○202号室  松本ノゾミ

文字数 8,287文字

少し卒論のことで狛江と相談したかった私は、
どこで話をするか迷っていた。
新曲とその動画についてなんだけど、
学校だと人の目がある。
それに、曲はパソコンの中だ。
できれば曲に合わせて絵についてもイラストレーターに
話をつなげてほしいから、
あたしの家でやるのがベストなのかもしれない。

あたしはメッセで、教室の前方で楽しそうに友達に囲まれている
狛江に連絡をした。

『今日の打ち合わせはあたしの家でもいい?』

たったそれだけなんだけど、スマホを見た狛江は
すごい勢いであたしの方向を見た。
え……?
そんなに驚くようなことだったかな。
返事はすぐ『行く!』と返ってきた。
ま、これでよしかな。
あたしは講義が終わると、正門の近くで狛江を待った。

「っていうかさ、メッセなんか使わないで
直接言ってくれればいいのに」
「あたしはリア充に関わりたくないの!」
「リア充とか非リア充とか、そんなに関係あることか?」

コンビニでお菓子と飲み物を買うと、
あたしたちはハイツ響へと向かう。

「へぇ、わりと新しいところなんだな」
「まあね。しかも防音構造なんだ。
前に住んでたところはうるさいって追い出されたようなもんだから。
あたしの部屋は202。階段上って」

狛江が階段を上がると、ちょうどドアが開く音がした。
ケンかな。でも少しいつもより早い時間だよね。

「待ちたまえっ! 松本ノゾミっ!!」
「なっ、井ノ寺!?」

出てきたのはアパート一の変人・井ノ寺明日人だった。
こいつ、見た目は黒髪に銀縁メガネっていうサラリーマンみたいなカッコだけど、
元バンドマン、元警察官という異色の経歴を持つ人間らしい。
なんで今うちのアパートに住んでいるのかというと、
ここにはメジャーデビューしているバンドのボーカル、笹井琉成と
ドラマーの吉田翔太が住んでいるから。
事務所の社長さんが警察をクビになった井ノ寺を警備員として
ここのアパートに送り込んだのだ。
ま、簡単に言うと本当の自宅警備員ってやつだよね。
でもそんな井ノ寺があたしに何の用だっつーの?

「井ノ寺、留守中に何かあったとか?」
「いや違う」
「じゃ、何よ」
「お前……その男子を部屋に連れこもうとしてるだろっ!」

……は?
その通りだけど、それがどうしたっての。
意味がわからないという表情を浮かべていると、井ノ寺はいきなり怒りだした。

「付き合ってもいない男を、ひとり暮らしの部屋に入れるんじゃありませんっ!
いかがわしいっ!」

ああ、そうだったな。
この井ノ寺って男、おかん体質だった……。
管理人である静さんよりも口うるさいし、余計なおせっかいを焼いてくる。

「あのね、あたしたちは今から卒論のことで打ち合わせしたいの。
だから部屋に連れて来たってだけ!
ね、狛江」
「え、あ、そ、そうだな」

なんでそこではっきり答えないのよ。
別にやましいことがあるわけじゃないってのに。
狛江もボーッとしてるんだから。

「ともかくっ! 若い男女が同じ部屋で過ごすことは井ノ寺さん反対ですっ!」
「ケンはOKじゃん。それに他の部屋の人たちはどうなのさ」
「ケンはノゾミに手を出さないだろう。いい大人だからな。
翔太は男友達しか連れてこないし、笹井はヘタレだから、静さんに部屋へ呼ばれても
何もできんっ!」
「あ~もうっ! うるさいなぁ。井ノ寺はあたしのおかんでもなんでもないじゃんっ!」
「心配してるだけだっ! お前もそんなナリをしてても女だからな!」
「そんなナリって!!」
「でも、井ノ寺さん。俺たち打ち合わせがあるんで……」

狛江がおずおずと意見を言う。
そうだよ。
ただ遊ぶために狛江を連れてきたわけじゃないんだから。
あたしの部屋じゃなかったら、どこで打ち合わせしろっていうの。
井ノ寺は少し考えたすえ、何かひらめいたらしく顔を上げた。

「そうだ! 俺の部屋を使え! もてなしてやるぞ」
「はぁ!? でも井ノ寺の部屋って……」
「ともかくふたりきりになるのはダメだっ! さ、入るといい!!」

井ノ寺は狛江の背を押して、自分の部屋へと連れて行く。
こうなったらしょうがない。

「そんなにいうならあんたの部屋でやるよ……ったく」

あたしは諦めて、井ノ寺の部屋にお邪魔することにした。


「……な、このポスターって……!」

狛江もやっぱりびっくりしたか。
井ノ寺はちょっとしたオタらしくて、部屋にポスターやタペストリー、
タオルを飾っている。
しかもその絵というのが……。

「マコじゃないか……」
「おっ! きみもマコを知ってるのか!? 
いいよな、俺もR32Pの動画から知ったんだが、細い線、淡い色で描かれた女の子は
まさに芸術だっ!!」
「は、はぁ……」

狛江が焦るのは当然。
そうなのだ。
あたし……R32Pの動画の絵を担当しているのが、『マコ』というイラストレーター。
でも、正体はどんな人か知らない。
あたしはR32Pの正体を秘密にしていた。
だから狛江もイラストレーターについては内緒、ということにしていたのだ。
マコは狛江が紹介してくれたのだが、動画がアップされてから
こちらもかなりのファンがついたらしい。
元々はそんなに多くイラストを描く人間ではなく、
投稿サイトにもそんなに多くアップしていたわけではないんだけど、
動画でじわじわと人気を得てきているようだ。

でもあたしたちがやっていることは、ケン以外の人間は知らない。
あたしがR32Pという名前で曲を作ってることや、それを取り巻く環境についての
卒論を書こうとしていることも。

「こんなに繊細な絵を描く人だ。名前もそうだが、きっと『マコ』の正体は
かわいらしい女の子なんだろうな」
「そ、そうですねぇ」

狛江も困ってるみたいだな。
今のところマコの正体を知ってるのは狛江くらいだし。
あたしもこれ以上詮索されたくない。

「井ノ寺! もてなしてくれるんじゃないの? お茶~!」
「仕方ないな。ちょっと待ってろ」

井ノ寺はやっとキッチンの方へと行ってくれた。

「はぁ、ここで打ち合わせっていうの、無茶だったかもね。失敗したわ」
「そうだな。松本の作った新曲に、どんなイラストを合わせるかっていう
打ち合わせだったけど……井ノ寺さんがマコのファンじゃね。
サインをくれって言ってきそうだ」
「ま、できるところだけ今日はやろうか」

あたしは書き起こした新曲の歌詞を狛江に見せる。

「今回はバラードなんだ。曲はあとでパソコンに送るよ」
「珍しいな、恋の歌なんて。お前らしくない」
「うっさいよ。これはあたしにとっても新しいデータを取るための実験なんだから」
「待たせたな! 紅茶とクッキーだ!」

お盆に乗った三人分のマグカップとクッキー。
ずいぶんいい香りがして、ちょっと驚く。
テーブルに置かれたのは、ただの紅茶とクッキーじゃなくて、
桜の香りのついたフレーバーティーと手作りっぽいチョコチップ入りのものだった。

「これ、井ノ寺が作ったの!?」
「まあな。菓子作りは化学実験と似たようなところがあるし、
茶も季節を感じるものを飲みたいと思うだろう?」

やべぇ、あたしより女子力高くね?
このお茶もクッキーもうまい……。
静さんもお菓子作りや料理得意だけど、男でここまでできるのって
すごいな。

「どうした? 松本」
「いやあ、井ノ寺に女子力的な意味ですっげー負けてると
思って」
「そうだな! ノゾミはもっと女の子らしく……」
「って、本人に言われるのはムカつく」
「……で、でも俺は意外と松本も女らしいと思うけどな」
「は?」

驚くあたしに、狛江は先ほど渡した新曲の歌詞を見せる。

「こんな詞を書くなんて、お前にも乙女心ってもんがあったんだなと」
「う、うっさい! そんなことよりこの曲、
ベースはケンに入れてもらおうと思ってるんだ。
知ってるよね? ケンのことは」
「……ああ」

あれ? 狛江、急にむすっとしちゃって
どうしたんだろう?
ぼりぼりとクッキーをかじって、お茶を飲む。
明らかに不機嫌だ。
あたし、何か不愉快になるようなこと言った?

「やっぱり若いヤツはわかりやすいな。少年、お前ノゾミのことが好きなのか。
ずいぶん変わった趣味を……」
「なっ!? あ、あんた何言ってるんすか! なんで俺が松本なんかを!」
「そうだよ。狛江とあたしじゃ世界が違うっしょ。ありえないって。
狛江、大学でもモテるもん」
「……だから違う世界なんかじゃねーって言ってるのに」
「え?」
「なんでもねえっ!」

余計に不愉快そうな顔を見せる狛江。
怒りで顔が赤くなってる。
そもそもリア充でみんなの中心にいるようなイケメンが
あたしのこと好きなわけないじゃん。
狛江がちょっと変わってるっていうのと、
多分同じ予備校だったからだと思うけど、よく声をかけてくれるのは
ありがたいけどね。
普通にいいヤツだとは思う。
でも、恋愛感情はあるわけないっしょ。

「ともかく、ケンにも打ち合わせに参加
してもらうことにするから」
「………」

あたしはスマホを取り出すと、まだ部屋で
寝てるであろうケンに連絡した。


「井ノ寺、メシ~」
「ケン、今日は五穀米に大根の味噌汁、卵は出し巻きにしたぞ。
漬物はお前の好物の山芋だ」
「おう、助かるわ」

ケンはどうやら井ノ寺がアパートに引っ越してから、
朝ご飯を作ってもらっていたらしい。
といっても食べるのは夕方だけど。

井ノ寺があたしたちと同じテーブルに
食事を乗せると、さっそくケンは食べ始めた。

「んで、ノゾミ。何の用だったんだ?」
「今度のR32Pの新曲、ベース入れてくれない?」
「ああ、いいぞ」

ふたつ返事で承諾してもらった。
ケンは普段、ゴリゴリのバンドマンだけど、
実はR32Pのファン。
あたしがR32Pってバレてからも、色々協力してくれていた。
ケンのアップした『演奏してみた』も動画再生数かなりいってるみたいだ。

そんなことを狛江に説明しても、機嫌は直らない。
何がそんなに気に入らないんだろう?

「……そう言えば井ノ寺」
「なんだ?」
「俺も普段、あまり気にしてなかったけど、
この部屋に飾ってあるポスターってマコのイラストなんだな。
見覚えがあると思ってたが……」
「ってかケン、鈍いよ!」

あたしは小声でケンにツッコむ。
あたしの曲のファンなのに、イラストに気づかなかったなんて……。
でもま、気づかない人は気づかないか。
動画になってるのと静画は印象も違うかもしれない。
ケン、変なところはニブいからなぁ。

「ケンもマコを知ってるとは意外だな」
「R32Pの動画はよく見るからな」
「そうだったのか。彼女は素晴らしいイラストレーターだ!
だが驚いたぞ。ケンもR32Pの動画を見ているとは」

狛江はなぜか顔面蒼白。
震えながらクッキーに手を伸ばす。
そんなに知られたらまずい相手なのかな?
そこまで露骨な態度を取られると気になるな。

あたしは念のためケンに目配せする。
絶対言うなよ? あたしがR32Pってことは。
それが伝わったらしく、ケンは珍しく愛想笑いをしたままご飯を食べていた。


「結局マコのことがあって打ち合わせできなかったなぁ」

新しい曲はパソコンで送っておいたけど、
本当はあたしの部屋で曲を聴きながら、
細かく映像のイメージを伝えたかったんだけど……。

前まではR32Pの正体も狛江に内緒だったから、
画像のイメージを絵のうまくないあたしが
簡単にラフ描いてそれをパソコンに取り込んで、
それをメールしていた。

「せっかくもう少し密に話を詰められるかと思ったんだけど。
間に狛江が入ってても、ダイレクトに打ち返してくれるのが
マコのすごいところなんだよね。でも……」

確かに『マコ』って何者なんだろう?
狛江の知人ってことは知っている。
あたしがR32Pの正体を隠したから、マコの正体も秘密って話になった。
もしかして、狛江の好きな人だったり?

パソコンをいじっていたら、いつものように玄関の扉をドンドンと
叩く音が聞こえた。
ケンか。

「うっす。新曲聴きにきたぞ」

いつも通り、手には酒。
今日はエールだ。
栓をあけてさっそく曲を流す。

「これにベースを入れるのか。
楽しくなりそうだな」
「うん、あたしもそう思う。
ただ……」
「何かあんのか?」
「今更ながら気になっちゃってさ。マコが」

アタシの要望に的確に答えてくれる謎のイラストレーター。
繊細できれいなイラストは、アタシの曲を盛り上げてくれる。
まぁ、狛江が言ってなければ、
向こうもあたしのことを知らないだろうけど、
毎回曲に合わせた動画を送ってきてくれる。

「そんなに気になるなら、メールで聞いてみればいいじゃねーか」
「あたしからはできないよ。お互い正体隠してたんだから」
「じゃ、俺がしてやるよ。一応軽くだけど曲作りに絡んでるんだ。
聞いても悪くねぇだろ?」

ケンは1本瓶を飲み切ると、新曲を自分のパソコンに送るように告げ、
珍しく早めに部屋へと戻っていった。


二日後。
ケンからメッセが届いた。
内容はマコから返事が来たというものだった。
メッセには、メールをそのままコピーアンドペーストしていると
書いてある。
マコの正体がこれでわかる!
あたしはドキドキしながら指を滑らす。
だけど、そこには意外なことが書かれていた。

『私はあなたのベースが気に入りません。
R32Pの曲に合っていない。
もっと穏やかな音の方がR32Pのメロディを引きたてる。
あなたがやめてくれなければ、今後R32Pの動画から手を引くかもしれません』

「うそ……」

マコはケンのこと、嫌いなの!?

コピペのあとにもケンの文章は続いていた。

『はは、やっぱりおっさんは若者に嫌われるのかもな。
ま、俺がやめて済むなら、若いヤツ同士でやった方がいいと思うぜ?』

そんなことない!
音楽に年齢なんて関係ない。
それにあたしは、ケンのことをおっさんだなんて思わない。
だってケンはあたしの大切な……。

がっくりと肩を落としていると、
声をかけられる。
狛江だ。

「どうかしたのか? スマホ持ってがっくりして……」
「こまえ~……」
「う、うお!? な、なんだ、お前……どうした?」
「うっ……」
「と、ともかくここで泣くな! 移動するぞっ!」

狛江はあたしの手を取ると、非常階段へ向かった。

「マコがあのおっさんのことを嫌ってる?
だからってなんでお前が泣くんだよ……」

「だって、好きな人が嫌われてるって知ったら
やっぱショックじゃん」

「好きな人……。なんだよ。
あんなおっさんなんかのために、
俺に泣き顔見せるのか?
くそっ……」

「ぐすっ……。だから狛江に相談してるんじゃん。
ケンがいなかったら、今度の曲はただのつまらないバラードになっちゃう。
ケンのベースがあれば、力強い曲になるのに」

「マコだって、きっとお前の曲が好きなんだと思う。
そもそもR32Pはマコのイラストとお前の曲との相乗効果で
盛り上がってたんだ。
なのに突然変なおっさんが割り込んで来たら、
やっぱりいい気はしないだろ?」

狛江はやっぱいいヤツだ。
泣いているあたしの涙をハンカチで拭ってくれている。
これだからモテ男、リア充は! っていつもなら思うけど、
今日は素直に嬉しい。
拭き終えると、頭にぽんと手を置いた。

「お前がそんなに泣くなら……泣き止むまでそばにいてやるから」
「それ、あたしにはもったいない言葉だよ。
他の女の子に言えば、きっとメロメロになると思うけど」
「だーかーらー……はぁ、やっぱお前ダメだわ。
あんなおっさんやめちまえよ。お前には同年代の男が合ってると思うぞ?」
「……は? 合ってる?」
「ケンのこと、好きなんだろ?」
「いや、好きだけど、恋愛対象じゃないよ」

あたしは大きく首を振る。
あたしにとってのケンは、昔から大ファンだったギタリスト。
今はロンゲで変な黒縁メガネなんかかけちゃった見た目もおっさんくさい
ベーシストだけど、
あたしが小さい頃は金の短髪で
勢いのあるギターを演奏していた。
そんな彼にあたしの曲に音を入れてもらっている。
それだけですごく嬉しいし、ドキドキする。
ケンと一緒にいるのは楽しいし、刺激的だから
飲んだりもする。
友達でもない。
恋人でもない。
ましてや親子でも兄妹でもない、不思議な関係。

「……お前がそう言っても、5年間も見てればわかる。
お前は……まぁいい。マコには俺が言っとく」
「マジ!? 助かる! さっすが狛江! 頼りになる~!」

狛江の背中をバシバシ叩いて喜んだら、
少し涙目になっていた。
……ちょっと痛かったかな?
だけど、狛江はやっぱいいヤツだ。
あたしはマコのことを全面的に狛江に頼むことにした。


それからすぐ、狛江からマコがすぐにイラストを描いてくれると
連絡があった。
今回は動画にする時間もないから、静画に歌詞が入るだけの
シンプルなものになるけどそれでもいいか、という打診だった。
あたしはそれでいいと返信した。
いつもみたいに動きのある絵も見ていて楽しいけど、
今回はバラードだ。
それに、マコのイラストは繊細できれい。
だからきっと、あたしの作った曲に合った絵を描いてくれる。
そう期待していた。

数日後、パソコンに一通のメールが届いた。
マコからだ。
圧縮されたファイルには、画像が入っている。
すぐ解凍して開くと、あたしは驚いて声を失った。

……この絵、あたし?

赤いショートカットの女の子。
頭につけているヘッドフォンの先には
ロンゲで黒縁メガネのベーシストが描かれている。

どういうこと?
歌詞にこんな描写はない。
それに、あたしが赤毛でいつもヘッドフォンをしてるって
マコは知ってる……?
急いでスマホを取ると、狛江に連絡する。
可能性としてあるとするなら、狛江があたしの写真をマコに送った、とか。
でもこのベーシストは?
あたしが聴いているベースは誰?
心当たりがあるとするならたったひとり。
その話をしたのは、狛江だけだ。

「狛江! あのイラストはどういうつもりなの? マコって一体……」

すぐ電話に出た狛江に、ぶしつけな質問を繰り出す。
電話の向こうでは、くすっと小さな笑い声が聞こえた。

「狛江……?」
「気づかねぇかな? マコの正体。とりあえず俺は、ケンなんかに負けねえからな。
途中から割り込んできたおっさんなんかに、お前を取られたくないから」
「……は?」
「まだわかんねぇ? じゃあもういいわ。お前、自分の気持ちにも気づいてないから、
俺にもチャンスは山ほどある。長期戦ってことで、これからもよろしくな?
R32P」

……切れた。
狛江、あんた一体なんなの!!
何を言われたのか整理できなくて、あたしはベッドの中にもぐる。

知恵熱っていうのは本当に出るもの。
よく勉強で疲れたときなんか、体温が上がっていた。
だけど狛江の言葉は勉強よりわけわかんないよ……。
あたしは久々に知恵熱を出してうなされるはめになった。

翌朝、あたしはボーッとした頭で
曲とマコの送ってきた静画をそのままケンに丸投げした。
あーもう、考えられない。
とりあえずケンにベースを入れてもらって、
MIXまで終わったら考えよう。
メールの送信ボタンを押すと、あたしは靴を履いてドアを開けた。

「……あいつ、最後まで見てねぇのかな。この動画」

ケンに送ったマコの静画。
本当は静画じゃなくて、最後だけ動画で。
ヘッドフォンのコードは消しゴムで消され、
最後はロンゲのベーシストではなく『mako』という文字につながっていた。
そんなことをまったく知らなかったあたしは、
近くの歩道橋までバカみたいに走って、眩しい朝日を浴びる。

「青春とかあたしには無関係だと思ってたけど……こんな日が来るなんて笑うわ」

5月初旬の朝日は、すぐに紫外線に変わる。
気持ちいい時間はあっという間。
青春っていうのも、その一瞬なんだろうななんて、
あたしは勝手に思った。


「ちょっと狛江」
「なんだよ、大学で松本から話しかけて来るなんて珍しいな」
「今日時間取れる?」

相変らず狛江が何を考えてるのかはわからない。
でも、卒論は共同執筆って約束だ。
この間と同じく正門前で待ちあわせると、
あたしの部屋へと向かう。
しかしまたそこで待っていたのが……。

「お前ら! またか!」
「いや、それこっちの台詞だし。井ノ寺、あんたって……」
「ふたりで作業するなら俺の部屋にしなさいっ!」
「ったく……なんなんだよ、このおっさんは」

狛江も困ったように頭をかく。

「今日のお菓子はプリンだぞ?」
「……しょうがないな」
「な、松本!?」

プリンがおやつだったらしょうがない。
あたしは狛江を連れて井ノ寺の部屋へまたお邪魔する。

「プリンどこー?」

部屋に入って即、冷蔵庫を開ける。

「ちょ、ちょっと待て、ノゾミ! よその家の冷蔵庫を開けるんじゃ……」
「あっ、い、井ノ寺さん、押すなって……!」

玄関で井ノ寺が暴れたせいで、狛江も一緒にこける。
その途端、持っていた本とノートが床に散らばる。

そこに挟んであったのは――。

井ノ寺の絶叫は、アパート中に響いた……らしい。

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