第二章・第一話 崩れた想い

文字数 9,494文字

『君を愛してる。失いたくない、できることなら連れて逃げたい』――

 望んでいた言葉。望んでいた告白。
 だのに、それを得た途端、最愛の人を失うなんて、思ってもみなかった。
(……どうして?)
 なぜ、どうして別れなくてはならないのか。
 自分たちは、こんなにも愛し合い、想い合っているのに。
(……嫌だ。納得できない)
 同時にふと、二年前に熾仁(たるひと)が漏らした一言が頭をよぎる。

『このまま、駆け落ちしようか』

 彼は、二年前から公武合体政策が動いていたと言った。そして、その頃から、和宮(かずのみや)は降嫁の対象になっていたと。
(つまり、兄様は知ってたから、あんなこと)
 どうしてあの時、素直に頷かなかったのか。あの時、熾仁と行方を眩ませていれば、幕府や朝廷の勝手な政策に巻き込まれずに済んだのに。
(……ううん。まだ、遅くない。だって、あたしもまだここ(・・)にいる)
 まだ嫁いだわけではない。嫁いでしまえば、逃げるのは一層困難になるだろうが、今なら間に合う。
 熾仁が帰ったあとから、泣きながら(もぐ)り込んでいた布団の中で、敷布を握り締める。ムクリと起き上がって、涙を拭いた。

***

 周囲は、すでに薄暗い。いつの間にか、邦子辺りが灯してくれたであろう行灯(あんどん)が、静かに私室を照らしている。

 今日の午後になってから、熾仁の予告通り、実麗(さねあきら)伯父が訪ねて来た。だが、内容は分かり切っている上、熾仁と相愛だと分かった瞬間失恋した和宮は、話を聞く気分ではなかった。
 気分だけではなく、泣き続けながら寝所で布団をかぶっている状態だった。
 それを見た伯父としては、とてもではないが、無理矢理叩き起こして話を聞かせる気になれなかったのだろう。(ふみ)だけを邦子に託して、邸を辞して行ったらしい。
 起き上がると、枕元には文箱(ふばこ)が置かれているのに気付く。そう言えば、邦子が無言で何か置いていた。
 しかし、やはり内容は恐らく、降嫁について何某(なにがし)か、書いてあるに違いない。
 和宮は、文箱をそのままに、自室の隣にある衣装部屋の襖を、そっと開いた。
 普段は邦子か藤、その他の女房の誰かに用足ししてもらっているので、何がどこにあるかさっぱりだ。今後、こういうことはないとは思うが――
(……いや、ないことはないわ)
 和宮は胸の内で、否やを呟く。
 駆け落ちしたら、もう何もかも一人でやらなくてはならない。
 普段、少々軽んじられていても、まさかこんな事態に陥るとは想定外だったから、皇女として周囲に身の回りを世話してもらうのは当たり前と思っていた。が、とんだ見当違いだったと一夜にして身に沁みる羽目になった。
 襖の向こうは、夜間に誰かが使うことはないからか、明かりは灯されていない。
 今時、公家と言っても身分ばかりで、金銭的には火の車の家が多いから、用がなければ蝋燭なんて高価なものは、できるだけ使用しないのが常識だ。
 和宮は、私室に一つだけ灯されていた行灯を持ち上げようと、手を伸ばした。直後。
「――宮様」
「――――ッッ!!
 思ってもみない間合いで声を掛けられたものだから、危うくこの夜中に、とんでもない声量で叫ぶところだった。それを見越したのか、声の(ぬし)は、声を掛けると同時に和宮の口を塞いだ。
「……お静かに。わたくしです」
「……邦姉様……」
 そっと掌を外され、和宮は胸元を押さえて大きく息を()く。
「……驚かさないでよ。心臓止まるかと思っちゃった」
「申し訳ございません」
 視線を巡らせた先にいた邦子は、寝間着の上から(うちぎ)を一つ羽織って、手燭を手にしていた。
「この夜中に、衣装部屋に何用ですか?」
 そして、容赦なく核心を問い(ただ)され、和宮は早々(そうそう)に返す言葉に詰まる。
 しかし、どうも邦子の助けなくしては、家出の準備さえ覚束ない。これも早々(はやばや)と観念して、和宮は口を(ひら)いた。
「……兄様と一緒に、どこか遠くへ行く」
「宮様」
「止めても無駄よ。あたしの人生なんだから、誰と一緒になるかはあたしが決めるの」
「しかし」
「何で朝廷や幕府に伴侶まで決めらんなきゃいけないの!? 大体、五歳の時からあたしの結婚相手は決まってたのに!!
 シッ、と邦子が自身の唇へ指先を当てたので、和宮は慌てて自分も掌で自分の口を押さえた。数瞬の()ののち、そろそろと手を外し、(ひそ)めた声で続ける。
「……あたし、ずっと熾仁兄様だけ見てきたわ。やっとその想いが叶ったのに、今更兄様への想いをなかったことになんてできない。ましてやほかの、顔も知らないような男の(もと)になんて、死んでも嫌よ。しかも、一度は自分たちだって認めた結婚を白紙に戻させてまで、ほかの男と結婚しろなんて言い出す奴らの頭領なんて、碌な男じゃないに決まってる! 第一、女は政略の道具じゃないっつの!」
 頼りない蝋燭の明かりに浮かんだ邦子の表情は静かなそれで、何を考えているのか読めない。
 伏せた瞼から伸びた睫毛が長いなぁ、などと、場違いなことを考えていると、邦子はやがて「分かりました」と口を開いた。
「えっ」
「今夜中に、支度を整えます。もちろん、わたくしもお供いたしますので、宮様はひとまずお休みください」
「え、でも」
「出立は明るくなってからのほうがいいでしょう。今時は、六年前に御所が火事になった折よりも遙かに物騒です。まして、夜の京の都は、無頼(ぶらい)(やから)の世界ですから、熾仁様の御許(おんもと)へ辿り着くより先に、奴らの餌食になる可能性のほうが高いかと」
「~~~~……」
 冷静に言われると、黙らざるを得ない。
 こちらの沈黙を見て取ったのか、邦子は「さ、宮様」と言いつつ自身が羽織っていた袿を和宮の肩へ掛け、布団へと促した。

***

 桂御所(かつらのごしょ)を出たのは、翌日の昼過ぎだった。
 邦子と二人、侍女に変じて、表の見張りをしている武士には、「観行院(かんぎょういん)様の使いで、有栖川宮(ありすがわのみや)様の邸へ行く」と告げた。
 こういう時、下手に行き先を誤魔化すと、却って勘繰られ、止められる確率が高いらしい。
 邦子の読み通り、門番はあっさり二人を通してくれた。
 薄布が下がった笠をかぶっていたのと、そもそも門番は和宮の顔を知らなかったらしいのも幸いした。
 邦子と二人、歩きですぐそこにある有栖川宮邸へ向かい、そこでも「観行院様の使いで」と告げるとすぐに宮邸の門番も招じ入れてくれた。
 ただ、問題はこの先だ。実際は、観行院の使いで来たのでない以上、当然有栖川宮家(こちら)に連絡は入れていない。うまく屋敷の塀の中へ入り込めれば何とかなる、と言っていたのは邦子だが、本当にそんなにうまくいくのか。
 和宮の不安と心配を余所に、邦子は和宮の手を引いて、まるで来たことがあるかのようにズンズンと歩を進める。
 表門である四つ足門を通り抜けると、(ひら)けた場所へ出た。そこにはチラホラと、有栖川宮家の使用人と思われる者たちが行き来している。
 彼らを無視して、邦子は左手へ進路を取った。その先には壁と、その向こうへ行く門があったが、その門は閉ざされている。恐らく、家人の許しがなければ開けてもらえない(たぐい)の扉だろう。
 しかし、邦子は構わずその手前まで和宮を導いた。そして、チラリと周囲を見渡す。
 何事かを確認したあと、彼女は薄布の付いた笠を素早く脱いで、和宮に渡した。「持っていてください」と小さく言ったかと思うと、浅く膝を折り曲げ、跳躍する。
 えっ、と小さくこぼし、和宮は危ういところで自分の口を手で押さえた。その間に、邦子は塀の上へ着地し、その向こう側へ姿を消す。
 程なく、和宮の前にあった扉が細く開いた。邦子が手招きしたので、和宮は周囲を再度見渡し、扉の隙間へ滑り込む。
 元通りに扉を閉じ、錠を下ろした邦子は、和宮が持っていた笠をかぶり直した。
「……姉様、ここ来たことあるの?」
 小さな声で問うと、邦子はあっさりと「いいえ」と答えた。
「ただ、公家の屋敷は、藤原京の時代にあった貴族のそれと、造りは大きく違いません。個人宅によって、多少意匠の違いはあっても、どこにどういう建物があるかは大体同じですので、当たりを付けて歩いています」
「そう……」
 入り込めさえすればどうにかなる、と言っていたのはそういう意味だったのかと、和宮は納得する。
 その間に、和宮の手を取った邦子は、今度は塀の植え込みに沿って、その陰に身を潜めるようにしながら、そろそろと歩き始めた。自然、和宮も口を噤んで、足音を殺すように歩み、邦子のあとへ続く。
 幾度か曲がり角を曲がり、最早和宮にはどこにいるのかが分からなくなった頃、庭に面した部屋の奥に、愛しい男性(ひと)が座しているのを見つけた。
「……兄様!」
 思わず叫んで、邦子の手を振り払う。駆け出しながら、薄布の垂れた笠を脱ぎ捨てると同時に、呼ばれた男――熾仁が顔を上げた。
「かっ、和宮!?
 純粋にギョッとした顔つきで、反射的に名を呼んだ熾仁は、庭先へ視線を走らせると、和宮に駆け寄るようにして縁側へ出て来る。
「どうしたんだ、一体。一人か?」
 訊いた直後には、和宮の後ろに立つ邦子に気付いたのだろう。熾仁は、邦子に向かって小さく黙礼した。
「迎えに来たの。一緒に行きましょ、兄様」
「は?」
 熾仁は、またもただ単純に驚いたというように、首を傾げる。
「何を言ってるんだ」
「駆け落ちしましょ、今なら間に合うから」
「宮……」
 何を言ってるんだ、と同じことを言い掛けた熾仁は、こちらが真面目に言っているのを感じ取ったのだろう。真顔になったのち、和宮と立て膝で相対していた彼は、縁側へ腰を下ろした。
「……昨日も言っただろう。私は行けない。我々は、姿を隠してはいけないんだ」
「どうして!」
「よく聞いてくれ、和宮」
 昨日とは打って変わった、落ち着いた口調で言いながら、熾仁は和宮の手を握った。正面から、真摯な瞳で見つめられて、色恋のそれとは違う意味でドキリとする。
「……すまない。昨日は私も動揺していたから、言いそびれたまま君の元を辞してしまったけれど……まず、昨日も言った通り、もう今の時点では、私たちの結婚は完全に白紙になったんだ。分かるね」
 分かりたくない。そう返したかったが、口を開けば泣き出してしまいそうで、和宮は唇を噤んだまま沈黙を返した。
 それをどう取ったのか、熾仁は軽く和宮の頬に手を触れ、首を傾けるようにして目を合わせる。
「もしまだ主上(おかみ)が不承知であれば、抵抗もできたけれど……今は主上も、君の降嫁を承諾された。ということは、もし君が降嫁を拒めば、私や私の父、私の家族、そして君の母上であられる観行院様や、伯父上であられる宰相中将(さいしょうのちゅうじょう)様、乳母(めのと)の藤殿も罰せられる可能性があるんだ」
「……何それ、どういう意味よ」
 まさか脅迫? と続けたくなる。ムッツリと問う和宮にも、熾仁の表情は神妙なまま揺るがない。こちらの機嫌を取ろうとしていた、たった三月(みつき)前の彼が、まるで別人のようだ。
「今や、君の降嫁は、主上と幕府の間の約束――国政の決定事項だということだよ。もう、君も私も、一個人ではいられない。一個人の想いだけで、一緒になることはできないんだ」
「嫌よ! だって結婚なのよ!? 一生に一度のことなのに! あたしの人生よ!」
 反射で噛み付くように叫び、熾仁の手を取る。
「今なら間に合うから。一緒に行きましょ。国政なんて知ったこっちゃないわ。死んだら遺体を嫁がせることはさすがにできないでしょ!? 行方さえ眩ませれば、あとはおたあ様がうまくやってくれるから! いくらおたあ様たちを罰しようと、あたしが死んだなら、幕府だってどうしようもないはずよ」
 自室に、(ふみ)は置いて来た。もし、誰かに何か言われたら、自分は自害したと答えてくれるようにと。
 生みの母なら、分かってくれるはずだ。
 しかし、熾仁はゆっくりと首を横へ振った。
「ごめんよ。本当に悪いと思っている。だけど、私は家族が殺されるかも知れない危険を冒せない。それに……本当に言い辛いんだけど……」
「……何よ」
 熾仁は、自身の手首を握っていた和宮の手を、そっと押しやるように解く。
「……すまない。年替えを(おこな)ったからと言っても、君は夫を食い殺すかも知れない丙午(ひのえうま)生まれだ。本当は怖かったよ。だから、こうなってホッとしてるんだ」
「ッ……!」
 一瞬、声が出なかった。
 だが、和宮はまだ覚えている。彼の口づけの甘やかさも、抱き締められた腕の強さも――
「……嘘よ」
「何がだい」
「兄様は、そんなこと気にしてない。本当に、本心から気にしてたなら、あたしに口づけなんてできるわけないでしょ」
 途端、熾仁は狼狽した表情を見せた。
(やっぱりね)
 今のは、わざとひどいことを言って、和宮を諦めさせようとする熾仁の口から出任せだと確信する。大体、長い付き合いだから分かる。何事に関しても、巧く嘘が()き通せる性分(しょうぶん)の男性ではないのだ。
 和宮は、一緒に行こう、ともう一度畳み掛けようとした。その、直後。
「――いたぞ! こっちだ!」
 大号令と共に、兵士と思える男たちがどっと庭先へ押し寄せた。
「なっ……!?
「和宮様でいらっしゃいますね、お怪我は」
「有栖川宮熾仁親王を捕らえよ!」
「姉様……!」
 和宮が視線を巡らせて邦子を捜すのと、邦子が自身に手を掛けた兵を振り払うのとは同時だった。
 彼女は、隠し持っていた刀を抜き放ち、和宮の両脇を固めた兵を(またた)()に蹴り倒す。
「このお方に触れるでない、無礼者!」
 薄布の垂れた笠を脱ぎ捨て、身軽になった邦子は、和宮を自分の腕で抱え込むようにして庇いながら、兵たちを牽制した。
「兄様は!?
帥宮(そつのみや)殿は、御所へ引き立てます」
 静かな声が、その場に凛と響く。庭に群がっていた兵たちは、刀を引いて腰を折った。
 彼らの後ろから、一人の男が、堂々とした態度で歩んで来た。その男は、和宮と邦子の少し手前で足を止め、頭を下げる。
「お初にお目に掛かります。和宮様でいらっしゃいますか」
「……そういうそなたは誰?」
 少し口調を改めて問うと、男は顔を伏せたまま続けた。
「わたくし、岩倉(いわくら)具視(ともみ)と申します。此度、和宮様のご降嫁に際しまして、一切の責任を持ち、処理するよう主上より仰せつかっております。以後、お見知り置きを」
 和宮は、眉根を寄せたまま問いを重ねる。
「さっき兄様……熾仁様を御所へ引き立てると言ったわね。どういう意味?」
「はい、宮様。見ての通り、帥宮殿は、宮様を(かどわ)かしました。これから御台所(みだいどころ)となるべき方を誘拐されたのですから、罰を受けねばなりません」
「何ですって!?
 熾仁に視線を向けると、両腕を兵に取られた彼は、さっと顔色を変えた。
「濡れ衣だ!」
「そうよ! 熾仁兄様はあたしを誘拐してなんかいない! あたしが自分でここへ来たのに……!」
「あなた様のご意志は、この際関係ございません」
 そう告げたのは、岩倉とは違う声音だ。明らかに女性と思しき声の(ぬし)が、岩倉の背後から姿を現す。
 和宮の母より二十は上に見えるその女性は、髪型から武家の人間だと一目で分かった。
「和宮様にはお初にお目もじ(つかまつ)ります。わたくしは故・十二代将軍・家慶(いえよし)公の御世(みよ)の折、奥にて上臈(じょうろう)御年寄りの任にございました、姉小路局(あねのこうじのつぼね)と申します。家慶公ご逝去(せいきょ)に伴いまして髪を下ろし、今は勝光院(しょうこういん)を号しております。和宮様の母君・観行院さんは、わたくしの姪に当たられますゆえ、宮様とも縁戚の者なれど、これまでご挨拶も致しませなんだこと、まずはお詫び申し上げます」
(おたあ様の叔母様?)
 とすると、和宮には大叔母に当たる。つまりは、元・公家(くげ)の人間だ。
(公家出身でも長い間武家社会で生活してると、公家社会での礼儀も忘れるってことかしら)
 こう言ってはなんだが、顔立ちからして『図々しいおばさん』という印象だ。
「……丁寧なご挨拶ありがとう。都へはお里帰りでいらっしたのなら、こちらにおいでなのは場違いでは?」
 先帝の皇女、今上(きんじょう)帝の妹という時点で、和宮のほうが身分としては上だ。公家社会では大叔母に対するこの物言いでも、決して非礼ではない。
「恐れ入ります。先程、桂御所へ参りましたら、何やら剣呑な雰囲気。どうやら宮様が帥宮様に拐かされたというお話でしたので、慌ててわたくしも岩倉殿に同行させていただいた次第です」
「だから、あたしは誘拐されてなんていないってば!」
「いいえ。天下の将軍家に嫁ぐのを嫌がる女子(おなご)など、いるわけがございませぬ。和宮様がご降嫁ご承知であれば、こちらにいるのは拐かされた以外に理由などありましょうか」
「いい加減にして!!
 蝦蟇蛙(ガマガエル)のような図々しさに、和宮は早々に爆発した。
「あたしの気持ちを決め付けないで!! あたしの気持ちが分かるのはあたしだけよ! あたしは――」
「それ以上は、言わぬが為かと」
 それまで薄ら笑いを浮かべていた蝦蟇蛙が、ピシャリと和宮の言葉を遮る。その表情にも、どこか酷薄な非情さが漂っていた。
「幕閣でも、斯程(かほど)に和宮様がご降嫁をお(いと)いになるのは、観行院さんや実麗さんが、和宮様に対し(たてまつ)り、幕府に関してあることないこと吹き込んだ所為ではないか……という噂もございます」
 とっさに、言葉が出なかった。
(何なのよ、それ。どういう意味?)
 和宮が降嫁を承諾しないのは、母と伯父の所為だというのか。だから、このままこの縁談を拒み続けたら二人を罰するということか。
 そう言えば、さっき熾仁も似たようなことを口にしていたが――
(――完っ全な言い掛かりじゃない!!
「それに、上様とのご縁談が持ち上がってから、ご破談になったはずの熾仁殿と逢い引きを続けておられるのではと、下世話な想像を働かせる者もいるとかいないとか――まさかお噂通りのことを(おっしゃ)るつもりではありますまいね」
「だとすれば、益々帥宮殿を不問に付すわけには参らぬ」
 勝光院の言葉を、岩倉が引き取るように口を開く。
「引っ立てろ」
 岩倉が顎をしゃくった。熾仁の両脇で、彼の腕を抱えていた兵が、岩倉に応じるように小さく顎を引き、熾仁を引きずって歩き出す。
「そんなっ……! 私は何もしていない!」
「そうよ、兄様は」
「私はただっ、破談になったのだから別れようと、宮に諭していただけだ! ここに宮がいるのも、彼女が勝手に押し掛けて来ただけでっ……!」
 和宮が加勢するのにかぶせるように、熾仁はまくし立てた。直後に和宮と目が合った彼は、ばつが悪そうに目を伏せ、視線を逸らす。その表情から読み取れたのは、ただただ彼自身の保身だ。
 和宮は唇を引き結んで、無意識に拳を握り締めた。
(……ああ、そうか……)
 結局、彼は自身が一番大切なのかも知れない。先刻、生まれ年の忌みごとに関して恐怖を訴えていたのも、実は本音だったのだろうか。
 だとしたら、あの口づけと抱擁は、一体何だったのだろう。
 混乱の中、和宮が、涙を堪えて沈黙する内にも、熾仁は屋敷から引きずられて行く。
「宮様」
 どうされるのですか、という問いを含んだ邦子の言葉が、和宮を我に返した。
「やめて!」
 叫んで邦子の腕から抜け出すと、和宮は携えて来た短刀から鞘を払い、自身の首筋へ押し当てる。
「宮様!」
「姉様も来ないで!」
 ただ事でない邦子の叫びに、さすがに岩倉も勝光院も、そして熾仁もほかの兵も――全員が和宮のほうを見た。
「兄様を……熾仁様を放しなさい」
 皆の視線が自分に集中したのを確認すると、和宮は岩倉を見据える。
「さもないと、あたしはこの場で自害するわ。意味は分かるでしょう」
 この場で和宮が自死した場合、責任を問われるのは岩倉だろう。もし、和宮がいなくなれば、残る皇女は、和宮の姪の寿万宮(すまのみや)だけだ。
 しかし、あの姪とて、無事に育つ保証などない。それでもひとまず赤子の姪を輿入れさせるとして、幕閣が承諾する保証もない――岩倉は、頭の悪い男ではないらしい。瞬時にそれらを悟ったようで、何とも言い難い表情で唇を噛んだ。
「分かったら、熾仁様を解放して。熾仁様が仰った通りよ。あたしが考えもなくここへ押し掛けただけ。熾仁様のご意志は、偏に主上に従うという一択よ」
「和宮……」
 熾仁が呆然と呟く。それを聞き流し、和宮は岩倉と勝光院を応分に睨んだ。
「さあ、どうするの。あたしをこのままここで死なせる? それとも、熾仁様を無罪放免にする?」
 岩倉は、しばし忌々しげに唇を震わせていたが、やがて「分かりましたよ」と言い、兵たちに目配せした。熾仁を拘束していた兵が、岩倉に従って熾仁から離れる。
「和宮様」
 ここで、勝光院が、ズイと和宮に一歩肉薄する。
「来ないで、大叔母様!」
 これ見よがしに刃を首筋へ押し付けると、勝光院がピタリと動きを止めた。
「今すぐ、兵士を全員この庭から……いいえ、有栖川宮邸から引き上げて。そして金輪際、熾仁様や有栖川宮家の人たちに指一本触れないと約束して」
「その代わり、宮様は江戸へ下られるのですね」
 透かさず、勝光院が冷ややかに告げる。和宮は、ジロリと横目で勝光院を見た。が、勝光院は動じない。
「宮様も、お約束を。今日この場で、わたくしは今後決して有栖川宮家の方々には指一本触れぬとお約束します。それだけでなく、岩倉殿や、ほかの朝廷の面々、幕閣の方々にも周知徹底いたします。ゆえに、和宮様もこのあとご自害されたり、熾仁親王様と駆け落ちなさったりせず、潔く江戸へ下られませ。このこと、堅くお約束を」
「そんな権限が、大叔母様にあるって言うの? どうやって信じるのよ」
 ふん、と鼻先で笑うが、勝光院は小揺るぎもしない。
「お言葉を返すようですが、わたくしは第十一代将軍・家斉(いえなり)公の御代より奥に勤めておりました。その折より、わたくしは自分の才覚のみで大奥を昇り詰めた。十二代将軍・家慶公の御代には、表の人事に口出しできるほどの権限を得ております。ご案じ召されますな」
 裏を返せば、彼女が言ったことを和宮が守らなければ、熾仁はもちろん、母や伯父もどうなるか分からないということだ。
 ただ、彼女の権力が本物かどうか、確かめる(すべ)もない。
「……大叔母様が仰ったことがまことか、確かめる時間が欲しい」
「どのように確かめるのです」
「あたしは、ここにいる邦子のことを、母や乳母と同じくらい信じているわ。彼女の調査なら納得できる」
 邦子に目配せすると、邦子は小さく頷き返した。調査する術がある、という答えだ。
 それを確認し、和宮は勝光院に視線を戻す。すると、勝光院は「宜しいでしょう」と頷いた。
「では、一つずつ取引と参りましょう。まず、こちらはここにいる兵全員を、有栖川宮邸から撤収します。その代わり、和宮様も桂御所へお戻りください。そして後日、わたくしの持つ権限について、確認が取れた時点で二つ目の取引です。我々は、有栖川宮家の皆々様、及び和宮様の(ちか)しい方々の半永久的な安全を保障します。その代わり、宮様は自害されることなく、間違いなくご本人が江戸へ下られ、十四代将軍・家茂(いえもち)公の妻となられること。宜しいでしょうか?」
 つまり、替え玉などを用意するな、ということだ。そうしたところで、勝光院に面通しされればバレるのだから、無駄なことだ。
「……分かった」
 不承不承、和宮が返事をすると、勝光院は頷き、岩倉に目を向ける。それを受けて、岩倉は勝光院に頷き返し、兵たちに「撤退だ」と一言告げた。
 そして、自らが真っ先に熾仁の部屋前の庭を辞した。兵たちがすべていなくなったあと、勝光院が、和宮にも有栖川宮邸(この場)を去るよう、手で促す。
 和宮は、去る直前にチラリと熾仁に視線を投げた。
 兵に解放された時点で、私室内へ避難していた熾仁は、すでに部屋の奥まった場所にいて、目も合わせてくれなかった。

©️神蔵 眞吹2024.
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登場人物紹介

【和宮親子内親王《かずのみや ちかこ ないしんのう》(登場時、7歳)】


生年月日/弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)

性別/女

血液型/AB

身長/143センチ 体重/34キロ(将来的に身長/155センチ 体重/45キロ)


この物語の主人公。


丙午生まれの女児は夫を食い殺すと言う言い伝えの為、2歳の時に年替えの儀を行い、弘化2年12月21日(1846年1月19日)生まれとなる。

実年齢5歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約するが、幕閣と朝廷の思惑により、別れることになる。

納得できず、一度は熾仁と駆け落ちしようとするが……。

【徳川 家茂《とくがわ いえもち》(登場時、15歳)】

□幼名:菊千代《きくちよ》→慶福《よしとみ》


生年月日/弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)

性別/男

血液型/A

身長/150センチ 体重/40キロ(将来的には、身長/160センチ、体重/48キロ)


この物語のもう一人の主人公で、和宮の夫。


3歳で紀州藩主の座に就き、5歳で元服。

7歳の頃、乳母・浪江《なみえ》が檀家として縁のある善光寺の住職・広海上人の次女・柊和《ひな》(12)と知り合い、親しくなっていく。

12歳の時に、井伊 直弼《いい なおすけ》の大老就任により、十四代将軍に決まり、就任。この年、倫宮《みちのみや》則子《のりこ》女王(8)との縁談が持ち上がっていたが、解消。


13歳の時には柊和(18)も奥入りするが、翌年には和宮との縁談が持ち上がり、幕閣と大奥の上層部に邪魔と断じられた柊和(19)を失う。

その元凶と、一度は和宮に恨みを抱くが……。

【有栖川宮熾仁親王《ありすがわのみや たるひと しんのう》(登場時、18歳)】


生年月日/天保6年2月19日(1835年3月17日)

性別/男


5歳の和宮と、16歳の時に婚約。

和宮の亡き父の猶子となっている為、戸籍上は兄妹でもあるという不思議な関係。

和宮のことは、異性ではなく可愛い妹程度にしか思っていなかったが、公武合体策により和宮と別れる羽目になる。

本人としては、この時初めて彼女への愛を自覚したと思っているが……。

【土御門 邦子《つちみかど くにこ》(登場時、11歳)】


生年月日/天保13(1842)年10月12日

性別/女


和宮の侍女兼護衛。

陰陽師の家系である土御門家に生まれ、戦巫女として教育を受けた。

女だてらに武芸十八般どんと来い。

【天璋院《てんしょういん》/敬子《すみこ》(登場時、25歳)】

□名前の変転:一《かつ》→市《いち》→篤《あつ》→敬子


生年月日/天保6年12月19日(1836年2月5日)

性別/女


先代将軍・家定《いえさだ》の正室で、先代御台所《みだいどころ》。

戸籍上の、家茂の母。


17歳で、従兄である薩摩藩主・島津 斉彬《しまづ なりあきら》(44)の養女となる。この時、本姓と諱《いみな》は源 篤子《みなもとのあつこ》となる。

20歳の時、時の右大臣・近衛 忠煕《このえ ただひろ》の養女となり、名を藤原 敬子《ふじわらの すみこ》と改める。この年の11月、第13代将軍・家定の正室になるが、二年後、夫(享年34)に先立たれ、落飾して、天璋院を名乗っている。

生まれ育った環境による価値観の違いから、初対面時には和宮と対立するが……。

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