○202号室 松本ノゾミ

文字数 11,704文字

「おーい、ノゾミ! 開けろー!!」

ガンガンと乱暴にドアをノックする音が聞こえる。
……だからうるさいって。
呆れながらも鍵を開けると、ガタン! とこれまた乱暴に扉を開く。

いつもの面倒な客、登場だ。

「うっさいよ、ケン。いいかげんインターフォン押してくんない?
静さんにも迷惑だって」

「いいだろ、別に。それよりあがるぞ」

あー、もうまた今夜も厄介なのが来た。
伊藤ケン。うちの隣201号室の住人。
何よりも酒が好きなおっさんで、今日もかすかに酒のにおいがする。

……なんてぐちぐち言ってるけど、
このおっさんのこと、あたしは気に入ってたりする。

「で? 今日は一体何を持ってきたの?」

「R32Pの新曲アップ祝いってことで、シャンパンだ」
「どうせ安いのでしょ?」
「当たり前だ! ノゾミ先生は頻繁に曲、あげるんだから」
「『先生』はやめて。ま、酒は許してあげる」

通称・R32P、『ルール32』。
それがあたしの別名。
ネットで音楽をアップしてるんだけど、
そこそこ有名……色んな意味でね。

ケンとの付き合いも、この音楽がきっかけ。
このおっさん……なんでも自称・プロのミュージシャンらしい。
一応あたしの大ファンなんだって。
意外なことに。

最初はロンゲでオタクっぽい黒縁メガネのおっさんを
キモいって思ってた。
だけど面白いんだよな、この人。
説明しがたいんだけど、得体のしれないところが気にったのかも。

「早く聴かせろよ、新曲!」
「えー、なんだ。もう聴いたと思ってた」
「お前の部屋で聴きたいと思ってな」
「うわ、口説いて……」
「るわけねぇだろ! クソガキ」

相変わらずムカつくけど、
ケンと話してるとき、変なテンポのよさを感じる。

仕方なくあたしは、今まで書いてたレポートの画面を閉じて
データを引っ張ってきた。

再生ボタンを押すと、独特なサウンドが流れる。
それに合わせて機械的な歌声も響く。
3分54秒。
曲が終わるとケンは、シャンパンを開けた。

「合格点!」
「ありがと」

勢いよく吹き出すシャンパンを
こぼさないようにグラスで受ける

「よーし! カンパイな!」
「ちょっと待ってよ。グラスひとつじゃん。もうひとつ持ってくるよ」
「いいんだって。お前は1杯、俺は1本!」
「はぁ!?」
「俺の金で買った酒なんだから、文句言うな!」
「めちゃくちゃじゃん!」

口では文句ばっかりだけど、グラスにお酒を注がれると
まぁ悪い気はしない。
あたしとケンは、グラスと瓶をカチンと合わせる。

「カンパーイ!」

ごくりとラッパ飲みすると、ケンはたずねた。

「どうだ? その酒」
「おいしいんじゃない?」
「はは、もっといい酒飲めるように頑張れよ!」
「うるさい、ムカつく」

私もグラスのお酒をぐいっと飲むと、
再びレポートの画面を開いた。

「なんだよ、今日は曲作ってねーの?」

ケンはパソコンの画面をのぞく。
映っているのは黒い文字の羅列。

「うん、大学のレポート書かないといけなくて」

「ふーん……」

音楽制作ソフトじゃなくて期待が外れたのか、
ケンはつまらなさそうな顔をする。
でもすぐにいつもの調子に戻った。

「で、つまみは?」
「自分で用意しろ」
「夕飯の残りとかねぇの? 一応女のひとり暮らしだろ?」

これだから非モテのガリガリ男はっ!
あたしはケンの前で人差し指を立てた。

「『ルール1、何かに取り組むときは、空腹で』。
だから今夜、夕飯を抜いてる」

「なんだそれ」
「あたしの中のルールだよ」

「そういやお前、出会ったときもルールがどうとか言ってたな。
しかも名前も『ルール32』だろ?
どういう意味だ?」

私は本棚にあったDVDをケンに投げる。

「ゾンビ映画?」

「それにさ、あるんだよ。主人公が決めた『32のルール』っていうのが。
あたしも作ってみようって思って」

「お前、相変わらずこじらせてるなぁ」
「別にいいでしょ。でもね、結局決めてあるのはまだ18個なの」

ケンはDVDの裏面に書かれているあらすじに目を通すと、
あたしに投げて返した。

「32まで長い道のりだな」
「気楽にやっていくつもり」

戻ってきたDVDを本棚に戻し、
またパソコンに向き合う。

相手をしてもらえないと思ったケンは、
ベースを背負うと玄関に向かう。

「ま、レポート書くってんなら、俺は部屋に戻るわ。
明日もまた、気が向いたら酒持ってくる」

「ここは居酒屋じゃないんですけど」
「お前と飲むの、嫌いじゃねぇんだ」
「いいかげんにしてよね」

酔っぱらいは、シャンパンの瓶を持つと
ふらふらとブーツも履かずに部屋から出て行った。
また明日の朝、大学に行く前に201号室に置いといてやらないとね。
あたしは残ったシャンパンを飲みながら、レポートの続きを書き始めた。


「……おはよー、静さん」

『おはよう、ノゾミちゃん』

結局レポートを書き終えたのはさっき。
朝の9時を過ぎたところ。

眠いけど、2限から講義がある。
バッグに印刷したレポートを突っ込んで
アパートの階段を降りると、
大家である静さんが掃除をしていた。

「あれ? 今日ってゴミの日だっけ?」

あたしが聞くと、静さんはペラリとメモ帳をめくった。

『燃えるゴミ……水曜・土曜
燃えないゴミ……火曜
ペットボトル・プラ……金曜』

「サンキュ。間違えないようにする」

軽く手を振ると、静さんも笑った。

彼女は声が出ないらしい。
詳しいことはよく知らないけど。

誰にだって秘密や知られたくないことはある。
ましてやあたしは単なるたなご。
同情はするけど……いや、それもあの人にとっては迷惑な話なのかも。
こういうのは深入りしないほうがいい。

……っていうのはよーくわかってるんだけど、
なんか裏がありそうで気になってる。

静さんはいい人だ。
本音をいうと、最初はおせっかいと感じるほどね。

今年の夏――。
あたしはこの『ハイツ響』に引っ越してくることになった。

大学の近くのアパートを借りてたんだけど、
部屋に機材がいっぱいになったのと
近所からの騒音の苦情が多かったっていう理由で。

そんなに大きな音量は出してなかったんだけど、
基本曲を作ってたのが夜中だったからかな。

だからちょっとは値がはってもいいって
防音の物件を探した。
そして見つけたのがこのアパート。
新築ってこともあり、すぐに気に入った。

静さんはその当時から声が出せなかった。
基本は筆談。
メモとペンが声の代わり。
引っ越しの挨拶に行ったときはびっくりした。
だけどすぐに慣れた。

なんでかっていうと、静さんも頻繁にあたしの部屋に
来てたから。
いつも手作りのお惣菜を持ってね。

学生のひとり暮らしっていうので
気をつかったんだかどうだか知らないけど、
あたしがろくに食べてないんじゃないかって心配したみたい。
本当に余計なお世話。
ちっこいのもやせてるのも、元からだっての。

でも、そんな感じで気をかけてくれるのは
まぁ……恥ずかしいけどちょっと嬉しかったかな。
実家ではこんなこと、まったくなかったから。

今はケンが代わりに毎日来てる。
持ってくるのがお惣菜じゃなくって酒に変わったのは
大目に見ている。
おかげで自炊ぐせもついたことだし、悪いことじゃない。

ケンと知り合ったのは最近。
それなのにケンは、勝手に静さんに
「こいつの面倒は俺が見てやるよ!」なんて
余計なことを言った。

繰り返すけど静さんはいい人。
そのせいか、めっちゃ気をまわしてくれた結果。

『ノゾミちゃんのこと、よろしくお願いね。伊藤さん』。

変な誤解されてる気もするのがちょっと怖い。
あのおっさんとそんな関係、ありえない。

「うわ、想像するだけで寒気がしてきた」

身震いすると、あたしは大学への道を
急いだ。


「松本、なんだ! このレポートは!!」

「なんだって、事前課題だった
新しいフィールドワークについての説明文っすけど?
こーいう分野を探っていきたいなって感じで」

私が返すと、教授が頭を抱えた。

「確かに面白そうではある。そこは認める。
『ネット上で人気のある楽曲のファン層とそれを取り巻く環境、
情報拡散の違いによる知名度の変化』か。
今時のネタだ。
だけど、それを君ひとりで、どう探っていくのかね」

「それはあたしなりのソースとか、まぁ色々あるんで。
大丈夫っすよ。なんとかなると思います」

「『なんとか』と言うがね。
その具体的な情報収集方法が、ここに書かれていないのだよ!
説明なしではこのフィールドワークにGOサインは出せない。
大体君は目上の人間に敬語すら使えないのか!」

おぉ、こわ。
それにしてもこの教授、ホンット頭固いんだから。
仕方ない。
ちょ~っと好感度あげとこうか。
これ以上『ひどい生徒』と思わせたら、
単位もヤバいかもしれないからね。

あたし……私はバッグからメガネを取り出しかけると、
咳払いをした。

「失礼しました、飯塚教授。
ですが、心配はないと断言できます。
先ほども申しました通り、個人的なソースが
存在していますから」

「お、おお……しかしだな」

まともなフリをしたのが効いたらしく、
教授は一瞬たじろぐ。
でもまだ何か言いたげ……。
こっちだって引かないよ。
ここははっきり自分の意見を通させてもらうからね。

「ご指摘いただいた具体的な情報収集方法について
明らかにすることは、
教授にも現時点ではできません。
なぜなら集まる情報が膨大ですので、
報告する前に私の中で精査しないといけません。
それにこのフィールドワークは、最終的に
卒論のテーマとしたいと思っています。
ですから……」

「あーあー、そこまで言うならもういい!
卒論のテーマを念頭に置いているのなら、
……期待している」

「ありがとうございます」
「……しかし、君は本当に嫌な生徒だな」
「褒め言葉として取っておきます」

「今のどこが褒められたと思ってるのか?
まぁ、いいが」

「それでは失礼します」

私はゼミ室を出ると、メガネを外して
あたしに戻った。

「よ、松本。まーたなんか怒られるようなこと、
したのか?」

「狛江……」

あたしに声をかけてきたのは、
黒い短髪でちょっと日焼けしている青年、狛江だった。

狛江とは去年予備校が一緒だった。
テストの順位を毎回競ってたんだ。

あたしが勝手に狛江をライバル視して……。
ま、ライバルって一方的に思ってたんだけど、
二ツ橋に入学したとき、オリエンテーションで偶然狛江が隣に座った。

自己紹介したあと、『あの狛江』ということがわかったら、
狛江もあたしのことをライバル視してたっていうじゃない。

それからかな、交流が始まったのは。

狛江はあたしとは雰囲気もすべて違うイケメン。
当然女子にもモテるんだけど、そういうことを
鼻にかけたりはしない。
それに、あたしみたいな地味目な女にも
声をかけてくれる、イイヤツ。

「なんであたしがゼミ室から出てくるイコール怒られるなんだよ。
レポート提出してきただけ」

「レポート? 順調か?
例の調査は」

「まあね。でも、もっとデータが欲しいと思ってる」

「よくやるよな、お前も。
昨日の打ち合わせから、まとめたんだろ?
徹夜じゃねーか」

狛江はびっくりしたようで、
背の低い私をじっと見つめる。

「だからアンタも協力してよね。
例の件」

「そのかわり、卒論は共同著作だからな?」

「わかってるよ。そのくらい」

『ネット上で人気のある楽曲のファン層とそれを取り巻く環境、
情報拡散の違いによる知名度の変化』。

難しい言い回しにしてるけど、
要するに『R32Pのどんな楽曲をファンは好むのか』とか『支持している層』とか
『どういう情報から新曲アップを知ったのか』っていうことの
研究だったりする。

また、それから派生する『歌ってみた』や『演奏してみた』は
どんな人間がやっているのか、なんてことも材料のひとつ。

「じゃ、R32Pにもよろしく言っといてよ。
いずれ会いたいって」

「うん」

「それと今日、ゼミ飲みがあるけど当然……」
「行かない」
「だよな」

狛江は納得すると、そのまま行ってしまった。

『ルール6、うわべの友達は作らない
ルール7、興味のない合コンには行かない
ルール8、同じゼミの人間との関係は築かない』

人間不信っていうわけじゃないけど、
人間関係は狭くないと今回のレポート……将来的な卒論を
完成するのは難しい。

まず、自分が『R32P』ということがバレてはいけないんだ。
狛江にも私の正体をバラしてはいない。
『友達だ』という体を取っている。

うっかり気を許して失言しては元も子もない。

それに、遊んでる時間も合コンへ行く時間も
あたしにはないから。
基本、ラボで楽曲作りだ。
自由な時間と言えば、情報収集のために行く
居酒屋で飲んでるときくらい。

友達なんていなくってもいいんだ。
小さい頃からずっとそうだったんだから。

……でも、ケンだけは別。

自分でも本当によくわからない。
なんで彼に正体を打ち明けたのか。
ただ、すごく面白そうで気に入ったってだけ。

『ルール3、『面白そう』を自分の基準に』

この自分ルールをもって、
あたしはケンに正体を打ち明けた。

ホント、なんなんだろう? この気持ち。
ケンの見た目になんか興味はないし、
カッコイイなんて当然思わない。

……というか、そもそもあのおっさん、
普段何してるの?

毎日昼くらいからベース持って出かけて、
夜は酒を買ってうちに来る。

一応仕事は音楽関係らしいけど、
有名なベーシストじゃないことは
見た目でわかる。
演奏がうまいのはちょっと意外だけど。

それになんとなく
気になることもあるんだよね……。

家に帰って来て音楽を作っていると、
ガンガン扉を打ち付ける音が聞こえた。

「おーい、ノゾミー!! 来たぞ~!!」

鍵を開けると、いつも通り軽く酔ったケンが
今度はジンを持ってやってきた。

「これが今日の酒な。
……で、やるか? 曲作り」

「う~ん、大体はできてるんだけど、
もうちょっと入れたいフレーズがあって」

「どんなのだ?」
「えっと……こんな感じ」

再生ボタンを押してフレーズだけ流すと、
ケンは微妙な顔をした。

「おかしいだろ、このフレーズは。
入ってないほうがいい。聞き苦しくねぇか?」

「だからわざとなんだって。
確かにここの部分は聞き苦しいし、実際に歌うのも難しい。
演奏だって……。
だから入れるんだよ」

「……お前さ、一体何がしたいんだ?」

ケンは勝手にグラスをキッチンから持ってくると、
それにジンの注ぎ口をつける。
視線はあたしに向いていて、
メガネの奥の釣り目がにらんでいる。
……ちょっとだけ怖い。

「目的って色々あるだろ? 
例えば再生回数を増やしたいだとか、
いずれはCD化させたいとか。
ここのフレーズを入れたら、イマイチな出来になるぞ?」

「別にいいでしょ。作りたいから作った。
あたしはプロじゃない。
『ルール11、本職の人と自分は違う』。
あたしはミュージシャンじゃない。
ただの大学生だから」

「なのに変なところにこだわってる」
「理由はないよ」
「ふん、誰だって秘密にしたいことがあるってことか」

ケンは再びグラスをあおる。
中身を飲み干すと、いつもの5弦ベースを取り出した。

「まぁ、お前が『こだわってない』って言うなら、
こっちもそこのフレーズ、
好きなようにベース入れさせてもらうからな」

チューニングを終わらせると、
ケンはベースをかき鳴らす。
やっぱりあたしの入れたいフレーズの部分は弾きづらそうだったけど
……計算通りだ。
ケンのテクニックはすごい。
この曲に合っていないフレーズだから、
ベースの演奏方法トリッキーになる。

ここの音に気付く人間がどのくらいいるか。
そしてどれほどのベース好きが
『演奏してみた』をアップするか。

今回の曲のテーマはこれだ。

「……こんなもんだろ。
目立つフレーズだったら隠しようもねぇ。
だったら派手に行くしかねえよ」

「サンキュー、ケン」

「ふん。……でも、意外に弾いてみたら
すっきりしたわ」

「すっきり? なんで?」
「仕事場でつまんねぇことがあってな」

ケンは煙草を取り出すと、口にくわえた。
あたしは吸わないけど、好きにさせている。

ふうっと煙を吐き出すと、
部屋の真っ白な天井に目をやった。

「今、男ふたりと女ひとりのバンドのサポートをしてるんだけどよ。
なんつーの? お決まりの……」

「ああ、三角関係? バンドの外でやれってことでしょ?」
「わかってんじゃねーか」
「彼氏いない歴が年齢の自分でも察しが付くよ」
「彼氏、いねーんだ。うっわ~、俺狙われてる!?」
「んなわけないってよく理解してるよね? おっさん」

ジンを飲みながらケタケタ笑うケン。
あたしたちの関係は友人。
ケンにときめくなんてありえないし、
ケンも同じだろうと思う。

だから、こうして毎晩飲んでても、何も起きないんだ。

グラスが空になると、ケンはあたしに言った。

「だけど仕事は仕事。しっかりやるよ。
俺の身の上話は以上! 今度はノゾミの番だ」

「はぁっ!? な、なんでそういうことになるの!」

「ノリってやつ。お前のことは気に入ってるけどよ、
正直あんまり知らねーし。
ちょっと興味出てきたから。酔ってるせいか?」

「やめてよ、酔っぱらい!」

「まぁまぁ、じゃ簡単な質問でいいや。なんで音楽始めたんだ?
お前の大学一流だろ。こんなことしてる場合じゃなくね?」

「そ、それは……」

まさかフィールドワークのため、卒論のためなんて言えない。
ケンは本当にR32Pのことを気に入ってくれているから
協力してくれてるんだ。

私がためらっていると、ケンは不審そうな顔をした。

「なんだよ。そんな話もできねぇのか? コミュ障にもほどがあんだろ」
「うっ……」

あたしもグラスを持ってきて、ジンを注ぐと
一気に飲み干した。
最近はようやく酒になれてきたのか、
前みたいにげほげほと咳こむこともなくなっていた。

「……わかったよ。話せばいいんでしょ」

顔が熱い。ジンってアルコール度数いくらだっけ……?
目の前のケンは笑ってる?
顔もよくわからない。
小さな声でやっと、あたしは話し出した。

「憧れてた人がいたんだ」

そう。
今の大学に入るずっとずーっと昔。
8歳だったあたしは、生まれて初めて好きになった人がいた。

それが『JIRO』。
アメリカのロックバンド、『MAX LUCK』のコーラスとギター担当の
唯一の日本人。
当時は確か、19歳。

あたしの家は、父が弁護士、母も医者という家柄だった。
たやすく想像できるでしょ?
めちゃくちゃ厳しい家だったって。

でもね、あたしには味方がたったひとりいたんだ。
それが『彩おばさん』。

彩おばさんは30歳過ぎてたのに
いわゆるバンギャってやつをやっていた。
その彩おばさんが好きだったのが、『MAX LUCK』。

偶然両親が留守にする日があり、
その晩あたしはおばさんに預かってもらうことになっていた。

だけどおばさん、なんて言ったと思う?

『今日は大事なライブがあるんだよね。
行かない、なんてことできない。
……だから一緒に行こうよ、ノゾミ』

8歳だった私は、なんとか当日券を買って
『MAX LUCK』のライブに参加することができた。

その晩見たJIROの姿。
金の短髪で、腕の筋肉は鍛えているのか太かった。
何より演奏もかっこよくて……。

あたしはそれからずっと、JIROが好きでいる。

でも、もうJIROは存在しない。
バンドが解散してから、名前を一切聞かなくなった。
ソロデビューの話もない。
他のバンドへの移籍の話も。

それでもあたしの、音楽を始めるきっかけになってくれた人だ。
フィールドワークとか関係なく、本当の音楽をね。

……だけど。

「へぇ~、そのJIROに憧れてギターを始めたけど
コードが押さえられなくて、キレてぶっ壊したのか。
アホだなぁ」

「そのあとも色んな楽器を試したんだけど、
一番あたしに向いているって思ったのが
これなわけ」

パソコンと機材をぽんとたたくと、
ケンは納得したような顔をした。

「それでDTMな。
……でもよぉ、ラーメンだかバンドのギタリストだか知らねーけど、
そんなにすごかったやつなわけ?
JIROって」

「あたしにとっては最高の人だよ!
今でも好きだって言える!!」

「俺も一応音楽をやってる身ではあるけど……。
JIROはお前の思うような人間じゃねぇと思うぞ?
芸能人なんてそんなもんだろ。
消えたと思ったら、詐欺まがいの商売をしてたりさ」

「JIROはそんなことしないよ!
おっさんとは違ってね」

JIROは今も活躍してたらおっさんくらいの歳。
あたしは当てこすりするようにわざと文句を言った。
それは効いた模様で、ケンは渋い顔をして反論する。

「もう、お前の知ってるJIROはいねぇよ! 断言してやる!
芸能人もミュージシャンもそーいうもんなの!
どんなに好きなやつだって、もう二度と気づくことはねぇ。
きっとそんな暮らしをしてると思うぜ?」

携帯灰皿にタバコをしまうと、
ケンはベースを持ち立ち上がった。

「今日は帰る。酒は置いてってやるから、
勝手に飲めよ」

ヤバい、言い過ぎたかな。
不機嫌そうなおっさんは
何も答えずに出て行ってしまった。

「ケンも色々経験してんのかなぁ」

あの黒縁メガネに隠された、
切れ長の瞳。
気持ち悪いロンゲなのに、妙にギラついている目は、
怖いながらもどことなく懐かしい感じがする。
そう思っているのに、ケンはあたしに何も教えてくれない。
気は許してると思っても、大事なことは黙ったままだ。

……なんだろう。
結局あたしもケンのこと、何も知らないってことなんだ。

「おっさんのくせに、ムカつく」

あたしはジンをもう一杯グラスに注いだ。


「ヤバ、飲み過ぎた」

たまーにこういうこともある。
そのたびに『やっちまったー!』って後悔する。
昨日はケンのことがやたら気になっちゃって……。
それを誤魔化すために飲んでた。

酔いつぶれて起きたら、もう午後2時を過ぎていた。

今から大学に行ってもなぁ……。
とりあえず飯塚教授にだけ、顔見せに行こう。

バッグを拾うと家を出るつもりで、スニーカーを履く。
そのとき、カタンとドアが開く音がして、
一瞬耳を澄ました。

もしかして……ケン?

ドアをそっと開けるとケンが鍵を閉めて出かける姿が
見える。
……いつもの仕事かな。
音楽関係で、バンドのサポートって言ってたっけ。

「ついて行ってみようかな。
面白そうだし」

再び『ルール3、『面白そう』を自分の基準に』。

「一日ぐらい、自主休講しても
悪くないよね」

あたしはだるそうに歩くケンのうしろ姿を
こっそり追跡することにした。

新宿まで出ると、そこからは小田急線。
急行に乗り込むと、下北沢で降りる。

途中、何度か人混みに流され見失いそうにはなったが、
なんとか目的地に着いたみたいだ。

「今日ライブがあるのかな」

ケンの目的地はライブハウス。
入口から入っていくのを見送ると、
ドアの近くにある今日出演のバンドの名前を
確かめる。

『ブラックパレード
GUEST:ネコのしっぽ』

「……どっちのバンドだろ」

せっかくここまで追いかけてきたんだ。
ケンのステージ……見ていきたい。
普段あのおっさんがどんな演奏をしているのか
知りたい。
バンドメンバーには不満みたいだけど、
『仕事は仕事』って言ってたくらいだし
その辺はきちんとやるんだろうな。

あたしは開場の時間をチェックすると、
適当に時間を潰すために
駅前のカフェへ入ることにした。


「……意外とキャパ広いよな、ここ」

前売り券は持ってなかったけど、
当日券はかなり出ていた。
そんなにメジャーなバンドじゃないみたいだし、
あたしも聞いたことがない。

でも、フロアに来ているファンたちは、
メインの『ブラックパレード』とかいうバンドの
Tシャツを着ている。
フツーのカッコをしてるのは、あたしだけだ。

ちょっと居づらいので、あたしは
チケットをビールに引き換えてもらった。

19:00。
ビールの空き缶をゴミ箱に捨てると、
ようやくステージが暗くなる。
しばらくして出てきたのは、
男性3人のバンド。

ケンはいない。
そうだよね。
男ふたり、女ひとりって話だったし。

「今日は、先輩であるブラックパレードと
同じステージに立たせてもらえて光栄です!
今日は楽しんでいってください!」

……ふうん。
結構いいバンドじゃん。
お客のノリも悪くない。
メインの『ブラックパレード』のことを先輩って言ってたから、
お客も知ってるのかもしれない。

30分くらいかな。
演奏すると、ようやく『ブラックパレード』と
バトンタッチだ。

ケンの演奏か。
なんだかこっちが緊張しちゃう。
あのおっさん、大丈夫なのかな。
すでに酒が入ってたりして……。

スタッフが楽器を再度チューニングすると、
ライトがパッとつく。

女ひとり、男ふたり。『ブラックパレード』……このバンドか。
三人が楽器の前にスタンバイすると、
ケンが最後に出てきた。

「ケン~っ!!」

「ケンさ~んっ!!」

……嘘でしょ。
あのおっさんに黄色い……いや、女じゃないから黄色い声援っていうのも
ちょっと違うか。
野太い声で名前を呼ばれてる。
人気あるんだ。
おっさんのくせに。
あの人のどこがいいんだか……。
しかもサポートだって言ってたよね?
なんでサポートなのに
バンドメンバーよりもファンが多いのよ。
メンバーは特に顔色を変えていない。
ケンにファンが大勢いても、気にしてないのかな。

当の本人は声援にこたえることもなく、
ベースを肩にかける。

それをギターボーカルが確認すると
ドラムの男が腕を振り上げた。

曲が始まる。
先ほどの前座バンドでフロアは熱くなっていたけど、
それよりも強烈な歓声が沸く。
みんな拳を高くあげて、
身体を大きく揺らす。

「みなさんこんばんは!
ブラックパレードです!!」

出だしのフレーズを歌うと、
ボーカルが叫んだ。
フロアは大盛り上がりだが、
あたしだけは中心にいるボーカルじゃなくて
向かって左側のケンの姿を見つめていた。

まだライブは始まったばかりだ。
なのに、あたしはケンから目をそらせなかった。
だってあの弾き方、見たことがあったんだもん。
楽器は違う。姿だって全然異なる。
自分でも信じられないけど……あの人は。

「もう最悪」

そうつぶやくと、あたしはライブハウスをあとにした。


部屋に戻る前、廊下に一枚のポストカードが
落ちていた。

よくあるんだよね、こういうの。
郵便受けをチラシやハガキでいっぱいにしてると
外に落ちちゃうの。
ケンのところもそうだ。
相変らず性格が出てるというか。
あたしはそれを拾うと目を疑った。

偶然? 運命?
どっちだっていい。
でも今、あたしの手の中には
間違いなく今までの空白の時間を埋める
鍵が存在している。

午前1時になったら、あたしはケンの部屋へ乗り込む。
その時間にだったら、さすがに戻ってきてるよね。
そうだ、酒の準備が必要だ。
あたしから部屋を訪ねるんだから。

あの人が好きだったのは確かウイスキー。
今からだったら安物しか手に入らないけど……。
一度脱いだスニーカーをもう一度履くと、
財布だけ持ってコンビニへと走った。


ガンガンッ!!

「痛ぇ~……ケンの拳、どうなってんの?
ここのドアたたいたら、普通に痛いじゃん。
手は商売道具だってのに、無茶してんだから」

「あんだよっ、うっせーな!! 誰だ!!」
「あたし」

ドアを開けたケンはちょっとびっくりしたみたいだった。
そりゃそうだ。
いつもはうちのほうに乗り込んできてばっかり。
ケンの家にはあげてもらったことはない。
『ガキを部屋にあげるのは趣味じゃない』とか言って。
硬派なフリなのかなんなのか。

「ちょっと待てよ。
今帰ってきたばっかりだから、
あとでお前の部屋へ……」

「ちゃんとお邪魔してもいいように、
これも持ってきたんだけど?」

ウイスキーの入ったビニール袋とともに、
ちらっとハガキを見せる。
あたし宛のものではない。

郵便局員がミスったのが運のつき。
201号室に入れるはずだった海外からのハガキは
202号室のポストに入っていた。

「それは……!」
「ビルとは相変わらずなんだ? 伊藤健次郎サン」
「ちっ、わかったよ。今日は部屋に入れてやる」
「わあいっ! サンキュー!!」

ケンがドアを開けると
さっそく部屋へと乗り込む。

予想通り部屋にはベースだけじゃなく、
ギターもたくさん置かれていた。

そう。
ケンはベーシストじゃない。
本当はギタリスト。
本職じゃないのにあそこまで弾けるのは正直すごすぎて
引くけどね。

あたしの部屋とほぼ同じ間取り。
勝手にキッチンへ入ると
グラスをひとつ持ち出す。
取ってきたそれを、ハガキを読んでいたケンに渡した。

「なんだよ、お前の分のグラスは?」
「あたしは1本、ケンは1杯」
「はぁっ!?」
「いつもと一緒でしょ? それよりさ」

身長の高いケンに手を伸ばして、
黒縁メガネを奪う。

「そのメガネ、変装にはもってこいだね」

「気づかなかったお前は、単なるにわかだったってことだ。
ま、俺も極力バレないようにはやってたけどな」

「っていうか、アンタが変わりすぎたんだよ!
名前も楽器も見た目も違うし、
まさかインディーズバンドのサポートベースやってるなんて……」

「俺にも事情ってのがあんだよ」
「事情ねぇ……」

ウイスキーをグラスに注ぎ、
ボトルをそれにぶつける。

「大人の事情なんて知らないけど、
弾いてくれない? 今夜だけさ」

「演奏料は高いぞ」
「わっ!」

隙をつかれてボトルを奪われる。
仕方ないなぁ……。
ま、いいか。
あたしだけのために、今夜だけJIROが復活する。

――こんな夜、あたしにはもったいなさすぎるくらいだ。

ケンが持っていたグラスに口をつけると、
一夜限りのライブが始まった。


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