第三章・第二話 狭間で揺れる想い
文字数 7,786文字
剣道場に行くので、その格好は動き易いように、昨日までと同様の小袖と袴の上下だ。時節柄、その上に羽織を羽織っている。
邦子は、護衛の義務としてか付いて来てはいるが、その美しい顔を渋らせっ放しだ。実は昨日、
姉妹同然に育った彼女と、一晩も口を利かないなんて、今までなかった。
彼女には、奥女中たちも家茂も同類なのだろう。その家茂と、和宮が
だが、和宮自身、家茂と初夜の席でまともに口を利くまでは、江戸の者らは一様に人としての感情が欠落しており、言葉が通じぬと思っていた。だから、邦子を一概には責められない。
(……だけど……あの人は違う)
彼だけは、奥女中たちとは違って『人間』だ。少なくとも、この二日ほどで和宮はそう感じていた。
細かい内情はどうあれ、徳川将軍家は今、この国の執政を担っている。つまり、将軍と言えば最高権力者だ。
その最高権力の座にいるにも関わらず、偉ぶったところが少しもない。夫である自分が上だと威圧もせず、自分の理屈が正しいと押し付けもしない。
(……それに……)
彼は、和宮がやることをすべて否定しなかった。
馬術も弓術も、和宮がやるに当たって、『らしくない』と止めることもしない(まあ、『本当に皇女サマか?』とからかい半分には言われたが)。
無意識に脳裏で比較する自分に、苦笑が漏れる。
分かっている。
もう、熾仁への気持ちはとうに終わっているのだ。嫌いになったというわけではないけれど、異性として好きという気持ちはほとんどない。
だからと言って、家茂を異性として想うことはできない。
この結婚を無理強いした幕閣のお歴々へ、和宮がしてやれる唯一の意趣返しであり、最高の面当てであり抵抗――それが、家茂を夫として愛さないという決意を貫くことだ。
そのつもりで、ここまで来た。貫ける、はずだった。
初夜に、家茂の過去を垣間見るまでは――。
(……違う……これは、ただの同情よ)
胸元を握り締め、自身に言い聞かせるように脳裏で呟く。
同情で仲間意識で、だから、異性に対する恋とは違う。惹かれてなんていない。
けれども、懸命に言い聞かせる呪文は、城内の堀端で立っていた家茂が振り返り、目が合った途端、掻き消えてしまった。
***
「うわぁ……」
堀端から船に乗った和宮は、思わず感嘆の声を漏らした。
城内の堀からどこをどう通ったものか、船はいつの間にか城の外の川を走っている。
江戸は、市中でも飾り気がない。どこまで行っても、似たような屋敷が乱立している。俗に言う、武家屋敷、というものだろうか。
道を行くのは皆武士のようで、一般人が見当たらない。
「この辺りは馬が使えないからな。人通りがそれなりにあるし、輿も目立つし……残った移動手段は徒歩か
「剣道場もお城の中にあるのかと思ってた」
馬場が城内にあるくらいだし、第一、タガが外れるほど広い敷地だ。剣道場を
すると、家茂は一瞬瞠目したあと、呆れたように目を細めた。
「……恐れ入りますが皇女サマ。ここもまだ城内だぞ」
「嘘!」
キョロキョロと周囲を見回していた和宮は、反射で家茂に向き直る。
「じゃっ、
これ、と言いつつ和宮は今、船が走っている水面を勢いよく指さす。
「何の為の堀だと思ってんだよ。そりゃ、江戸城の堀は構造上、外部の川にも通じてるけどな。そんなにあっさり
「そっ、それはそうだけど!」
きょうび、
少なくとも、江戸城に軍勢が大挙して押し寄せるような事態にはならないだろう。などと思っていると、
「その様子じゃ、堀なんて言わば、城に必須の飾り、くらいに思ってんだろ」
と見透かしたように言われて、またも言葉に詰まった。
「ま、堀なんてあっても役に立つ機会がねぇ、くらいのほうがいいんだけどな、庶民には特に」
肩を竦めて独りごちた家茂の言葉に、和宮は瞬時目を丸くする。
「何だよ」
「なっ、何でもない」
目を伏せて、意味もなく水面を見つめた。
(……武家の人間なんて皆血気盛んで、戦したがりかと思ってたのに)
だから、人を脅迫したところで、痛む良心もないのだと思っていた。
けれども、やはりこの家茂だけは違う。民の目線で物事を考えられることは、為政者に必須の資質だ。それを備えている。彼が、先代の実子でなくても跡を継いだのは、必然だったのかも知れない。
そんなことをぼんやり考える内に、船の速度が落ち始める。
堀の行き止まりが見え、その少し手前に船着き場が見えた。
通常、城の堀と言えば、切れ目なく城を囲んでいるものだと思っていたが、家茂の説明通り、江戸城は構造が異なるようだ。もっとも、江戸城のそれがどうなっているのか、和宮には皆目分からなかったが。
船の昇降場に付けた船から、先に下りた家茂が、和宮に手を差し伸べる。瞬時、
和宮への今の接しようを見れば見るほど、婚儀の夜に向けられた敵意と憎悪は何だったのかが腑に落ちない。
思わずじっと見つめてしまい、視線が噛み合う。
「……俺の顔、何か付いてる?」
「うっ、うううん、別にっ!」
ブンブンと顔を振って目線を落とすと、握ったままだった手を引かれた。
「えっ、あのっ」
「いつまでここにいる気だよ。ちゃんと付いて来ないと迷子になるぞ」
「あ、うん……」
振り
家茂は、船着き場から一度左折し、突き当たりを右へ曲がった。それから二つ目の角をまだ左折して、すぐの場所にあった屋敷の門をくぐる。
門扉には、『
和宮には、やはり何をする場所なのかさっぱり分からない。
「……ねぇ。一応訊くけど、ここ剣道場じゃないよね?」
「見りゃ分かるだろ」
「じゃ、何しに来たのよ」
「練習相手を調達しに」
短く言うと、家茂は迷いなく敷地奥の建物に向かって進んだ。
「頼もーう。誰かいるかー?」
彼が気軽に声を掛けると、バタバタと慌ただしい足音が響き、一人の男が姿を現した。年の頃は四十代半ばで細面、薄水色の
「こっ……これは、上様!」
ここが城内だというのは本当らしく、城内に勤めるその男も家茂を知っているのだろう。家茂の顔を確認するなり、小走りに玄関先へ駆け寄る。膝を突き、会釈するように浅く顔を伏せた。
「久し振りだな、
「恐れ入ります。上様にもご健勝のご様子、祝着に存じます」
謹一、と呼ばれた男は、更に深く頭を下げる。
「堅っ苦しい挨拶はいいよ」
苦笑混じりに肩を竦めた家茂は、「
すると、謹一は表情が見えるところまで頭を上げた。その顔は、何とも言えない渋面になっている。
「はあ……おるにはおりますが」
「何だよ、その歯にモノが挟まったような言い方」
「あの者は相変わらず寝こけているばかりで」
「出勤してくるだけいいじゃねぇか。それに、要は暇にしてんだろ。借りてっていいよな?」
「……
謹一は相変わらず堅苦しく会釈すると、和宮にも一礼してきびすを返した。
「……誰?」
待つ間にソロリと訊ねると、「ここの
「
「……言い出しっぺの一人なのに、その麟太郎って人は寝こけてばかりいるの?」
「……その辺は俺に言われてもなぁ……」
家茂が言い淀んだその時、謹一、こと謹一郎に引っ張られるようにして、もう一人の男が現れた。
恐らく、家茂
面長で総髪のその男は、中々端正な面立ちの男だった。均整が取れた体つきではあるが小柄で(とは言え、家茂よりも長身に思えたが)、年の頃はよく分からない。
「……ふわー、上様。これはお久し振りです」
「うん、昼寝の邪魔したのも含めて悪いな。しばらく足運べなかったから」
嫌味の応酬だったのか判断に迷うやり取りののち、麟太郎は和宮に目を向け、首を傾げた。
「ええと……こちらのお嬢様は?」
「あ、あの」
言い淀む間に、家茂のほうが「一応俺の奥さん」と紹介する。
「こないだ結婚したばっかり。つか、あんた婚儀に出席しなかったろ、呼んだと思ったけど」
「いやー、すみません。ほかの奴と顔合わせるの面倒だったもんで……その内、個人的にご挨拶に行こうと思ってたんですよ」
「無礼な!」
この場でお決まりの文句を叫んだのは、謹一郎だ。
「そなた、上様お
麟太郎に一喝したのち、
「これは、
「はあ、どうもご丁寧に……」
気後れして間抜けな受け答えをする
「で、上様、何か御用でしたか?」
「
その叫びを意訳すると、『人が話してるところに違う話題で割り込むんじゃないっっ!』だろうか。
「……て、勝?」
それが麟太郎の苗字なのか。思わず漏らすと、麟太郎が細長い目元に縁取られた小さな目を和宮へ向けた。
「はい。某、勝
「務めるどころか日長一日寝くたれておるだけだろうが、そなたはっっ! というか、ここは講武所ではないのに、なぜこちらに入り浸っておるのだ!」
もはや半泣きになった謹一郎をモノともせず、家茂が麟太郎に向けて顎をしゃくる。
「んじゃあ、違う部署で寝くたれてるだけなら要するに暇なんだろ。ちょっと付き合えよ」
「上様がそのように甘やかすから、そやつも付け上がるのですぞっっ!」
悲鳴を上げ続ける謹一郎に、家茂は「まあ、いーじゃねぇか」と軽く
「おかげで俺の暇潰しにもなるんだ。先々のことは置いといて、今日は大目に見てやってくれ」
内容はともかく、何と言っても将軍の下知だ。謹一郎はそれ以上反論できなかったのか、「……御意に従います」と言って、何度目かで頭を下げた。
***
「……何だか気の毒よねぇ、あの古賀って人」
麟太郎を伴って外へ出たところで、和宮はポソリと呟いた。
やり取りを見ているだけなら、中々面白い見せ物だったが。
「あの人は真面目過ぎるんですよ、御台様。もうちょっとこう、気楽に生きりゃいいのに」
「そーゆーあんたが気楽過ぎるんじゃねぇ?」
苦笑しながら家茂が会話に入ってくる。
「何の。人生は一度きりです。楽しまにゃ損しますよ。ところで上様。私に用というのは?」
「久々にちょっと暴れねぇかと思ってよ。ウチの奥さんがやってみたいって言うから」
「えっ?」
「ま、まさか将軍、宮様とこの男を戦わせるおつもりで!?」
それまで黙っていた邦子が、謹一郎張りの悲鳴を上げた。
すると、家茂は邦子を振り向いて呆れたような流し目をくれる。
「
進行方向に視線を戻した家茂に、邦子は安堵と苛立ちをない交ぜにしたような、複雑な空気を発している。
「あ、あの、ねぇっ。ところであの蕃書調所ってトコは何をする所なの?」
どうにか邦子の不機嫌な雰囲気を払拭したいのもあり、和宮は気になっていたことを誰にともなく訊ねる。「よくぞ訊いてくれました」と言わんばかりの表情になったのは、麟太郎だ。
「一言で纏めますと、洋学の研究施設ですね。今は幕府の官立〔国立〕学校として機能しておりますが」
「洋学……?」
「外国の学問です。正式開講は、
そこまで言うと、家茂が「麟太郎」と遮るように彼の名を呼ぶ。しかし、麟太郎の解説は止まらない。
「最近では自然科学部門も置かれていますから、ちょっと本来の開設意図と施設名からズレてきているのが某には気になるところなんですけど――」
「麟太郎!」
家茂が、珍しく声を荒らげる。それは、麟太郎にとっても珍事だったらしい。目を丸くしている。
しかし、和宮にはそのすべてが遠い場所で起きているようだった。今し方聞いた、麟太郎の説明で、頭が一杯になっている。それが、
そして、そんな和宮を気遣わしげに見ている家茂の視線に、釣られるように麟太郎もこちらを見る。
「……おや、御台様。どうされましたか。ご気分でも?」
だが、和宮には今、自分以外の何もかもを気遣う余裕がなかった。
「……ごめんなさい。あたし、奥に帰る」
「えっ?」
「……そうか」
驚く麟太郎を余所に、家茂も特に留め立てしなかった。
「分かった。奥までこいつに送らせるから」
こいつ、と言って家茂は従僕を示す。けれど、和宮は首を振った。
「いいの。邦姉様にだって道順くらいは覚えられるから。そうよね、姉様」
「はい、宮様。問題ございません」
凛と頷く邦子に目で謝意を伝えて、麟太郎に向き直る。
「それと、勝」
「はい、何でしょうか」
「悪いんだけど、その『御台様』って呼び方、やめて貰える?」
「えっ、あの……どうしてでしょう」
「身も心も幕府の人間になっちゃったみたいで、虫酸が走るから」
冷ややかに言い捨て、家茂には一瞥もくれずにきびすを返す。
それ以上言葉を紡げば、どういう八つ当たりに発展してしまうか分からない。それが怖かった。
***
「……あのー……私、何かマズいこと言いましたかね?」
和宮と桃の井の背が、ある区画の角を曲がる。それを見届けて少ししてから、麟太郎が口を開いた。
家茂は、先刻の和宮の声音に負けない冷ややかな目で、麟太郎を
「別に――って言いたいトコだけどな。彼女がどういう経緯で江戸に嫁いで来たか、あんただって知らないわけじゃねぇだろ?」
「えっ、どういうって、あ――っ……」
言われて思い当たったらしい。麟太郎は天を
「……申し訳ない。やらかしましたねぇ……」
「その通りだよ、まったく」
庇い立ての余地もない。掛け値なしに、麟太郎は余計なことを言ってくれた。
吐息を挟み、無言で当初の目的地へ向けて歩き出す。
そもそも、幕臣が公武合体やら皇女の降嫁やらを唱え始めた時、家茂は正直、まともに聞いていなかった。
どうせ、自分に発言権もなければ、反論を聞いてくれる者もいないのだ。言うだけ徒労である。
将軍となった時、家茂はまだ十二歳だった。
先代の将軍・
当時、二十一歳だった
普通に考えれば、十二の少年よりも二十一の訳知りの大人を後継に据えるほうが、理に適う。それでも、家茂のほうに軍配が上がったのは、先代と血筋的に近いからだということになっている。
家茂は家定の従弟であるのに対し、慶喜のほうは初代の家康まで遡らないと血筋が一緒にならないらしい。
けれども、それは表向きのもっともらしい
二十一にもなって、ホイホイ操り人形をやってくれる者はまずいない。加えて、慶喜は頭脳明晰だという評判もある。比ぶれば、十二歳の少年を操るほうが余程やり易いと周囲が考えたのは、無理からぬことだろう。
(……ナメられたモンだぜ)
舌打ちして脳裏で吐き捨てる。
しかし、それは現実でもあった。
多勢に無勢とでも言おうか、未だに幕臣たちは家茂に政務への口出しをさせない。一体、いつまで『十二の子ども』だと思われているのだろうか。紀州藩主だった頃から、そんな状況は変わっていない。
和宮に話した通り、家茂が藩主の座に就いたのは、将軍に就いた年よりもっと幼い、三歳の時だ。幼すぎて、まったく記憶にない。ふと気付けば、『殿様』と呼ばれていた。
藩主だった父が亡くなり、叔父がその座に就いたものの、その叔父も早々と
しばらくは、隠居していた祖父である第十代藩主・
しかし、その治宝も、家茂が六歳の頃亡くなった。隠居していたことから分かるように、元々高齢だったのだ。
そのあと、紀州藩の実権は、
この頃から、藩主とは名ばかりと、幼いながらに悟っていた気がする。いなければ困る、必須でありながら単なる飾りなのだと。
今も同じだ。
この国の執政を担う、徳川宗家の当主でありながら、いなければ困る飾り人形だ。
(あの頃、俺を『人間』として接してくれたのは……あいつらだけだった)
家茂が将軍職に就いたあと、紀州藩主の座を継いだ青年と、この江戸城まで付いて来てくれた、幼馴染みの少女。そして、乳母の
青年とは、今も時折顔を合わせている。乳母も江戸城まで付いて来てくれて、今も息災だ。だが、少女は――そこまで考えて、家茂はきつく拳を握る。
「……麟太郎」
「……はい、何でしょう」
どこか怯えた声音で答える麟太郎を、振り
「悪いが今日はとことん八つ当たりさせてもらうからな。覚悟しとけ」
麟太郎も、自分の失言は分かっているらしい。
「……できればお手柔らかに」
と言っただけで、特に抵抗を示さなかった。
「安心しろ。自力で自宅に帰れるくらいには押さえといてやる」
サラリと涼しい声音で恐ろしい台詞を吐いた少年将軍と、若干青くなった怠け者師範の姿が、程なく講武所と書かれた札の下がった建物に吸い込まれて行った。
©️神蔵 眞吹2024.