1・初めに言(ことば)があった

文字数 1,276文字

1・初めに言(ことば)があった
 教会の説教の中でとりわけ鮮明に記憶に残る説教がある。それは人それぞれに違うだろうが、私にとっては、あるクリスマスの時の説教が特に記憶に残っている。それは、「初めに言(ことば)があった」という聖句である。
 牧師は、「初めに言(ことば)があった」という説教の聖句について説教の中で解き明かしをしてくれたが、私はその聖句の言葉を目で追いながら、井筒俊彦さんという言語学者の「存在はコトバである」という本の中の一節を思い出していた。「存在はコトバである」というのは、聖書の「初めに言(ことば)があった」という箇所からヒントを得ていたのだ。「初めに言(ことば)があった」という聖書の解釈は昔から難しいと言われている。
 私の思いでは、どんな人でも存在するだけで誰かに何かを伝えている、そして生きる事自体が誰かの言葉になっていく過程なのかなと思いました。
 私の祖母は、八人の兄弟姉妹でそのうち男の兄弟四人全員が戦争で戦死した。
あとに残ったのは、四人の姉妹だけだ。祖母はそのうちの兄の戦死した日を戦後、70年を過ぎても記憶している。「昭和19年3月16日に兄は亡くなった。」というのが祖母の口ぐせだった。
私も高校一年生の春に同級生三人を大きな交通事故で一瞬のうちに失った。
その三人の顔は生涯忘れることはないのだと思う。井筒俊彦さんという言語哲学者が「存在はコトバである」の意味はなんなんだろうと時おり思い起こす。
私なりに解釈すると「どんな人でも存在するだけで誰かに何かを伝えている。そして生きる事自体が誰かの言葉になっていく過程なんだ。仮に人生を終えてしまっても、死者は人生をどのように生きたかだけでなく、どのように人生を終えたかという物語性によってこれからも生きていく人たちの生き方を変え続けていく存在となるのではないか。」とそう思えるようになっている。
では、存在とは何か?
それは、「一緒にいなくてもいられなくても、一緒にいたいと感じられる。それが存在なんだと。」そう思えるようになってきた。私は、友人三人を目の前で交通事故によって失ったことで、PTSDになってしまった。
だが、若くしてなくなった友人三人を深く考える時、今でも隣りにいるのではないかと思えるような気がするときがある。亡くなったあとで、三人のことを思うとき、いないはずの存在を隣りに感じる時がある。
隣りにいることをふと思い起こすときに、私が今まで抱えてきた傷が癒えてくるような気がしてならない。つまり、自分という存在が誰かの言葉になり続ける限り、生き続けなければならないんだと。
これから生き続けて、亡くなった友人たちのために言葉を発しなければならない。

牧師の「初めに言(ことば)があった」という聖書の中の言葉を聞きながら、私は礼拝の中で牧師の言葉のひとつひとつをかみしめていた。
人生から人間の言動が形成されるというよりも、むしろあらゆる言動から人間の人生が形成されていく。そして誰かの言葉になり続ける限り、生き続ける事が出来るのだと。

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登場人物紹介

私・イチロー(大学4年生)

韓国人留学生・ユンハ


イ・ユンハ 韓国からの仙台の大学に留学している女性

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