8 自己超克としての転向

文字数 4,595文字

8 自己超克としての転向
 中野にとって、転向は突然降って沸いたように現われてきたものではない。じわじわと中野に浸透している。しかし、内面のドラマではない。自分自身がそれまでかたく信じてきたものの上に、新たな考えが、自らの意図に逆らうかのように、覆い被さってくる。中野にとって、その事態は必ずしも好ましくない。

 中野は、「『文学者に就て』について」において、小林多喜二を思い出しながら、次のように述べている。

 弱きを出したが最後僕らは、死に別れた小林の生きかえってくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。僕が革命の糖を裏切りそれにたいする人民の信頼を裏切ったという事実は未来にわたって消えないのである。それだから僕は、あるいは僕らは、作家としての新生の道を第一義的生活と制作とより以外のところにはおけないのである。もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的綜合の中へ肉づけすることで、文学作品として打ちだした自己批判をとおして日本の革命運動の伝統の革命的批判に加われだならば、僕らは、そのときも過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮べたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。

 何のこだわりもなく、転向していくことは、すなわち転向することを自明の条件とすることは中野にはできない。と同時に、彼は過剰な罪の意識を持つことが転向を覆い隠すための身振りにすぎないとも感じている。中野は何が起ころうとも信じていくことを決意していたにもかかわらず、転向してしまう。彼は信じていようとするがゆえに転向する。中野はそれに負い目を持つことなく、文学作品を通して自己批判を行おうとする。中野にとって、転向が重要なのではない。新たな考えが入って自分を占めてしまうことが大きい。

 だが、父親の孫蔵はそういう勉次には不満を感じている。孫蔵には、息子が決意したものを翻したこと、すなわち信じていたものに殉死しなかったことや負い目一つ感じず恥知らずにもまた書こうとしていることが許しがたい。この孫蔵に対する解釈は多岐にわたっている。吉本隆明は、『転向論』において、彼を「日本封建制」の権化としてとらえているし、柄谷行人は、『死語をめぐって』において、彼を「知識人に対して職人の名において語るもの」としてとらえている。あるいは父と子、すなわち世代間の対立としてとらえているものもいる。おそらく、それらの解釈は部分的に間違っていない。

 しかし、孫蔵に関する次のような説明がそれでは不十分なことを明らかにしている。

 孫蔵は正直者で通っている。それも百姓風な頑固ものではない。永くあちこち小役人生活をして、地位も金も出来なかった代わりには二人の息子を大学へ入れた。先代の太兵衛はわけもわかる代り名うての頑固ものだったが、孫蔵の方は十七、八貫もあるからだて口喧嘩一つしたことがない。喧嘩話を持ち込む近所合壁の嫁姑は、太兵衛には頭ごなし叱りつけられたものだったが、孫蔵になってからは世間話をしているうちに自分から取り下げるような具合である。長男の耕太が、大学を出て一年たたずに死んだ時も孫蔵は愚痴一つこぼさなかった。どこかに火事でもあれば、一里半や二里のところは真夜中でも草鞋ばきで見舞いに出かける。代々酒のみの家で、孫蔵も酒量ではひけを取らなかったが、声が大きくなるくらいで乱れたことはない。(略)それやこれやで彼は、家族からも親類うちからも、村のものからも尊敬されている。

 孫蔵は人望もあり、寛大で、子どもに対して理解力ある親である。彼は、妻のクマと違って、「息子が刑務所に入っていることに何のひけ目も感じなかった」。と言うのも、「うちの教育方針は決して悪るない。いい悪いは知らんがまちごうてはいぬつもりじゃ」からである。孫蔵は共産主義活動に必ずしも否定的ではないが、そんなことをしている間は地に足が着いていない証拠だと感じ、肯定的でもない。それは若いときのはねあがりのすること、若気のいたりである。孫蔵は、それだけでは、なかなか図式的には扱いにくい存在であるが、彼の本質は息子との対話によって顕在化する。

 孫蔵は勉次をたんなるロマン主義者と見なしている。しかし、孫蔵もまたもう一つのロマン主義者である。転向する前の勉次と孫蔵は、それぞれニーチェが『反時代的考察』の中で提唱した人間像、すなわち「ルソーの人間」と「ゲーテの人間」、沈黙する勉次は「ショーペンハウアーの人間」に対応させることができよう。ニーチェは、『この人を見よ』において、『反時代的考察』がアルトゥール・ショーペンハウアーの理解に役立つとは考えてはおらず、自分自身だけを語っていることを否認しないと明かしている。ニーチェは、この著作において、ルソーやゲーテ、ショーペンハウアーを、『悲劇の誕生』におけるリヒャルト・ワーグナーと同様に、比喩として取り扱っている。

 まず、「ルソーの人間」は、「最大の火」を持ち、「最も通俗的な影響を及ぼす」。彼は「自然だけが善だ、自然人だけが人間だ」と叫ぶ。だが、そうしたことはただたんに現にある自分自身を否定しているにすぎない。「ルソーの人間」は熱狂的な革命への行動的な希求を持つと同時に、強い現実否認と本来性への憧憬をも持っている。あるいは、それは青年期的な急進的で素朴なロマン主義的精神と言ってもいいだろう。

 次に、「ゲーテの人間」は、「ルソーの人間」が浸った熱狂的な状態への「鎮静剤」である。「ゲーテの人間」はファウストによって象徴的に描かれている。ファウストは、一見したところでは、ルソー的なロマン主義的精神を体現しているようであるが、実は、決定的な行動を避けており、「ルソーの人間」とは異なっている。「ゲーテの人間」は「諦念」に基づいた「高次の様式における静観的人間」であり、「保守的調和的な力」を持っている。しかし、同時に彼にはたんなる俗物に成り下がってしまう危険性がある。あるいは、それは「ルソーの人間」によって体現されるロマン主義的精神が世俗的な現実社会によって挫折し、世俗的な現実社会との通俗的内面化による調停した結果の姿と言ってさしつかえないだろう。

 最後に、「ショーペンハウアーの人間」は、「ゲーテの人間」に欠けているメフィストフェレース的な「悪」を保持している。そのため、「ショーペンハウアー的人間像がわれわれを鼓舞してくれる」。「ショーペンハウアーの人間」は「ゲーテの人間」の「単に観想すること」に、さらに、人間の自己自身に対する「誠実」の能力を加えて持っている。「自己自身を認識された真理にいつでもその第一の犠牲として捧げ、どういう苦悩が自己の誠実から湧き出て来ざるをえないか」を見据え、それに従うことに生きる本質的な意味を認める人間が「ショーペンハウアーの人間」である。

 しかし、この「ショーペンハウアーの人間」は、人間の諸矛盾を顕在化させてしまうために、悪意ある皮肉屋として疎んじられてしまうことも少なくない。だが、彼の態度はたんなる弱者の悪意ではない。「ショーペンハウアーの人間」の持つ「否定や破壊」、さらにそこから派生してくる「苦悩」を自らわが身にひきうけることを忘れない。それにより、「ショーペンハウアーの人間」は、言葉や思想をたんなる観想や調和の視座に貶めることなく、真に現実的かつ活動的なものにする。「ルソーの人間」から「ゲーテの人間」への移行は成熟ではなく、通俗化、すなわち、はねっかえりが、たんに年をとるとともにすっかり落ち着いて、足を洗うという通俗化なのであり、「ショーペンハウアーの人間」への移行だけが成熟である。勉次の感じた孫蔵の主張の「罠」はこの通俗化にほかならない。

 「ショーペンハウアーの人間」への移行はたんに「ルソーの人間」が表わしているロマン主義への回帰ではなく、「ゲーテの人間」がもたらす鎮静化という「罠」に陥ることなく、その先にある精神の成熟する可能性の希求である。「ショーペンハウアーの人間」は「ルソーの人間」が抱く理想と憧れをそれが現実の中で容易には生き延びられないことを十分踏まえた上で、にもかかわらず、生の目標を「個々の生存をいかに肯定するか」に定めることによって、生き延びさせる可能性を求めている。

 だが、そう解釈したとしても、主人公が「いま筆を捨てたら本当に最後だと思った」ということには謎が残る。父親はとにかく一度筆を捨てて働いてみて、その後で落ち着いた上で、それでも書く意欲が起こったら、また始めたらいいと言っている。父親が指摘するように、作家活動を一度休業して働いて、その後に書くこともできるにもかかわらず、続けなければ、自分は終わりだと感じている。それは、意地や自尊心、虚栄心ではないし、書くことが好きだからでもない。一度筆を置いて他の仕事をメインにすると、何かが失われてしまう。筆を捨ててしまうと、本物の自分自身と偽者の自分自身をロマン主義的につくりあげ、内面に逃げこむという通俗的なことをするからである。

 また、共産党員であることを認めるか否かもこの次元にある。政治活動をするかしないかは行為であって、内面の問題ではない。他方、共産党に属しているか否かは行為ではなく、認知の問題であり、内面化の「罠」が潜んでいる。それに同意するとき、内面化が始まる恐れがある。主人公が結局その点を認めるのは、誰かに責任転嫁する可能性がなくなり、自己欺瞞・自己倒錯による内面化する危険性が失われたからである。

 日本の歴史上、柄谷行人の『近代日本の批評 昭和前期[Ⅰ]』によれば、初めて自己批判が問題になったのはマルクス主義においてである。中野の転向はこの自己批判である。一方、彼以外の転向者は自己憐憫・自己嫌悪を意味している。「近代人の自意識」を持つものたちにとって、内面の存在など自明の条件であり、内面化に対する抵抗など意味をなさない。しかし、中野にとっては、内面はニヒリズムの一種である。中野は、他のものとその違いに触れたとき、「錯乱」せざるを得ない。

 中野が真に転向するのは転向声明を出したときではなく、父親との対話の弁証法によってである。中野は父親と対話をする前は「ショーペンハウアーの人間」ではなく、まだ「ルソーの人間」に近い。ここで「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」と言うとき、転向は主体の問題ではなく、意志の問題になる。転向者の中で転向を意志の問題としてとらえていたのは中野重治だけである。

 「恥知らず」なのかもしれないと思いながらも、「罠」を感じるがゆえに、書くことを意志する。そのとき、中野は、転向において、負い目を生み出すことなく、肯定的な生きることの価値を創造しようという意欲が明確に生じている。意志は自意識以前のものであり、その領域の問題として転向を把握するならば、そこに心理的・内面的説明は入りこむことができない。それにより、中野は転向において新たな価値を創造する。転向の価値基準はその意欲にある。意欲に価値基準を置くならば、転向のことで言い訳することなど不必要だろう。中野重治は意志の人間である。
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