ドアをノックするのは……

文字数 1,721文字

「大堀騎士:営業部に異動」と書かれた辞令を見たのは、復帰後すぐだった。部の異動は半ば予感していたこともあったので、それほどのショックはなかった。同期もいたし、居心地も悪くない。

 でも、ずっと編集をやってきたから、できれば続けたい。そういう意思もあった。転職するか?しかし今ほど給料が良い場所はなかなかない。異業種に行くつもりはなかったので、留まってチャンスを伺うしかないか―。そう思っていた矢先、天堂からメールが届いた。今度会えないか。シンプルな内容だが、重みがありそうな気がした。用がない限り、彼はメールなどよこさないから。空いてる日をいくつか打って、返した。少し心臓が跳ねた。



カフェと喫茶店の間のような店に入るなり、天堂は一冊の雑誌を取り出した。タイトルは「ボクシィ」。B5サイズの200ページ超の本だった。まず、この妙な4文字から何を読み取ればいいのか、大堀はわからなくて逡巡した。サブタイトルを読み上げる。「牧師応援マガジン……ってなんなのさこれ」

「文字通り、牧師応援マガジンだよ」と天堂。表紙では美形の牧師2人が教会の前で満面の笑みを浮かべている。大堀はしばらくページをめくった。「教会行事への対応」やら「モンスター信者の取り扱い」、各地方のイベントなど、様々なお役立ち情報がまとめてあるらしかった。……ただし牧師に限って役立つもの、だが。

「おーちゃんはさ、どう思う?この中身。率直な意見を聞かせてよ」。天堂は視線をまっすぐに向けた。この目に落ちた女性は数知れずだろう。でも、俺は違う。冷静に、冷静に。

「もっと面白くするのはだめかな」しばし考えた後、大堀は声を発した。

「牧師を応援するっていうコンセプトはそのままでいいんだけど、どうせなら信じてない人でも読めそうなものを増やすといいと思う」

「続けて」天堂が先を促す。

 「日本の特徴的なところはさ、宗教色があるイベントも受け入れて変換しちゃうところだと思うわけ。特にキリスト教はクリスマスとかでおなじみだから、抵抗感も薄いし」

 12月24日までクリスマスを満喫した後、25日にはお正月の準備をし始める。その節操のなさが大堀は嫌いではない。ここ数年はハロウィン→クリスマス→お正月という流れが定着してきた。あと、なぜか近年イースターが市民権を得つつある。

「ありがとう」微笑む天堂に、嫌な予感が背中を走り抜ける。「ところで、なんで俺にこれを……?」

「薄々わかってると思うけど」生涯唯一と言えるライバルは薄い唇からシンプルな言葉を繰り出した。まるで遊びに誘うかのように軽く。

「この雑誌、一緒に作る気ない?」



 なんで「考えさせてくれ」なんて言ってしまったのか。

 翌日の朝、大堀は部屋で目玉焼きを食べながら重い頭を必死に回転させていた。今の会社は、大手だ。たとえやりたいことができなくたって、我慢すればお金は入って来る。もしかするとまた別の雑誌で戻れるかもしれない。天堂のいる会社は規模は大きくなってきているとはいえ、ベンチャーだ。「ボクシィ」編集部はその内の一グループにすぎない。というか、それこそあの雑誌、1年後には残っているのだろうか。

冷蔵庫を開けて、しょうゆを取り出す。残していた1個の黄身をつぶし、褐色の液体をかける。

だいたい6年間ミッション系の高校だったとはいえ、さほど知識はないのだ。聖書の授業はよく寝ていたし、賛美歌をそらで何曲か歌えるくらいだろうか。

真理子にも相談しないといけないだろう。あいつ、なんて言うだろう。案外、「いいんじゃない?」って一言で終わりそうだ。稼いでるしな、けっこう。

 大堀は目玉焼きを一気に食べ、牛乳で流し込んだ。心には迷いがある。キリスト教で言うと、俺は迷える子羊だろうか。

 ああ、神様。俺をお助けください。中途半端に祈って、宙を見上げるといつもの天井がある。恵比寿のマンション。今の所引っ越す予定はない。この暮らしを維持していくだけの給料は必須だ。その他諸々これから入用になってくるだろうし。もう本当にどうすればいいだろう。そして、何なのさ、「ボクシィ」ってさ!
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み