○103号室 笹井琉成

文字数 25,015文字

今日もギターを持って事務所兼スタジオに向かう。

もうすぐ新しいアルバムもリリースできそうだ。
主にメンバーの九郎と耕平の力で。
僕が作った曲は、ひとつもない。
「こうしたほうがいい」という口出しだけはしたけど、
今のふたりに僕の声なんて聞こえない。

ただ正確に、「今まで通り」歌えればそれだけでいい。許してくれる。
……今は。
そんなぬるま湯につかっていられるのも、あと数日だろうとは
自分でも予想がつく。

僕自身がアウトプットできない限り、僕の居場所は狭くなって
最後にはなくなるだろう。
アウトプットなんて言っても、元から中身がない人間なんだ。
自分のすべては出し切った。残ってるのは出がらしだけだ。

「はぁ……」

かさりと、うしろで音がする。

きっと彼だろう。察しはつく。
最近は大体同じ時間に家を出る。
彼は学校へ、僕は事務所へ。

アパートの隣の部屋に住んでいる吉田くんは、
僕の後輩だ。
『Ryusei』に憧れていてくれたみたいだけど……今はもう違う。

「翔太~! こっち!」
「アキラ、おはよう!!」

僕を追い越して、その先にいる同じ制服を着た男の子に挨拶する。

「今日も放課後はスタジオか?」
「ん~……」

吉田くんは一瞬僕をにらむと、
友達に向き合った。

「うん。まあね! だんだんバンドも団結してきたし、
今度のライブまでこの調子で行けたらいいんだけど」

ふたりは話しながら、歩道橋をのぼっていった。

「楽しかったな。あの頃は、僕も……」


5年とちょっと前。
高校を卒業した僕と九郎、耕平は、地元でバンドを組んでいた。

とはいえ、実際はただのフリーター。
音楽だけで食っていけるような状況でもない。
でもあの頃の僕たちは、音楽をやっているだけで本当に楽しかったんだ。
ない金を出しあって、スタジオにこもった。
バイトがない日は誰かの家に集まって、
演奏してた。
僕たちの親は、いつまでたっても定職に就かずに
音楽ばっかりやっていることを「しょうがない」と諦めていたし、
そのことは僕らにとっては
ありがたかった。
おかげで好きなだけ曲も、詞も作れた。
曲作りのためにみんなで山へ行ったり、湖に行ったりもした。
好きなことに本気で取り組める、そんな環境にいられたんだ。


その日も地元のライブハウスでライブをしたあと、
フロアで物販をしていた。

物販、なんて言っても、ちゃちなTシャツにキーホルダー。
それさえ作るのにバイト代を二か月分持っていかれた。
そのくせまったく売れていない。
買ってくれるのは高校のときの同級生か、
マイナーバンド限定で追っかけているファンの女の子だけだ。

フロアの隅で、来ないお客を待ちながら
他のバンドの演奏を眺めていると、声が聞こえた。

「ねえ、アンタ」

ん? 誰だろう。
小さくて高い声。
僕は周りを見回したが、声の主は見当たらない。

「ちょっと! こっちだよ。気づかないの?」
「えっ……」

僕は驚いてしまった。
小学生だろうか。
小さな黒いワンピースを着た女の子が、
僕を呼んでいる。

「き、君、親御さんは?」

「……親は関係ない。ボクが君に声をかけたの。
君のバンド、なかなかよかったよ。及第点だ」

「あ、ありがと……」

褒めてもらえるのは嬉しいけど、迷子かな?
さすがにライブハウスで子どもひとりっていうのは
ちょっと危ない。
とりあえず親御さんを……。
だけど、それっぽい人は近くにいない。

「だから、親なんてどうでもいいでしょ。
ボクに声をかけられたってだけで、アンタ運いいよ。
ボクも長野まで来た甲斐があった」

「はぁ……?」

「ボク、こういう者なの」

ポシェットから出てきたのは……ブランドものの名刺入れ!?
これって確か、雑誌で見たことあるけど、
20万以上するやつじゃなかったっけ!?

女の子はそこから紙を1枚取り出した。

『リロードレコーズ 代表取締役 Rei』

「り、リロードレコーズって、あのSODが移籍した……!?」

SODはV系のバンドだ。
今、かなり人気が出ていて、色んなアニメのテーマソングを歌っている。
その代表が、まさかこの子!?

……いやいや。そんなわけはないだろう。
こんな小さな女の子が代表だなんて。

「お父さんかお母さんの名刺かな? あんまりここでは出さないほうがいいよ。
本気にしちゃうバンドもいるかもだし、
もしかしたら過激な人だと君を人質にデビューを迫ったりとか……」

「レイ!」
「あー、カナタ! ここ、ここ」
「カナタ……って!!」

女の子が手を振る。
その視線の先には大きなサングラスをかけた、
SODのボーカル・カナタがいた。

「嘘だ、本物……?」
「レイ、彼は?」
「さっきの『3+』ってバンドのギターボーカルだよ。
ボクが目を付けた」
「そっか」
「あ、あの……?」

レイと呼ばれる女の子とカナタは、笑顔で話している。
なんなんだ?
僕に一体何の用なんだ。

カナタもポケットから名刺入れを出すと、
1枚僕にくれた。

『リロードレコーズ 代表取締役社長 瀬田奏多』

「えっと、これ……冗談じゃないですよね?」

「冗談なわけないよ。あとでここのアドレスに連絡くれないかな?
リロレコは新しい事務所でさ。
今、うちからデビューさせる新人を探しててね。
レイはそのスカウトマンってとこ。
この子は運がめちゃくちゃよくってね」

「は、はぁ……」

「おみくじは大吉しか出ない。拾ったカバンには100万円。
商店街の福引ではいつも特等。そのほかにも色々ね。
その運気にあやかって、リロレコから再デビューした俺たちも
今はかなりの人気を誇ってる」

「え!? それって、この子に声をかけられただけで……?」

「うん。レイはすごいよ。
俺以外のバンドでもヒットチャートにいるアーティストのほとんどとつながりも
持ってるし」

「この子、何者なんですか?」

カナタさんに質問したはずだけど、答えたのはレイちゃん本人だった。

「ボクはもともとでっかいレーベルの社長の子どもなの。
それに引きの良さが加わって、『いいな』って思った人たちを
親に伝えてたら、本当に売れちゃうっていうジンクスがついてさ。
でも、運だけじゃないよ。ちゃんといい耳も持ってるから」

「こんな子どもが……?」

「子ども?」

まずい、禁句だったか?
レイちゃんの表情が険しくなる。
カナタさんはへらへら笑ってるだけだ。

「ともかくバンドのみんなにも伝えて。
本気で音楽で食っていきたいなら、連絡ちょうだい!
ほら、レイ行こう。気分転換にどっかでパフェ食べて行こうか?」

「やったぁ!」

カナタさんとレイちゃんはそのままライブハウスを出て行った。
……冗談……じゃないよな、これ。
しばらく呆然としていたが、九郎と耕平が物販に来てくれて
ようやく正気を取り戻した。


「東京!? 行くに決まってんだろ!!」

キャベツ農家の息子だった九郎が、最初に声を上げる。
僕らは打ち上げにも出ないで、九郎の家の納屋で会議をしていた。
納屋と言っても二階建てで、上の階はみんなで食事ができるように
ちゃぶ台と冷蔵庫、コンロがある。
僕たちは何かあるとここに酒を持ち込んで
話しこんでいた。
僕はあまり飲まないが。

「俺も賛成。どうせ親父にも期待されてないし、家から出て行くだけで
親孝行になると思う」

「……まぁ、そういうところはあるよね」

僕が耕平の言葉にうなずくと、九郎が怒った。

「なんでそう、うしろ向きなんだよ。東京で成功しようぜ!
カナタさんの新しい事務所なんだろ!?
それによくわかんねーけど、
めっちゃすごいスカウトマンに声かけられたんだろ!?」

「子どもだけどね」

僕の補足も、ヒートアップしている九郎にはどうでもいいことらしい。

「ともかく俺は東京に行くからな!
琉成の曲と歌、耕平のベースがあれば絶対にうまくいく!!
お前らは黙ってついてこい!」

「……めちゃくちゃだけど、九郎がそこまでいうなら。
一度くらいそういう経験してもいいか」

九郎につられてといった感じではあるが、耕平も首を縦に振る。

「行くだろ!? 琉成」

ふたりが行くなら僕も断れない。
それに、僕らがどこまで通用するか、こうなったら試してみたい。
きっと人生に一度きりのチャンスっていうやつが
僕たちの前に現れたんだ。
これを逃すなんてもったいない。

「……わかった。行くよ、東京に」

「よーし、そうと決まればさっそくカナタさんに連絡!
琉成、頼んだ!」

「結局そういうことは僕任せなのね……」

それでもこの3人なら悪くない。
そう思っていた僕は、まだまだ若かったのかもしれない。


東京に出てきた僕らには、試練が多く待ち受けていた。
そんなことも知らず、最初はただ好きな音楽で食っていけるようになるんだと
浮かれていた。
甘い考えだった当時の僕を叱りたいくらいだ。
そう世の中うまくできてるわけはない。
それを教えてくれたのは、他でもないカナタさんだった。

上京してきた僕たちは、さっそくカナタさんの元で
これからデビューするためにどうしていくかという
打ち合わせに入った。
そのときの第一声がこれだ。

「きみたちさ、華がないよね」

「華……ですか?」

思わず聞き返してしまう。
華って言われても、僕たちのバンドには女性もいないし、
大体やってる音楽だってあまり一般向けではないと思う。
どちらかというと、僕と同じ年代か、
もう少し年上の同性の人が好みそうな曲じゃないかと感じている。
現にライブに来てくれていたファンは、一部のミーハーな女子をのぞいて
男性ファンが多かった。
まぁ、全体の数が少なかったから、その辺はなんとも言えないけど。

「どういう意味ですか?」

九郎がカナタさんにたずねると、彼は僕ら3人の顔を
じろりと見た。

「全体的に地味だし、芋っぽい。
最初はV系のメイクでなんとかなるかなって思ったけど、
君たちのメインターゲットの層とはちょっと異なる」

「メインターゲット?」
「そ、どの購買層に音楽を聴いてもらうかってこと」

そんなこと考えたこともなかった……。
それは僕だけじゃなくて九郎も耕平も同じだったようで、
目を点にしている。

「……みんなに聴いてもらえるような曲にしたいんですけど」
「万人受けするようなタイプじゃないでしょ、君たちは」

耕平の意見にもさらっと答えるカナタさん。
確かにそれはそうだ。
僕らの音楽を受け入れてくれない人は多い。
カナタさんはさらに続けた。

「君たち、好きな曲を好きなように作って売れると思ったら
大間違いだ。そんなこと、高校生でもわかってることじゃない?
ターゲット層に支持してもらえるような曲を作ることが
ミュージシャン……いや、音楽で食っていく人間にとって大切なことだ。
もう君たちはプロなんだよ。その自覚ができないなら、地元に帰ってくれない?」

厳しい言葉に全員が押し黙る

カナタさんは僕らに左端を垂直にホチキスで止めた
資料を配り始める。

「見てくれ。君たちの今後の売り出し方についてまとめておいた」
「えっ……」

僕は1ページ目から見て絶句した。

バンド名が違う。
僕らのバンド名は『3+』。
幼馴染だった僕らが、高校のときに音楽を始めたときつけたものだ。
それが……。

「『ゾンビスクラップ』!?」

大声を出したのはやはり九郎だった。
彼が3+という名前を決めたようなものだったから。

「しかもこの衣装案……! 全員がガスマスク着用って、
俺たちはこんな色物バンドじゃない!」

「うーん、残念なんだけどねぇ」

全然残念そうに見えない笑顔でカナタさんは説明を始める。

「君たち、見た目もイマイチだし華がない。
こう言っちゃなんだけど、レイが一押ししたから声をかけただけで
俺には売れる要素が感じられないんだ。
だからこのくらいしないと話題性もない。
でも、心配しないで! 売れたらマスクも取ればいい」

ガスマスクにつなぎ姿……。
こんな付属品がなければ、僕らはこの世界で生き抜けないってことなんだ。

「俺は嫌だっ!」

声を荒げる九郎だったが、それを僕が押さえる。

「九郎の言いたいことはわかるよ。でもさ、これで売れるならいいじゃないか。
まずはスタート地点……『人に聴いてもらえるバンド』になることが
目的じゃないか?」

「俺もそう思う」

意外にも耕平も僕の意見に賛成してくれた。

「カナタさん……社長はこの業界に俺らより長くいる。
どうすれば話題性が出るか、曲が売れるかはわかってるはずだ。
その意見を聞かなくてどうするんだよ」

「九郎くん、嫌だったらやめてもいいんだからね?」

笑顔をくずさないカナタさんに、九郎も最後は折れたようだ。

この日、『3+』というバンドはなくなった。
そのかわりに『ゾンビスクラップ』という音楽を売るためのバンドが
結成されたのだ。


結果的に『ゾンビスクラップ』の売り出し方法は大成功だった。
謎の覆面3ピースバンドということで、音楽雑誌に取り上げてもらえたし、
話題になればある程度聴いてくれる人口は増える。

おかげでフェスに毎年出してもらえるようになったし、
小さなライブハウス以外……つまり武道館とかアリーナなんかで
ライブの開催予定をしても
チケットは受付5分でSOULD OUTになるほどだった。

正直僕は天狗になっていた。

元からほとんどの曲は僕が作詞・作曲を手掛けていた。
それが多くの人たちに認められたんだ。
こんな素晴らしいことってない。

声をかけてきた女性もたくさんいた。
今までモテたことなんてなかった僕なのに、
きれいなモデルさんやアイドルが……。
それでも彼女たちとは関係を持とうとはしなかった。
僕は……『覆面の僕』を好きな彼女たちを
見下していたから。

それに今は音楽に集中したい。
売れる音楽を作って、多くのファンを歓喜させたい。
ひとりの女性よりも、大勢のファン。
僕らの養分になってくれる人間のほうが大事だったんだ。

大勢の前で演奏することも楽しみのひとつではあった。
長野の小さな街で、誰にも名前を呼んでもらえないようなライブなんかじゃない。
僕がステージに上るだけで、客席から歓声が聞こえる。
その気持ちは僕だけではなく、KUROとKOUも同じだったはずだ。

ただ、僕たちが話題作りに使っていた覆面が、
ここにきて邪魔になってきた。
素顔を知ろうとするファンの追っかけがひどくなってきたのだ。
これは男性ファンよりも女性のファンに多かった。

東京に出てきたときは、事務所が借りてくれたマンションで
共同生活をしていたが、
今ではみんなセキュリティのしっかりした
場所で別々に暮らしている。

KUROはファンを食ったとか、
KOUは家の前にいた追っかけにペットボトルを投げつけたとか、
僕らは音楽以外のところでストレスや問題を多く抱えるようになってしまっていた。

だけど僕だけは素顔をさらさないように生きていた。
僕はバンドのボーカルだ。
ボーカルっていうのはバンドの顔ともいえる。
覆面バンドとして売り出したんだから、顔を出すことはご法度。
そうやって考えることで色々と自制していた。
カナタさんは売れたら覆面を外せばいいなんていったが、
今更引き返せない。
そのことは自分がよく分かっていた。

この頃からだ。
僕が音楽について、仕事について興味が持てなくなってしまったのは……。
ぱたんと曲が書けなくなったんだ。
売れる曲を、聴いてもらえる曲を! と考えれば考えるほど
フレーズが浮かばない。
それでもアルバムの発売日は動かせない。
アルバムが発売できなかったら、収入が減る。ファンが減る。

せっかく音楽で食っていけるようになった。
でも、それは同時に音楽を食い物にしてしまったのだと
ふと気づいてしまったんだ。
3人で楽しく演奏することなんかより、
どういった演出のほうが盛り上がるかを話し合うことが多くなり、
最低限の練習が終われば、ふたりとも飲み会や女のところへ
行ってしまう。
寂しかったんだと、今ならわかる。
ずっと3人一緒だと思っていたのに、
音楽によってバラバラになった。
3+ではなく、ゾンビスクラップになると決めた日から、
こうなることはわかっていたのかもしれない。
それを選んだのは自分だ。
望んだのも自分だ。
だから、ふたりを責めることなんてできない。
僕はただ、家に帰ってはお金になる曲を作ることをする以外、
何もできずいた。
毎日、衣装であるつなぎを洗濯する音とギターの音だけが
部屋に響いていて。
それが無性に僕を寂しくさせた。

不幸は続くもの。
ある日、僕のマンションの位置がバレてしまったらしい。
どうやらブログとつぶやきを合わせ見て、
都内のマンションの見取り図を徹底的に調べたファンがいたようだ。
そいつらのせいで、僕はマンションから出て行くハメになった。


ハイツ響から事務所へと行くと、KUROが新曲の譜面を持っていた。
それを受け取り、ギターを合わせる。

「それ、Ryuseiの曲よりいいと思わねぇ? サビもキャッチーだし」

「うん、俺は嫌いじゃないな。それより俺の曲も見てよ」

「ふうん……ま、やる気も才能もないやつの曲よりは
いいんじゃねぇの? すかすかな詞よりも中身もあるしな!」

KUROとKOUはそんな話をしている。
僕の居場所もいよいよだ。
もうこの業界にはいられない……。

僕らの様子を見ていた社長が、
手を叩く。

「あー、3人とも、ちょっといいかな?」


急な呼び出し……主にKUROが曲を作り上げたときにかかる召集だが、
今日はあっさりと解散になった。

まだ夕方なんだなぁ……。
いつもは真夜中になったりするが、今日は夕日を見ることができる。
歩道橋の上から、オレンジ色に染まる空を眺める。
そのわきを、下校途中の小学生たちがすり抜けて行った。

この子たちはまだ何も知らないんだろうな。
歩道橋から滑り落ちるなんてこと、考えたことがないから
元気よく駆けることができるんだ。
僕は今、ここから落ちて車道に身体が転がる想像しかできない。
だから歩道橋は慎重に渡る。
人の道を踏み外さないように。
自分から飛び降りてしまわないようにと。

なぜそんな思いをしてまで歩道橋を渡るのか。
道を突っ切ってしまったほうが断然早い。
当たり前だけど、勢いよく走る車を避けるため。
朝方や夜中なら大丈夫かもしれないが、
僕はどうやらまだ死にたくないらしい。
まわりくどくても最短ルートを取らないことに、
臆病だと言う人も罵る人もいるだろう
それでも僕は、歩道橋を渡ることすら勇気がいるんだ。

「あ……静さん」

アパートに帰ると、静さんが外に出ていた。
回覧板を手に持っている。
いいタイミングだったのかもしれない。
静さんは軽く僕に会釈をする。
今日も笑顔だ。

「か、回覧板ですか? ありがとうございます」

僕が言うと首を振る。
そしていつも通りメモを取り出すと
会話の始まりだ。

『お仕事お疲れ様です』
「いえ……」
『笹井さん、甘いものお好きですか?』
「好き……ですけど」

静さんはいつも通りなのに、
僕は勝手に恥ずかしがっていた。
あんな風に『あなたの声を取り戻す』なんて言ったあとだ。
恥ずかしくないわけがない。
それでも静さんは何もなかったように接してくれる。
……少しは気にしてほしかったというのが本音だけど、
気まずくなるよりはマシだ。

『クッキー焼いたんですけど、よかったら
お部屋へ持って行ってもいいですか?』

「い、いや、部屋は汚いので!」
『でしたら私の部屋に』

「あれ、静さんじゃん。と……新入りか」

振り向くとそこには、201号室の酔っぱらいがいた。
といっても今日は飲んでいないようだ。
へらへらはしてるが、酒のにおいはしない。

「静さ~ん、あんまり変な男相手にしたらダメだよ。
いくら弟に似てるからって……」

「え?」

この人、星弥さんのこと、知ってるのか?
そういえば初めて会った時も言ってたかも……。
僕のこと、『弟』って。

静さんとこの人ってどういう関係なんだろう。
まさか本当の恋人、とか?
静さんが笑顔なところを見れば、
仲も悪くはなさそうだ。

……ちょっと嫌だな。
こんな気持ちを持つこと自体が
許されないとは自分でもわかってる。
僕は静さんの彼氏でもなんでもない。
ただ勝手に『声を取り戻す』なんていきがってる
アパートの住人のひとりだ。

「何見てんだよ!」
「い、いや、なんでも……」

ふたりのやり取りをじっと見つめていたら、
201の住人にどやされる。
小心者の自分が嫌だ。
すぐ怯えて、視線を逸らす。
しかし静さんは僕の肩をたたいてメモ帳を見せた。

『ケンさんは口は悪いけどいい人なの。
弟にギターを教えてくれた人で』

「そうなんですか?」

「まぁな。俺の仕事先の社長が、静さんの親御さんと知り合いなんだよ。
それでふたりとも付き合いがちょっとあってな」

『ケンさんが昔ライブに招待してくれたの。
私たちのいいお兄さんって感じで』

「そーいうことだから、
静さんにちょっかい出すんじゃねぇぞ!
彼女は繊細なんだから」

「はぁ……」

『ケンさんったら!』

ケンさんか……。
確かに背中に楽器背負ってるな。
ギタリストなのか。
同業者だけど、見覚えはない……よな。
あんなロンゲに、特徴的な黒縁メガネをかけてたら
気がつくはずだ。
でも、あの様子だったら今でもやってるんだよな、音楽。
もしかしたら有名なスタジオミュージシャンとかなのかも。
だとしたら、できるだけ自分の正体はバレないように
気をつけないといけないな。

『笹井くん、クッキーなんだけど』
「あ、はい。いただけるならぜひ……」

そういうと静さんは僕の手を引き、
部屋へと連れて行く。
それでも僕はクッキーを受け取ると、すぐにお暇することにした。

静さんは僕のことを弟だと思って
親切にしてくれている。
だけどそれって異性として見てくれてないってわけだよな。
確かに僕なんて男としての魅力は皆無だ。
見た目もひょろいし、髪の毛は切りに行くタイミングがなくぼさぼさ。
相変わらず僕は冴えない。

音楽をやればカッコよくなるなんて、大嘘だ。
別にモテるために始めたというわけじゃないし、
Ryuseiのときはモテてるかもしれない。
それでも本当の僕を見てくれる人なんかいない。
虚構の世界が僕の居場所だ。

その居場所がなくなりそうになった今、
新しく知り合った静さんの存在が大きくなっていくのが怖い。

もらったクッキーの袋を開けて、
1枚口にする。

「甘いなぁ」

今夜の夕食はこれでいいや。
冬は寒くて外に出る気がしない。
コンビニに行くのすら面倒だ。

それに、クッキーは空腹だけじゃなくて
心も満たしてくれるような気がして
僕はその日心地よい優しさの中で眠りについた。


翌朝家の鍵を探すために
ポケットを漁っていると、
2階から女の子が降りてきた。
この間『キモい』と言ってきた子だ。

「お、おはよう……」
「……あ、静さん! おはよー!!」

え、静さん?
っていうか、僕は無視なんだ。

女の子は元気よく静さんに駆け寄ると
僕にも聞こえる声で言った。

「静さんは女のひとり暮らしなんだからさ、
いくら同じアパートに住んでても
変な男には気をつけるんだよ?」

ちらりと視線を僕にやると、小さく舌打ちして
走って行く。
大学生……なのかな。
今の時間に出て行くってことは。
しかし僕は相変わらずキモい扱いなんだ。

ボケーッと立ち尽くしていたら、
静さんがこちらに気づいて会釈してくれる。
僕も挨拶しないと。

「お、おはようございます」

今日も一輪の花が咲く。
挨拶がどもってうまくできなくても、
あざ笑うことなく優しい表情を向けてくれる。

「あ、あの、昨日のクッキー……」
「静さん、おはようございますっ!」

お礼を言いかけたところで、
102号室からも住人が出てくる。
吉田くんだ。
静さんは相変わらずにこにこしているけど、
吉田くんは一瞬顔がこわばった。
僕がいたからだろう。

そういえば今日は土曜日。
ついでに言えば、今度のライブについての打ち合わせがある。
ということは、彼とは家からずっと
一緒の道をたどるということだ。

「………」

僕たちは無言になる。
静さんはいってらっしゃいと言わんばかりに
手を振る。
歩き出すしかないのか。
吉田くんも静さんの手前、僕をむげに扱えないようで
一緒に歩きはじめた。

さすがに何も話さないのは気まずい。
僕は仕方なく口を開いた。

「……どう? バンドのほうは」
「笹井さんに心配されるようなことはありませんっ!」

その言葉に思わず笑ってしまった。
やっぱり若いなぁ……。
そうやって言い返せるのって、今の僕にはできないことだから
少しうらやましい。
ついにやにやしてしまったら、
カチンときたようだ。

「なんで笑うんですか! あなたはもう、ミュージシャンの道を
諦めたようなものでしょう!?
僕を見て悔しいとか、思ってくれないんですか!?」

『悔しい』……ね。
目の前にいる少年の顔は、今にも泣きそうだ。
なんで僕なんかのために
そんな表情をするんだろう?

吉田くんは顔を背けると、つぶやいた。

「笹井さんはファンのこと、考えてないんですよ……」
「ファン?」

「言ったじゃないですか! オレはRyuseiさんのファンだったって!
なのにRyusei……笹井さんはもう、
好きなことから逃げた臆病者でしかない!
自分のことしか考えてなくて、残されたファンの思いすら
どうでもいいと思ってるんでしょう!?」

……うーん。
ここで僕の思ってることを言ってもいいのかな。
本当に考えてることを口にしたら、
この子はさらに怒りそうだ。

僕にはファンなんてたいそうなもの、
いないんだ。
僕らの作った音楽を好きだと言ってくれる人は
ありがたいと思う。
でも、その『作った音楽』というのは、
『商品』でしかない。
売れるように、みんなに聴いてもらえるように作ったものだ。
巧妙に売れる戦略を練って作られたものだから、
売れなかった場合はプロジェクトの失敗ということになる。
ファンがいる=プロジェクトの成功。
売れなかったバンドはただ、消えていくのみ。
売って、売って、売り続けて、うまくいったバンドには
ファンがつく。
『このバンドの曲の多くは自分の嗜好に合う』……。
だから『ファンになる』という構図。
そんな計算ずくめな僕たちに、本当のファンなんて
いるのだろうか。

考えたのち、僕は口をひらいた。

「どうでもいいなんてことはないよ。
でも、僕のことを好きでいてくれる人がいるなら、
ただお礼を言いたいだけかな」

「期待に応えるような曲を作ることが
重要じゃないですか?
なのに、『お礼』って……」

「曲を作るってことは、商品を新しく作ることなわけで
純粋なお礼にはならないと思うんだ」

「はぁ?」

「意味がわからないなら、君はそのままのほうがいい」

「悪かったですね。どうせわからないですよ!
なんでオレ、こんな面倒くさい人のファンなんてやってたんだろう。
自分が嫌になりそうだ!」

「はは、吉田くんは面白いね」

「どこがですかっ!!」

ひねくれてる僕とは違って、この子はまっすぐすぎる。
感情表現も素直で、それが輝いて見える。
今の僕にはちょっと眩しすぎるくらい。

いつも渡る歩道橋が近い。
僕は手前のコンビニに寄ることにした。
一旦吉田くんとはお別れだ。

吉田くんと話をするのは楽しい。
でも、きらきらしている彼とずっと一緒にいるのは
正直つらい。
昔の、3+だった僕たち3人を思い出す。
ただ楽しかったあの頃にはどうやったって戻れない。
事務所で待っているのは、すっかり変わってしまった九郎と耕平。

コンビニで買ったのはミント味のガム。
普段ガムはあまり買わないが、なんとなく清涼感を
味わいたい気分だった。
青春って、味にするとこんな感じなのかな。
今の僕らは、きっとこんな爽やかな味じゃない。
苦くてまずい、ブラックの缶コーヒーみたいな味だろう。
泥水みたいなのに誰もその味に気づかない。
おいしいものではないのに、それを口にするのが
当たり前になっているだけなんだ。


事務所に着くと、一足早くメンバーがそろった吉田くんたちのバンドが
先にスタジオに入ることになってることを知った。
僕らは同じフロアの会議室で打ち合わせだ。

スタジオの横を通り過ぎるとき扉が開いていた。
どんな雰囲気なんだろう?
興味本位でのぞいてみると、怒声が聞こえた。

「お前は完璧なドラムが叩ければいいんだ!
できないならここから出て行け!!」

えっ……。
僕は耳を疑った。
うまく行ってるんじゃなかったのか?

吉田くんは自分よりも年上のメンバーと
にらみ合ってる状態だ。

「オレは『もっとこうしたほうがいい』って意見を述べただけですっ!」

「意見なんて求めてねぇんだよ! 俺たちが欲しいのは、言われたことを完璧に
プレイできるドラマーだ!!」

「くっ……」

悔しそうに下唇をかむ吉田くん。
なんて顔をしてるんだよ。
まるで今の僕じゃないか。

彼は違うと思っていたのに。
まだ夢の真っただ中で、これから起こる楽しい出来事に
期待してるとすら思ってたのに……。

小さく扉がキィと鳴った。
まずい。

しかし吉田くんは僕に気づいた。
ガスマスク越しに視線が合う。
僕は逃げるように会議室へ走った。


打ち合わせのあとにスタジオでの練習。
すべてが終わったのは22:00を回ったあたりだった。
今度のライブは最高のものにしたい。
KUROとKOUはそう意気込んでいた。
その強い気持ちは僕の歌に厳しいもので、
何度も何度も直された。
ここまで補正されたら、僕の歌い方じゃない気すらしてくる。
それでもしょうがない。
ふたりの納得のいく形になれば、それでいい。
心の中に思っていることがいくらあったとしても、
口に出すことはしない。
それが一緒にバンドを組んでくれた、ふたりへの感謝……なんて言ったら
余計に怒るだろうけど。
言わないことでみんなが納得いくのなら、僕は意見するつもりはない。

フラフラと事務所から出ると、そこにはひとつ影があった。

「笹井さん」

ダッフルコートのポケットに手を入れて
白い息を吐いていたのは、今にも泣きそうな吉田くんだった。


吉田くんはずっと黙ったままだ。
僕らはいつもの歩道橋に差しかかる。
階段をのぼり終えると、下には車のライトの流れ星。
吉田くんはそこで足を止めた。

「笹井さん……『好き』ってだけじゃダメだって、
どこで気づいたんですか?」

車の走る音が聞こえる。
遠くでは救急車のサイレンも。

僕らが必ずぶち当たる壁を、彼は乗り越えられるのだろうか。

「コンビニでご飯買って……部屋で話そう。
ここじゃ寒いし、危ないよ」

「危ない?」

怪訝な顔をする吉田くんは、まだこの歩道橋の危なさに
気づかないひとりなんだ。
ま、知る必要もないことか。
階段を滑り落ちないように、下をしっかり見て僕は進む。
吉田くんは速足でそれに合わせた。

103号室。
吉田くんが初めての客だ。
静さんすら招いていない。
というか、招くような度胸がないというのが正しいか。
ギターとパソコン、ベッドしかない部屋へ通すと
吉田くんはきょろきょろする。

「えっと……シンプルな部屋ですね!」
「君はなんでもポジティブに受け取るね」
「それしか取り柄、ないですから!」

言い切って笑顔を浮かべる吉田くん。
だけど今日の笑顔は前に見たものとは少し違う。
Ryuseiをたずねてきてくれたとき見せた、曇りのない笑みじゃない。
今日は影が見える。
さっきまで泣きそうな顔をしてたんだ。当たり前か。

「メンバーとうまく行ってないの?」

「……はは、一生懸命やってるんですけどね。
『一生懸命』じゃダメだってことに、気づいて」

一緒に買ってきた弁当を取り出して、
プラスチックのふたをあける。
中身は同じだ。

唐揚げを箸でつまむと、力ない笑顔でそれをほおばる。
こんなときでも笑って食事しようという彼を、
僕は心から尊敬してしまう。
笑ってる場合じゃない。
普通はそう思うはずだ。

「どうやらオレって、代役だったみたいなんです。
バンドのドラムが急に抜けて、その補てんっていうか。
だからですかね? みんなとまだ馴染めないんですよ。
それに、年齢も違うし」

「でも、ドラムの腕があったから
君に声がかかったんでしょ?」

「今になって、それもどうなんだろうって思うようになっちゃったんです。
ただ偶然が重なって、今の場所にいるだけな気がして」

「偶然でもそこにいるのは現実だよ。
つらいことがあっても、それは受け止めないと……って
僕がいうセリフじゃないな」

僕も唐揚げを口に入れた。
余計なことをいうべきじゃない。
彼には才能も運も若さもある。
まだ僕ほどおちてはいない。
今は、現実に絶望する必要はないんだ。
夢が見たいなら思い切り見ればいい。
ただ、夢はさめる。それだけだ。

「逃げることはいつでもできるよ。
でも、君は逃げない。そうでしょ?」

僕の問いかけに吉田くんは一瞬視線を逸らす。
しかし、すぐに僕へ向き直ると強くうなずいた。
これなら大丈夫。
彼は強い。僕なんかよりずっと。
弁当を空にすると、吉田くんは大きなため息をついた。

「はぁ、笹井さんに相談するまでもなかったな。
なんでオレ、あんなにへこんでたんだろう。
笹井さんなんて、こんな悩み日常茶飯事でしょ?」

「なんでそう決めつけるの……」

「え、だって笹井さんって、いつもうじうじしてるじゃないですか!
ネガティブの塊だ! って感じで」

「君さ……正直なのはいいけど、
ちょっとはオブラートに包んでくれないかな?」

さっきまで泣きそうだったくせに、
もう平気な顔をしている。
これが若いからなのか、彼の性格なのかはわからないが、
切り替えのうまさはうらやましいほどだ。

「そうだっ! 相談にのってくれたお礼に、
オレも笹井さんの悩み、一緒に考えますよ!!
例えば……静さんのこととか!!」

「だっ!?」

思わず米粒を吹き出しそうになる。
なんでそうなる!?
しかも……。

「な、なんで静さんのことなんだよ……」

「朝会ったとき、ピンときたんですけど
当たりですか!?」

「………」

もくもくと弁当を食べる僕に、吉田くんはさらに踏み込んでくる。

「笹井さんって、現場でもマスク取らないじゃないですか。
彼女いないって聞いて、尊敬したんですよ!
徹底してるな~って。
でも、今朝の笹井さん、いつも以上に不審だったから!!」

「やっぱり君、失礼だよ……」

吉田くん、素直なのはいいけど本当に遠慮がないな。
彼の勢いに僕はたじたじだ。
恋愛相談なんて、何年振りだろう。
ともかく恥ずかしすぎる。

「静さんの話はやめよう」

「え~っ、なんでですか? 
ほら、オレみたいに話したらすっきりするかもしれませんよ!?」

目の前には人の恋愛話にわくわくしてる高校生がいる。
年下にこんな相談なんてできないよ。
僕にも面子ってものがあるし……。

「またうじうじする! 笹井さんって本当に男らしくないですね!」
「うっ……君ってやつは……」

この様子じゃ、話さないと帰ってくれないような気がする。
じっと弁当を食べる僕を見る吉田くん。

「……誰にも話さない?」
「当然ですよ! 話したらスキャンダルじゃないですか」
「それもそうか……」

そういった意味なら、吉田くんに相談するのが一番マシなのかもしれない。
僕は弁当を食べ終えると、ゴミを分別して
座りなおした。

「『声を取り戻す』って、約束しちゃったんだ」
「……え? 静さんが話せないのって、先天的なものじゃないんですか?」

静さんが声を失ったのは、殺された弟さんのことがあって……という話は省き、
ただショックがあってその影響だと説明する。
それ以前は音大の声楽科所属で、バンドのボーカルをやっていて、
歌姫と称されていたことも。
吉田くんはただただびっくりしていた。

「突然声が出なくなるなんて、あるんですね。
でも、どうやって取り戻すんですか?」

「わからない……」
「意味ないじゃないですか」
「だから悩んでるんじゃないか!!」
「あ、そっか」

……吉田くんに相談したのはやっぱり失敗だったか。
買ってきたペットボトルのお茶に口をつけると、
相談しろと言った本人も頭を抱え始める。

「うーん、月並みですけど、曲をプレゼントするとか?
ドラマチックじゃないですか!?」

「いや、それで声が取り戻せるとは思えないよ。
もう1年以上は治ってないんだから」

「ですよねぇ……」

ドラマチックって、ドラマと現実は違うだろう。
事は簡単に解決するようなものじゃない。

「う~ん……」

頭をひねる吉田くんだが、案があったら自分自身で
解決している。
あのあと色々検索したり、手だてを考えてみたつもりだ。
それでも何も思いつかなかったんだ。
だからこうして悩んでるわけであって。

しばらく空白の時間が流れる。
やけに静かだ。
そう思ってたら……。

「よ、吉田くん?」
「………」

なんだよ、寝てるじゃないか。

「まぁ、しょうがないか。
本人もさっきまで悩んでたみたいだし」

僕はとりあえず布団をかけてやると、
自分もベッドに横になった。


「……ん」

「おはようございます! 笹井さん!
ご飯用意できてますよ!!」

「なんで君が用意してるの……」

「昨日、泊めてもらったお礼です!
何もしないで帰るのは失礼かと思って!!」

「気にしなくてよかったのに」

というか、正直さっさと帰ってほしかった。
僕自身あまり朝は得意じゃない。
それに男の子がいたって嬉しくない。

「笹井さんって、本当に料理しないんですね!
オレ、自分の部屋からわざわざ作って持ってきたんですから」

「いや、そのまま帰ってよかったんだよ?」

本当にこの子は……。
人懐っこいのか、義理堅いのか。
朝っぱらから男子高生の手料理を食べる羽目になるなんて、
なんなんだ、一体。

「笹井さんも起こしたことだし、オレ帰りますね。
お皿とかは適当に部屋の前に置いてくれれば大丈夫ですので」

「うん」

とりあえず僕も玄関まで見送る。

「まぁ……ありがとう。朝食」
「静さんに作ってもらえるようになるといいですね!」
「くっ」

作ってもらったことはある。
1回だけど。
それにお菓子とか、他のものはもらってる。
……ただ、恋愛対象にはなってないっぽいことは
自分でも気づいてた。
悔しいけど眼中にないことは自分でも承知だ。
高校生にからかわれてるのが腹立たしいが、
実際そうなんだから言い返せない。

「じゃ、ありがとうございました!!」

頭を下げ、ガチャリとドアをあける吉田くん。
しかし、そのタイミングは最悪だった。

「あ、おはようございます!」
「……うわ」

吉田くんは元気に挨拶するが、
ドアの外にいたのは2階の住人である女の子と酔っぱらい。
様子を見ると、ふたりとも酒が抜けていないっぽい。
どうやら朝帰りみたいだけど……
なんでふたりが一緒にいるんだ!?

「キモ男が少年連れ込んでる!!」
「ち、違うっ!!」

女の子のほうが大声を上げる。
勘違いも甚だしい。
確かに吉田くんはうちに泊まったけど、誤解だ。

「ちょ、変なこと言わないでくださいよ!!
静さんに聞かれたらまずいからっ!!」

「なんでまずいんだよ。お前がガキ捕まえてるほうが
よっぽどまずいだろ!!」

「や、やめろ、酔っぱらい!!」
「なんだよ!」

つい大声をあげてしまうと、酔っ払いも応戦する。

「静さ~ん!! ここに同性のガキ連れ込んでる犯罪者がいますよ~!!」
「や、やめてください!! 本当に頼むんで!!」
「おい、ノゾミ。どうする? こいつ」
「とりあえず家宅捜索でもしとこうか。どんな変態グッズがあるか気になるし」
「えっ……!? ちょ、アンタらっ!!」


どかどかと酒くさい二人が部屋へと
入ってくる。
酔っぱらいたちのテンションが怖すぎる。
朝から一体どうなってるんだ!
今日は最悪だっ!!

ふたりは僕の部屋をじろじろと眺める。
吉田くんも帰るに帰れなくなったらしく、
部屋にいる。

「なんだよ、お前……引きこもりかと思ってたけど、
こんなギターどこから手に入れたよ」

「い、いや、それは買ったやつですよ」

「買ったって……そんなに簡単に買える額のものじゃねぇぞ」

スタンドに並べられたギターを見た男がつぶやく。
酔っ払いは確か音楽関係者だ。
ここは自分の正体がバレないように誤魔化さないとまずい。
5年間、必死に隠してきたマスクの素顔。
携帯で写真でも撮られたら、一発アウトだ。

女の子のほうも注意しないと……あれ?
どこだ?

「あ~っ!!」

一瞬目を離した隙に消えた女の子の声が響く。
まずい、洗濯機のほうからだ。

「何これ! 迷彩のつなぎにガスマスク!?
なんでこんなもん持って。まさか……」

ヤバい。
これでバレたか!?

「キモ男、アンタまさかコスプレオタクかミリオタ? うわぁ、引くわ」

冷や汗をかいたけど、セーフ。
引かれたって構わない。
バレなければそれでいい。
僕がホッと胸をなでおろすと……。

「笹井さんはオタクじゃありませんっ! 確かに見た目はそうかもしれませんけど!
本当の笹井さんはもっとカッコよくて、ステージパフォーマンスだって……」

「よ、吉田くん! 余計なことは……」

なんでこんなにまずいときに、
この子は余計なひとことをつけたしてしまうのか。
5年間隠し通してきた素顔だっていうのに!!

吉田くんの言葉に反応したのが、
酔っ払いだった。

「おい、新入り。
お前、本当に何者だ?
知ってるぞ……こういう色物バンド。
まさか、お前……」

「………」

やっぱりピンときてしまったか。
隠し通すのならばどうすればいい?
衣装もギターも趣味だと言っても
納得してくれそうにはない。
もう最悪だ。
今日はなんてついてない日なんだ。

「そうですよ……僕はゾンビスクラップってバンドで
ギターやってる人間です」

「あ、知ってるよ。そのバンド。アンタがあのギターボーカル
だったんだ? ふうん。ただのキモ男じゃなかったのね」

女の子はじろりと僕を見る。

「へぇ。あのゾンビスクラップねぇ……」

酔っ払いもあごをさする。

だけど僕の予想よりも驚いたようには見えなかった。
それがかえって不気味な気もする。
今度は僕がふたりに質問した。

「それよりも、僕はふたりの名前を聞いてません。
挨拶に行ったのに。素性すらわからない」

「あ、そういえばオレもです!」

吉田くんも強くうなずく。

ふたりは顔を見合わせたのち、
口を開いた。

「俺は伊藤ケンだ。201号室に住んでる」
「伊藤さんも音楽やってるんですよね?」

僕は伊藤さんが背中に楽器を背負っていたところを
見ている。
僕の言葉に軽く舌打ちすると肯定した。

「まぁな。ベースとギター担当だ。
昔はそれなりのバンドに入ってたけど、
今はぬるいところで生きてるよ。
で、こっちは202の松本ノゾミ。
大学生だけど、こいつも音楽やってる」

「ちょっと、ケン! 誰にも言わないって約束したじゃん!!」

松本さんが、伊藤さんの襟首をつかむ。
それでも平気な顔をしているのは、このおっさんがまだ
酔っ払っている証拠だろう。

「それじゃ、ここのアパートの人って
みんな音楽に携わってるんですね!
ま、よく考えればそうか。
そうでもなかったら、防音の部屋なんて借りませんもんね!」

「ガキ、お前も何かやってるのか?」

「はいっ! ドラムたたいてます!」

「………」

全員が黙ってしまった。
なんだ、この重い空気は。

隣に住む人が何をやってるか、なんて
普通だったら興味を持つことじゃない。
だけど、音楽をやってる人間が集まるなんて
偶然にしてもできすぎだなとは思う。
だからって、それはそれだ。
知ったこっちゃない。
僕の正体を黙っていてくれるなら、
何も言うこともないし。
さっさとみんな、帰ってくれないかな……。

「あ、でも静さんはやってないでしょ?」
「いや……彼女も元は音楽をやっていた」

松本さんの言葉に、伊藤さんがぼそりと答える。
吉田くんもそれに反応して、また余計なことを言い出す。

「みなさん、どう思います? 静さんの声のこと」

「どうって……」

松本さんが困ったような顔をする。
伊藤さんは吉田くんに厳しい眼差しを向けた。

「おいガキ。静さんの声のこと、詳しく知ってそうだな?
どこで知った」

「笹井さんに聞きました!」
「ちょっ……」
「新入りっ!」

伊藤さんはさらに怒りを募らせた表情で
僕の手首をギリギリと握りしめた。

「お前、静さんのストーカーか!?
言っただろ、彼女は繊細なんだって!!」

「……せ、繊細だからこそ、声が出なくなったんでしょう。
僕は、彼女の声を取り戻したい。それだけなんです」

「どういうことなの?」

理解できてない松本さんに、伊藤さんが説明を始める。
吉田くんも真剣だ。
伊藤さんは僕がはしょった弟さんの事件のこともすべて、
みんなに話した。

「今はこうして親御さんの手伝いで大家をやってるが……
それまではまるで死んだ人間みたいな顔をしてたよ。
だからだろうな? 俺たちたなごにおせっかいと思えるほど
優しくしてくれるのは。
今の彼女の生きがいなんだよ。
それを!!」

伊藤さんの拳が僕の頬に打ち込まれる。
バシンッと、室内に音が響く。
その光景を目の当たりにした吉田くんと松本さんは、
目を見開いた。

「簡単に『声を取り戻す』なんて言うなっ!」
「………」

口の中が痛い。血の味もする。
切れたのだろう。
僕は頬を押さえた。

伊藤さんの言ったことはもっともだ。
『声を取り戻す』なんてことは簡単に
できるようなことじゃない。
なのに僕は、彼女に期待を持たせることを言ってしまったんだ。
その罪は大きい。

だけど吉田くんだけは前向きだった。

「約束したのは笹井さんですけど、オレらにも何かできないですかね?」
「は? できるわけねーだろ?」
「このアパートの仲間で、静さんを励ますだけでも!」
「仲間って……」

失笑する松本さん。
伊藤さんはそんな吉田くんに苦言を呈した。

「『仲間』なんて言葉、安易に使うんじゃねぇよ。
俺たちは同じ場所に住んでるだけだ。
仲間でもなんでもねぇ! 
そんな甘っちょろい考え方してるから、ガキなんだ!」

「そんなぁ……」

がっくりする吉田くん。
それを見た松本さんが今度は発言する。

「仲間かどうかは知らないけど、吉田の気持ちはわからなくもないよ。
何かしてあげられたらっていうのは確かに思う」

「でも、僕らにできることなんて……」
「うん、ないね」
「松本さんは、敵なの? 味方なの?」
「いや、どうにかしたくてもできないっていうのが答え。部外者だもん」
「じゃ、せめて笹井さんの想いを伝えることはできないでしょうか!?」
「よ、吉田くんっ!!」

またこの子は余計なことをっ!!

松本さんがふと悪い笑みを浮かべる。
伊藤さんはさらにカチンときたようだ。

「……あんな美人を狙ってるとか、キモ男のくせに。
身分不相応だよね」

「もさ男! 『声を取り戻す』なんて単なる下心じゃねぇか!
最低だぞ!! もう1回殴らせろっ!」

「笹井さんはキモくももさくもありません!
ガスマスクをつければカッコいいです!!」

「フォローになってないよ……」

本当に朝からなんなんだよ……。
男の子に朝食を作ってもらって、
朝帰りの酔っ払いたちに乗り込まれて。
そして正体がバレたと思ったら、好きな女性のことで殴られる。
事は結局何も解決できてない。

「もういいでしょう! 
みんないい加減自分の部屋に帰ってください!」

「いやいや。面白そうだからこれからキモ男が
どう爆砕するか考えようよ」

「お、いいな! ノゾミ!
フラれる様、見てみたいしな!」

「ふ、ふたりとも!?」

酔っ払いたちはここに居座るつもりだ!
僕はパッと吉田くんを見た。
この子が帰ると言えば、ついでで追い出せるかもしれない!
それなのに……。

「そうですね! 
笹井さんの気持ちを伝えるためにはどうすればいいか、
みんなで考えましょう!」

こ、こいつらはそろいもそろってなんて迷惑なんだ!!
静さんへの想いは確かにあるさ。
あるけど、こいつらに相談したところで
何の解決にもならないことくらい
恋愛経験が少ない僕でもわかる!

「まぁ、キモ男のことだから、普通に告白なんてできないよねぇ。
どもりそう」

「あ~確かにな」

「ガスマスクなら無口キャラですよ?」

「あ、それならべたべたに、ステージの上で告白とか!!
それでめっちゃ恥かくの!」

「それは大爆発だな!
しかし、静さんにも迷惑がかかっちまうぞ」

「っていうか、大スキャンダルですし、ファンとメンバーも激怒ですよ!
……でも、ステージを見てもらうのはいいかもしれませんね。
演奏してる姿と普段の姿のギャップがカッコいいかも!
笹井さん、今度のライブに静さんを誘ってみたらどうですか!?」

「………」

今度のライブか。
吉田くんのバンドが前座を務めるライブ。
だけどそのライブは……。

「そうだね。いいかもしれない」

僕はうなずいた。
静さんに一度だけでも見てもらいたい。
僕の歌っている姿を。
だって今度のライブで……ゾンビスクラップは解散するのだから。


解散ライブの練習は順調だ。
ただ、日にちが近づくにつれて、やはりKUROとKOUは
焦りが出てきているように感じられた。

「くそっ! 最後の最後になんでこんな演奏しかできねぇんだよ!」

「いら立つなよ……。新曲も入ってるんだ。
何もしないでうまくいく可能性のほうが低い。
だから練習してるんじゃないか」

KUROに対してKOUのほうはまだ落ち着いている。
それでも何回もミスしているのは致命的ではあるけど。
僕らのバンドが解散することは、社長とメンバー以外誰も知らない。
多くの人間は、このライブが新しいアルバムの発売記念のものだとしか
考えていないだろう。
KUROとKOUの作り上げたアルバムだ。
僕はただ、歌ってギターを弾いているだけ。
こんなもので最後の舞台を飾るのか。
それはそれでむなしい。

何度練習しても、3人の息が合わない。
どうしてこうなってしまったんだろう。
昔みたいに……3+だったときみたいな演奏を
僕はしたい。
そんな衝動から、僕はふたりに提案した。

「ねぇ、最後のステージなんだ。
精一杯楽しむだけじゃ、ダメなのかな?」

「は!? ふざけんな!
俺たちはプロだぞ?」

「そうだよ。それにアルバムだって……」

「僕たち3人でステージに立つの、最後なんだよ?
ただ音楽をやるだけで楽しかったあの頃みたいに
笑顔で終わらせたいと思うんだ。
もちろんプロ失格だってことはわかってる」

解散したあと、九郎は他のバンドに移籍する。
耕平は長野に帰って普通に職を探す。
3人がバラバラになってしまう前に、一度だけ。
再び3+に戻りたい。
一番足を引っ張っていた僕の言うセリフじゃないかもしれないけど、
どうせ終わるのならば、最高のステージにしたい。
その最高のステージは、商売ありきのゾンビスクラップじゃ
作れない。
純粋に音楽が好きだった頃の僕らじゃなきゃ、できないんだ。

「僕らはゾンビスクラップになった時点で
好きなことが仕事になってしまったんだ
最後の最後は『ゾンビスクラップ』じゃなくって『3+』に
戻って……本当に好きだったことをやろうよ」

今まで何も言わなかった僕が意見したことで、九郎も耕平も黙る。
そしてしばらくの沈黙のあと……。

「それもいいかもね。どうせ終わっちゃうんだから」

耕平が僕に賛同してくれた。
あとは九郎だけだ。

九郎は怒った顔で頭をかきながら
ぽつりとつぶやいた。

「3+のときの音源、探すのめんどくせえ。
もう忘れちまったからな。手伝えよ、ふたりとも」

「九郎……」

僕の言葉なんて聞いてくれないと思ってたのに……。

「ありがとう。ふたりとも」

「琉成! お前の作った曲ばっかりなんだから、ミスしたら許さねぇぞ!
それに社長も敵に回すんだから!」

「うん」

意地っ張りで自分中心の九郎と、周りに流されてばかりの耕平。
そして勇気がない僕の3人は、再び音楽を始める。
売り物じゃない、自分たちだけの音楽を。


その日の練習が終わったあと、僕は101号室のインターフォンを押した。
こんな夜遅くに女性の家を訪ねるなんて
失礼だと思う。
それでも一番に渡したかった。
僕らの解散ライブのチケットを。

部屋から出てきた静さんは、
僕が差し出したチケットを見て
首を傾げた。

「観に来てくれませんか?
松本さんや伊藤さんも呼びますし、
ひとりで危なくはないと思……」

『行きます!』

メモの字は、静さんらしくない荒々しいものだった。
興奮しているのだろうか。
顔がほのかに赤い。

静さんはさらにメモを書き続ける。

『ライブ……弟のことがあってから、
一度も行ってなかったんです。
でも、笹井さんのライブなら行ってみたい』

「僕は……星弥くんとは違います」

その言葉に静さんは「あっ」と口を押える。
僕は弟さんじゃない。
あなたに好意を寄せている男なんです。
それに気づいてください。

いつもは合わせられない視線。
だけど、こんなときくらい
しっかりと静さんの目を見たい。

今日は静さんのほうから目を逸らした。
しばらく沈黙すると、メモにまた文字を並べた。

『ライブ、楽しみにしてます。
ノゾミちゃんやケンさんと一緒に……』

「……はい」

ドアが締められる。
今はそれでいい。
僕ができる精いっぱいがこれだ。
静さんに想いが届かなくても、
僕は……。

103号室に戻ると、ベッドへと飛び込んだ。


ゲスト出演の『地獄の殺人鬼』……吉田くんたちのバンドは
どうやら演奏をうまく終えたようだ。
歓声が遠くから聞こえた。

本当は僕もステージで見たかったが、
さすがに最後の舞台の前にそれはできない。
ギターのチューニングが終わると、
僕たち3人は各々立ち上がった。

……このガスマスクとも今日でお別れだ。
僕はそっとマスクに触れる。
今までありがとう。
最後のライブ、頑張ろうな。

「おい、琉成! 行くぞ!!」
「ほら、早くしないと置いてっちゃうよ」

九郎と耕平が待っていてくれる。
これから最後のステージが始まる。
最後『だから』なのか、最後『なのに』なのか。
僕は3人で演奏するのが楽しみで、
駆け足でふたりを追った。

最後の舞台は規模の大きなライブハウス。
1Fはオールスタンディングで、2Fには席がある。
僕が真ん中で大声を上げると、歓声が響く。
静さんも来てるはずだ。
この大勢の人の中に、彼女はいる。

僕は今までの感情をすべて歌にぶつける。
上京してきたときの緊張。
曲が受け入れられたときの喜び。
3人で演奏する楽しさ。
オーディエンスを沸かせる気持ちよさ。
悲しい気持ちもないと言えば嘘になる。
全部ひっくるめて、今日のステージがあるんだ。

デビューする前の曲を含めた11曲を歌い終えると、
僕はファンのみんなに告げた。

「最後にみなさんにお知らせがあります……
僕たちゾンビスクラップは、今日で解散します!!
今まで、本当にありがとうございましたっ!!」

全員で頭を下げる。
僕らの拙い音楽を聴いてくれてありがとう。
好きでいてくれてありがとう。
そして……さよなら。

僕は顔を上げると、マスクを取った。
汗まみれの顔で、フロアを見回す。
ああ、みんなが僕らに注目している。
急なことで泣いてくれているファンも、
「やめんな!!」と叫んでくれる人もいる。
涙か何かわからない水滴が
目に染みる。

最後の曲が始まる。
イントロが終わるとマイクに口づける。
そのとき、一瞬だけ静さんの顔がちらりと視界に入った。


ライブが終わって楽屋で着替えをし終えると、
トントンと扉をノックする音が聞こえた。
ドアを開けるとそこにいたのは、
花束を持った静さんだった。

「あ、あの……」
『ライブよかったです。これ、笹井さんに』
「よく楽屋に入れましたね」
『ケンさんの口利きで』

あの人そんなにすごい人なのか?
この世界とはもうさよならだけど、
最後まで驚くことばかりなんだな。

『ちょっと外、出られますか?』
「ええ、もちろん」

まだステージにいたときの熱が身体にこもっていて
いつものジャージはいらなさそうだ。


僕らはふたりで、ライブハウス近くの海辺に来ていた。
埋立地から見える都会の光は、海に反射してきらめく。

僕と静さんは、何も言葉を交わすことなく
しばらくその光景を眺めていた。

少し寒くなってきたな。
僕が身を震わせると、ちょんとTシャツの裾を
引っ張られる。

「なんですか?」

『笹井さんのギターは、弟のとは全然違いました。
弟は優しい音色だったけど、笹井さんのは……』

「騒音だったとか?」

僕の言葉に首を振ると、また筆を走らせる。

『力強かったです。
いつもはあまりお話してくれませんけど
感情がすごく込められていた気がします。
笹井さんって、本当は情熱的な人なんですね』

「そ、そんなことは……」

静さんは小さく笑うと、僕の前髪を上げた。
そしてまた顔をほころばせる。

「……恥ずかしいです。顔、見せるの。
慣れてないんで」

『そんなことない。とてもカッコいい……』

「Ryusei!!」

甘いひと時は一瞬で終わった。
僕は名前を呼ばれ、びくりとする。
視線の先には包丁を持った女の子。

はーっ、はーっと息を吐いている。
目がおかしい。
僕は思わず静さんをかばうように前に立った。

「Ryuseiの顔がわかったら、私の気持ちを伝えようって
ずっと思ってたの!!
私と一緒に死んで!!」

そういえばカナタさんが言ってたっけ。
「こういうバンドにはたまに変なファンも混ざってる」って。
思い返してみれば、自殺をほのめかすものや
リストカットを繰り返してるなんて内容のファンレターもあった気がする。

ただ、それを思い出したところでどうしようもない。
ともかくここから逃げないと。

「静さん、逃げますよ!!」
「……!!」

僕は彼女の手を引く。
が、静さんは驚いたのか怖いのか動いてくれない。
女の子をじっと見つめて、震えている。

「その女は誰よっ! 私以外の女がいるなんて……!!
許せないっ!」

女の子が突進してくる。
もう手段はない。
僕は静さんの前に立ち、そのまま刺される。

「っ……!!!」

刺されるって、痛いのかと思ったけど
実際はそうでもないんだなぁ……。
血が抜けて行く感覚はある。
僕がその場にうずくまると、女の子は泣きながら逃げて行った。
結局一緒に死んではくれないんだ。
そんなものだよね。
本当に刺されてる人間を見たら、怖くなる。
当たり前のことだ。

「あ……あっ……!!」

静さんは息を荒げたまま、しゃがんで
僕の頭を膝の上に乗せる。

「せ、星弥っ……!! 星弥っ!!」

「し、静さん、言ったじゃないですか。僕は星弥くんじゃないって」
「さ、笹井くん……?」
「あはっ、声、取り戻せましたね。よかった……」
「笹井くんっ!! だ、ダメっ!!」
「ん……」

静さんの声が聞こえる。
僕を呼んでくれている。
彼女の声が戻ったのなら、まぁいいかな。
このまま死んでしまっても。
大好きだった音楽にも、もう未練はない。
人生が終わってしまっても悔いはない。
これでいい。
僕はそのまま意識を失った。


死ぬことなんて、本当に突然だ。
思いもよらないところで命を落とす。
あの世なんて信じないし、死んだあとどうなるかなんて
想像はつかない。
ただひとつ願うのならば、静さんの歌声が聞こえるところに
とどまり続けたいな。

「聖なる夜にひとり静かに待つ あなたが帰るのを
望みを捨てず 顔を上げて星に願いを
健やかに眠ることはできず 目は冴えたまま
夜空を翔る流星に一番近い橋で 私は歌うよ」

「……静さん?」

「笹井くん……? 笹井くんっ!!」

目が覚めたのは病院の中。
あっという間に医者と看護師が来て、
僕の身体を調べる。
それがようやく終わると、静さんが僕の手を握った。

「よかった……気がついてくれて」
「さっき歌ってたのは、静さんですよね」

こくんとうなずく静さん。

「声が出るようになったから……。
前に褒めてくれたよね。私の歌声」

「動画以外……生の歌声を聴けるなんて
思いませんでした。
死ぬものだと思ってたから」

「死んだらダメだよ。全部が終わりになっちゃう。
星弥みたいに。
でも笹井くんは弟じゃないから……死なないよね」

「わかりません。僕にはもう目標はありませんから。
静さんの歌声も聴けたし、思い残すこともない」

「何言ってやがるんだ。お前にはまだ仕事があんだろーが!!」
「い、伊藤さん!?」

「キモ男、さっき社長さんとメンバーのみんなが
来てたんだよ?
解散宣言したからって、まだ終わりじゃないんだって」

「松本さんまで……」

「笹井さんが死んだらオレ~……目標がなくなっちゃうじゃないですかぁぁ!!」
「うわ、うざ。吉田、アンタ同じ事務所なんだから、きちんと説明しろよ」

「ぐすっ……」

吉田くんは涙を拭きながら、茶封筒を取り出した。

「これ、新規プロジェクトの書類です。内容は新しいバンドについてで……」
「バンドって、僕はもう音楽は……」

「違うんです。確かに『ゾンビスクラップ』は解散しました。
でも新しく『3+』をデビューさせるっていう社長の考えで……」

「それってまさか……」

「話題作りにもなったってことだろ? 
お前の事務所の社長も、かなりのたぬきだな」

「ちょっとケン! タバコはダメだよ」

口に1本くわえたところで、松本さんに怒られる伊藤さん。

……3+ってことは、九郎と耕平ともまた一緒に音楽ができるってことなのか?
でも……。

「僕はもう、曲も歌詞も作ることができない」

「心配することはないと思いますよ。
もう無理に『売れる曲』を作らなくていいみたいなんで」

吉田くんの言葉に僕は耳を疑う。
音楽業界でそんなことは許されないだろう。
売れないと、成果を出さないと意味がないはずだ。

「社長が言ってました。『3+』の魅力を潰してしまったのは自分だったって。
笹井さんたちは、自由に自分たちの好きなものを作ることが
ベストパフォーマンスにつながるんだって」

「たぬきのくせに、口だけはいいやつ気取ってるな」

「ケンはちょっと黙ってなよ。ま、そういうことだからさ。
あとはふたりでごゆっくり。
静さんもそのほうがいいっしょ?
ほら、退散するよ」

バタバタと3人は出て行く。
すべてが夢みたいだ。
こんな事態が逆転するなんて。
またふたりきりになると、静さんは笑った。

「みんなあんな態度だけど、心配してたのよ?
まぁ吉田くんに関しては……よくわかっただろうけど」

「はは、そうですねぇ」

「本当にうちのアパートは賑やかな人が多いわ。
私は幸せ者なのね」

「僕も……自分で思ってた以上に幸せだったのか」

そばで好きな人が微笑んでいてくれている。
好きなことができる環境にもいる。
こんな恵まれている自分を、なぜあんなにも悲観していたのだろう。

「もう少し頑張れそうです。静さんがいてくれれば」
「ふふっ、応援してるよ」
「え、えっと、そういう意味ではなくって……」

参ったな。話せても気持ちは伝わらないのか。
静さんが鈍いのか、それとも年下扱いが変わってないのか。

僕はふと笑顔になる。
……まだここで伝える必要はないか。
僕には時間がある。
生きている時間が。

今度こそ本当に成功して、
そのときにきちんと言おう。
「あなたの人生のヒーローにさせてください」って。

声を取り戻すことができても、それは本当に偶然のことだったんだ。
いわゆるショック療法とでもいうべきか。
でも、もう偶然に頼らない。
自分の口ではっきりと伝える。

まずは前髪を切ることから始めよう。
僕の新しいスタートはそこからだ――。


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