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文字数 821文字

 ターニャが言い切ると同時、ワタナベが顔色を失った。野次馬たちも、一斉に静まり返る。
 次の瞬間、わたしに向けて野次馬のひとりが声を上げた。
「わたしたち、あなたに意地悪したことあった? ねえ?」
「いいえ」
 ちいさな声で応えたあと、わたしはよろよろと立ち上がる。イリヤが不愉快そうに顔をしかめ、手足をぱたぱた動かしはじめたのだ。こういうとき、この子は必ずと言っていいほど、おむつを汚している。
 洗面所に向かおうとすると、ターニャとリサが駆け寄ってきた。
 ターニャが言った。
「サラ、ここから移ってもいいのよ? 今の避難所よりも、ずっと良い人が寄り集まっているところは幾つもあるから」
「か、考えてみます」
 イリヤを抱きなおして歩き出す。洗面所までの短い距離が、宇宙の果てまでに感じられる。
 鬼のような形相のワタナベ夫妻がこちらを罵倒する声が耳朶の奥まで染みついているようだ。ひたすらに気持ちが悪かった。
 付き添ってくれるように黙って歩いていたリサが「ふう」とため息をこぼした。
「ごめんね、リサにも迷惑をかけてしまった」
 わたしが言うと、彼女は顔を上げて口元だけで笑った。
「しょうがないよ、こういう時だから。みんな、なにかに飢えている。誰かを攻撃することで、それが満ち足りるような気がするのかもね。本当は、そうじゃないのに」
「飢えている、そういう言い方もあるね」
「うん。なんていうか……口先では、なんとでもきれいごとは言えるじゃない? けど、キレイな言葉を並べたてるわりには品がない」
「まあ、しかたがないか……あなたが言う通り、こういう時なんだものね」
 ターニャを前から知っているらしいリサならば、公的に伝えられる情報も耳にするだろう。だからこそリサには、なにかにつけて余裕があるのだ。そして、わたしも。しばらくは町に爆撃はないとターニャから聞いて、かなり落ち着けたのは事実だ。
 でも、ここや他の避難所にいる普通の……いわゆる市井の民なら、どうだろう?
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