第5話 福島第一原子力発電所

文字数 1,820文字

 河村の家族が福島市から東京電力福島第一原子力発電所がある双葉町に引っ越したのは彼が小学校五年の時だった。
 それまで彼の父は、福島市で配管工事業を営んでいた。兄妹たちを高校に行かせるため、自分は中学を卒業するとすぐに建設現場に入り、毎日汗水を垂らしてきたらしい。
 工事業といっても、小型トラック一台、自営の一匹オオカミだ。家族四人の暮らしは決して裕福ではなかったが、狭い居間は、いつも笑いが絶えなかったという。
 そんな時、河村の父が以前修行していた会社から、福島原発の専属にならないかという誘いがかかった。
 原発の保全は、今のファントムと変わりはない。電力会社直轄の管理組織の下に原子炉メーカー筋のメンテナンス会社が元請けとなり、その指示の元に電気工事や配管業などの専門業者が保全や修繕の仕事をこなしていく。
 その話も忘れかけた、夕食の時だった。
「どうだ、みんなで双葉町に行ってみるか――」
 父が珍しくビールで顔を赤くしながら、家族の顔を見渡した。
「放射能とか、大丈夫なの? 原発の仕事って――」
 最初は母も、生活が楽になるという希望で乗り気だったが、いざ父がその気になり始めると、心配そうな表情となった。
「金よりも何よりも、俺の腕がやっと認められたんだ。お前たちにも苦労をかけてきたけど、これで少しは楽になる。英明を大学にやることだって、夢ではない」
 父が河村の肩に分厚い手を載せた。
 この時の父の手の感触ほど力強く感じたものは、その後の河村の人生に記憶はないという。
 家族の心配をよそに、双葉町に立地する原発の仕事は順調に進んだ。原発から十キロほど北の海の見えるところに、元請け企業が社宅として確保している一件屋を、家族に用意してくれた。双葉町の人々は、にぎやかな福島の街とは違い、素朴で親切だった。
 それまでの父の仕事は、水道工事や住宅設備の設置工事だった。夕食の時の話題は、老人ホームのボイラーを修理した時に、昔は若かったおばあちゃんたちにもてはやされたとか、市井の和やかな話ばかりだった。だが、原発に来てからは、話題が一変した。
 原発は、核物質を燃料とする恐ろしく巨大なボイラーらしく、そのとてつもないエネルギー要塞を維持する技術者や様々な工事を担当する職人たちも全国から集まってきた強者ぞろいだという。
 新入りはまず、徹底的に放射線安全管理を学習する。毎日一時間は、会議室に集まり、本社が企画する放射線基礎コースを受講する。これまでと全く違う環境を、父は誇らしげに語るようになった。
「さすがに大会社は違う。一挙に大学にでも行ったようなことを教えてくれる」
 河村は少年なりに、家族が一丸となり何か大きなことに挑戦していくような、胸の高鳴りを覚えた。
 初めて心臓部のバルブ交換をさせてもらったという夕食時、父はビールをうまそうに飲みながら語った。
「特殊合金バルブは、一基百万円もする。リークは絶対に許されない。フランジを締め付けていく時は、思わず手が震えた。けど、この仕事が首都東京を動かしていると思うと、やりがいはある」
 河村はこの時初めて、福島原発の電力が福島県ではなく東京の灯をともしているという事を知った。
 父は、仕事が慣れてくるにつれ、余裕とは逆に、何かに縛られるような顔つきへと変わっていった。
 原発は、学術的にも技術的にも、そして配管工事のような技能にしても、国内最高レベルのもので成り立っている。運営組織にしても、当時は、推進と規制が同居する原発行政から始まり、雲の上の電力会社経営陣、その下に幾重にも重なるヒエラルキーの末端で、父は国家の要塞を支えていた。たとえ底辺で流す汗だとしても、エリートの世界で働いているというプライドと、その陰に巣食うストレスがあったのだと、今ならわかる。
 そんな父も、心底疲れ切った顔で帰ってくることがあった。
「あんた、大丈夫? 最近痩せてきたみたいだけど」
「ああ、心配ない。今日は特に汗をかいたからな……」
 好きなビールも、肉体の限界を超えた体では受け付けないようだ。
 後でわかったことだが、高レベルの放射線管理区域で配管工事がある時は、宇宙服のような放射線防護服に着替えてから作業を行う。防護服はタングステンパウダーが含まれているので重く、工具を持つ手は、防護手袋の上に切創防止の手袋を重ねる。バルブ一個取り換えるだけで、緊張と蒸し風呂のような作業環境で、一週間分の汗をかくという。
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