5・英霊の語源

文字数 4,051文字

5・英霊の語源  
「ところで、昨日のメールの件なんだけど」とユンハさんが言った。
英霊のことだ。
「イチローくんは、英霊の研究をしているんだってね。」
「いや、研究というほどのことじゃないよ。コンピューターを使って、英霊の語源が気になってずっと前から調べているんだ。」と私は答えた。
「韓国では日本の英霊を心よく思っていない人が多いのよ。私もそのうちの一人よ。だって、戦争の犯罪者として死刑になった人を英霊として靖国神社に祀るというのは理解できないのよ。ところが、日本にやってきて思うのは、日本人は靖国神社に英霊として祀ることに反対しているのはごく一部で、多くの人は何も思っていないのは一体なぜなのかしらって不思議なのよ。イチローくんは英霊について調べているんでしょう?
どうして、日本人の多くは英霊を靖国神社に祀ることに違和感を持たないのかしら?」とユンハさんに訊かれた。

 私はユンハさんに私の祖母の兄弟四人全員が戦死、英霊として神社に祀られていることを話した。
 そのうえで、日本の英霊についておおまかに話した。
私が知る「英霊」とは、戊辰戦争、日露戦争から太平洋戦争まで戦死した戦没者のことだ。鳥羽・伏見の戦いや、戊辰戦争の戦没者が明治二年(一八六九)英霊として招魂社に祀られ以来の日本における英霊の歴史は、一六〇年程度だ。だが、中国の古代の歴史をたどっていくと「英霊」は、千八百年前の三国志の時代にまでさかのぼる。日本人の考える英霊は、幕末・明治時代以降の日本人の英霊のことだが、中国人の考える英霊は、千八百年も昔の蜀の時代の英霊のことだ。そう考えると中国人が靖国神社の英霊に批判されるのは腑に落ちない。
だが、中国は文化大革命で多くの辞書を焚書で焼き払った。このため、古代の漢字を調べる文献が失われていた。だから、中国政府は、日本の「大漢和辞典八〇〇冊を購入し中国の各大学に配布している。
靖国と英霊が古代中国にその語源の源流があることの情報がないのだ。
韓国も漢字からハングル語に切り替えたことで、英霊と靖国の言葉が、中国大陸から朝鮮を通り、日本に伝来した情報が漢字を通してその情報を知ることができなくなっている。
日本でも古事記や日本書紀、あるいは神皇正統記を原文の漢字で読む人は専門家以外に読めなくなってきている。韓国の人々が日本の靖国神社と英霊を批判する背景として、歴史と文献に関する理解不足と認識不足、そして対話の不足が主な原因としてあげられると思うと話すとユンハさんはうなずいた。
「韓国人の私が考える英霊と日本人の考える英霊は違うという意味なのかしら?」
「それは、日本人でさえ曖昧になっている。日本は古代からずっと英霊が日本の守ってきたという人がいるが、実際、日本には英霊という言葉自体がなかったんです。日本人が戦死者を英霊として祀る言葉として使ったのは幕末明治以降です。だから、古代から日本の国を守ってきたのは天照大明神を含めた神霊ということになる。」
「なぜ、英霊という言葉が日本の神ではないということがわかるの?」とユンハさんに訊かれた。

そこで、私はユンハさんに三国志の漢文の入ったタブレットの画像を見せながら説明した。
三国志演義を読むと、諸葛孔明は敵と味方の区別をすることなく戦死者を等しく慰霊の祈りを捧げている。
諸葛孔明は、敵の戦死者も許し「鎮魂」の祈りを捧げている。
私は、「靖国」「英霊」「招魂」などの語源を時系列で調べてみた。
世界中の大学や研究機関を結ぶデータベースを活用し、過去十年間にインターネット上に公開された情報検知システムになる十億本の論文・文献などウェブページにある公開情報(学術フルテキストデータベース)と照合できるオンラインツールにアクセスをして調べてみました。
検索でヒットした「三国志演義」の漢文の全文を中国の大学の研究機関のサイトから全文をダウンロードし、そこから語彙検索で「英霊」の該当箇所も調べてみた。
英霊や招魂あるいは、靖国という言葉自体も古代中国の言葉だということがわかる。
あらためて、三国志演義の漢文の中の「英霊の文字」の全文検索をしてみると、
第41回・望兄英靈垂、
第57回・英靈之氣、
第91回・汝等英靈尚在、この3ヶ所に英霊の言葉が出てくる。
また、招魂の言葉は、第63回、第78回、第91回という具合に、列記されている。
私が一番関心をもっているのは、三国志第91回の諸葛亮が南蛮の孟獲(もうかく)を平定した後、祟りを鎮めるために、祭祀を行う場面だ。
「列燈四十九盞、揚旛招魂」(四十九の燭台を立て招魂の旗を掲げよ)
「汝等英靈尚在」(汝らに英霊があれば聞かれよ)
英霊の言葉の語源が、古代中国まで遡ることをこのときに始めて知った。
すると、日本の戦死者を英霊としたのは一体誰なのだろうか?
これには、日本の資料にはさまざまな意見がある。代表的な意見が幕末の藤田東湖という国学者が作った『文天祥の生気の歌に和す』という漢詩の中から英霊という言葉を選んだという説が一般的だ。
漢詩の中に『英霊いまだかつてほろびず』という言葉がある。
その言葉が、幕末の吉田松陰や志士たちの共感を呼んで、明治維新期の官軍や日露戦争で亡くなった人たちの霊を『英霊』と呼ぶようになった。
文天祥は、中国の皇帝に忠誠を尽くした官人だ。
藤田東湖は、文天祥の『正気の歌』に感動して漢詩を作り、その中に『英霊』という言葉を入れたのだと思う。だが、文天祥の歌の中には、『英霊』の文字がない。

藤田東湖は『英霊』の言葉をどこから持ってきたのだろうか。
古事記や日本書紀や万葉集、あるいは新皇正統記などの日本国内の文献を調べたけど英霊に文字はなかった。
藤田東湖は、文天祥の漢詩が気に入り、英霊という言葉を自ら撰んだのだと思う。
出典は、中国古代の文献だ。英霊の出典の頻度を考えると、藤田東湖は、三国志から諸葛孔明の言葉の中から英霊という言葉を撰んだのだと思う。
靖国神社の境内に咲いているソメイヨシノやマザクラのサクラって字は、昔から日本にある『やまとことば』だ。
だが、英霊は奈良時代や平安時代の『やまとことば』ではないことは確かだ。
英霊が、中国由来の言葉であることは漢詩を作った藤田東湖が一番よく知っていたはずだから、日本古来の慰霊をして祀るという意味でなら、日本古来の「やまとことば」である神霊を用いたはずだ。
だが、英霊という言葉を用いた。なぜか?
三国志にある諸葛孔明が戦死者の英霊に祈りを捧げたことが影響している。
靖国神社の英霊の名づけ親である藤田東湖が生きていた時代で、漢文を自由に書くことができる書物で英霊の文字が出てくるのは三国志以外存在しないからだ。

「藤田東湖が英霊の言葉を日本で初めて使ったということは本で知っていたけど、英霊が古代中国までさかのぼることを調べたのはイチローくんが初めてなんでしょう?」
「いや、幕末明治時代の漢学者は知っていたと思う。
漢文の三国志正史や三国志演義を読めば、英霊という文字が出てくるので、これは中国古代の文献から由来するものだということを知っていたと思う。ただ、そのことを公(おおやけ)に言うことができない時代の空気があると思う。それは、今でも同じでないかと思うよ。英霊が中国古代に由来する言葉だと言っても、『それが何だ』ということになると思う。」と話した。

私は、タブレットを開いて諸葛孔明が戦死者のために祈ったことに漢文を見せた。
「建興3年(225年)秋9月1日、武鄕侯・領益州牧・丞相諸葛亮、謹陳祭儀、享於故歿王事蜀中將校及南人亡者陰魂曰」と漢文で書いてある。
漢文では、『王事蜀中將校及南人亡者陰魂曰』と書いてあるから、諸葛孔明は、敵味方の区別なく、戦没者のために招魂と鎮霊の祈りを捧げているということになる。
すべての戦死者を弔うために祭祀を執り行ったのだ。
すくなくとも、1800年前の三国志の時代に諸葛孔明は戦死者のために祈りを捧げていた。
中国の古代において、諸葛孔明が英霊に対して祈った時代は、建興3年(225年)である。
「ユンハさんは、英霊を天上にいる霊だと思っているでしょう。」
そうね、天上にいて私たちを見下ろしている英霊だと思うからこそ、戦犯となった英霊からも神となって見下されていると思うから韓国の人たちは納得できないんでしょうね。」
「でも、中国人や韓国の人が考える英霊と靖国神社の英霊はちょっと違うと思っている。その証拠に日本の英霊は靖国神社に行かなければ会えない存在なんです。霊魂として、霊璽簿に鎮座している。だから、中国の英霊のように韓国の空から韓国人を見下ろす存在ではないです。」
「すると、古代中国の英霊と日本の英霊は、どう違うのかしら?」
「古代中国の英霊は天上にあり、日本の英霊は神社の霊璽簿の中に鎮座している、というふうに区別されると思う。もっとも、英霊を神霊と同一に考えている人もいるけど、そうなると鎮座している霊璽簿と天上にいる神霊との区別がつかなくなり、その辺は学問的に整理されていないと思う。というより、まだ、私の文献資料の検索が不十分なのかもしれないけどね。」
「日本では漢文を読める人が少なくなり、韓国でも同じでしょう。中国でも文化大革命で貴重な文献が失われたために古代中国の歴史研究がわからなくなってきており、そこへもって、英霊の問題で、その語源がどこにあるのかさえわからなくっているので、英霊の問題が紛糾しているのではないかと私は思っている。」
過去も現在も未来も同時に流れている。過去は人間が見なかったものと見えなかったものが何かを現在に示し、未来は人間が何を見なければいけないのかを現在に語りかける。現在は過去と未来からの働きかけに対して何をすべきで何をすべきでないかを選ばなければならない。
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登場人物紹介

私・イチロー(大学4年生)

韓国人留学生・ユンハ


イ・ユンハ 韓国からの仙台の大学に留学している女性

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