5 私小説とプロレタリア文学

文字数 4,901文字

5 私小説とプロレタリアア文学
 そのプロレタリア文学を読んでみると、柄谷の言うこの第一次転向が明らかとなる。大正末期から昭和初期にかけて、空前の円本ブームなどによって大衆文化が確立していたが、第一次世界大戦後の経済恐慌、関東大震災、世界恐慌による経済混乱と農村恐慌によって社会不安が増大する。プロレタリア文学はこうした歴史的・社会的な背景から生まれている。1921年(大正10年)に、『種蒔く人』が創刊されたのを出発点として、24年には『文芸戦線』の発刊、25年に、日本プロレタリア文芸連盟の結成と急速に勢いを増す。当初、プロレタリア文学は、『セメント樽の中の手紙』(1926)の葉山嘉樹に代表されるように、労働者による自然発生的な運動であったが、青野李吉らの主張によって社会改革の政治的な色彩が強くなっている。

 プロレタリア文学が登場する前に文学界に君臨していたのは「反自然主義のチャンピオン」と呼ばれた芥川龍之介であり、第一次転向は芥川に対する批判の形態をとっている。例えば、プロレタリア文学の作家たちは、宮本顕治の『敗北の文学』を代表に、芥川は労働者階級から遊離したプチ・ブルジョア階級の作家であったから自殺してしまったのだという意見を発表している。彼らの政治的意見は、芥川の希死念慮を利用して、文学的には主張されている。こうした経過を経て、プロレタリア文学はマルクス主義的な政治的目的への奉仕を強いられることになる。この強制力が、彼らにとって、耐え難いものだったことは否定できない。もともとプロレタリア文学はマルクス主義とは直接的な関係を持っていなかったのだから、転向は、柄谷の指摘する通り、この時期に用意されていたと言っていいだろう。芥川に対する批判を「第一次転向」とするならば、プロレタリア文学の作家たちだけでなく、当然、芥川に対する代表的な文学的批判者である谷崎も小林秀雄も転向のカテゴリーに入らざるを得ない。

 坂口安吾は、『新らしき文学』(1933)において、そのプロレタリア文学をめぐって次のように批判している。

 現在プロレタリア文学は、その反逆的な闘争的な点に於て一つの意義と役割をもつが、人間を安易に仮定し、文学の唯一の領域たる個体を、血と肉に縁のない概念の中へ拉し去り曖昧化し、科学への御用的役割を務めるのは凡そ意味ない。文学本来の面目に反している。
 現在ソヴィエト・ロシヤに於て文学に課せられた一つの課題は社会的な感情を探り出し書きあらわすことであるというが、文学の反逆的な役割を巧に瞞着した為政者の手腕もさる事ながら、漠然として社会感情を探しあぐねるロシヤ作家のだらしなさは滑稽である。文学は永遠に政治に対する反逆である。個人のために血と肉の人間悲劇を語らなければならない。
 日本のプロレタリア文学は一つの宣伝文として或いは有効である。なぜなら科学と協力し妥協することによって、一つの昂奮をもたらすことができるから。しかしそれは文学本来の昂奮でなく、感銘でない。むしろ完全に非文学的なものである。やがて政治の御用文学となるそれである。それはもはや文学でない。

 文学が扱うのは、「個体」であって、「科学」の扱う一般性ではない。しかし、プロレタリア文学は個人についてではなく、階級をめぐって書かれており、労働者や農民といったプロレタリアートとブルジョアジーとの関係という一般的な問題系にある。プロレタリア文学はそれが基づいている「科学」によって読まれているのであって、作品そのものの持つ魅力はほとんどない。プロレタリア文学は「科学」に基づいた政治に奉仕しているが、そもそも文学は「永遠に政治に対する反逆」であって、政治に従うべきものではない。プロレタリア文学は「科学」という虎の威を借る狐にすぎない。

 プロレタリア文学はマルクス主義の外皮を被ってはいるが、それを文学として存立するために利用したにすぎず、マルクス主義など不必要である。本来、文学としてとても扱うことができないものでも、マルクス主義という衣装をまとうとき、馬子にも衣装の諺のように、とりあえず文学として論議される対象となる。しかし、目を奪われているのはマルクス主義という衣装であって、その作品ではない。

 いかに同時代的に影響を与えていたと言っても、すでに当時から批判されていたことだが、小林多喜二や宮本百合子らプロレタリア文学の作品は、主題も非常に素朴であり、表現も稚拙で、読むに耐えるものではない。例えば、『蟹工船』が文学史に上るのは、警察の拷問によって惨殺された小林多喜二の作品だからであって、その逆ではない。そうした前知識のない読み手によって『蟹工船』が高い文学的評価を受けるかどうかははなはだ疑問である。それらは文学と言うよりも、むしろ、ルポルタージュ的作品だろう。

 ルカーチも、『ヴィリ・ブレーデルの長編小説』(1931)において、プロレタリア文学におけるルポルタージュ的な要素を弁証法の欠如であると厳しく批判している。このルカーチのエッセーをきっかけとして「ルポルタージュ=形象化論争」がヨーロッパでは起こっている。こうしたプロレタリア文学のほとんどの作品にはマルクス主義にとって肝心の弁証法が体現されてはいない。福本和夫によって階級意識や階級闘争、主体性が日本のマルクス主義運動に導入されたにもかかわらず、そこにはマルクス主義の根本にある弁証法が表われていない。例えば、プロレタリア文学は資本家や警察は圧迫者であり、労働者や農民は被迫害者であるという素朴な図式によって成立している。被害者意識やルサンチマンに満ちあふれた作品が始まってから終わるまで、この図式は決してゆるがない。労働者や農民は作品が終わっても、必ずしも、勝利者になることはなく、資本家や警察によって迫害されたままで、この二項対立は弁証法によって合一されることはない。プロレタリア文学は知的なものを排除し、そこにあるのは「都会の文化や伝統的な文化を直ちにブルジョア文化と片づけ、職工達の小学校だけの教養や農村の貧しい教養をプロレタリヤ的だと云って謳歌した反動性」(安吾『地方文化の確立について』)である。

 転向以前に発表された中野重治の『春さきの風』も、やはり、この図式に基づいている。

「おまえは村田の女房か?」
「そうです。」
「名前は?」
「村田ふく。」
「村田なに?」
「ふ、く。」
 高等は形相を変えた。
「ふ、く。何だ、それは? そんなことだから検束されたり、監獄へぶち込まれたりするんだ、馬鹿。」そして吐き棄てるようにいった、「それでよく人の女房が勤まるな。」
 母親が答えた。言葉が口から出るのにつれて顔が蒼くなっていった。
「わたしらは労働者ですから、金持ちのお嬢さんのような教育は受けておりません。これで十分女房の役が勤まります。」
 高等は持っていた鉛筆を放し、椅子から腰を上げ、非常に大きな平手打ちを母親の左頬にくれた。
 大きな手形が顎から瞼、眉の上へかけて赤黒く浮き上った。
「はいれ!」
 風の音の中で母親は死んだ赤ん坊のことを考えた。
 それはケシ粒のように小さく見えた。
 母親は最後の行を書いた。
「わたしらは侮辱の中に生きています。」
 それから母親は眠った。

 この時期の中野の作品は、他のプロレタリア文学の作品と同様、弁証法が内的論理として、体現されていない。それは私小説と言ってよい。プロレタリア文学の作品は「不快」に始まって「調和的気分」に終わるという気分の移行によって形成されている志賀直哉の私小説と同じ構造を有している。転向後プロレタリア文学の作家たちは私小説を書き始めたが、もともと彼らはプロレタリア文学の作品を私小説のヴァリエーションとして、志賀直哉の私小説の中にもルポルタージュ的な作品が少なくないように、書いている。

 小林多喜二や宮本百合子は、中野とは違って、公然と志賀を評価している。私小説は気分を作用する主体とし、それ以外を客体とする散文形式であり、そこでは、中心的人物に主体性はない。一方、プロレタリア文学の作品において、中心的人物には、厳密な意味においては、主体性がなく、共産主義のテーゼに従うだけである。作用する主体である気分は、プロレタリア文学において、共産主義や共産党、党の方針という主題の形をとっている。プロレタリア文学において、共産主義は到達されるべき理想である。

 しかし、マルクスは、『ドイツ・イデオロギー』において、共産主義について次のように書いている。

 共産主義とは、われわれにとって成就さるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成されるべきなんらかの理想ではない。われわれは現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、今現にある前提から生じる。

 ところが、私小説は静的であり、マルクス主義のような動的側面に乏しく、プロレタリア文学は、その形式において、「現状を止揚する現実の運動」を秘めておらず、革命的ではない。志賀直哉の私小説は内村鑑三の告白、すなわち内村の唯一神教的なキリスト教に対する反テーゼとして出発している。転向の図式はこの私小説と主体性に基づいた告白、すなわち志賀直哉と内村鑑三との関係に負っている。キリスト教の場合、その入信にしても棄教にしても、志賀がそうであるように、内村に対する個人的な崇拝・離反から生まれている。内村という個人が党などに変わっただけで、マルクス主義の場合も、これとまったく同じ構造を有している。

 福本和夫や小林秀雄はマルクスの名によってプロレタリア文学を批判している。しかし、マルクスを用いてプロレタリア文学を批判することはさほど困難ではない。マルクスにとって「政治と文学」といった問題はありえなかったし、もともとマルクス主義とプロレタリア文学は無関係だからである。むしろ、プロレタリア文学はマルクス主義に従属していたのではなく、マルクス主義を従属させようとしている。このようなプロレタリア文学の作家たちによって、主体性を導入しようとした福本主義が否定されることになるのは、当然のことであろう。

 ところが、この時点で私小説を書きながらも、中野重治は、他のプロレタリア文学者とはすでに異なっている。と言うのも、『むらぎも』が明らかにしているように、むしろ、プロレタリア文学の作家たちが批判していた芥川を評価しているからである。芥川の作品は古典に題材をとった前期と「『話』のない小説」の後期とに大きく二つにわけられるが、彼は後期の作品によって前期の作品を自己批判している。後期の作品は前期の作品が追及していた主体性批判であったけれども、それでは、安吾が『文学のふるさと』で紹介している彼の遺稿が示しているように、不十分なことは承知している。芥川の遺稿は、プロレタリア文学者などの彼に対する批判以上に、すぐれた批判になっている。

 安吾は、『文学のふるさと』において、プロレタリア文学からの批判とは逆に、芥川には生活があったと次のように指摘している。

 とにかく一つの話があって、芥川の想像できないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。
 つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。

 プロレタリア文学者は芥川を「突き放し」ていたかもしれないが、「芥川のすぐれた生活」は「突き放されたという事柄のうちに」ある。彼らには、芥川と違って、「突き放された」ような認識はない。中野だけが芥川の認識に気づいている。中野の転向は、その根本において、ほかのプロレタリア文学者たちとは異なり、独特なものであると言っていいだろう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み