3 柄谷行人の転向論

文字数 1,890文字

3 柄谷行人の転向論
 吉本と同様に中野重治を評価している柄谷行人は、『近代日本の批評──昭和前期Ⅰ』において、吉本とは別の観点から「転向」を次のように述べている。

 私はとりあえず「昭和的なもの」を一つの転向として見ようと思う。昭和初期十年間は、ふつうプロレタリア文学とその崩壊・転向として語られている。その意味での転向の問題や抵抗の問題が本格的に見られるのは、むしろ昭和十年代である。昭和初期において重要な「転向」は、いわば「大正的なもの」からの転向である。それがマルクス主義を中心として生じたからといって、マルクス主義に限定されはしない。たとえば、それは小林秀雄にも谷崎潤一郎にも生じた。したがって、この問題はマルクス主義の哲学や文学理論のなかだけで考察することはできない。この「転向」は、いわば「大正的なもの」からの切断であるがゆえに、その意味は、さまざまな角度から考察されるべきである。
 第一に、昭和初期には、マルクス主義への転換が「転向」と呼ばれたことに注意すべきだ。これは福本の理論とともにもちこまれたものである。福本とともに、マルクス主義に主体の問題が導入された。マルクス主義はたんなる世界観や歴史観ではなく、主体にとっての自己変革、したがって「転向」としてとらえられたのである。藤田省三が指摘するように(『転向』上所收)、マルクス主義の放棄がのちに転向と呼ばれたのも、佐野・鍋山の声明にみられるように、それが「自己変革」としてなされたからであって、そのこと自体、最初の「転向」に存した問題にもとづくのである。
 もともとは宗教的な概念である「転向」が、マルクス主義者になること、さらにそれを放棄することにかんしていわれたのには、正当な理由がある。それは、たんにマルクス主義の運動がユダヤ=キリスト教的な宗教的な運動に似ているというようなことではない。むしろ日本おいて、ユダヤ=キリスト教的な宗教が、マルクス主義がもたらしたような「転向」の深刻さ、社会的な意味を与えなかったことにこそ、注意すべきであろう。
 共産党幹部佐野・鍋山の転向声明(一九三三年)は、マルクス主義の放棄ではなく、コミンテルンの日本情勢分析の誤りを正し、天皇のもとでの共産主義を実現しようというものであった。つまり、転向は主体的な自覚あるいは発展としてなされたのであり、第一次の「転向」と形式的には同じであった。(略)
 二度目の「転向」は、ある意味で、最初の「転向」あるいは「転回」がいかなるものであるか、いかなる深度によってなされたかによって決まっている。一度目の天候が単に「観念的意向」でしかないならば、二度目のそれは、たんに観念と現実のギャップによるものでしかないだろう。しかし、「転向」は、倫理的問題でないとしても、吉本隆明のいうような認識的問題でもない。それは、「大正的なもの」の切断がいかになされたかに依存するというべきである。事実、昭和十年代における数少ない抵抗者は、このような「切断」を反復することによってのみありえたのである。(略)
 中野重治やその他の数少ない例外をのぞいて、転向は、いわば「大正的な」主体の問題をぶりかえすことになった。

 吉本は「転向」を「プロレタリア文学とその崩壊・転向として」、すなわちあくまでもマルクス主義からの転向に限定して考えている。それに対して、柄谷は「転向」を「大正的なもの」、すなわち「適度に内面的で、教養主義的、人格主義的な傾向」との「切断」にまで拡大・比較して考察している。転向を「主体にとっての自己変革」とする柄谷は、それを「認識的問題」とする吉本と違って、非転向的な転向や無関心的な転向を必ずしも強調しない。彼は、その代わり、小林秀雄や谷崎潤一郎も転向のカテゴリーに入れている。

 日本的な自己充足的な状態から世界との緊張の状態への転換を第一次の転向、その逆が第二次の転向である。その一種として、マルクス主義への転換が「第一次転向」であり、マルクス主義からの転換が「第二次転向」で、この二つは同じ構造をしている。「第二次転向」を規定するのは「第一次転向」である。だから、佐野や鍋山は転向によって元に戻っただけにすぎない。

 柄谷によれば、佐野・鍋山の転向声明は、吉本とは逆に、労働者や大衆の心情を汲み入れた結果である。実際、マルクス主義政治思想が天皇制の下で可能だともともと考えていた彼らにとって、コミンテルンが要求した天皇制打倒など最初から不可思議なスローガンである。しかし、中野重治の転向は、後に述べるように、それらと同じ構造をしていない。
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