6・解決への扉を開く第3の道

文字数 2,429文字

6・解決への扉を開く第3の道
「イチローくんは、将来、英霊についての論文でも書くつもりなの?」
「いや、そんなつもりで英霊の語源を調べているわけではない。ただ、英霊の語源を調べていくと、古代中国の時代には、英霊を敬う時代があったのに、いつの間にか国家同士が対立することになっているのは残念なことなので、言葉の語源を整理しお互いの国同士の誤解が解けるようになるにはどうすればいいのかな、というふうには考えている。」
「長い、みちのりになりそうだね。」とユンハさんが言った。
『憎むのではなく、許すのでもなく、理解する』という言葉がある。
ボリス・シリュルクというフランス生まれのユダヤ人の言葉だ。両親はアウシュビッツで亡くなっている。彼は六歳半のときに強制収容所に送られる直前に逃げ出して命は助かるが、終戦まで悲惨な人生を送っていた人の回顧録の中に書いてある言葉だ。
言葉の解釈の相違は、時として国同士の対立や大きな戦争に発展する。
しかし、それは、丁寧な説明と対話によって対立や戦争を回避することができる。
日本では、「英霊」の問題で長い間、海外、とりわけ中国や韓国から抗議や批判を受け続けているが、このような言葉をめぐる対立や戦争にまで発展した事例は江戸時代にもあった。私は、「文学とはある問題に対して否定や肯定を超えて第三の道を示すことにある」と考えている。
そう考えたのは、「ヴェニスの商人」における「人肉裁判」の例だ。
人肉裁判では、「血を一滴も流さずに人肉を奪う」とう予想もつなかいアイディアを提示した。人肉を一ポンド切り取るか否かの択一選択ではなく、第三の道を提示した。しかも、この提案は法を守り、社会の規範、ルールをも守るという第三の道を拓いた。一見無力なようにも見える提案であるが、理にかない法律を武器にした極めて強力な手法だ。文学で社会の不条理を突いた事例はある。
有吉佐和子は「恍惚の人」の小説によって老人介護に国の関与が必要であることを知らしめた。また、石牟礼道子は「苦海浄土 わが水俣病」によって水俣病を鎮魂の文学として描き出したことで知られる。
 英霊の問題は、中国、韓国、日本の国家の国民同士の対立を招いている。
 だが、その根本は古代から続く漢字に対する見方の違いに由来していると私は思っているが、そもそも古代の漢字をわからない人が増えているので、本来の意味を見失い、対立の原因となっているように私には思える。
 ユンハさんの言う通り、英霊の問題の解決にはこれからもさらに長い時間を要するのかもしれない。

それまでのゆったりとした音楽の流れていた喫茶店を兼ねたパン屋の店内が、バロック調の荘厳なパイプオルガンの音色にかわった。この喫茶店の中で流れる音楽は、しっとりしたゆるやかでなめらかで、おっとりとした曲調が多い。
並木の葉色に合わせるかのような曲が流れてくる。
音色が、少しずっしりと耳の中に収まるかのような重厚な音に変わった。
私はマスターが、客の話の邪魔にならないように配慮した音楽に変えたのだと思った。
かつて、喫茶店の中で、客同士が興奮気味に話をされていたことがあった。
私は、客同士の口喧嘩のような様子に不快な気分にさせられそうになった時、マスターは音楽を変更した。
客同士が口喧嘩をするには、ふさわしくない雰囲気にさせるような音楽だった。
トランペットの音が高鳴り、少しうるさく感じたが、口喧嘩をしている客同士も喧嘩のいきおいがそがれるようなテンポのずれたような音楽だったので、口喧嘩の威勢が止まり、やがて二人は喫茶店を出て行った。
その客同士が店を出たあと、その後も喧嘩を続けたかどうかは知らない。
あとで、私はマスターに「客同士の喧嘩を止める絶妙な音楽でしたね」と言うと、マスターは「喧嘩のやる気を喪失させる曲なんだ」とさりげなく答えた。
「へえー、そんな音楽があるんですね」と聞くと、「昔、心理学をかじったことがあってね。」としてやったりの表情に変わった。以来、若い恋人同士が来ると、それにふさわしい曲を選曲しているように思えた。
ふだん流れている有線放送から、マスターが選曲したCDディスクに切り替わっていることがわかる。

喫茶店は人の心をやさしくするぬくもりのある喫茶店だ。
マスターの配慮と心つかいを知る由もない私の向いに座ったユンハさんが腰を折り、私の方に顔を向けてきた。
マスターがテーブルの小さな白亜の瓶に活けた一輪挿しのバラの花を交換にきた。
トミさんがバラの花を見て、「今のこの時季のバラはお高いんでしょう。」とため息をもらした。
「暗いお話しをしていると気疲れがしてお腹がすくものね。そういえば、ここのケーキ、他に何種類かあったわね。」
ユンハさんがテーブルの左側に立てかけてある小さな冊子を開き、ページをめくった。
「今、ちょうだいしたのは、レモンケーキだったかしら。夢中で話をしていたので、何をちょうだいしたのか忘れてしまったわ」と冗談めかして笑った。
私は、エスプレッソを注文した
ユンハさんがすかさず、
「イチローくん、さっきエスプレッソを飲んだばかりでしょう。」と言った。
私は、話に夢中になっていたので、すでにエスプレッソを注文し飲み干していたことをうっかり忘れていた。
照れ隠しに、「ええ、でも私はこれが大好きなんです。」と言った。
「そう、じゃあ、私も同じにするわ。」
ユンハさんが、うしろをふりむき、「マスター、エスプレッソ2つと、マスターお勧めのケーキ2つお願いするわ。」と伝えた。

小さなパン屋を兼ねた喫茶店のガラス窓から差し込む日差しが明るさを増してきた。
雨雲がいつの間にか遠ざかり、反対側の壁面まで光が届いていた。

店内の白い壁面をゆらめく光の帯を眺めながら、私は
「人間と人間との間には本来壁はない、あるとすれば言語という名の壁だけだ。」と思った。
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登場人物紹介

私・イチロー(大学4年生)

韓国人留学生・ユンハ


イ・ユンハ 韓国からの仙台の大学に留学している女性

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