1 吉本隆明の転向論

文字数 5,484文字

中野重治の『村の家』、あるいは転向の文学
Saven Satow
31. Oct, 1992
  
「しばしば勇気の試練は死ぬことではなく、生きることだ」。
ヴィトリオ・アルフィエリ『オレスト』

1 吉本隆明の転向論
 カール・マルクスの『経済学・哲学草稿』が発見され、日本では五・一五事件が起こり、ドイツではナチス政権が誕生する前年でもある1932年(昭和7年)、日本の警察は1927年にコミンテルンが天皇制打倒を第一目標として要求したマルクス主義者たちへの取り締まりをこれまでにないほど強化し始める。この取り締まりは、実は、もともとマルクス主義運動そのものの撲滅を目的としたものではなく、1931年に始まった満州事変とそれに続いて37年に引き起こされることとなる日中戦争のための国内安定を目的とした後方支援の色彩が強い。

 その年の三月から四月にかけて、主要な関係者たちは一斉に検挙・逮捕される。日本が国際連盟から脱退した翌年の1933年、小林多喜二が、警察の取り調べ中、拷問によって虐殺され、同年、獄中にあった日本共産党幹部佐野学・鍋山貞観の二人が『共同被告同志に告ぐる書』と題された共産主義運動から転向するという声明を発表する。それをきっかけとして、佐野や鍋山に続き、数多くのマルクス主義政治活動家、文学者たちが転向を公表し始める。

 この転向は、日本近代文学史において、重要な主題の一つである。転向をめぐってすでに多くの論考がなされているが、その中で最も代表的かつ規範的な考察の一つとして、吉本隆明の『転向論』(1958)があげられる。

 吉本隆明は、『転向論』において、日本における転向を次のように定義している。

 わたしの欲求からは、転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考転換をさしている。したがって、日本の社会の劣悪な条件に対する思想的な妥協、屈服、屈折のほかに、優性遺伝の総体である伝統に対する思想的無関心と屈服は、もちろん転向問題のたいせつな核心の一つとなってくる。
 習慣的な意味で、転向というとき、共産主義者が、共産主義をすてて、主義に無関心となることや、すすんで他の主義に転ずることをさしており、もっと狭義には、共産党員が組織から離脱して、組織無関心になることを意味している。このような転向の定義は、昭和八年、佐野学、鍋山貞親が「共同被告同志に告ぐる書」を公表して、政治思想上の転換を声明したとき使用され、それにつづくマルクス主義政治運動家、文学者の錯綜した屈服と屈折に対して慣用されてきた。しかし、これらの転向は、けっして別種のものではなく、転向のなかの特殊な一つのケースにすぎない。ただ、日本の社会構造をつかまえることが必須の課題である革命的な自己意識のあいだにおこり、しかも、長期間の投獄か、死か、という権力からの強制によって自己意識の変換を迫られたため、日本的転向の特長が、このケースにもっとも鋭い形で、象徴的に集中せざるをえなかったのである。転向論が、ここを中心に展開されたのは当然だが、転向のカテゴリーをここに限定することは、それほど意味があるとは、おもわれない。わたしのかんがえでは、「非転向」的な転向も、「無関心」的な転向もありうるのだ。
 (略)わたしは弾圧と転向とは区別しなければならないとおもうし、内発的な意志がなければ、どのような見解をもつくりあげることはできない、とかんがえるから、佐野、鍋山の声明書発表の外的条件と、そこにもりこまれた見解とは、区別しうるものだ、という見地をとりたい。また、日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである。生きて生虜の恥ずかしめをうけず、という思想が徹底してたたきこまれた軍国主義下では、名もない庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あるいは捕虜を恥辱としたのは)、連帯認識があるとき人間がいかに強くなりえ、孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ。

 吉本は、転向と「権力の強制、圧迫」による弾圧を区別し、転向の日本における特徴を「大衆からの孤立(感)」の視点から明らかにしようとしている。この吉本の考察はその前年に発表された本多秋五の『転向文学論』を踏まえている。

 本多秋五は、従来、共産党からの離反を転向と定義してきたのに対して、転向を、吉本の説明によれば、「輸入思想の日本国土化の過程に生じる軋り」であると見なす。一方、吉本の『転向論』のモチーフは、転向を本多のような倫理的基準からではなく、社会的構造とその認識の側から扱うことにある。人間は意志的に善も悪もなし得ないのであって、善や悪とされているのは「関係の絶対性」(吉本隆明『マチウ書試論』)によって規定された相対的なものにすぎず、意志的な行為と考えているものはまったく責任と呼べるものではない以上、道徳的基準によって転向を論ずることは意義深いものではない。

 吉本は、そうした認識から、転向を「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考転換」と定義する。吉本はこれまでの素朴な転向=非転向という二項対立によって解釈されてきたこの問題に新たな視点を提示する。吉本は、今までの転向をめぐる論議は氷山の一角を見ていたにすぎないとして、現実認識に関する自己批判としてとらえ、「『非転向』的な転向も、『無関心』的な転向もありうる」と告げる。吉本にとって現実から乖離した態度はマルクス主義を捨てようが、執着しようが、転向に属する。現実離れしていたとしてマルクス主義思想から無批判的に日常生活に追従する態度変更は転向である。また、現実を無視してイデオロギーに固執する姿勢も無批判的であるために転向だ。現実と思想の再帰的作用がないものを転向と呼んでいる。言い換えると、一般的な転向=非転向は行動によって判断される。一方、吉本は認知に焦点を当てる。認知が行動の正当化のために変更されれば、それは転向である。「『非転向』的転向」は酸っぱい葡萄の心理操作を思い起こせばよい。

 世界的にも、アルベール・カミュのように、マルクス主義から他の政治思想への転向もあれば、逆に、ジャン=ポール・サルトルのように、他の政治思想からマルクス主義への転向もあり、両者共に弾圧されていたわけではない以上、転向と弾圧は明確にわけられている。ただし、「マインド・コントロール」が一般的に知られることになった現在では、あのような状況下では転向声明は同情すべきことだったと推測しなければならない。弾圧は転向のきっかけとなったかもしれないが、両者を明確に区別しなければならない。

 日本の転向を論ずる場合に、ある前提を考慮しなければなるまい。日本の転向の特徴を語る際に忘れてはならないことは、理論的な指導者たちから亡命者をほとんど出さなかった点である。亡命を視野に入れず、鶴見俊輔のように、転向をただ「権力の強制、圧迫」の問題としてしまうのは不十分である。と言うのも、日本の転向は、実は、マルクス主義を放棄するか否かが必ずしも問われることではなく、非合法組織(共産党)を通じた政治活動から身を引くことを意味しているからだ。例えば、蔵原惟人は、政治活動から身をひき、合法的な範囲で著述活動をするが、マルクス主義は放棄しないとして下獄している。彼は政治活動を続けるか否かに基準にすればそれは転向であり、マルクス主義を放棄するか否かを基準にすれば非転向であり、蔵原は転向でも非転向であり得る。マルクス主義者であることと共産党などの非合法組織に属していることが同じ意味として一部で考えられていたことが、転向と弾圧が混乱されてしまった理由の一つであろう。

 日本の地理的事情や日本語の置かれている世界的な位置も考慮しなければならないだろうが、アメリカ・メキシコ・カナダの共産党結成に協力した片山潜らもいたにもかかわらず、日本の理論的マルクス主義者からは、モスクワ詣ではかなり行われていたし、知的影響をまったく残さなかった野坂参三らはアメリカに亡命しているものの、その行動は実行されず、あまり主張されていない。

 しかし、マルクス主義にとって、亡命することは必ずしも致命的な問題ではない。例えば、カール・マルクスも亡命者であり、ウラジーミル・レーニンやレオン・トロツキーも西欧諸国に亡命している。彼ら自身は転向するよりも、むしろ、亡命を選ぶ。彼らは亡命をして、それぞれ自己批判をし、理論をさらに発展させている。

 マルクスの『資本論』や『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』といった著作は亡命下において書かれたものである。マルクスが初期から後期へと転回するには、当時資本主義が最も発達していたイギリスへの亡命が不可欠である。その亡命が彼の転回を強いている。初期マルクスは後期マルクスによって、その後期マルクスも大英博物館で執筆された『資本論』によって発見されたものだ。マルクスは、実は、イギリスどころか、経済的に許されれば、アメリカへの亡命すら考えている。ところが、日本においては、知的に優れた理論的マルクス主義者からはほとんど亡命者を出すことなく、転向者を大量に生んでいる。

 このような事態を引き起こした理由の一つとして、当時の日本のマルクス主義者の組織が一様に弱体であった点があげられる。日本のマルクス主義組織は亡命して新たに立て直しをできるほどの強度を持ち合わせていない。実際、警察の取り締まりは(認定されてしまえばいかなる弁解も聞き入られることがなく、火炙りにされてしまう)魔女狩りと言うよりも、むしろ、(それを放棄すると宣言すれば許されてしまう)ガリレオ・ガリレイの宗教裁判に近い──ピーター・ゲイが『自由の科学』で明らかにしているように、直観だけで宇宙の無限説を唱えそれに殉死したジョルダーノ・ブルーノの場合、自説を支えるものがほぼ自らの信念だけであったためそれを撤回するか否かは根源的な問題であったのに対して、天文学的データによって裏打ちして地動説を主張したガリレオ・ガリレイの場合、彼が自説を撤回するか否かはまったく問題ではないのであって、あの裁判は「それでも、地球は動く」という伝説を残すためだけにあるようなものである。マルクス主義が宗教的だと言われる所以はここにもあり、こうしたことのために、マルクス主義は、帰納法や演繹法、背理法などの思考・認識パターンが必ず前提にしている「反証可能性」を与えていないから、科学ではないとカール・ポパーに言われてしまう。組織が弱かったために、別に撲滅を目的としていなかったにもかかわらず、国家権力による取り締まりによって、日本のマルクス主義政治団体は崩壊してしまう。

 日本のマルクス主義者たちにおいて、ドイツのマルクス主義者たち──フランクフルト学派のマックス・ホルクハイマーや手オドール・W・アドルノら──が亡命してナチズムを批判したように、軍国主義政府を批判したケースはない。当時、最も日本の全体主義を根本的に批判していたのは、マルクス主義者ではなく、共産党嫌いの坂口安吾の『日本文化私観』(1942)であり、武田泰淳の『司馬遷-史記の世界』(1943)などである。前者は日本の精神状態を病として真っ向から批判することであり、後者は「ほめ殺し」の戦略である──元マルクス主義者であったが、この時点ではすでに転向していたにもかかわらず、ガリレオのような態度をした武田泰淳はマルクス主義を真に理解していたと言えるかもしれない。この両者とも、当時のマルクス主義者の批判以上にラディカルであったけれども、検閲をまったく受けていない。

 特に、坂口安吾の批判は日本近代文学史上最もラディカルなものの一つであるが、戦前・戦中・戦後を通じて一貫しており、転向とは一切無縁である。安吾は、共産党が「専制、ファッショの徒」であり(『戦争論』)、共産党の根本にあるのは「通風孔」のない「神がかり」(『戦後合格者』)にすぎず、「資源豊かならざる小さな国土と多すぎる人口、この日本の現実を見るならば、日本の経済を安定せしめる方法は、ハッキリしている筈である。つまり、貿易である。搾取階級がなくなろうと、なくなるまいと、貿易に依存せずに、日本がどうなるものでもない。外貨を獲得することだ。貧弱な物資でヤリクリを上手に、合理化してもタカが知れており、共産主義だの経営の合理化だのとチャチなお題目や空念仏を唱えるよりも、ホテルをつくり、道路を良くし、外国から旅行客をつれこむ方が、どれくらい実質的であるか分らない。その方が、はるかに日本の生活水準を高くする方法なのである」(『インテリの感傷』)と共産党のスローガンを批判している。安吾は貿易立国・観光立国を戦後日本の指針と提案する。その安吾は、戦後になって合法化されたにもかかわらず、組織としてほとんど何のヴィジョンも提示できずにいる日本の共産党の政治団体としての問題点を追及している。転向は、あくまでも組織に関わる問題である弾圧とは区別しなければならない。
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