第10話 気候工学

文字数 2,063文字

 コーヒーブレイクを挟み、フリープレゼンテーションがスタートした。
 最初に、責任者のジョンがアメリカの様子を、巨大なディスプレイに映し出した。会場から驚きの声が上がった。希望の光を感じるニュースだった。
 地平線に消える広大な草原で、数えきれないほどの植樹ドローンが、台地に種子カプセルを打ち込んでいく様子が映し出された。
「南米アマゾンの熱帯雨林が再生しつつあります。政府は長年資金難で苦しんでいたが、アマゾンのガリンペイロから身を起こしたブラジルのカジノ王が、アマゾンへの感謝として、AIを駆使した自動植樹システムに全財産を投じてくれたのです。この荒野が熱帯雨林で埋め尽くされる日も近い。我々の最後の頼みの綱です」
 翔は、陽葵がこの様子を見たら、どんなに喜ぶだろうかと思った。
「ヨーロッパは、このままでは壊滅するかもしれません――」
 イギリスのポーツマスに建設したファントムから来たエリックが、すでに覚悟を決めた表情でパソコンのキーを操作した。
 ディスプレイに映し出されたのは、温暖化とは程遠い氷に覆われたロンドンの様子だった。夏は四十五度の灼熱地獄が続き、冬はその逆のマイナス四十度の寒波が襲うようになったという。
 ドイツ・ポツダム気候影響研究所のチームが、深層海流が停止する可能性があると公表したのはかなり前のことだ。深層海流が停止すれば、夏は熱波が襲い、冬は極端に寒くなるという。
 翔の番が回ってきた。
 日本では世界に先駆けて、海に浮かぶ海上都市が建設されていた。日本列島は七割が山岳地帯だ。海面上昇により沿岸部の住居地域は狭められ、海上に移動するしかなかったという事情もある。
「それでは日本の海上都市を紹介します」
 会場から、「おおー」という声が上がった。
 世界の海岸には、国連指導の海上都市が早くから建設されていたが、日本の海上都市は、日本の土木建築技術の粋が結集されており、ひと際目を引くものがあった。巨大な円筒型ビルディングの壁は、すべて自由に曲がるペロブスカイト太陽電池で覆われている。水は海水淡水化設備でまかなわれ、周りに森や農地もある。台風にも耐えられ、ワンユニット五万人が暮らせる完璧な自給自足の人工島だ。
 海上都市は、地下都市と並び世界共通の大きなプロジェクトなので、しばらくこの話題でもちきりとなった。
 ジョンが最後に、この会議の本質ともいえることに触れた。
「皆さんご承知のように、インドなど五十五度を超える地域での戦争では、レーダーとミサイルの高度な自動制御システムに誤作動が出るケースが伝えられております。ファントムを展開する北半球でも、フランスでは五十度超えを記録しております。このままでは世界のファントムが機能ダウンに陥るのは時間の問題かもしれない」
 ジョンが、さらに衝撃的なことを口にした。
「もしそうなったら、もはや国家の動脈となった巨大なICT産業を継続させるために、フレッドが触れていた最終手段に頼る日が来るかもしれない。そうならないことを祈っているが――」
 参加者からざわめきが起こった。それは、誰も口にはしないが、SAI(成層圏エアロゾル注入)のことに違いなかった。
 SAIが気候工学(ジオエンジニアリング)として脚光を浴びるようになったきっかけは、千九百九十一年にフィリピンで起きたピナツボ火山の噴火と、その後の地球寒冷化である。大規模な噴火で大量の火山灰とガスが噴出し、対流圏を突き抜け成層圏に達した。このとき滞留した二酸化硫黄と硫化水素ガスが酸化反応を起こし、三千万トンに及ぶ硫酸エアロゾルに変化した。硫酸エアロゾルは太陽光を散乱させる性質がある。この硫酸エアロゾルが地球全体に広がり、寒冷化につながったことが分かった。この自然現象を人工的に再現することは不可能なことではない。飛行機で成層圏に直接硫酸エアロゾルを噴射すれば、気流が作用し、最終的には地球全体に拡がる。
 ただ、未知の深刻なリスクもある。SAIに温室効果ガスを減らす効果はないため、いったん開始した後に中断した場合は、短期間に急激な気温上昇を招く恐れがある。また、地上の日射量が減衰し、降水量が減少することによる農業壊滅のリスクも考えられる。最悪のケースとしては、全球凍結を引き起こし、地上から生物が消える可能性もある。
 もう一つ重要な事は、このプロジェクトだけは全世界の賛同と協力が必須となる。硫酸エアロゾルの散布自体は簡単だが、冷却効果を調整しながらエアロゾルを注入するためには、スーパーコンピューターと専用の観測人工衛星を使用したトータルシミュレーションが必要とされる。国家間の戦争が絶えないこの世界で、一枚岩の協力体制が取れるかどうかがカギとなる。
 以前は会議の後は皆で、テーブルの上に、トマトジュースや魚肉ソーセージのホットドックを並べ、ささやかな懇親会が開かれたものだが、今はその食材自体がなかった。
 翌朝、皆ロビーに集まり、握手をしたり肩を抱き合ったりしながら別れを惜しみ、それぞれの帰途についた。
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