなかったら、誰があたしを守るの? あたし自身しかいないじゃない」
 邦子は、いつものように反論しようとしたらしく、口を開いた。だが、和宮の言ったことを考えているのか、言葉を吐息に乗せることなく、唇を閉じる。
 かなり逡巡したと思しき間ののち、とうとう邦子は、「分かりました」と溜息混じりに白旗を揚げた。
「まずは、体力作りからですね」
「……いいの?」
 もちろん、承諾を取り付けるつもりはあったが、邦子が本当に『応』の意を示してくれるとは思わなかった。恐る恐る確認すると、邦子は静かな目つきで、和宮を見つめる。
「但し、ご存じとは思いますが、武術は本来危険と隣り合わせのものです。生半可な気持ちでは、命に関わります。お教えするとなれば、わたくしも加減はいたしませんよ」
「ありがとう!」
 パッと顔を輝かせた和宮は、邦子に手を伸ばした。だが、すぐ前にあった盆の存在を忘れていた為、それを膝で盛大に蹴飛ばし、お茶と金平糖が無惨に床へぶち撒けられた。

***

 ――タン! という小気味よい音が、抜けるような青空に溶ける。
 音源は、中庭にしつらえられた的だ。そのど真ん中に、見事に矢が数本突き立っている光景は、初夏の新緑に染まる貴族邸の庭園にはひどく不釣り合いだ。まるで、現役武士の鍛錬場の有様である。
 直後、不意に拍手が庭先に響いて、和宮は振り返った。
 格好は、先帝の皇女には似つかわしくない、小袖と袴姿だ。その手には、弓が握られている。
 頭頂部に結い上げた長い緋色の髪が、彼女の挙動に合わせて艶やかに舞った。
「熾仁兄様!」
 意思の強そうな、(はしばみ)色のぱっちりとした瞳が、嬉しそうに輝く。その視線の先に、中庭に面した広縁に立っている青年の姿を認めたのだろう。愛らしく上を向いた鼻先の下で、ふっくらとした桜のつぼみのような唇が全開で笑った。
 花笑み、という言葉がぴったりの笑顔を連れて、和宮は彼に向かって駆け寄る。しかし。
「また上達したね。……って言いたいけど、皇女には必要ないんじゃないかな」
 そう言われて、桜の花を思わせる唇が、たちまちすぼんで尖った。
(……誰の所為だと思ってるのよ)
 元はと言えば、熾仁が悪い。
 出会った時から、彼の態度は婚約者に対するそれではなかったし、こちらが少し我が儘を言えば――もっとも、十二になった今になれば、それもこちらが悪い時もあったと分かるが――、熾仁のほうも『妹』に対する兄のように苛立っていた。
 気まずくなったら、あの流鏑馬の日のあとなど、二、三ヶ月も顔を見せなかった。
 こちらとしては、どうすれば未来の夫がずっと自分に視線を貼り付けてくれるのか、考えざるを得ない。
 自分だったら、どうすれば目に映る相手が魅力的と思えるかを考えた末に、憧れる邦子のような女性になればと思ったのは、最上の策だった。だから。
(姉様と同じようになれば、あなたがこっちを見てくれると思ったのに)
 上目遣いに睨め上げる和宮の視線の意味に、熾仁は気付かないらしい。
 小首を傾げて、「何?」と訊ねる。
「……何でもないわ。邦姉様。熾仁兄様にお茶をお出ししてくれる?」
 つい今まで、傍で弓の指導をしてくれていた邦子は、「はい、宮様」と短く言って頭を下げる。和宮から弓を受け取ると、熾仁にも一礼して広縁へ上がり、台所の方向へ姿を消した。
「ところで兄様」
「うん?」
 彼への『兄様』という呼称も、彼が和宮を『妹』扱いする一因であるのだが、そこは和宮自身気が付いていない。
 初めて会った時から、和宮には熾仁は『大好きなお兄様』であり、『兄様』という呼び方をしてはいても、『異性』であることに変わりはなかった。つまり、乱暴な言い方になるが、和宮にとって『兄様』というのは相手の名の一部に過ぎないのだ。
「遠乗りにはいつ連れてってくれるの?」
「またその話かい?」
 彼は、困ったような微笑を浮かべた。
「乗馬は皇女に相応しい趣味じゃないよ。怪我でもしたら大変だ」
「大丈夫よ。弓と同じくらい上達したわ。邦姉様のお墨付きよ?」
「そうかい?」
「そうよ」
 言いながら、和宮は広縁への階を昇り、熾仁の腕に手を伸ばした。少し迷った末に、遠慮がちに彼の直衣の袖を握る。
「兄様だってご覧になったでしょう? あたしの弓の腕前。もう百発百中よ?」
「しかし、弓の上達具合と乗馬の腕は比例しないだろう?」
 やんわりと反論を続ける熾仁に、和宮はまたも唇を尖らせた。
「……分かった。兄様はあたしを信用しないのね」
「そんなことはないよ。ただ心配なだけさ」
 微笑の『困った』具合を深くしながら、熾仁の手が優しく和宮の手を取る。
「さあ、もう中へ上がっておいで。邦子がお茶を用意してくれてるんだろう?」
 うまく話をはぐらかされた。そんな気分だったが、もう蒸し返す気にはなれない。
 小さく頷き、彼の取ってくれる手を握り返して下履きを脱いだ。

©️神蔵 眞吹2024.
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登場人物紹介

【和宮親子内親王《かずのみや ちかこ ないしんのう》(登場時、7歳)】


生年月日/弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)

性別/女

血液型/AB

身長/143センチ 体重/34キロ(将来的に身長/155センチ 体重/45キロ)


この物語の主人公。


丙午生まれの女児は夫を食い殺すと言う言い伝えの為、2歳の時に年替えの儀を行い、弘化2年12月21日(1846年1月19日)生まれとなる。

実年齢5歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約するが、幕閣と朝廷の思惑により、別れることになる。

納得できず、一度は熾仁と駆け落ちしようとするが……。

【徳川 家茂《とくがわ いえもち》(登場時、15歳)】

□幼名:菊千代《きくちよ》→慶福《よしとみ》


生年月日/弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)

性別/男

血液型/A

身長/150センチ 体重/40キロ(将来的には、身長/160センチ、体重/48キロ)


この物語のもう一人の主人公で、和宮の夫。


3歳で紀州藩主の座に就き、5歳で元服。

7歳の頃、乳母・浪江《なみえ》が檀家として縁のある善光寺の住職・広海上人の次女・柊和《ひな》(12)と知り合い、親しくなっていく。

12歳の時に、井伊 直弼《いい なおすけ》の大老就任により、十四代将軍に決まり、就任。この年、倫宮《みちのみや》則子《のりこ》女王(8)との縁談が持ち上がっていたが、解消。


13歳の時には柊和(18)も奥入りするが、翌年には和宮との縁談が持ち上がり、幕閣と大奥の上層部に邪魔と断じられた柊和(19)を失う。

その元凶と、一度は和宮に恨みを抱くが……。

【有栖川宮熾仁親王《ありすがわのみや たるひと しんのう》(登場時、18歳)】


生年月日/天保6年2月19日(1835年3月17日)

性別/男


5歳の和宮と、16歳の時に婚約。

和宮の亡き父の猶子となっている為、戸籍上は兄妹でもあるという不思議な関係。

和宮のことは、異性ではなく可愛い妹程度にしか思っていなかったが、公武合体策により和宮と別れる羽目になる。

本人としては、この時初めて彼女への愛を自覚したと思っているが……。

【土御門 邦子《つちみかど くにこ》(登場時、11歳)】


生年月日/天保13(1842)年10月12日

性別/女


和宮の侍女兼護衛。

陰陽師の家系である土御門家に生まれ、戦巫女として教育を受けた。

女だてらに武芸十八般どんと来い。

【天璋院《てんしょういん》/敬子《すみこ》(登場時、25歳)】

□名前の変転:一《かつ》→市《いち》→篤《あつ》→敬子


生年月日/天保6年12月19日(1836年2月5日)

性別/女


先代将軍・家定《いえさだ》の正室で、先代御台所《みだいどころ》。

戸籍上の、家茂の母。


17歳で、従兄である薩摩藩主・島津 斉彬《しまづ なりあきら》(44)の養女となる。この時、本姓と諱《いみな》は源 篤子《みなもとのあつこ》となる。

20歳の時、時の右大臣・近衛 忠煕《このえ ただひろ》の養女となり、名を藤原 敬子《ふじわらの すみこ》と改める。この年の11月、第13代将軍・家定の正室になるが、二年後、夫(享年34)に先立たれ、落飾して、天璋院を名乗っている。

生まれ育った環境による価値観の違いから、初対面時には和宮と対立するが……。

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